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あさかぜさんは見た

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11/24

Sun

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08/22

Mon

2011

トンボを見に行った

もうトンボが飛んでいるらしいとのことで、どれどれと近くの池のある公園まで行くと見当たらない。
少し慎重に周囲を見渡しながら行くと、アジサイの青い花の近くに飛んでいるのを偶然発見した。
今回はその一匹ぐらいしか見当たらなかった。
紅葉を始めている木も少しだけ見つけた。
風もお盆を過ぎてから少々冷たい。
もうそろそろ秋が来ているのだなと感じた。

ところで、その近くの公園は昔遊んだことのある場所だった。
今は違う場所に住んでいるのであまり頻繁に行くことはなくなってしまったが、ふと昔とよく比べてみると随分と柵が増えたなと感じた。
水路にも柵、池の周囲にもロープ、公園の入り口を出た車道の前にも鎖。「大変危険ですので渡らないでください」という内容。

前はそういうものは一切なかった。
この柵は水路に落ちるのを防いだり、池に落ちるのを防いだり、道路に出て車にひかれるのを防いだりする目的があるのはよくわかる。
つまり「リスク」というものを軽減させようと危険に対して未然にあらゆるものに対処しようということだろう。

ああ、人間って危険があると、こうして自らの環境を整理し、柵で囲い、境界線というものを増やしながら自分たちの生活に対して自縄自縛をするのかもしれないなと一瞬感じた。
そうやって柵をたくさん作り、中へ中へと小さな範囲に向かって整理していくような生き物なのかもしれない。
きっと黙っていたら、危険に対しての柔軟性がなければ、柵の外に出ることもできずに囲われてずっと生きていくのだ。

そんな、いや、きっと、未来の人間の日常は巧妙な柵に囲まれた都市の中に存在していくに違いない。

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08/21

Sun

2011

札幌 泊原発再開反対デモ

本日13:00に札幌市役所付近から泊原発再開反対デモが出発した。

今回はデモの規模と様子を見ようと思い行ったのだが、ざっと見積もって200人以上はいた。
13:30に出発して大通り周辺をまわり、道庁前まで約1時間ほどの行進だった。
福島からわざわざ来てくれた親子の悲痛な訴えがあった。
外国人の方まで参加してくれて頼もしい限りだ。
先頭は選挙カーのようなワゴンでスピーカーで演説する。
福島の事があるのに泊を動かす不安、泊付近農家に対して説明一切なし、子供の将来の事を考えて欲しい、と主張している前のほうはわかるのだが列中央になると、となりのトトロの「散歩」を歌っていたり最後尾になるとラジカセで音楽を鳴らしていたりと、途中から見ると「これは一体何の行列なのだろう」と思ってしまう。
道行く人の中にもポカンとしている人がいた。
主張というのは徹頭徹尾しっかりしているほうがいい。
いろんな立場の人がいていいが原発に興味のない人、関係ないと思っている人、原発賛成の人、などに自分たちの思いを伝え、彼らに影響を及ぼさなければいけない。
この理由から伝えるための「テキスト」も弱いと感じたし、感じられる主張も何か弱く感じてしまった。

そもそも今回の泊原発再開に関しては私も首を傾げるところがあり、福島の事故処理もすんでおらず、影響も検討されておらず、事故処理への検証もなされておらず、泊の災害時の影響シミュレーション、万が一の時の災害補償・責任、MOX燃料についての説明、使用の影響、燃料処理についての具体案と説明、災害危機管理説明、など本当に不透明すぎてまったく理解できないところが多い。
付近の農家への説明すらなかったそうだ。
なんといっても経産省原子力安全・保安院と原子力安全委員会による最終検査結果という今や国民ほとんどが不信の目を向けている組織からのストレステストとなれば、普通は納得しないに決まっている。

特に北海道の人たちは今回の茶番とも言える高橋はるみ知事の原発推進に関して「原子力発電再開の糸口を見つけるための再開」だということはハッキリわかっただろう。
さらに東京新聞が8月16日朝刊に伝えた「高橋はるみ知事と北電との蜜月関係」の記事は道新には載っていなかった。
高橋はるみ知事の資金管理団体「萌春会」の会長が南山英雄であり北海道経済連合会会長、北海道電力の元代表取締役。
北電幹部からの政治献金は毎年恒例との事で黒も黒、真っ黒黒の状態でこの決定。
その数日前には長万部付近にある黒松内低地断層帯が北電の予測よりもはるかに長く、国の地震調査研究推進本部が長さ32キロ以上、M7・3以上の地震が起こる可能性を指摘し、その他にも17の活断層があることがわかったにも関わらず、このことすら検証もせずに8月16日には再開を認めている。
北電の社長は「大規模地震は起こらない」ということを言っていたが地震専門家はそう断言できる根拠がないことを指摘している。

一体全体どうなっているのか。
あまりにも不可思議なこの決定に世界中が「なぜこの時期に」と首をかしげているし、当然日本人だって道民だって理解に苦しんでいる。
北海道は農業漁業を主力としているだけに、これらがやられては大打撃だし、ましてや放射能基準値のあげられた今「安全です」と言われても海外から見れば「危険値」に達しているものだって出てくるだろう。
万が一泊で多少放射能が漏れても基準値内なら「安全」という日本国内の基準に対して輸出が不可能になる不可思議さを抱えることになる。
農家や漁師の人たちに安心して仕事をして欲しいし、なによりも豊かな自然を後世に残したい。
これから石油並みに貴重な資源となる「綺麗な水」を確保していくには綺麗な土と森が必要になるし、豊富な海産物を安心して残していきたい思いは北海道で育った人たちなら自然と湧いてくることと思う。

生活するための安全。
まず安全を考えるのに「毎日口の中に入れるもの」から考えることは、おかしなことでもなんでもないわけだ。
経済とか産業とかわからない人でもここから考えてみてもいいと思う。

私は脱原発には将来的になって欲しいが、やはり完全に原子力発電から脱却するには、新しい技術への投資が必要になる。
これだけは忘れないで欲しい。
1日10円、年間4000円程度でも一人一人が払うことができれば莫大な金額になる。
年間数百億円でも新しい技術への研究資金が増えれば別の未来や新しい社会を創れる可能性だってできるわけだ。
ただ脱原発だけでは今の状態が維持できず衰退するという理屈も私はまったく理解できない話ではないだけに、ただ単純に感情的に「嫌だ」と言うのではなく新しい技術の創造への投資を考えて欲しい。
そして日本はそういう優れたものができる技術力がある。
あとは法律さえ整えばいい。

今回の泊原発再開に関して積極的に反対したい人は泊原発の廃炉をめざす会が集団訴訟を起こそうとしているので参加することを検討なさってもよいことと思う。
泊原発の廃炉をめざす会

これからの北海道を作る多くの人たちへ願いをこめて。

以下は今回のデモの写真になります。














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08/07

Sun

2011

既に半世紀の未来は3月11日に決定した。
後は今脱原発なの原発推進なの、様々な角度から検証しようと結局10年20年先には脱原発になる。
それはもう歴史が証明したことだし、たとえば一世代まるまる賠償し続ける膨大な予算もつけられなくなりベラルーシは補助金を打ち切っている。
結局しわ寄せは最後に国民に来る。
それまでにいかに「経済」というやつを活発化させて「金を確保しておくか」を考えるのだろうが、今までの経済の価値感覚で社会を創造していくと当然矛盾を抱える。
つまり今までの通り何かを犠牲にしてその歪を必死に隠しながら社会を推し進めるか、今までの社会の犠牲者を捨てて新しい社会へとシフトするか、ということになり、経済市場主義では社会転換できず、社会転換しても過去の犠牲者を守ることができない、ということになるのですな。
これからは、今年起こってようやく未来に出てきた「被害」を目の当たりにして人間の感情として「もうこれ以上はこういう人たちは絶対に出さない」という意識に傾くのは当然で、その意識は半世紀は続くだろうけれど、そこから先はわからない。
新しい技術次第だけれど、その「新技術」に対しての金がどれだけ割かれるかに未来の行く末はかかっているような気がする。
当然こんな風に社会(都市の利便性を追求し、個人の欲望を節操なく追求する社会)を作り上げていったら、都市化の中で個々人が分断されコミュニティーも細分化されていくのだから、よほど地域で気をつけて「ふれあいの関係」を熱心に創造していかないと、一世紀後には元に戻る可能性だってある。
しかし飽食・強欲の時代なんて長くは続かなかったし、日本人の人口は少なくなっても世界の人口は増えるから食糧難となり、自前で食糧自給をしていく必要性に迫られることから、やはり「自然」に反する技術は特化したモデル都市で行われる、ということも考えられる。
逆に数字に固執ばかりしていたら移民を入れるなの、労働力を外国からとか、おかしなことを考え始めるだろうけれど。
科学だって、これからは生活にもっと密着していかなければならないだろうし、国民だって新しい技術の情報をたくさん経て、どこにお金を投資しようかと考える社会が必然的になるのではないかなと想像する。
もし今のまま社会体制がシビリアンコントロールを目的とし、搾取社会、統制的な社会を維持しようとし、国民が新聞では報道されない重要な法案に気がつかず、中央の巨大帝国ネットワークを崩すことができなければ、日本という国家は技術革新とともに徐々に顕著な統制社会となっていくに違いないと考えている。
国民はどうするべきかというと、自立が必要になってくる。
この「自立」というのは「経済的に」という意味合いではなく「精神的に」となる。
精神的に自立するということは、よく考え、よく聴き、よく尊重しあう、という理念が必要になる。
よく考えることは、他人の言葉を鵜呑みにせずに自主的に賢くなることであり、よく聴くということは、他人の言葉にむやみやたらに自らの主張を押し付けないということであり、よく尊重しあうということは、誰かを大事に思い助け合うということに繋がっていく。
これらのことは決して不可能な話ではない。
人を育てるのは「土」である、という古来の考え方に戻るということだ。
その上で歴史も再考されるのではないかなとも思っている。
自分で意志を持つということは、なかなか辛いことだし、賢くなるというのも簡単にはできない。
本来「痛み」というのは前進・一時停滞にのみされるべきであり、後退に痛みを伴ってはいけない。
各々の価値基準の中に厳密に当てはめ「それは後退だ」「これは前進だ」と喧々囂々と議論していくだろうが、どの範囲で物事を主張し、どの範囲を括っていないのかを厳密に見極めないと、社会はいつでも道を誤るだろうと考えている。
その「範囲の見極め」ができるようにならないと、いわゆる「偉い存在」にいつまでたっても騙されるだけだ。
将来原発に代わる別の危険なエネルギーだって出現する可能性があるのだからね。

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08/03

Wed

2011

とある芸術家の末路

「末路」と呼ぶには難があるかもしれない。
ただ、ネット上で少し知り合った程度で、その人の消息を知る術がもうなくなってしまったというだけの話かもしれない。

とある漫画家がいた。
文章も独特。
古風で弁当箱にぎっしりと定番のおかずとご飯が詰め込まれているような窮屈な文章。
海外で賞を取っているらしく、絵も一風劇画のようで、色使いが艶やかで斬新。
イラストそのものは時折、少々難いところもある不思議な感じだった。
下手なのかうまいのか、私には判別しかねた。
岩波新書のとある本の中にイラストも描いたということだから、出版社とも繋がりがなかったわけではないのだろう。
最近ふと名前だけ思い出し検索するとブログが去年で途切れていた。
年は生きていたら50を過ぎている。
鍼灸師の仕事もできるそうだから、手に職がついているはずだった。
しかし最後になるにつれて生活は極貧、家でネットができる環境がないのか他の場所からアクセス、売る本がなくなった、仕事もない、もう何もない、もうすぐ死ぬだろう、誰か助けてくれ、と英語で書かれていた。
途中には紙の出版は「売れない」ということから取り合ってくれないと書いてあった。
鍼灸の仕事は体力が続かず人と話すのも神経的に磨り減るらしく辞めていた。
漫画に没頭しても売れない。
海外の人から声をかけられても日本人のほとんどはこの人を知らない。

私はこの人の様子をブログで読みながら、多くの芸術家が辿るであろう末路を見ていた。
芸一本で食っていく。
その難しさ。
年をとるごとに感性が磨かれていくという保証はどこにもない。
花が咲いたとしても、永遠に咲き乱れる花はなく、咲いた限りはどこかで散り、そして散った限りは、新しく咲かせなければいけない。
同じ植物から咲いた花でも、それはもう同じ花ではない。
芸術家の宿命とは、例え咲いたとしても、咲かせた花は散っていくということ。
この分野に携わる人間は、このことを覚悟しておかなければいけない。
仕事もなく、ホームレスとなり、無一文で最後は外か、部屋かで孤独死。
ありえない状況ではまったくない。
その年にたとえミリオンセラーを飛ばしたとしても、次の年にはどうなるかわからない。
華のある職業は、それだけリスクが高いということだ。
とてもじゃないが、まともな神経ではやっていられないだろう。
好きでなくちゃいけない。
飽きずにできる行動力、興味を尽かさず持ち続けなければならない。
ちょっとやそっと罵倒されても続けられるような根気がなくてはいけない。
「実力」を磨いていき、常に時間の進み具合とともに己の技術を更新し続けなければいけない。
立ち止まることは許されない。
さもなければたちまち他人をダシに使うようになる。
そうなったらチンピラよりたちが悪い。
人間としてはクズに成り下がる。
そうなったら転落は早くどこまでも落ちていく。
恥も外聞もなく、生き延びるためにどんなことでもやるようになるだろう。
生活に困窮すれば、人間の心理なんぞどう変化するかわからないものなのだ。

芸の分野に携わる人間は常に危うい。
文字通り人生そのものを博打のように賭けていかなければ、到底成せるものではない。
だからまともな考えの人は「保険」をつける。
二足のわらじで、最低限生きていけるよう仕事をして、片手間で余裕を作っては芸に打ち込んでいく。
孤独死をしてもいいか、誰にも認められなくとも続けていける自信があるか、それを捨てたら人生の楽しみの半分以上を失われ生気がなくなるか。
最低の事ばかり考えてもしょうがないが、一度でも考えて、自分に問うて、そして覚悟しなければいけない。
「大丈夫」なんて言っているのは自分だけで周囲は何一つ補償してくれない。
時代は常に進む。
先見性がないと時代に取り残され、追うだけで精一杯になる。
華のある世界は、それだけ危うい。
芸の世界に入れば何者かから保証されることはない。
自分が自らの実力を補償し続けなければいけない。

それが「芸」の世界だ。
だからこそ、自分にも他人にも言える。
「夢を追う者よ。命の重みを背負えるか」と。

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08/01

Mon

2011

前にも書いたかもしれないけれど、ここに日記をずっと書いている理由は、思ったことを書き留めるためである。
どうして思ったことを書き留めるかというと、漠然と思っていたことを整理する理由もあるし、その時しか感じていないことを封じ込めておくという理由もある。
感情は生ものであって、一ヶ月前の自分がその時何を感じていたかを詳細に思い出せる人間はまずいない。
普通の人間はそうやって忘れて、日々生活していくうえで役に立つものしかブラッシュアップして残さない。
私は自分の愚かさを否定しないし、無様な自分を書き残して、それを公開し「ああ、こいつは馬鹿だとか」「信用できない」「どうしようもないやつ」とか、そういう生の反応を見ていくことに、ひとつのリアリティを感じている。
「そういうの自分のノートに書き留めれば?」とあるが、前述のように生の感覚をさらけ出して生の反応を見る目的の他に、ずぼらなので、ノートなどに書くと必ずそのノートを紛失してしまうので、一人の人間の歩みとして残している。
例えば何かを知り、そして知らなかった頃の自分を忘れ、いずれは知らない何者かを「こいつダメだ」と見下すような日が来るかもしれない。
そんな自分もまた愚かであり、そしてそんな自分は失ってしまったものに「価値」を見出さなくなってしまったのかもしれない。
もし書き留めておけば、周囲の反応も含めて、それが正しかったのか、間違いだったのか、充分分かる。
自分が正しいと思っていたことは本当に正しいのか。
自分の中で間違いがあったとしたら、それは何なのか。
周囲にその間違いを的確に指摘するような人がいたのか。
そんなもろもろのことがわかってくる。
世の中には、自分をよく見せるために、他人を勇気付けるために、優しい嘘を積み重ねていく人たちがいる。
私は人間が美化できないことも、逆に蔑むことができないことも、両方少しずつ理解してきている。
それはよい意味で泥臭い人間が、本当に人間臭くて、私は大人の嘘があまり好きではなく、いつも「二の句」を継げたそうな目に脅えていて、そんな嘘まみれな心を見るたびに、人が必ず持っている狡猾さや、世の中にあふれている「希望」という名の虚飾や、真実を告げないことで嘘も希望になるという現実や、多くの人間がその「希望」や「夢」や「友情」や「誠意」や「正義」を独自解釈して他者に押し付けていくという状態に、面白みと悲しみと失望と興味を抱きながら、人間が各々の関係の中で善悪の心理の表裏を状況によりひっくり返しながら影響しあっていることを少しずつ理解しているということだ。
自分のやり方が、決して理解を得られるようなものではないということはわかっている。
どす黒い感情をさらけ出す人間や、少し世間ずれしたような感覚の人間を、通常は信用するに値しないと見なす。
それは、ごく普通の感覚だろうとは思う。
しかし、もし私が生身の感覚を否定したり、取り繕ったりするようになったら、小説家として終わると感じている。
多くの人間の存在や意見に惑わされ、自分が持っているものさえ見失いかけていた時があるだけに、ああいった、ただ意志も持たずに流され、結局何を成すにも他人の言葉が思い浮かび、時間を何年も消費するという、創造性の欠片もない死んだ自分を再度体験するのは、もう真っ平ごめんなのだ。
よく考えてみれば、20代の活発に動くべき時期を、ほとんど死んだように過ごしたということは、ある意味これからのことを考えるに、本当によかったのかもしれない。
これが逆だったら、もし30過ぎて体験していたら、自分の人生そのものが終わっていた可能性もある。
これから周囲の声はますます高まっていく。
あらゆる価値観が私に叩きつけられ、時として唾を吐かれ、罵倒されていくだろう。
倒錯した心理に出会い、昔の自分のような踏み込みの甘い考えを「よく考えている」と信じているような、未熟なものに数多く出会っていくだろう。
「必死に生きている」ということを自らの免罪符にし、他者をこき下ろしたり、知識の豊富さを背景に、教養のなさを冷めた目で見たり、体験していない視野の狭さを、まるで世界の真実かのように言ったり、他者との感覚の違いを理解できず、感覚が共有できないのはおかしいことだと怒り狂ったり、様々な人たちに出会っていくことだろう。
楽しみだね。
私の精神がどこまで持つかも見ものだけれど、世界にどれだけ通用するかも楽しみだ。
私はドアをノックし続ける。
私はドアを開こうと試み続ける。
日記を書くことは、私の愚かさの証明であっても、まったくかまわない。
私は自分を美化するつもりはない。

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
45
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みますが光野(こうや)とか朝風(=はやぶさ)でもよろしゅうございます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。自分でも困るほどの「皮肉屋」で「天邪鬼」。つまり「曲者」です。

2011年より声劇ギルド「ZeroKelvin」主催しております。
声でのドラマを通して様々な表現方法を模索しています。
生放送などもニコニコ動画でしておりますので、ご興味のある方はぜひこちらへ。
http://com.nicovideo.jp/community/co2011708

自己プロファイリング:
かに座の性質を大きく受け継いでいるせいか基本は「防御型」人間。自己犠牲型。他人の役に立つことに最も生きがいを覚える。進む時は必ず後退時条件、及び補給線を確保する。ゆえに博打を打つことはまずない。占星術では2つの星の影響を強く受けている。芸術、特に文筆系分野に関する影響が強い。冗談か本気かわからない発言多し。気弱ゆえに大言壮語多し。不安の裏返し。広言して自らを追い詰めてやるタイプ。

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