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あさかぜさんは見た

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11/24

Sun

2024

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03/12

Mon

2012

SHAME -シェイム-



久しぶりに頭をフル回転させました。
そして何年かぶりに劇場で見たいと思った作品。
映画を見て一つ気がついたのは「ああ、ハリウッド映画ってなんて饒舌だったのだろう」ということだ。
饒舌な映画というのは、とにかく喋る。
シーンを説明するために、何が起こっているのかを観客に考えさせないように、とにかくスクリーン全体を通して「喋り続ける」。
だから売れ筋のハリウッド映画というのは、考えなくてもいいし、余計な思考回路を使わなくていい。
だからこそ、この映画を見て、人により様々な解釈を与えるアプローチがとても久しぶりに思えた。
ああ、こういう映画も出てくるものなのだな、と感動した。

内容は成人もの。
最初からマイケル・ファスベンダーのイチモツが出てくるような裸のシーンがドーンと出てくるし、セックスシーンも多く含まれている。
この映画の一番特徴的なところは「饒舌ではない」というところだ。
例えば「この台詞が成り立っているのはどうしてか」「このシーンが成り立っているのはどうしてか」という仕掛けが随所にあり、そこに観るものの様々な憶測と解釈を生む。
饒舌なハリウッド映画に慣れている人は見ても、やたらとセクシャルなことしか出てこないように思えるかもしれない。
そして「疑問を持って初めて観客として成り立つ映画」なので、様々なことが明示されず、解釈できなければつまらないと思う。
何が起こっているか饒舌には説明してくれない映画なのだ。

マイケル・ファスベンダーが演じるブランドンは「セックス中毒」とあるが、部屋でポルノビデオを見たりビデオチャットセックスもするし部屋だけではなく会社でもパソコンの中はポルノ映像でいっぱいでトイレで自慰をするくらいだから相手がいなくとも「性的な刺激」がないと、どうしようもないような主人公。
この映画でヴェネチアの男優賞をとっている。納得。
私は男性だったのでちょっとわかる部分があるのだが、男性が「過剰なセックスをしたがる」というのは多くは「フラストレーションを抱えている」ことがあげられると思う。
フラストレーションの発散の手段として性的な刺激を欲しがる。
だが埋められない。
問題の根本を解決しているわけではないから。
部屋に上がり込んでくるシシー役のキャリー・マリガンも宣伝だけ見たら「娼婦役」かと思ったら実の妹だった。
そして一番重要な点はシシーを最後まで肉親として扱うというところだ。
これがセックスをする対象になってしまったら何がなんだかわからなくなって、一気にこの手のセクシャル映画がやりがちなB級C級への脱落を果たしていたところだった。
このシシーもリストカットの痕があるのだが、やはりそういう細かなシーンを見ていくと「この二人の子供たちが育ってきた環境」というのもうっすら推測できるし、「傷持ちであり、兄とは反対の位置にいる不安定な身分の妹」から「仕事部屋を与えられるほどのオフィスに勤めていて、自分の部屋も持っている注意力深い、できた兄」を見ると、実は同じ「傷持ち」なのではないか、ということもうっすら浮かんでくる。
そうなると途端に「なぜ性的刺激が必要なのか」ということに切なさがつきまとう。
「同じ傷」とは何か。
繋がらないようで裏で繋がっているのは何か。
ここらへんは観客の解釈の多様性が生まれてくる。

全体的に映像が綺麗で透明感のあるシーンに彩られていくが、男として見ると「プライベート空間に入ってきた肉親の気まずさ」や「やたらと動画を探したり、女性を性的な対象として舐めるように見る」という主人公に感情移入してしまう。
妹に自慰を見られて絶望的な気持ちになり、お前の家じゃないのだから出ていけと切れたり、その怒りの勢い余ってポルノ雑誌や毎日動画を見ていたパソコンやアダルトグッズをすべて捨ててしまうとか、妹が自分の家で上司とセックスしだして、いたたまれなくて走り出してしまうというやり切れなさ、フラストレーションの発散の場を失い苛立ち、妹は性的な対象として見ないという、きちんとした区切りの中で身の置き場をなくしていくような心の乱れがよく出ていた。
何せ自由にコールガールを呼べたのが、妹がいるから全然呼べなくなるのだしね。

同じものを持っていながら対照的な二人。
部屋は小奇麗にしているが、心まではどうなのだろうとか考えてしまうし、とにかくいろんな意味で「危ない」と思ったのは「性的な嗜好」で「これよくアメリカで問題にならなかったな」という人種的なシーンまで入っているので刺激的と言えば刺激的だった。
主人公が最長で女性と四ヶ月しか付き合ったことがないとなると、何かふっと思い出すことがあった。
というのは、以前私自身「恋愛の過程」が好きで「好きになってもらったら興味を失う」という変な癖があり、「好きでいられる」ことが重かった。
人から好かれるということに違和感があったし、本当に好かれているのか疑心暗鬼に勝手に陥るということもあった。
人を愛せない人間はだいたい思春期などの多感な大事な時期に何らかのトラウマを負っていることが多かったり、愛された経験が圧倒的に少なかったりする。
リストカットをしなければいけない心理も、なんとなくわかるだけに二人の立場が非常に辛く見える。
自己嫌悪と愛情飢餓の中でもがくからこそ人をうまく愛せず、うまく付き合えない女性。
きちんと話し合いたいが溝は深まるばかりで、どうしたらいいかわからず、やっぱり自己嫌悪が爆発してしまうというやり切れなさ。
とにかく「やり切れない映画」なのだ。
そこにある程度の理解が及ぶかどうかが映画を楽しめるかどうかに関わってくる。

この映画に強い感想を持った女性がいるのなら、ぜひ語り合いたいと思いましたよ。


追記:
2012年3月14日
非常に鋭い視点のコメントをいただいたのでご紹介します。

今日観たのですが、非常に共感するところがありました。相手から与えられるものに対して性欲と愛の区別がつかない妹シシーと、愛することから自らを閉ざしてひたすら性欲を満たして日々をやり過ごす兄ブランドンは裏表の関係で、あからさまに異常な精神病患者などではなく社会に適合してそのあたりに普通に生活しているような人たち。愛と性欲の関係が現代ほど多様で混乱した時代ってなかったんじゃないかな。多かれ少なかれ皆シシーやブランドンのような当惑を抱えて生きているような気がします。(無記名)

実はこの手の女性は結構見てきて、昔精神が病んでいたころは、「メンヘラ」といわれるような女性とよく仲良くなった。
「愛される」ということに非常に敏感で、性的な関係が一度でもあると、そこに「愛情」や「恋」を見出してしまいのめりこむ。
一度「裏切り」のようなものを男に見出すと過剰に反応したり、とにかく相手の愛情が欲しく、執着がどんどんひどくなっていく。
「愛情」をくれない男にひどく当たったりするが、別れるとなると豹変してすがりつく。
これが男性になるとよくDVになり、別れるとき人が変わったように優しくなる。
そこまで精神が病んでいなくとも「愛情に手応えを感じない」という人間は数多くいるように感じる。
それこそ「愛情の種類を選び、自らも出せるものが限られてくる」という現代人の環境・スタイルや感情の間で成り立つ恋愛に多種多様な性癖も絡んでくる。
ストレスを多く抱えているし、性が商品化されてフラストレーションの捌け口とされている。
性と愛。
性の場合、本能だからどうしてもムラムラくるときがあって、そこに「愛情」など一切差し挟みたくないときもある。
だから「自慰」という手段があるわけで。
でもやはり人と接する快楽は自慰よりもいいわけですね。
そこに「愛情」を差し挟まないで、お互い「欲求の発散」と割りきれれば、これほど都合のいいことはない。
現代は性商品にあふれていて、性的な繋がりを持とうと思えばいくらでも持てて、「愛情」というものを紡ぎあって生きることの境目をきちんと持っていないと感覚的なものから境目が曖昧になる。
理屈ではわかっていても感覚的に感情が侵食されて境目が消えていくという現象が起こってくる。
そして性的なものに対して、ある種の抵抗が薄れてきている。
ネットではいくらでもあふれているし、若者にだってきちんとした性教育がなされていない。
日本でだって性がカジュアル化するという現象が起こっているくらいだから、この映画だって他人事ではない。
この手の映画は嫌煙されがちで、つい「ポルノ映画」みたく先入観が持たれてしまうけれど、本当にうまい脚本だなと改めて思いましたよ。

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03/11

Sun

2012

去年の今ごろ

確かバスの中にいた。
温泉地に向かう途中で、久しぶりの温泉を楽しみにしていた。
震災を知ったのは、夜につけたテレビだったように思う。
携帯電話のメール機能などがほとんど使えず、辛うじて電話が通じた。
北海道内だが心配になった母親が電話をしてきた。
無事であることを伝えると安心したようだった。

テレビをずっと見ていて何かができるわけではなかった。
ひとまずは温泉地に来たのだからゆっくりとリラックスして楽しもうと思った。
できることをする。
楽しみにしていたのだから、楽しむべきだと考えた。
もし身内がいたら、友達がいたら心境は少し違っていたのかもしれないけれど、それでも人には各々の日常と囲まれている環境がある。
地球規模で見ると人間には不条理さがつきまとう。

一年経って何か進めたかというと、どうにも居心地が悪い。
誰かのために何かしなければならない前に、自分のことをしなければいけない。
その自分のことすらまともになっていない。
動けやしない。
そして自分のことができたら、今度は支援してくれた人にお返ししなければいけない。
順番があり、その最初のやつさえこなしていない。

進まなければ、という思いが随分空回りしているようにも感じるけれど、それでも苛立ったり焦ったりしてはいけない。
そうして、進んでいかなければいけない。
思いだけ、ぽかんと浮かんでいるような気持ちだ。

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03/07

Wed

2012

サザエさん BANDE  DESSINEE



こういうパロディを見ると、どんなコンテンツも見せ方次第で大きく印象も、その後のコンテンツの運命も変わってくるのだなと思う。
どう見せるか、中身を外に出すとき、どう加工していくか。
その作業はマーケティングだ。
こう見ていくと地味なサザエさんのイメージもぐっと変わるし、別物になる。
中身とは少々違って他の作品を混ぜ合わせているけれど、それでも魅せる、見るものの心をぐっと掴むには、優れた感覚が必要なのだなと感じる。

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03/06

Tue

2012

テストが怖い

いいアイディアが浮かんで、また懲りずに送ろうと思うのだけれどね、新人賞。
でも今回のは「意味を解体した小説」なので、文章というよりも詩の羅列。
それが小説になるのか、という疑問はあるけれど、試してみるのも悪くないと思っている。
ただ、審査員のハイコンテクストなコメントを見ると、反吐が出てきそうなほど気持ち悪くなる。
どうして作家とは、人に対する具体的なコメントを示さなければならないところで、他人に非常にわかりにくい表現を使うのだろうかと、いつも疑問に思う。
だから私は理路整然とした文芸評論家が審査員になるのならまだしも、オタクを極めた「作家」なる存在が審査員の半数以上を占めて他人の審査をするのは、本当に愚かなことだと思っているし、実際半分近くの作家のコメントが非常に分かりにくく、一般人に理解しがたく、独善的で、お前の文章の発表の場でもないのに厚顔無恥な「論評」をツラツラと書き連ね、他人を煙にまくような幕引きで終わらせる、あの滑稽さとくだらなさが大嫌いなのである。
ああいうハイコンテクストで否定されても、やたら自分の心の中が散らかされた感がするだけで、何の足しにもならんといつも感じるのである。

思えば、こういうのは答えのないテストのようなもので、そういえば、私はテストが大嫌いだった。
元々、メンタル攻撃に対するバリアはもう使い尽くしたようなところがあり、諸肌さらしているようなものなので、やわらか戦車なのである。
豆腐の角に頭ぶつけて負傷するレベルなのです。
そして、否定されることが、死ぬほど恐ろしいということに、改めて気がついた。
私の心の底には「認めてほしい」という気持ちが強く、つまりは自尊心が否定されてきた分、それをどこかで強烈に補おうと飢えているのだと思う。
だから、頑張ったものを否定される衝撃を味わうよりも、最初から頑張らないことで、あえて「悲惨な結果になって当たり前。言われた通りの人間だ」と自分を納得させる方が安心できた。
このような心理作用を「ゴーレム効果」と言うらしい。
反発心を持って、何クソと頑張れる人も中にはいるが、私は「お前はダメなやつだ」と言われれば、なんとなくそんなような気がしてきて「ああ、お前の言う通りになってやるよ」と意固地になってダメなところに走るようなタイプだった、というか今もそうなのかもしれない。

それで、そんな状態でどんどん追い込まれて、逃げ場のようなものがなくなってくると、今度はもう進むしかないなと開き直り、今は少しずつ精神的な安定も取り戻して一歩ずつ踏み出しているところだ。
きっと将来この手の日記を見れば「ああ、こいつなんてくだらないことを書いているのだろう」と思うのだろうが、その気持ちこそ大事であって、やっぱりもしそう思ってしまうなら、この日記も文章も今しか書けないものとして記録しておこうと思うのだ。

淡々と何事もなく人生を過ごせている人にとってコンプレックスを強烈に抱えている人の気持ちはわからない。
それこそ白髪が増えるぐらい具合が悪くなるくらい悩んでいるものなのである。
そうしたコンプレックスが私には強くあり、何かと比べられて卑下されるのが、もうトラウマレベルで嫌なのだ。
もし大きなものをつかもうとしたとき、当然この手のコンプレックスは克服していかなければいけない。
昨日までダメだったのなら、今日少しでもよくならなければならない。
そうしなければ同じ器の中、同じ部屋の中でぐるぐる回っているのと同じことだ。
人間が人間らしくあるのは考える葦、現代風に言うなら常にアップデートされるソフトウェアだからだ。
昨日の自分よりも少しだけよくなっていく。
そんな風にして人生は自分を克服していくものだ。

さて、3月にやることは決まったけれど、動悸が止まらない。
コンプレックスってこういう自分が意識してない勝手な作用が体に出てくるので怖い。
しかし克服しなければならないものなのだ。
頑張るかな。

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03/05

Mon

2012

絶望と希望

ずっと家に引きこもりの生活をしていて、自分の思考回路の中であれこれぐるぐる考えていると、自分の直前の思考を拾い、さらに広げていくため、私の場合はどんどんネガティブになる。
まあ、そういう癖がついているのでしょうけれど。

そういう自分の癖がわかってくると、酒に逃げる。
ダッシュで酒飲む。
思考回路を散らす、ということを昔からやってました。

なにせ、何度も書いている通り、基本的には鬱屈したものが心の根底にあり、まだそれを浄化しきっていないので、人に対し、物事に対し、なかなか寛大になれないわけです。
そんな中、色々あれこれ物事が思い通りにならないと子供みたいにストレスがたまってくる。
それで塞ぎ込んでくる。

しかしちょっと待てよと。
昔は心理的な束縛があり、その束縛から逃れることができず、とにかく病んでおり、命すらも軽視するような考えをしていましたが、今は少しだけ前向きな考え方ができるようになっております。
例えばうまくいかないこと、物事を思い通りに飲み込めないこと、そんな自他への動きに消極的な気持ちを抱き、すぐにもうダメだ、なんて思いがちでしたが、今は「健康でやれることがあるうちは幸福なのではないか」と思うようになっています。
これが誰かの圧力を受けている。
身近な何者かに心理的な迫害を受けている。
社会情勢政治的に行動が制限されている。
勉学しようにもその環境がない。
食料水衣服など生活に最低限のものが揃わない不安がある。
などという状況があれば、とても不幸な気持ちを覚えますが、少なくとも何か挑戦できるような気持ちがあり、環境があるのなら、それはとても幸福なことなのではないかと思うわけです。

今の私には色々目標があり、死ぬまでにはノーベル文学賞をとってやろうか、という気持ちがあります。
この年数は約40年以内を目指しているわけですが、日記を書いている時点ではまだ32歳です。
成人してから12年と半年は過ぎてしまい、今ようやく心理的抑圧状態、苛立ちやストレスで半日以上も思考回路を使うという日々を過ごす状態からほとんど解放されつつあります。
色んなことを勉強したり、将来英語で小説を書けるように、その前に話せるようになろう、世界を見ようなどなど目標がたくさんできてきて、ようやく少しだけわくわくできるようになりました。
こう考えると今の自分にはやれることがたくさんあって、それに向かえるわけだから、とても幸せなはずなのです。

昔だとちょっとしたことでネガティブ回路がフル回転して、もうどうにもならなかったわけです。
今友達が塞ぎ込んでいて一年以上も部屋の中でいて死にたいと毎日思っているようですが、そういう心理状態は凄くよくわかるだけに、自分が今興福だと思っているからと言って、こうせよとは言えないのですが、少なくとも誰かに連絡ができるということは、まだまだ救いの可能性は残っているわけです。
完全に絶望的な状況ではない。

発想を変えても、思考がついていかないことがあります。
心理的な病の場合は、どうしても脳のシグナルの異常も含まれるので治療が必要ですが、まだそこまでいっていない人は「できないこと」よりも「やれそうなこと」に目を向けてみるとよいです。
そこで大事なのは完璧主義にならないこと。
周囲の野次に絶対耳を傾けないこと。
それが大事だと思いますよ。

世間の皆様は普通大学を出て就職して三十半ばときたら役職などついてくるわけですよ。
それを30過ぎてようやく歩み出している自分など世間様から見れば屑同然。
そういう自分が周囲から見ればアホのようなことを書いている。
それでも私自身は希望にあふれているわけですよ。
そして自分にはできるだろうなと薄々感じている。
あとはその努力をするだけなのです。

たまたま調子がよかったので書いてみましたよ。

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
45
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みますが光野(こうや)とか朝風(=はやぶさ)でもよろしゅうございます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。自分でも困るほどの「皮肉屋」で「天邪鬼」。つまり「曲者」です。

2011年より声劇ギルド「ZeroKelvin」主催しております。
声でのドラマを通して様々な表現方法を模索しています。
生放送などもニコニコ動画でしておりますので、ご興味のある方はぜひこちらへ。
http://com.nicovideo.jp/community/co2011708

自己プロファイリング:
かに座の性質を大きく受け継いでいるせいか基本は「防御型」人間。自己犠牲型。他人の役に立つことに最も生きがいを覚える。進む時は必ず後退時条件、及び補給線を確保する。ゆえに博打を打つことはまずない。占星術では2つの星の影響を強く受けている。芸術、特に文筆系分野に関する影響が強い。冗談か本気かわからない発言多し。気弱ゆえに大言壮語多し。不安の裏返し。広言して自らを追い詰めてやるタイプ。

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