「人の好みにクチコミは効かない」──ハーヴァード大学チームの研究結果よりWIRED.jp
バイラルマーケティングとは:
製品やサービスに関する「口コミ」を意図的に広め、低コストで効率的に商品の告知や顧客の獲得を行なうマーケティング手法。「バイラル」は「感染的な」という意味で、商品の情報が人づてに伝わっていく仕組みをウィルスの感染・増殖に例えている。IT用語辞典
最近何かと「ソーシャルマーケティング」なの「バイラルマーケティング」なの、「人が人を呼ぶシステム」で一攫千金を狙おうと様々な企業がソーシャルメディアやツイッターを駆使して日々頑張っておられます。
そこで、このマーケティング手法への実験や検証ではないのですが、「はたして人の好みって伝染していくものなのか」という研究結果について、
「人の好みに関しては、『仲間の影響』といったものは事実上存在しないに等しい」という研究結果がまとめられ、「これはもしやソーシャルメディアを使った手法は間違いなのでは?」という憶測が生まれてきているようです。
今回のこの「記事に対する反響」も非常に大きい。
実際、この「記事についての反響の大きさ」にも言えることなのですが、「好みが伝播していかないなら、じゃあどうして口コミ(人から人へ)で広がる現象が実際に起きているわけ?」という疑問は、ちょっと考えれば気がつく点となります。
私が注目した一文は、これです。
「友達になってからの互いの影響の結果ではなく、そもそも好みが似通っていたから友達になった」これを言い換えると
「最初から興味があったもの(共通項)を通して情報を受けとるから、繋がっていく」
とも言えます。
「話が弾んで仲良くなった」の典型例ですね。
この「興味」の部分は別に個別のキーワードの完全合致じゃなくてもいいわけです。
かする部分があれば広がる可能性は生まれる。
記事の中に「クラシック」と「ジャズ」は例外、という興味深い一文がありますが、クラシックで言うなら「作曲者」には興味なかったけど「指揮者」には興味があったから演奏を聞いて「音楽」を気に入り「作曲者」に興味を持ち始めた。さらにそこで気になった「演奏者」がいた。そこでどうしても無視できなくなってきた「歴史」を調べ出した、など。
しかし「ジャンル」はあくまで「クラシック」を中心に置いている。
一方他人は「歴史」から「作曲者」を見るが「音楽」は聞かない。こちらの「ジャンル」はあくまで「歴史」。
ここでの二人は「音楽史」で繋がっている、となります。
そして「音楽を聞く人」と「音楽には興味なく歴史に興味がある人」は、互いに興味のある部分で繋がっても、何か自発的に価値観が変わっていかないと「演奏」そのものについての話題ではずっと関わり合うことはないわけです。
このキーワードの広がりとジャンルの制限は「好奇心」がなすことです。「好き」だから好きな部分には「自発性」がわくとも。それはまた自己顕示欲や知的好奇心や地位や名誉などの「欲望の充足」であるかもしれない。
人はだいたい見たいものしか見ないものです。興味のないものは視界に入っていても気がつかない場合がかなりあります。
興味のある、集中すべき点があって初めて周囲に興味がわく。
通常いきなり身につけているものから美男美女を見つけたりしない。
先に美男美女に目がいってから食べているものや身につけているものに興味がわく。
私たちはどうにも、完全合致ではないが、どうも似たようなものに興味があって繋がっていることが経験上うっすらわかっている。
ソーシャル空間でも繋がった後、発言はするが内容は個人の興味。他人は興味が合わさっている部分がないと見ない読まない興味がないから頭に残らない。
そんなこんなで口コミは好みに影響を及ぼすことはない。
しかし好みは口コミに影響を及ぼすことは確かです。
口コミになる時点で「共通項」で繋がっているのですから。
だから「ソーシャルグループ」ができる。「グループ」が拡大していくから口コミになる。
常に興味の入り口は「極めて個人的なもの」に限られ出口は違ったものになる、というイメージを私は持ってます。
多くの女性は化粧に興味がありますが、多くの人がよいと思っている化粧品は個人の肌に合わないこともあります。体に近ければ近いほど他人の興味へ客観性を強く持つようになります。その上で自らに合致する主観的な情報を選び取る。化粧負けする肌でもお肌に合っちゃったら聞かれた時答えるでしょう。その時なるべく他人に伝わりやすいように客観的に話そうとする。
私たちの友人は影響力を持たなくとも、共通の話題を話したり好奇心を抱かせる経験を持っていたりする「興味深い他人」ということになります。
バイラルマーケティングなるものがあるのなら誰かの「出口(自発性の表出・欲求の発散や誇示)」が他の人の「入り口(興味や欲望)」と合致しているからだと考えますが、いかがでしょう。
ほとんどの場合誰かの「出口」を見て個人的に合う合わないはわかることになります。あるいは触れてもいないのに強烈な先入観を持つことだってある。
たいてい友達同士で趣味が完全に合致して異様に行動まで似通っているとなると関係を疑われたりしませんか?(笑)
そんな人に会うことなんてほとんどない。
だいたい「なんとなく共通項を持っている」という感覚・思い込みで繋がっている。
そして喜びにおける(あるいは痛みの)強烈な「共通項」があると「一体感」があるし、わかってくれるんだ、と「嬉しく」なる。
好きな人が好きなことを語る、尊敬できる人(自分より数値・立場・肩書き的に上回っていると感じる人)がもっともらしく語っている、というのに共感するのもこれに当たります。「そうだよな、そうかもしれない」と自らの体験に擬似的にでも変換している。
「自発性」や「繋がっている感覚」は「極めて個人的な事情」なのです。
友達といえど他人同士であれば、「なんとなく」を共有しあっているに過ぎない。
これがもっと密接な関わり合いがあるもの同士(または環境)なら少し違ってくるのかもしれないですが、距離感があるなら影響力なんてない。
それではどうして「興味深い他人同士」が「グループ」を作り口コミを広げていく「同調効果」を示しているのか。
ソーシャルメディアにおける「バイラルの芽」って何?という本題ですが、言えば何を当たり前のことを、と思われるでしょうが、私は「テキスト」と「演出(画像・映像・音声)」だと考えます。
ネットでの限界は「テキスト」と「演出」であり、それ以上は「ラジオ」「生放送」などアナログ的な手段を加えていかなければ広がりをみせませんが、今回は「テキスト」に絞って考えたいと思います。
「個々人の興味がテキストで繋がるってどういうことだろう」と考えていくと、「個人的な好奇心を持っている人がテキストを読む時、どんな心理状態か」に着目点がいくわけです。
常に個人が情報を得ようとする時「個人的な体験として変換可能なテキスト」を求めるために、「客観性」という多数の人の感想を得たりする。
でも探しているのは極めて個人的な利益や欲求に合致するための「確証」のようなものです。
ゲームにしか興味のない人がこの文章に目を通すというのは、まずありえない。
皆さん何かしら「マーケティング」や少数では「友達関係」に興味のある人なんじゃないかなと思うわけです。
他人の「出口」である「テキスト」を「個人的な体験に変換」するには、受け手が「強く意識しているキーワード」を与える必要性が出てきます。
ある程度決まった形式(ジャンル)のものであれば、最初から絞り込んだ客観性(パターン)は担保されている。クラシックとかジャズとかその典型なんじゃないでしょうか。だから「キーポイント」も合致しやすい。
これが「音楽」とか「本」とか「スポーツ」という漠然としたくくりになると、もうどうでもよくなる。
「音楽」の未来はどうでもいいけれど「テクノ」だけはなくなってほしくないな、と個人的に思ったりする人がいる。文章的には矛盾してますが個人の心情としては間違ってない。
どちらも「音楽」でも、特定のキーワードには非常に強い思い入れがある。
「漫画」はあまり興味ないけどなぜか「ワンピース」だけはずっと読んでる、とか。
他の小説家が食えなかろうと、「小説・出版業界が衰退」しようと、どうでもいいけど、「ある作家の連載」だけは止めてほしくない、とかね。
「本」でも「軍事」のことなんか興味がない人がほとんど。
じゃあ「軍事」の本だとして内容をよく見ると、どうやらどこのご家庭でもやってそうな、ある行動がよく記されている。
そこで「主人公がお父さんになったら優れていないと思った4つのイケてない点」という切り口だったら、「軍事」じゃないカテゴリーから興味を持ってくれるかもしれない。
この手のやり口ってもうやり尽くされて、過剰な煽り文句に中身の手応えのなさが続いているので相当警戒されていますが、内容を客観的に見てちゃんと合っていれば誇張でもなんでもない、切り口をちょっと大幅に変えてみただけ、ということになります。
「本当は怖い童話」もこの手の切り口ですよね。
人様が「面白い」というのは、あくまで「実感が持てるから」だし、何よりも「思い浮かべることができる」からだと思うのです。
「思い浮かべることができる」のは結構「個人的な事情」だったりします。
私たちの思考回路とは広いようで極めて狭く個人的なものだと考えたほうが、非常に現実的です。
結局ここから考えると「バイラルの入り口」とは「個人的な体験にいかにマッチングさせるか」が引き込みのポイントだと思いますけど、最初はピンポイントで切り口を変えながら「大まかな層」で捉えるのではなく、もっと「絞り込んだキーワード」で「集」を捉えるべきなのかなと考えています。
今回の記事を読むと、合わない人には合わない。しょうがない。と思えるようになってきます。
某アイドルにまったく興味のない人に年賀状で「この子が一押し!今年もよろしくお願いします!」なんて写真付きで新年早々送りつけられても、好きにはならないわけです。
じゃあ、ジャンルが違うもの同士は絶対に繋がらないのか、と言えばそうじゃないとも考えるわけです。
例えば違うジャンルである「音楽好き」と「読書」はどうやって繋げるのか。
「音楽好き」は広すぎる。「演歌好き」ちょっと絞れてきた。
扱っている作品で「演歌」ではなくとも「演歌的叙情」を扱った作品がある、となると共通項が生まれます。
演歌聞いている人たちにも「実体験に変換可能なテキスト」を作ることができる。
電子書籍に興味がある人なら「ランナーから読み取れる電子書籍出版と紙出版との大きな違い」と書いてあったら読んでみたくなりませんか?
これが「短距離ランナーと長距離ランナーの筋肉の作り方の違い」とストレートに書いてあったら興味は持たないかもしれない。
短・長距離走のことが出ていながらも知りたいことも書いてある。
「生活の中にもソーセージのような歯切れのよさと味わい深さを。ソーセージに見る熟成生活のススメ」とか別にソーセージに興味なくとも読みたくなりますよね。
このように「入り口」は「実体験へ変換可能」であること、が求められると思います。
それが人が多いとより「入り口」が多くなる。様々な体験・角度から語られるから。
だから最初はきついことこの上ない。最初の「入り口」は一つしか作れないのですもの。
書くと簡単ですがやるのは相当苦労の連続です。
「何が起爆剤になるか」だなんてわかってないのですよ、どんな専門家も。
だから「マーケティング本」が「売れる」のです。恋愛本と同じですね(笑)。
何が障害になっているかはやっていれば経験上わかってくると思いますが、意外にも非常に身近に本音を言ってくれる人が問題の本質を突いていたりするので、あなどれません。
直接手売りのような真似すると、ストレートに伝えてくるのでよく見えてきますよ。
そのトライアンドエラーを繰り替えしながら、自分たちの商品や手法、アプローチ方法、切り口に改良を加えた上で、その人が喜ぶようにしたいなと情熱を持ちつづける。
好きな人(好きになってもらいたい人)を口説くとき、自分の熱意を伝えるとしたら、自然と相手の魅力も絡めて伝えることになる、というのと似ているかもしれませんね。
一番最初はそこから始めないといけないのかな、と私は考えています。
そこから「入り口」を増やしていくことにより、「新しい視点の人たち」を増やしていく。
そうすると「同じ価値感同士が長く居つづけることで生まれる硬直化」も揉みほぐされていきます。
必ずユーザー主体のコンテンツが衰退する理由は「古参がいつの間にか強いていた自治ルール」だったりするので。
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