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あさかぜさんは見た

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11/24

Sun

2024

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01/03

Tue

2012

目標は実感として、とにかく「感じ続け」なければ続かない。
「実感を意地すること」が大事。

いちいち傷ついていたけれどよく考えてみればものすごく小さな目標を持っていた。
特にトップを目指そうとするのなら文句を言っている暇などないし、ましてや何か他のものに嘆く必要もないのだ。
なぜなら、自分がやればいいのだから。

恐れずに進むこと。
ある意味誰の声も聞かないことだ。
目標にまっすぐがむしゃらに進むこと。
誰かに理解を求めた時点で目標は小さく小さくなっていく。

毎日きちんと進むこと。
何よりも自分に対して妥協しないことが一番の近道。
余計なところにはもう力を使わない。
そしてそれができる精神的な準備も整いつつある。

さて、今年は辰年ですから。
昨年は兎でホップステップとピョンピョン飛んでましたが、今年は飛翔するぞ。

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12/31

Sat

2011

コネクト そして今年を振り返る

「人の好みにクチコミは効かない」──ハーヴァード大学チームの研究結果より

前の記事でも使った、この記事を読んでから、少し引っかかっていることがある。

ちょっとおさらいだけど、自分の考えも入るが、ネットにおけるコミュニケーションとして、

・人は自分の利益になることしか「価値」として認めていない。

・人のコミュニケーションは「自分の利益」となるものを通してでしか繋がりがない(いいとこ取りしかしない)。

・他人の興味はその他の人間の興味には影響しない。

・既に好きなもの同士で繋がっている集団から発せられる情報が同種の人間に繋がる。

・個人の「好き」という「自発性」が他者の「興味」に引っかかる。

とりあえず、ここらへんまで出して「おや?」と思う。
ネットのコミュニケーションと現実のコミュニケーションとは別物なのはよくわかるが、もっと具体的に指摘するならネットはコミュニケーションしているのではなく、「コネクト」しているだけなのではないのか。
と、考えてようやくインターネットの本分を思い出すのだ。
「ああ、ネットは発信と受信しかなく、この二つの間を結びつけるのがコネクトなのだ」と。

ネットにおいて「コネクト」を機能させるには、誰かの「興味」「利益」「欲望」を刺激する必要がある。
自分のことを考えるなら、どこから引き込めばいいだろうと考える。
たぶん「興味」「面白み」を一発で伝えるには・・・今のところは「デザイン」なのだけど。

ちょっと今回は「コネクト」ということをキーワードに来年の宿題にしようと思ってる。


今年はどんな年だったかな、と振り返ると、とにかく「節目のない年」だった。
年越しをしても節目なんか自分にはない。
送った文章は全滅したし、その衝撃で何か自分の価値観が変化した気がする。
かといってすべて出しきっているわけではなく、くじけなければまだ出せるものがあるだけに不思議な気持ち。
実りがあったかどうかも疑わしい。
しかし何かふわふわと浮かびつつあるものがあり、「ああ、これって金脈だ」と漠然と思ってても、それは深い谷を挟んで向こう側にあり、どうやって橋をかけようか、その橋をかける作業が一番の難作業なのだと色々と考えつつ、壊れたパソコンは資金不足で回復せず、結論から言えばただの努力不足で終わったといういつも通りの展開。
でも一番変化したのは心理的に楽になった。
妙な夢を見て朝から嫌な気分になることもなくなったし、心理的にも安定しているし、負の感情で一日中潰される日数が非常に少なくなった。
これは本当に幸福なことで、この負の感情に潰される日数が減っただけでも、活動できる日数が増え、物事を積み重ねられるチャンスが増えたということになる。

もし来年この状態を一年中続けられれば、今年の二・三倍のペースで動けることになる。
ようやく長い呪縛から逃れるための扉を開いた感触がする。
来年は抱負は言わない。
なんだか目標というものを宣言して叶ったためしがない。
だからもういいや。
やれることを増やし、やれることをこなす。
これの繰り返し。ただ繰り返し。
価値観に縛られず、ただ可能性を広げる作業をする。
それだけ。
たぶんこれを生涯繰り返す。
それだけです。

私自身の成功法は「期待」と「欲望」を捨て、とにかく現時点を厳密に見るということかな。
じゃないといちいちナイーブに傷ついて立ち止まってしまう。
立ち止まらないための成功法が何にも期待しないということ。

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12/27

Tue

2011

我々の友人は影響力のない興味深い他人 「バイラル」の「入り口」を探せ

「人の好みにクチコミは効かない」──ハーヴァード大学チームの研究結果より
WIRED.jp

バイラルマーケティングとは:
製品やサービスに関する「口コミ」を意図的に広め、低コストで効率的に商品の告知や顧客の獲得を行なうマーケティング手法。「バイラル」は「感染的な」という意味で、商品の情報が人づてに伝わっていく仕組みをウィルスの感染・増殖に例えている。
IT用語辞典


最近何かと「ソーシャルマーケティング」なの「バイラルマーケティング」なの、「人が人を呼ぶシステム」で一攫千金を狙おうと様々な企業がソーシャルメディアやツイッターを駆使して日々頑張っておられます。

そこで、このマーケティング手法への実験や検証ではないのですが、「はたして人の好みって伝染していくものなのか」という研究結果について、

「人の好みに関しては、『仲間の影響』といったものは事実上存在しないに等しい」

という研究結果がまとめられ、「これはもしやソーシャルメディアを使った手法は間違いなのでは?」という憶測が生まれてきているようです。
今回のこの「記事に対する反響」も非常に大きい。
実際、この「記事についての反響の大きさ」にも言えることなのですが、「好みが伝播していかないなら、じゃあどうして口コミ(人から人へ)で広がる現象が実際に起きているわけ?」という疑問は、ちょっと考えれば気がつく点となります。

私が注目した一文は、これです。

「友達になってからの互いの影響の結果ではなく、そもそも好みが似通っていたから友達になった」

これを言い換えると
「最初から興味があったもの(共通項)を通して情報を受けとるから、繋がっていく」
とも言えます。
「話が弾んで仲良くなった」の典型例ですね。
この「興味」の部分は別に個別のキーワードの完全合致じゃなくてもいいわけです。
かする部分があれば広がる可能性は生まれる。

記事の中に「クラシック」と「ジャズ」は例外、という興味深い一文がありますが、クラシックで言うなら「作曲者」には興味なかったけど「指揮者」には興味があったから演奏を聞いて「音楽」を気に入り「作曲者」に興味を持ち始めた。さらにそこで気になった「演奏者」がいた。そこでどうしても無視できなくなってきた「歴史」を調べ出した、など。
しかし「ジャンル」はあくまで「クラシック」を中心に置いている。
一方他人は「歴史」から「作曲者」を見るが「音楽」は聞かない。こちらの「ジャンル」はあくまで「歴史」。
ここでの二人は「音楽史」で繋がっている、となります。
そして「音楽を聞く人」と「音楽には興味なく歴史に興味がある人」は、互いに興味のある部分で繋がっても、何か自発的に価値観が変わっていかないと「演奏」そのものについての話題ではずっと関わり合うことはないわけです。

このキーワードの広がりとジャンルの制限は「好奇心」がなすことです。「好き」だから好きな部分には「自発性」がわくとも。それはまた自己顕示欲や知的好奇心や地位や名誉などの「欲望の充足」であるかもしれない。
人はだいたい見たいものしか見ないものです。興味のないものは視界に入っていても気がつかない場合がかなりあります。
興味のある、集中すべき点があって初めて周囲に興味がわく。
通常いきなり身につけているものから美男美女を見つけたりしない。
先に美男美女に目がいってから食べているものや身につけているものに興味がわく。

私たちはどうにも、完全合致ではないが、どうも似たようなものに興味があって繋がっていることが経験上うっすらわかっている。
ソーシャル空間でも繋がった後、発言はするが内容は個人の興味。他人は興味が合わさっている部分がないと見ない読まない興味がないから頭に残らない。
そんなこんなで口コミは好みに影響を及ぼすことはない。
しかし好みは口コミに影響を及ぼすことは確かです。
口コミになる時点で「共通項」で繋がっているのですから。
だから「ソーシャルグループ」ができる。「グループ」が拡大していくから口コミになる。

常に興味の入り口は「極めて個人的なもの」に限られ出口は違ったものになる、というイメージを私は持ってます。
多くの女性は化粧に興味がありますが、多くの人がよいと思っている化粧品は個人の肌に合わないこともあります。体に近ければ近いほど他人の興味へ客観性を強く持つようになります。その上で自らに合致する主観的な情報を選び取る。化粧負けする肌でもお肌に合っちゃったら聞かれた時答えるでしょう。その時なるべく他人に伝わりやすいように客観的に話そうとする。
私たちの友人は影響力を持たなくとも、共通の話題を話したり好奇心を抱かせる経験を持っていたりする「興味深い他人」ということになります。

バイラルマーケティングなるものがあるのなら誰かの「出口(自発性の表出・欲求の発散や誇示)」が他の人の「入り口(興味や欲望)」と合致しているからだと考えますが、いかがでしょう。
ほとんどの場合誰かの「出口」を見て個人的に合う合わないはわかることになります。あるいは触れてもいないのに強烈な先入観を持つことだってある。
たいてい友達同士で趣味が完全に合致して異様に行動まで似通っているとなると関係を疑われたりしませんか?(笑)
そんな人に会うことなんてほとんどない。
だいたい「なんとなく共通項を持っている」という感覚・思い込みで繋がっている。
そして喜びにおける(あるいは痛みの)強烈な「共通項」があると「一体感」があるし、わかってくれるんだ、と「嬉しく」なる。
好きな人が好きなことを語る、尊敬できる人(自分より数値・立場・肩書き的に上回っていると感じる人)がもっともらしく語っている、というのに共感するのもこれに当たります。「そうだよな、そうかもしれない」と自らの体験に擬似的にでも変換している。
「自発性」や「繋がっている感覚」は「極めて個人的な事情」なのです。

友達といえど他人同士であれば、「なんとなく」を共有しあっているに過ぎない。
これがもっと密接な関わり合いがあるもの同士(または環境)なら少し違ってくるのかもしれないですが、距離感があるなら影響力なんてない。

それではどうして「興味深い他人同士」が「グループ」を作り口コミを広げていく「同調効果」を示しているのか。
ソーシャルメディアにおける「バイラルの芽」って何?という本題ですが、言えば何を当たり前のことを、と思われるでしょうが、私は「テキスト」と「演出(画像・映像・音声)」だと考えます。
ネットでの限界は「テキスト」と「演出」であり、それ以上は「ラジオ」「生放送」などアナログ的な手段を加えていかなければ広がりをみせませんが、今回は「テキスト」に絞って考えたいと思います。

「個々人の興味がテキストで繋がるってどういうことだろう」と考えていくと、「個人的な好奇心を持っている人がテキストを読む時、どんな心理状態か」に着目点がいくわけです。

常に個人が情報を得ようとする時「個人的な体験として変換可能なテキスト」を求めるために、「客観性」という多数の人の感想を得たりする。
でも探しているのは極めて個人的な利益や欲求に合致するための「確証」のようなものです。
ゲームにしか興味のない人がこの文章に目を通すというのは、まずありえない。
皆さん何かしら「マーケティング」や少数では「友達関係」に興味のある人なんじゃないかなと思うわけです。

他人の「出口」である「テキスト」を「個人的な体験に変換」するには、受け手が「強く意識しているキーワード」を与える必要性が出てきます。
ある程度決まった形式(ジャンル)のものであれば、最初から絞り込んだ客観性(パターン)は担保されている。クラシックとかジャズとかその典型なんじゃないでしょうか。だから「キーポイント」も合致しやすい。

これが「音楽」とか「本」とか「スポーツ」という漠然としたくくりになると、もうどうでもよくなる。
「音楽」の未来はどうでもいいけれど「テクノ」だけはなくなってほしくないな、と個人的に思ったりする人がいる。文章的には矛盾してますが個人の心情としては間違ってない。
どちらも「音楽」でも、特定のキーワードには非常に強い思い入れがある。
「漫画」はあまり興味ないけどなぜか「ワンピース」だけはずっと読んでる、とか。
他の小説家が食えなかろうと、「小説・出版業界が衰退」しようと、どうでもいいけど、「ある作家の連載」だけは止めてほしくない、とかね。

「本」でも「軍事」のことなんか興味がない人がほとんど。
じゃあ「軍事」の本だとして内容をよく見ると、どうやらどこのご家庭でもやってそうな、ある行動がよく記されている。
そこで「主人公がお父さんになったら優れていないと思った4つのイケてない点」という切り口だったら、「軍事」じゃないカテゴリーから興味を持ってくれるかもしれない。
この手のやり口ってもうやり尽くされて、過剰な煽り文句に中身の手応えのなさが続いているので相当警戒されていますが、内容を客観的に見てちゃんと合っていれば誇張でもなんでもない、切り口をちょっと大幅に変えてみただけ、ということになります。
「本当は怖い童話」もこの手の切り口ですよね。
人様が「面白い」というのは、あくまで「実感が持てるから」だし、何よりも「思い浮かべることができる」からだと思うのです。
「思い浮かべることができる」のは結構「個人的な事情」だったりします。
私たちの思考回路とは広いようで極めて狭く個人的なものだと考えたほうが、非常に現実的です。

結局ここから考えると「バイラルの入り口」とは「個人的な体験にいかにマッチングさせるか」が引き込みのポイントだと思いますけど、最初はピンポイントで切り口を変えながら「大まかな層」で捉えるのではなく、もっと「絞り込んだキーワード」で「集」を捉えるべきなのかなと考えています。
今回の記事を読むと、合わない人には合わない。しょうがない。と思えるようになってきます。
某アイドルにまったく興味のない人に年賀状で「この子が一押し!今年もよろしくお願いします!」なんて写真付きで新年早々送りつけられても、好きにはならないわけです。

じゃあ、ジャンルが違うもの同士は絶対に繋がらないのか、と言えばそうじゃないとも考えるわけです。
例えば違うジャンルである「音楽好き」と「読書」はどうやって繋げるのか。
「音楽好き」は広すぎる。「演歌好き」ちょっと絞れてきた。
扱っている作品で「演歌」ではなくとも「演歌的叙情」を扱った作品がある、となると共通項が生まれます。
演歌聞いている人たちにも「実体験に変換可能なテキスト」を作ることができる。

電子書籍に興味がある人なら「ランナーから読み取れる電子書籍出版と紙出版との大きな違い」と書いてあったら読んでみたくなりませんか?
これが「短距離ランナーと長距離ランナーの筋肉の作り方の違い」とストレートに書いてあったら興味は持たないかもしれない。
短・長距離走のことが出ていながらも知りたいことも書いてある。
「生活の中にもソーセージのような歯切れのよさと味わい深さを。ソーセージに見る熟成生活のススメ」とか別にソーセージに興味なくとも読みたくなりますよね。

このように「入り口」は「実体験へ変換可能」であること、が求められると思います。
それが人が多いとより「入り口」が多くなる。様々な体験・角度から語られるから。
だから最初はきついことこの上ない。最初の「入り口」は一つしか作れないのですもの。
書くと簡単ですがやるのは相当苦労の連続です。
「何が起爆剤になるか」だなんてわかってないのですよ、どんな専門家も。
だから「マーケティング本」が「売れる」のです。恋愛本と同じですね(笑)。
何が障害になっているかはやっていれば経験上わかってくると思いますが、意外にも非常に身近に本音を言ってくれる人が問題の本質を突いていたりするので、あなどれません。
直接手売りのような真似すると、ストレートに伝えてくるのでよく見えてきますよ。
そのトライアンドエラーを繰り替えしながら、自分たちの商品や手法、アプローチ方法、切り口に改良を加えた上で、その人が喜ぶようにしたいなと情熱を持ちつづける。

好きな人(好きになってもらいたい人)を口説くとき、自分の熱意を伝えるとしたら、自然と相手の魅力も絡めて伝えることになる、というのと似ているかもしれませんね。
一番最初はそこから始めないといけないのかな、と私は考えています。

そこから「入り口」を増やしていくことにより、「新しい視点の人たち」を増やしていく。
そうすると「同じ価値感同士が長く居つづけることで生まれる硬直化」も揉みほぐされていきます。
必ずユーザー主体のコンテンツが衰退する理由は「古参がいつの間にか強いていた自治ルール」だったりするので。

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12/24

Sat

2011

電子書籍の夜明けとなる人たちの意見を聞きたまえ

紀伊國屋書店でソニーリーダーの販売員と話してきた。
そこで動いている年齢層は以外にも4・50代の人たちが多いという。
若い人たちは今持っている携帯・スマフォ・タブレットと比較して割と興味持たないみたい。
わざわざ読書するために端末まで購入して活字を楽しむ人たちは「本好き」の人たちだというのが見えてくる。
そしてさらに驚くことに「自炊」の問い合わせ、つまりファイル形式のこととか質問してくる人がいるらしい。
私はこの手の作業に興味があるのは若くもなく高齢でもない40代くらいなのかなと薄々思っていた。

現在リーダーストアはクレジット決済のみで敷居が高すぎる。
まだまだ気楽に買える場所でもないし、親しめるようなデザイン・サイト作りには程遠い。
例えばライトノベルを好むような若年層は携帯で楽しみ繋がり合う。
そこに本来の本好きの人たちである中年層と同じ考え方で一緒にできるはずがない。

私が感じていた「違和感」というのはどうにも、こういう「本好きの人たちが望んでいる本屋」と、「これから本好きでもなんでもない人たちを引き込んで楽しませていく開拓作業としての本屋作り」とのギャップだった。
これからまず最初に電子書籍はどこの層にターゲットを絞るかと言ったら、断然「本好き」の人たちかもしれないと思っている。
何せ、本を作る人たちやショップを取り囲んでいるスタッフがきっと今まで出版社で働いていた人や本を読み漁ってきた人たちに違いないと実感として思うからだ。
一番意思疎通ができて、実感も共有しやすい年代層から掘り下げるのが一番だ。

端末やストアによって年齢層も本の動きも違ってくる。
本好きの人たちは電子書籍に「文字の読みやすさ」や「本棚のスペース削減」や「検索の手軽さ」などをメリットに思っているだろう。
何せ老眼入ってくるし、本は莫大になってくるし、好きな本・ストーリー・文体へのこだわりだって出てくる年齢だ。
本好きは本を読み漁り、質も量も経験上選んでくる。

さて、若い人はそうじゃない。
エンターテイメントが欲しいし、共通の話題が欲しいし、楽しみを探し求めているし、誰かと繋がりたい欲求がある。
一人でじっとしていられないだろうし、黙って思索にふける若者なんてどうも違和感がある。
いわゆる本好きの人がバカにする携帯小説やライトノベルだって彼らにとっては優れた読み物だ。
うるさい制限なんてないし、勝手な想像、勝手な設定をどこまでも膨らませて奇想天外なことだってできる。
人生の教訓や説教や苦しみなんていらないし、とにかく何かの形で楽しみたいのだ。
だから活字よりも漫画やライトノベルや掲示板込みで楽しめる携帯小説なのだろう。

また女性ともなれば若い人は恋愛を楽しみたい。
子供を持てば実生活に絡んだものが少しずつ比重を占めるかもしれない。
中年ともなれば、「難しく考えずにすっと飲み込める単純明快なストーリー」を求めるかもしれない。
一口に「本」と言っても無数の考え方価値観がある中で、今一番の突破口になりそうな「本好き」の人たちに対して一体どんなアプローチをしているのか。

どうにも若い人が電子書籍専用端末に入り込むような余地はない。
電子書籍にはあっても、端末が求めていくものと折り合いがつくのだろうかと考えたら今のところなさそうな気もしてくる。
これから進化するスマートフォンで充分な気がしている私と感覚は大差ないだろう。
若い人は好きなものにしかお金は払いたくない。
色々なものを比較して実験して楽しみを得るというのは熟年の楽しみなんじゃないかとさえ思う。
きっと私が思い描いている電子書籍の未来と中年の本好きが捉えている「読書」としての電子書籍は大きく違うだろう。
若い人たちにとって「読書」という感覚は少し中年の人たちのものとは違うような感触を抱いている。
しかし、一番の開拓者となるのは、この「本好きの人たち」だろうと思っている。
聞いた限りじゃ若い人が開拓者になるとはどうも考えづらい。
なんせ「読書離れ」なんて言われているのだから。でも「テキストの消費量」はおそらく増えている。ネットで繋がりネットサーフィンをし、それだけでも莫大なテキスト量になってくる。読書とは違うところでテキストを楽しんでいる。もう、これだけでも感覚は違う。

電子書籍の夜明けとなる大きな鍵となるのは、この「本好きの人たち」の「本への欲求」をいかに充足させるかにかかっている。
端末が売れる年齢層からまず深く掘り下げていくのが一番妥当な攻め筋だと考える。
このことをもっと具体的に言えば「中年の欲求を満たせ」ということなのだ。
前々から言われているような気もするが、どうにも「声」が見えてこない。そこまでの段階ではまだまだないということなのかもしれない。
後にぼちぼちと若者が別の形で続く形になるだろう。しかもまったく違う形で盛り上げる気がする。

私は私で思い描いていることが少しずつ固まってきているので、少しずつ実効に移していこうと考えている。
そこには従来の「本」の姿や「読書」の形はないかもしれないなと思い描いている。

追伸:
考えるに、ソニーリーダーが電子書籍端末として非常に役立つ技術がある。
DAISYだ。
つまり視覚障害者のためにも幅広く電子書籍が触れられるようになると、今度は「教科書ツール」や「社内・企業広報ツール」や「学校広報・連絡ツール」などとしても幅広く進出できることになる。
得に「既刊されていない小さな広報誌」をターゲットにすることで、端末の利便性や活躍する場所はぐっと上がることになる。
そして視覚障害者のためのサイト・電子書籍作りのノウハウは必ず、非常に有益な知識となってくに違いないのだ。

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12/23

Fri

2011

「人の気持ちを考えろ」は「自分の気持ち」しか考えていない

「人の気持ちを考えろ」とは、よく出てくる言葉だが、基本的にロジックとしても矛盾がある。
つまり、
「人の気持ちを考えろとおっしゃいますが、あなたは私の気持ちについて考えたことはありますか?」
と尋ねると誰もが口をつむぐだろう。
最初からそのような反論を相手に出させないために、たいてい相手にとって不利な条件や状況や証拠をつきたてて相手の考えを出させないようにするのが常套手段だ。
この手のことをする時、目的は相手を尊重するよりも叩き伏せたい気持ちの方が強い。

結局他人の気持ちをきちんと知るなんてテレパシーでも身につけない限り不可能に近い。
みんな「なんとなく」の範囲で気持ちをわかったつもりになっている。
ちょっと色々と経験し、礼儀もきちんとわきまえた人から見れば「宇宙人」のような人間だってたくさんいるのだ。
もし「人の気持ちを考えろ」と誰かに言ってしまいそうになる時、自分の素行を見直す大きな機会が訪れたと思った方が健全だろう。
ちゃんと相手の気持ちを知ろうとしているのかどうか。

「人の気持ちも考えて」と他人に言う時、自分を基準にして不特定多数の人を巻き込む場合がある。
みんなこうして辛い思いをしている、と誰だか分からないたくさんの人が苦しんでいるように見せかけるか、もしくは仲間を見つけて団結し数の圧力をかけるか、非常に個人的な心理的苦痛のカモフラージュのために訴えることがほとんどだ。
そうでなければ、常に「私は〜こう思っているから」と自分の気持ちを伝える。

人間は伝えなければ伝わらない生き物で、経験のしていない感情や想像のできない感情は理解するには程遠いところにある。
言葉も心も皆感覚が違うから理不尽さを生むものなのだ。

よく「人の気持ちを理解できるのは当たり前」という考えを持ちがちだが、その「当たり前」ができる人は、かなり立派だと思うし、それが本当にできている人は残念ながらほとんどいない。
というのは何かしら言葉で傷つけられるし、価値観が合わず態度で傷つけられるし、対応に困る情熱や親切などで迷惑を被ることだってある。よかれと思われていることだって心を害することになってしまうこともある。
そういう時、大抵の人は我慢している。
これは怒るほどのことではないはずだ、と自分を納得させている。悪意でなされたことではない、と。
人の親切でさえ自分に対して、よくない気持ちを呼び起こすことだってあるのだ。
だからこそ「人の気持ちを考えられる」というのは積み上げられた我慢と忍耐と努力と経験の上に成り立った結構すごい行為なのだと考えを改めてなくちゃいけない。

となると、私たちは「人の気持ちを考えて」と言いそうになってしまった時、言いそうになった理由を極めて個人的な理由に絞る必要がある。
何が気に入らないのか。何が不愉快なのか。何が憤るのか。自分の感情を探る必要がある。
さもなければ、相手のこともよく知らぬまま訴えかけて、とにかく話がこじれるし、言い合いのまま平行線を辿ることだって多くなる。
人と向き合うというのは、基本は「1対1」である。
この「向き合う姿勢」が原則であって、誰かの代理でやっていたとしても、その誰かの気持ちを一方的に立てて相手の言い分を聞かぬ仕舞いでは、自分のことしか考えていない。
実際真剣に対話する時、体を真正面に向けられず、あちらこちらと目や体の角度をそらされると不快に感じるだろう。
それと同じような行為になりがちな「人の気持ち〜」なんて持ち出すくらいなら最初から「自分の気持ち」に問題を絞ればいい。

とにかく対話もしていない人の気持ちなど考え出すと、様々な推測や憶測や想像が際限なく広がってくる。
これが物事を複雑にし、互いの関係を粗悪にする不純物だ。
相手がわかっていないのなら伝える必要がある。聞く必要がある。
特に気持ちとなればなおさらだ。
伝えるのすら嫌になることもある。苦痛でこいつとはもう嫌だと投げ出したくもなる気持ちを受けることもあるだろう。
その我慢の限界は人それぞれだが、伝えて、聞く努力だけはやるだけやったほうがいい。

伝えるときのポイントは「余計な話をしない」ということだ。
自分のことを伝えようとしているのに「たとえ話」から始まり間接的に伝えようとしたり、自分ではない誰かの例から遠回しに自分のことを気づかせようとしたり、世間の常識や慣習を持ち出したり、「周囲は〜」と漠然した集団意識を持ち出したり、とにかく直接的ではない伝えかたは誤解を招く。
基本は「私はこれに関してこう思った。あなたがこうしたことに、私はこう感じたけど、どう考えているのか」が守られているのが望ましい。
ここで自分の考えや思いを「後出し」にしないことが、対等な対話だ。
だいたい批判をしようとする心構えの時など、自分の思いを相手の出方を見て結構変えたりする。
自分をよく観察すればわかるだろう。
最初に言おうと思っていたことが、相手の言葉によって次々と歪められ、最後には何を言おうとしていたのかわからなくなり、伝えようとしていたことすら少しも伝わっていない、という状況に見舞われたことはよくあると思う。
その原因は「後出し」にすることにより、相手の屁理屈・理屈・強い感情に自らの感情が巻き込まれ、相手のペースに飲まれてしまうためだ。もしくはただ、相手の間違いを認めさせたいだけの目的が重視されるためだ。
そんな時でも「今の言葉で私はこう感じた」と手短に「私は〜です」の直接的手法を守ると混乱しない。

で、どうしても通じないという人がいる。
どれだけ話し合っても価値観の合わない人もいる。
そんな人に対しては伝えるべきことをきちんと伝える。
そこが限界になる。
他人は思い通りにできないので、どうしてもタイミングや考え方の違いでおかしなことになることもある。
しょうがない。
最後には自分が言い残したことはないだろうか、と内面を探り、なかったら終わりにしたほうがいい。
そこで捨て台詞を吐くと、精神的暴力の連鎖になりかねないので、やっぱり我慢するか切り替えて健康的な方法で発散していくしかなくなる。

人間は人の気持ちなどわかりっこないことがよくわかる。
だからこじれるのだ。だから人類は争いが絶えないのだ。
人と人とは常に脆い関係にあるし、ちょっとしたことでこじれる。
もし「人の気持ちを考えろ」と言いそうになったら、自分の気持ちを素直に捉えるということを見直したほうが有益だと考える。

人間他人に苦労は強いても自分の苦労は軽減したく、他人の苦労は過小評価しても自分の苦労は過大評価するものなのだから。

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
45
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みますが光野(こうや)とか朝風(=はやぶさ)でもよろしゅうございます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。自分でも困るほどの「皮肉屋」で「天邪鬼」。つまり「曲者」です。

2011年より声劇ギルド「ZeroKelvin」主催しております。
声でのドラマを通して様々な表現方法を模索しています。
生放送などもニコニコ動画でしておりますので、ご興味のある方はぜひこちらへ。
http://com.nicovideo.jp/community/co2011708

自己プロファイリング:
かに座の性質を大きく受け継いでいるせいか基本は「防御型」人間。自己犠牲型。他人の役に立つことに最も生きがいを覚える。進む時は必ず後退時条件、及び補給線を確保する。ゆえに博打を打つことはまずない。占星術では2つの星の影響を強く受けている。芸術、特に文筆系分野に関する影響が強い。冗談か本気かわからない発言多し。気弱ゆえに大言壮語多し。不安の裏返し。広言して自らを追い詰めてやるタイプ。

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