忍者ブログ

あさかぜさんは見た

リクエスト何かあれば「comment」に書いてください。「note」「Paboo」で小説作品読めます。

11/24

Sun

2024

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

01/30

Wed

2013

カンブリア宮殿 メモ

「サービス業に関わる会社は世界中にたくさんありますが、勘違いしてはいけないことがあります。
事業を続けていく上で目的とするのは、お客の財布からお金を取ることではありません。
お客との関係を確立すること。それが大事です。」
スターバックスCEO ハワード・シュルツ

スターバックスを作るのにイタリアで感動して同じものを作りたいと思ったのはエスプレッソではなく、居心地のいい空間なのだそう。

私の場合もそうだよね。
作品を通じてどういう関係性を作りたいか、なのかもしれない。


「続けるということは今までと同じことは続かない。でも、次に何が来るかわからない。次を予測しながらいくつも手を持って、どっちの方に動いているかキャッチしながら、あるいは商売はどっちに進んでいくのか見ながらコンビニエンスストアもやらなければならない。」
セイコーマート会長 赤尾 昭彦

地産地消という言葉が出る前から地域においしいものがあるからそれでやろうという発想があったそう。

拍手[0回]

PR

01/30

Wed

2013

親知らず、最後の一本を抜く

まあ、たいしたことでもないのかもしれませんが、去年11月ごろに右下の親知らずを抜きまして、先日ようやく左下の親知らずを抜きました。
下の親知らずは両方とも横に生えておりまして、抜歯ではなく摘出という形で歯を6つほどに分割いたしまして少しずつ取り出すという具合であります。
前回同様抜いた歯もおみやげとしていただきまして、ただいま少し具合が悪いです。
なにせ口があまり開けられず、噛み方も工夫しないと傷口が傷むので、食事にも当然気を使わなければならず、若干むくんだ顔で過ごしながら人生最後の恐怖に耐えた喜びもあまり出てこず、経過は良好ですと言われほっとしているところであります。

なにかと集中力が散漫で小説もまったく手がつかずにいたのですが、進まないと、という意識だけが空回りし、お金をいかに稼ごうかという焦りに追い回され、明日の数百円が結構生活の分かれ目という具合で、仕事になどもちょこちょこ出ておるのですが、例えば疲れてきたり慣れてきたりすると場所へ移動し、そして帰宅というサイクルを繰り返す、いわば「点と線」の生活になってくることにふと気がつきまして、京都に住む人間が京都の文化に興味をあまり持ちづらいのはこのせいなのかなと考えてみたりもしておりました。
そこで、売れもしない、あまり読まれもしない純文学のネタなどが思い浮かんでしまい、「電子書籍で京都のことを書かないか」と誘われたものの、そっちで売れる自信が皆無に等しく、これは素直に文学賞に投稿し、落ちたら年末近くに無料で公開するという段取りのほうがいいような気がしておるのです。

前にも書いたような気がしますが、ふと恐怖を感じるのは、お金に追われだすと文化もクソもないわけですな。
そういうのは心に余裕があって初めて感受性というものが生まれてくる。
明日生活どうしようとか、病気したら治療費出さなきゃいけないとか、ストレスを軽減させるための娯楽への羨みとか、私などは本などに割くお金が必要なのですが、その分の捻出とかなかなかうまくはいかないものだなと、以前よりも結構なペースでウィスキーの瓶を空にさせているわけです。
まあ、理屈ではわかりつつも理屈道理に行かないのが人の心でして、そういう簡単な理屈すらも通せない心情を素直に述べると「言い訳」という具合で余計にのしかかってくるわけです。
こうして人は「制限」を数多く感じたり、何かをしようにも出来ないことが数多くあったりすると、やがて自分は「不幸」だと感じてくるわけですね。
まあ、私、今そんな不幸だと思ってないんですけどね。
しかし「頭を使うのが億劫になってくる」という感覚がなんとなく掴めそうで、そうなると「感情的に物事を考えて、そこから理屈付けたほうが、自分としては納得がいく」となるような気がしてきて、この世の中が「直情的劇場」と「理論的劇場」の2つによって成り立っているのではないかとも思えてきて、はてさて、日々の生活に追われるものは知識を得るのも大変で、世に関心を持つ時間などはなく、関心を持っていたとしても「情報」として処理するしかない有様。
それが一体なんの役に立つのか、明日の生活などほとんど変わらないじゃないか、しかも悪くなる一方。
なんと国民の4割が投票に行かないという有様。
多くて1割が何かの事情で行けないとしても、3割もの人が政治をまったく身近なものとして受け止めていないのではないかとも思えます。
うん。
だって、声を上げても無視されるのなら、もういいやって気持ちにもなりますものね、少なくとも私はそう。
特に毎日が精一杯だったり、今の私のように心身が必ずしも良好ではない場合なんて声をあげるのさえ億劫。
「どうせまた同じだよ」の連続が、やがて絶望になる気が致します。

ところで「親知らず」ってwikiさんによると、「赤ん坊の歯の生え始めと違い、多くの場合親元を離れてから生え始めるため、親が歯の生え始めを知ることはない。そのため親知らずという名が付いた。」ということらしいです。
「親の心子知らず」なんて言葉も思い出したのですが、よく「親元を離れれば親のありがたみがわかる」と親戚の方々などに言われ続けてきたものです。
何もしないで面倒見てくれるのは親ぐらいしかいない、そのありがたみがよくわかるだろう、ということなのだろうと理解しているのですが、こっちに来てから面倒は見てくれなくとも結構知り合った人たちに温情受けていたりして、なるほど人も捨てたもんじゃないよなぁとしみじみ「ご縁」というありがたみを感じています。
「親孝行」という言葉はなかなか難しく、それぞれ解釈や親への気持ちの返し方は違うのでしょうが、私自身はきちんと活躍すれば、それで恩を返したことになるんじゃないかと勝手に考えています。

と、まあ、親知らずを抜き、ぐだぐだと親と子と生活のことなど考えてみましたが、実は次の小説のアイディアだったりするのですな。
3月末までには書き上げたいものです。

拍手[0回]

01/12

Sat

2013

2012年度版トータルリコールを見て

映画の話をしても良いのだけど、ちょっと今回はメモ程度に。
二十年ほど前にシュワちゃんが主役をやった同名の映画のリメイクバージョンを見ました。
今回はコリン・ファレルが主人公なんですけど、シュワちゃんには適わないものの、どちらも筋肉ムキムキです。
リメイクバージョンは前回のと若干設定が違うものの、シュワルツネガーバージョンを見た方は「ああー、そういえばあったあった」と昔を懐かしみつつも比較しながら映画を見ることが出来ます。
それで一番見ていて思ったのは、そもそもの原作はフィリップ・キンドレド・ディックというSF作家が1966年に発表した短編作品を基にしている。
この方、映画が多少好きな方なら『ブレードランナー』の原作者でもありますと言ったなら「ああー」と思うかもしれない。
死んでからも愛される作家というのは本当に素晴らしい。
今でもSFファンに愛される作家として読まれ続けているのでしょうね。

さて、どんどん電子書籍化が進んできて、WEBで出来ることもたくさん出来てきて、あらゆる人間が気軽に自分の作品を発表できて、若い人たちは別に雑誌などを買わなくても気軽に時間をつぶせて楽しめて、そしてどんどん歴史ある雑誌などが廃刊となっている。
WEBで出来るものは段々とWEBに置き換えられている。
その上でいかに生き残っていくべきかをぼんやりと考えていました。
「みんなが主役になれる時代」は「いかに自らが主役に躍り出るかの時代」でもあります。
昔みたいに控えめが美徳とされる時代も十年以上前に終わりました。
これからはいかに自らが人をひきつける人間になるかが生き残る必須条件のような気がしてきました。
しかしいつの時代も小手先の技だけでは飽きられるのも早い。
今の時代は「飽きられる」プラス「忘れ去られる」というセットで来るのですから、よほどじゃないといけないのです。
当然鑑賞者も目が肥えてくるので、それなりのものを維持しないといけない。
自分が何をしたいのか、何を伝えたいのか、明確に単純に大胆に。

せっかく京都にいるのだから札幌よりきっと同士が見つかるだろうともふと思ったわけです。
私は文士のコミュニティーの外にあるわけで、ある小説家が去年賞を受賞してコミュニティーに入りみるみるうちに活躍しだしている様子を日記で読むと、圧倒的な人脈の広がりの差に驚きつつも、集団の力の必要性を感じたわけです。

ということで、まとめると、
1、凄いもの書けよ。
2、伊達者じゃなきゃ残れない。
3、集団を作ろう。

とまあ、こんな風に今年の抱負にもなりそうなことを思っていたので、うん、今年の抱負にしようかな。

拍手[0回]

01/05

Sat

2013

新年はたくさん参拝しました

札幌にいたころは北海道神宮という大きな神宮が近くにあり、そこへ初詣へ行っておしまいでしたが、今年は京都で八坂神社、春日神社、平安神宮、北野天満宮、伏見稲荷と初詣リレーのようなことをして、使うまい使うまいと思いつつも、おみくじお守り等に散財し、年末年始はしっかりとやり、年越しそばに自家製おせちもどきも作り、しめ縄までバッチリやっちゃったんですから新年早々スッカラカンです。
おせちといっても、高級黒豆、ピリ辛酢レンコン、叩きゴボウ、伊達巻、くわい(これ、初めて食べました)、数の子、紅白かまぼこなどでしたが、こちらに来てもうひとつ初めてなのが、お雑煮。
北海道は、というか実家では、めんつゆ使った、所謂かつお出汁としょうゆベースに三つ葉、鶏肉、にんじん、大根、お餅なのですが、京都は白味噌なのですね。
普通の味噌とあわせて甘みを多少抑えましたが、金時にんじん、祝い大根、頭芋、豆腐、盛り付けのときにお餅、糸鰹、和からしを入れて食べるというスタイル。
結構おいしかったですよ。
特に頭芋は「お頭になるように」と切らないで一個まるまる入れるという豪快さ。
くわいも芽がちょろっと出ていて、「芽が出るように」ということみたいです。
これだけ念入りに願掛けのような食べ物を食べたのだから、今年はしっかりと動かないとなと財布の中身を見て思うわけです。
何度も繰り返しますが、ないわけです。
お腹に希望だけが詰まっているわけです。
この希望を現実的なものに変換していかなければ、これだけ投資した意味がなくなってしまう!
結局文学賞もろもろ間に合わず今年に全て持ち越してきたという酷い有様なので、生きることも大事ですが作品を(以下略)。
はたして何度このことを日記に書き、やるぞやるぞ詐欺を繰り返してきたか。
恥を知ったほうがいいレベルになってきました。
しかし、しっかり年末年始をやり願掛けをこれだけすると、何か新年早々ずっしりとした達成感がございますな。
これだけやったんだから、今年は前年よりもさらにやらなければいけないなと思うわけです。
さーて、何から手を付けようか迷っているわけですが、京都のことも書いてみようかなと考えています。
今年は頑張って作品出していきますし、その土壌も少しずつ出来つつあるので、覚えていてくれている人は一ヶ月に一回ぐらいはチェックしてもらえると動いているのがわかるかもしれません。
うわー、がんばるぞー。

拍手[0回]

12/29

Sat

2012

何回か恋愛を経験して失恋するのと、初心な気持ちで本気で恋愛して失恋するのとではショックの大きさが違う。
といっても、これは回数の問題ではなく、もしかしたら「本気度」の問題かもしれないが、私の場合はあらかじめ「ショックに備えておく」という気持ちがどこかに生まれてしまっている。

昔は本当に純粋な気持ちで人を好きになろう、一生懸命やろうと自分勝手な想いだけが空回りしていた。
その結果、うまくいかなかった。
それは結局自分のことが良く解っていなくて、だからこそ相手が自分を見てどう感じるのかまで考えが及ばなかった。
自分は自分のままでいい。
だがそれでは角が立つ。
ならどの程度でどうしていけばよいのだろう。
そんなバランスの取り方や、言葉のかけ方がまったくわからなかった。
今だってわかっているわけではないが、これは余計なことなのではないかとはいったん考え、のどの奥に引っ込めたりする。
相手にしたり言ったりすることで、相手に利益はあるかどうかをよく考えたりする。

多くの人は恋愛をすると見返るを求めるだろう。
もちろん自分が好きになり、自分が労力をかけている人なのだから、その労力の代償を無意識に求めだすのはしょうがないことだと思うし、当然の欲求だと思っている。
しかし結局それは恋でしかなくて、恋というのは常に自分の想いを中心にして世界は回っていて、自分と相手の間に起こるノスタルジーだからこそ相手そっちのけのファンタジーが膨らむものであると今では思っている。
見返りがなければ渇望が止まらなくなるので、失恋してしまう反作用がぐっときて、錯覚として自分は必要だったのか、何も残せなかったのではないか、あれをしなければよかった、色々マイナスのことを考えたりする。
つまり、自分では気がついていないが「見返りがなかったこと」を嘆いているのだ。
時として、別れた相手が不幸になればよいなどとも考えたりする。
幸せそうな姿を見ると余計に自分が惨めになる。
誰しも経験することだろう。

失恋における心の傷は、欲求に比例して高まる気がする。
その欲求の中には「こうだったはず」というものが多分に含まれている。
別れても自分は相手の中で大きな存在であって欲しい。
そんなことを考えるのは結構男性が多かったりするのだが、男性は哀愁の中に引きずり込まれやすい生き物なのかもしれない。

失恋の傷は時の流れが癒すというが、私はそうは思わない。
痛いものは痛い。
とんでもなくトラウマとなって残ったりすることもある。
少しだけ自分が成長して、すべての結果について、よしとしなければ傷など癒えずうずき続ける。
とてもとても辛いことだ。
意識せずとも過去がフラッシュバックし、様々な感情が渦巻く。
しかし残酷にも時間は進み続ける。
嫌になってくるだろう。
憎しみすら抱くかもしれない。
よかった時を何度も思い返しては浸りこむ。
男はそんな弱々しい面がある。
女々しいという言葉もあるが、女に対して女々しいとは使わない。
何故男限定の言葉なのかと考えると、まあ、こういう時はそうだよな、とも苦笑してしまう。
男は傷を背負って大きくなるものです。
今やこの時代には古臭い考え方かもしれないけれど、大きなものを何とかしようとすればするほど傷ついていくものなのです。
誰かを本当に守りたいのなら、瞳を上げなければいけない。
守りきれなかったのなら、次に恋愛をしたときに、同じ苦痛を与えてはいけない。
同じ苦痛を与えるということは、過去を無駄にする、もっと言えば成長していないどころか、駄々をこねて座り込んでいる子供と同じメンタリティーであると宣言しているようなものなのだから。

恋を経験して大きくなるかならないかは、時間の流れうんぬんよりも、起こった現実に対してどう心の栄養とするかなのだと私は思いますよ。
どんなに時間がかかろうとも、本当に好きだったのなら、一緒に過ごした想い出をあまり汚すことのないよう。

拍手[2回]

フリーエリア

にほんブログ村 小説ブログへ
にほんブログ村

バーコード

プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
45
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みますが光野(こうや)とか朝風(=はやぶさ)でもよろしゅうございます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。自分でも困るほどの「皮肉屋」で「天邪鬼」。つまり「曲者」です。

2011年より声劇ギルド「ZeroKelvin」主催しております。
声でのドラマを通して様々な表現方法を模索しています。
生放送などもニコニコ動画でしておりますので、ご興味のある方はぜひこちらへ。
http://com.nicovideo.jp/community/co2011708

自己プロファイリング:
かに座の性質を大きく受け継いでいるせいか基本は「防御型」人間。自己犠牲型。他人の役に立つことに最も生きがいを覚える。進む時は必ず後退時条件、及び補給線を確保する。ゆえに博打を打つことはまずない。占星術では2つの星の影響を強く受けている。芸術、特に文筆系分野に関する影響が強い。冗談か本気かわからない発言多し。気弱ゆえに大言壮語多し。不安の裏返し。広言して自らを追い詰めてやるタイプ。

最新コメント

(07/27)
(02/23)
(03/05)
(03/02)
(01/24)
(07/29)
(01/21)
(08/16)
(04/28)
(04/20)

ブログ内検索

カレンダー

10 2024/11 12
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

忍者アド

Copyright © あさかぜさんは見た : All rights reserved

TemplateDesign by KARMA7

忍者ブログ [PR]