忍者ブログ

あさかぜさんは見た

リクエスト何かあれば「comment」に書いてください。「note」「Paboo」で小説作品読めます。

11/24

Sun

2024

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

03/12

Tue

2013

限界点が見えたら超えるだけ

京都では様々な限界を味わった。
度量の限界。
気持ちの限界。
経済力の限界。
目的意識の限界。
実力の限界。
知識の限界。
地位の限界。
会話力の問題。
対応力の限界。
知恵の限界。
勇気の限界。
まだあるだろうけれど、とにかく精一杯やった、というところまでやった。
これ以上は自分が変わらないといけない。
変えていかないといけない。

限界が見えると不思議と軽やかな気持ちになる。
今まで色々考えていたのがすっと余分な肉がそぎ落とされて、思考が簡略化される。
これは私に最初から目標というものがあって、そこへ到達するには、ということのみを考えると、無駄な思考が省かれるためだ。
これからはもっと研ぎ澄ませて、鋭いものにしていく。
これからはもっと強くなって、たくさんのものを守れるようにする。
意気込みだけではダメだった。
いかに対応しようと気持ちの限界はあった。
お金が足りなければまともに生活すらできなくなる。
気持ちが追い込まれだんだんとぎすぎすし出し、関係ない人に当たるようになる。
こんなことではいけない。
こんなことでは未来はよくならない。
こんなことでは自分の首すら絞めているも同然だ。
大事なものを犠牲にして生活するのは、私はもうごめんだ。

だから私は変わろうと思う。
変わるための努力をしようと思う。
必ず変わるために気持ちを改めようと思う。

京都ではたくさんのものをいただきました。
本当にありがとうございます。
また戻る日まで、皆様どうかお元気で。


追記:今回これだけの限界が見えたのは、明確に目標があったからです。
場所が変わったからではなく、目標に向かって使える手段はほとんど使い果たしました。
その上ではっきりと壁が見えたわけです。
これで目標がなければ、ただ行って帰ってきておしまいだったでしょう。
本当にいい思いをしました。
辛かったり、泣いたりしたこともありましたが、充実していた半年間でした。
本当に本当に充実していました。
嬉しいほどに。
こんな貴重な体験をしたのですから、きっとまた一回り大きくなって帰れるものと信じています。

拍手[0回]

PR

03/11

Mon

2013

大人ってなんだ? CM大人のエレベーターから見る大人観

私にとってはまだまだ答えるには若すぎる質問かもしれない。
自信と自惚れの狭間でもがき続けるのが、もしかしたら大人に上る階段なのかもしれないと思う。

いいCMを見つけて、紹介しようと思うのだけど、削除される可能性もあるので会話を文字に起こしておく。
色々な人生観があってとても面白い。

サッポロのCM「大人エレベーター」
お相手は妻夫木聡(以下妻と略します)



仲代達矢(77歳)

妻「生きるとは何ですか?」
仲代「恥を恐れないことかな。恥をかいてもしょうがないと思って。これが生き様だと思いますけどね」
妻「人間ってどう思いますか?」
仲代「人間を拒否すると、世の中つまらなくなるでしょうね」

恐らく仲代達也ほどの年齢になると自分の苦手なタイプとか嫌いなタイプとか含めての壮大な人間観になってくるのだろうな、と単純な言葉の中にしみじみ感じました。恥を恐れないっていうのは相当の勇気が必要になります。いわゆる、あらゆる場面で出てくる「壁」なんですよね。その「壁」を突破する勇気ある一歩が「恥を恐れない」ってことでしょうか。私はそう解釈してます。


中村勘三郎 Char(54歳)

妻「大人って何ですかね?」
Char「一言で言うと俺は覚悟ですね」
中村「あー、それはありますね」
Char「もっとうまくなりたいっていうのがあります」
妻「へー」
妻「自分らしさって何ですか?」
中村「何でしょう。落ち着きのなさかな」

覚悟。うん。私もようやく「覚悟」という言葉の重みが実感として少しだけわかってきました。どうしてなんでしょう。頭でいくら考えても「覚悟」っていう言葉の重みって感じられないんですよね。感じていたつもりなんですけど、若造のただの思い込みでした。「覚悟」って、必死にもがいて苦しんで、もうダメだと何度も挫折を繰り返して、ようやくわかってくる言葉なんですよ。それでも私の年で「覚悟」なんていうのは、まだまだ軽いほうです。


リリー・フランキー(46歳)

妻「大人って何でしょう?」
リリー「なんかいう大人みたいなものって、あの、子供の創造の産物っていうか、だってもっとちゃんとしてるはずだったもん。俺の中の大人は」
リリー「恋愛に関しては思い通りにいくことなんてまずないもんね」

笑ってしまいます。ユーモアたっぷりですよね。私の場合は今でも「大人」っていうのは憧れとしてあって、もっときちんとしないといけないって思いながら結構無様に生きてますよ。恋愛に関しては思い通りになんかまずいかない。でもそれが心の底から楽しい。あれはよかった。やるだけやったよ。なんて終わった後でも充実した気分になれたのだとしたら大人の恋愛なのかなと思います。知り合いが言ってました。「ほんと、自然と楽しい思い出しか残ってきませんもの。本当に好きだったのなら自然と苦しいとか悲しいとかの思い出よりも楽しいことだけしか最後に記憶には残ってきませんよ」と。いい言葉でした。恋愛するなら、そうありたいですね。


宮藤官九郎 宮迫博之(39歳)

妻「大人って、何なんだと思いますか?」
宮藤「フッ。大人? 大人?」
宮迫「ずっと子供でいたいからこの世界入ってきたんやろね」
宮藤「こんな39でいいのかなって思いますけどね。なんかあんま変わんないのかなって」
妻「ああ、結果なってみたら」
宮迫「体がしんどくなったぐらいかな」

また違った大人観だなと思いました。その「子供」の部分で人を楽しませて食べていける。子供の憧れというよりも、まさに「大人の憧れ」なんじゃないのかなと思います。体がしんどくなってきたっていうのは、なんか少しわかってきました。疲れの取れ具合が違ってくる。子供から見て「大人ってどうしてあんなに休みの日はたくさん休むの?」と疑問に思うでしょうが、休みの日たくさん休んでおかないと、一週間乗り切れないんじゃないかって不安になるんですよね。体から来る心境の変化っていうのも年齢なのかなと思ったりします。

スガシカオ(44歳)

妻「若い頃でいうと」
スガ「共存できなかったですよ。歌と。こう、音楽と、喧嘩してる」
妻「鏡の中にいるもう一人の自分みたいな」
スガ「そうそうそう」
妻「スガさんにとって、出会って」
スガ「出会いないと、一歩がこう、出ないですよね」

私はまだ途中にいるので、文章とまだ戦っています。きっとこれからも戦い続けるのかなと思うのです。共存というよりも、まだ「敵」でしょうか。「味方」にすらなってない。なので物書きとしてひよっこ過ぎます。いつか、こんな境地になるのかなと、ほっこりした気持ちで聞いていました。出会いがないと一歩が出ないっていうのは、私もようやく最近わかってきたことで、人を生かすっていうのも人の力なんですよね。それは大きなものを望めば望むほど人の力が必要になる。人と出会って、人と繋がって、ようやく前へ進める。一人で何でもやってる、だなんて思っている人間は必ず失墜するか、老後が暗いものになります。
申し訳ないのですが私スガさんの歌あまり聞いたことがないんです。でも大好きな歌がひとつありますよ。
Progress kokua 歌詞情報 - goo 音楽



白鵬関(25歳)

妻「横綱を支える、その強さってなんすかね?」
白鵬「やっぱり、誰より、相撲を愛しているから」
妻「苦しいですか?」
白鵬「苦しいですねー」

若くて強くて貫禄もある。凄いものだなと年齢を見てさらに思う。愛か、と思い、愛とは、と考える。愛するとは何かを実践する。戦いの世界なので気を抜けば負けてしまう。追い抜かれてしまう。表現の世界とは違って、あちらと違った方法でやって独自さを出せばいいんだっていうのとは違う。力と力のぶつかり合いなので肉体をどこまで精神力で高めていくかという勝負になるのでしょう。大変参考になる言葉です。苦しいんですよね、どこまでいっても。苦しくなくなるときは、すべてをやめた時ぐらいでしょうか。


佐野元春(55歳)

佐野「こんな曲書いたことあるんだよ。つまらない大人にはなりたくないって」
妻「うん」
佐野「自分のこと大人だと思ってる?」
妻「まったく思ってないです」

その曲とは「ガラスのジェネレーション」ですね。私ちっちゃいころにCMか何かで聞いた記憶が残っていました。流行りませんでしたっけ? たぶん幼稚園ぐらいの記憶なので確かではないのですが。つまらない大人になどなりたくないって、若い人がだいたい抱くことですよね。あんな大人は嫌だ。ろくでもないものをたくさん見ながら、自分だけは違うって。そんないつの時代もあまり変わらないであろう若者の心理って「つまらない大人にはなりたくない」って言葉に集約されると考えます。でもなんでなんでしょうね、年を取ったら取ったで、あの時あの大人が言っていた気持ちがわかるようになるというか、変な感じですよね。いやな大人になっちゃったのかな、つまらない大人になっちゃったのかな。そんな風に反省する日々になりました。




奥田民生(47)

妻「大人って何だろうなって話を」
奥田「それこそまあお好み焼きをやってね、まあ広島だったらこの、ヘラで鉄板の上から直接食べるんですよ、大人は。子供はできないじゃん。熱いし危ないから。……ぐらいかね?」
妻「(笑)それだけなんですか」
妻「夢って何だと思いますか?」
奥田「夢もないし、予定もないんだけど、じゃあどうやったら明日の仕事は楽に出来るかなとか」
妻「好きな言葉は」
奥田「いい感じでーとか、そういう感じっすかねー。焼き加減、ほら、いい感じでー」
妻「名誉とは」
奥田「俺の周りには現れないね。その言葉は。うん。近所にないわ」

いい感じで肩の力の抜けたいい大人ですよね。自然に生きている、ひとつの憧れの形がそこにある気がします。自然に生きて、らしく生きる。焼き加減って生でも焦げてもいけないじゃないですか。いい感じで焼くって、仕上がりをおいしくしてくださいってことで、それは結構思いつめてしまうと難しい。でもいい感じでって言うと、ハンドルの遊びの部分が絶妙な感じであるっていう感触になりますかね。強すぎず弱すぎず。いい感じで、っていうのはいい言葉だと思います。さて「名誉とは?」、と私が聞かれたら「自分が絶対考えちゃいけないこと」って答えますかね。「その代わり誇りってものについては考えないといけないよ」って。他人から与えられるものに関しては私たちってあまり強く意識しちゃダメだと思うんですよね。自分自身の中に誇りを持たないと、どれだけ与えられても不安とかは取れてこないと思います。不幸にならないためにも考えちゃいけないことだと思っています。




古田新太(46)

妻「女とは」
古田「俺女になりたい。着飾りたい。ちやほやされたい」
妻「人生とは」
古田「よしっ。だいたい楽しかったぞと」

女は女で大変だなと見ていて思います。男が見ている女性って、結構理想的な女性像だったりしますよね。それこそちやほやされている女性、見事に着飾っていて見栄えのいい女性。女性は女性で相当苦労していらっしゃいます。色んな方を見ながら、ひしひしと感じますけれど、女性になってちやほやされるぐらい持てたいなっていうのは私もよく理解できます。化粧して美しくなって、綺麗だよって言われたら嬉しいですものね。人生振り返って楽しかったなと思えたら最高です。そんな最高の気分で死ねたらガッツポーズを心でしながらポックリいけますね。





斉藤和義(45)

妻「自分の弱さって?」
斉藤「案外弱くないと思って自分で。もうどうにでもなるやって最終的には思えちゃうっていうか」
妻「父親とは」
斉藤「まあ、男って感じで。普通の男の人なんだろうなあと思うし、好きだったなあ、あの人と思ったね」

誰でも弱さみたいなのはある気がします。自分も強いトラウマみたいなのがあって、まったく克服できてなく、意思の力ではどうにも抑えられずに暴走します。いわゆるウィークポイントってやつですね。多くの人って、この「心が勝手に反応するもの」で随分悩むような気がしますけれどいかがでしょうか。どうにでもなるっていう楽観的な気持ちって本当に大事で、「どうにでもならねぇよ!」って思っている人って、本当にどうにもならない事態を引き寄せてしまうのですよ。私も体験しましたし、他人を見ていてもそう思います。それだけ心持ちって現実に対して影響を与えていくと私は体験上痛感しています。父親はって聞かれたら、ちょっと困る部分があって、本当に嫌でネガティブな心理を植えつけられた要因ともなった人なので、苦笑するほかないのです。でもね、私の父親も普通の男で普通のサラリーマンで、父親という立場をそれなりにまっとうした人なのです。そういう意味で偉大な凡人だと思っています。ちょっと失礼な書き方になりますけれど、感謝の意味も含めて、今は父親に対してありがとうを伝えたい。父親がいなければ複雑な心理状態にある人間のことも理解できなかったし、出会いもまた違ってきたでしょう。だから家庭観って人間関係にも関係してくるので大きいと思います。





高田純次 岸部一徳(64)

妻「大人とは?」
高田「責任を取れる人……まあ俺取んないけどね」
妻「人生とは?」
高田「恥をかく……回数だよね」
岸辺「一人では……しんどいなと」

ああ、凄い大人たちだなと思うのです。高田さんも絶妙なユーモアがあります。「恥をかく回数が人生」というのは凄く納得できるんです。私は「大人とは?」と聞かれたら「昔の自分がどれだけ恥ずかしいことをしていたのか理解できるようになるっていうのが大人なんじゃないかな。恥ずかしいと思えなきゃ成長してないってことだから」と答えます。なので納得できるのです。今言うと生意気にしかならないので、もっと成長したいなと思います。這い上がろうとするのが若者の特権みたいなものだと思っていますから。岸辺さんが言った「一人では、しんどい」というのも先ほど書いた「他人の力がないと自らが生きられない」というのと含め「体力面」のことも入ってきます。ようやくそこまでわかるようになりました。もっと年を取ると、この言葉は深々と理解できるのだろうなと思いますけど、まだまだです。こんないい味の出る大人になりたいものですね。




北野武(64)

妻「大人、とは、何だと思いますか?」
北野「若いとき、なんかねえ、色んな名誉とかねえ、あの、お金とかねえ、そういうの異常に興味を示した自分がね、ほんとに嫌だったなあって思うときに、俺も少しは大人になったかって」
妻「20代はどうだったとか」
北野「20代寂しかったね。やることわかんないし」
妻「人生とは」
北野「ゴール間際で振り返るっていうのはあるけどね。それが人生だっていう」
妻「強さって?」
北野「鈍感さかなって思うときある。あの人は強いから全然くじけないってのが、それ鈍感なんじゃないのかって思うときあるよね」

私は20代は非常に暗かったなあ。何をしていいかすらわかりませんでした。言うまでもなく素晴らしい大人、いえ、日本が誇る世界の北野なのですが、たくさん良い言葉を身につけている人だと思います。人生とは何か。私は「死んだ後に他人が決めるもの」と思っています。「墓標に自分が何者であったか書くのは私じゃない。生きているやつだ」と。どうせ人間皆死にます。必ず死ぬのですから「必死」ですよね。人生は「必死」なのです。だから、もっと私も苦労して、世界に誇れる人間になりたいなと思いますよ。私は「強さとは」と聞かれたら「自分がいかに無様で弱弱しいかということをとことん受け入れてしまう人。私が考える強さはそれかな」と答えます。鈍感さも同じ作用を作るのでしょうね。


大人のエレベーターシリーズ。
いいCMですよね。最近テレビつけないので見たことないのですが、三十秒一分の中にぎゅっと人生観詰まってます。

拍手[0回]

03/10

Sun

2013

言葉のやり取りはキャッチボール?

先日、「会話はキャッチボールだから」と言っていた人がいた。
私はここまで生きてきて、本当にそうなのかなと思う部分がある。
少なくとも「キャッチボール」だと思っていたら社会に出て本当に痛い目に合う。
目をつけられ嫌がらせをされたり、こんこんと説教をされたり、ねちねちとやりこめられるということだってあった。
それは「配慮」というものが相手にとってまったく感じられず、こいつは吊るし上げなきゃいかん、という気持ちにさせたのが原因だ。
そう考えると、とても言葉のやり取りは「キャッチボール」ではない。
ストレートを投げたらいきなり怒る人だっているんだから。
そんな極端な例だってある。
いつも他の人で通じていたものがその人には通じないというのはよくあることだ。
特に心が絡んでくる場合「それ質問したらいけないんじゃないの?」という事情は、自分が投げかけよう、自分が知ろう、という意識では絶対に把握できない。
しかし相手のことを知るには黙っていてはどうにもならない。
言葉を投げかけなければいけないが、それはしつこく繰り返すが「キャッチボール」ではない。
相手からうまく言葉を引き出すには「共感」や「安心感」という作用を相手に与えなければいけない。
この「共感」「安心感」は「価値観」に関わってくるため、自分だけの立場ではまず会話がだんだんと尻すぼみになってくる。
言葉で説明するととても難しく感じるが、ようは経験上体感していること、苦労していること、そんな相手の事情を軽んじたり無視したりすると、機嫌をまず損ねられるということだ。
自分が投げるのではなく、気持ちよく投げてもらうために、受け取ってもらうために推し量りながら会話を進めないといけない。
じゃなければ大抵は敬遠されてしまうのだから。
どうしても中には大きな価値観の違いがあって合わなさ過ぎるという事例だってある。
それはしょうがない。
だって合わない人は当然いて、私たちはその人に心を砕くよりも、やらなければいけないことがたくさんあるのだから。
実は会話って、会話をしながら自分を確認しているんじゃないかと思うことがよくある。
その言葉は相手のことを考えているのではなく、そう見せかけて自分のことを確認していることだってかなりあるはずだ。
だから少なくとも私たちは会話をし始めた時点では「交換」をしている。
私はこれを持っています。あなたは何を持っていますか?
その繰り返しの中で繊細な事情には踏み込まずにいようというのは難しい。
踏み込みすぎは当然いけないし、そこはどれだけ親しいかに関わってくる。
基本人の心は見えないから言葉を交わしているわけであって、無礼になることを100%回避することはエスパーになって読心術を身に着けるしかない。
だから傷つけあうことも時にはしょうがないことなんだと考えている。
ようは傷つけあってしまったらどうするのか。
そこで自分が相手を許せる気持ちを持てるのか。
深い絆になるかどうかは、いつだって共に落ち込んでしまった後に存在する。
私たちの使う言葉は同じ言葉でも重みがそれぞれ違う。
何故違うのか、どうして違ってくるのか、本当の言葉の難しさはこの点に絞られてくる。
その「言葉の難しさ」は「心の難しさ」と完全にイコールでもある。
どんなに親しくなろうと私たちは他人同士。
日々変化しながら進んでいっている。
私たちの言葉は「交換」され、ようやくわかってくる。
自らの言葉は「体験」され、ようやくわかってくる。
一日経てば私たちの言葉の意味は大きく変わる事だってある。
伝えること、伝えられるようにすること、これがとても人との間には重要な事になる。
だから会話をするとき「キャッチボール」をしてはいけませんよ、謙虚な気持ちで「交換し合いましょう」と私は考えている。
と、言っても人間は感情の生き物。
怒る時は怒ってしまうのだけれどね。
日々、反省。

拍手[0回]

02/05

Tue

2013

日本国の若者に求められているもの

年始のNHKの番組でこれからの日本のことを若者を交えて討論する番組があった。
だが私にはとても違和感があり、三十分ほど見たところで消してしまった。
ゲストコメンテーターでさえ自分のことを話すばかりで先行きが見えそうもなかった。
ああ、優れている若い世代のリーダーとは、まだこの程度のものか、と己の分際の考えずがっかりしたものだ。
今の若い者が考えることは、自らに利益のあることは何か、いや、既に上の世代が利害そのもので動いているせいか、自分が得するにはどう生きたらいいのか、という観点でしか質問をぶつけていないことにげんなりしてすぐにテレビを消してしまった。

今の年になって気がついたことなのだが、実は個人の能力を最大限に生かすためにはどうしても集団の機能を借りるしかない。
逆に言えば今の既存の集団が個人に対して個性を生かすどころかその個性を死に絶えさせて集団の為に機能性を強いている、いわばチャップリンのモダンタイムスのような世界になっているところに理解できない鬱憤を溜め込んでいるのだろう。
今の若者が憤っているのは時代に伴う世代間意識格差といえばそれまでだが、もっと突っ込んで言えば今の自分の能力が生かしきれずに死に絶えてしまい、このまま上の命令に従うまま希望も意志も吸い取られて生きるしかばねのように過ごしていくしか手段はないのではないか、もっと自分の能力や個性を生かしていきいきして生きていく術がもしかしてあるのではないか、しかし出来ない現状があるという憤りから来るものであるとは私は理解しているものの、彼らの観点は追い込まれているせいか、自分の利益になるものは何かという渇望、飢えしか感じない。
このままでは国などよくなるはずがない。
と、決め付けてしまうのも早いが、きっと苦しい時間を過ごした東北の人たちの中に偉人が必ず出てくるだろうと待って彼らの活躍に希望を寄せるのも間違っている。
今生きている、二十歳よりも一回り上の世代は一体何を目的にして動くべきなのか。
三十二歳以上ともなれば結婚もして子供も出来て、家庭のことを考え、収入を考え、今の生活を壊さず子供を育て上げるにはという収入に対するプランも出来てきて、余計な出費、ましてや赤の他人の人生に対する投資や努力など馬鹿げたことだと思うような年になってくる。
だがそれを繰り返していてはこの国などよくはならないのだ。

貨幣を主体とする国は当然利害関係が重んじられる。
その国で生きる人間も得があるか損があるかで付き合う人間が決まる。
それが精神的なものではなく、お金の関係性によって成り立つことすらある。
治安が成り立っていない、もしくは暴力的な手段がまかり通るなら力関係によって成り立つだろう。
今や現代社会は歪んだ正義感で成り立つものによって傲慢さを増しているが、我々が本来「幸福」とすべきものは共産主義的な平等でもなく、もっとも崇高な精神的な尊厳と尊敬の意識を保ち続けるところにあった。
しかし歴史を知らない私でも人類はシンプルな感情に立ち返り争いを続けていると知っている。
そして正義あるところに利害関係を見つけ悪がはびこることも避けられない定めであろう。
だが私は訴えたい。
もし君を助けるたった一人の他人でもあったのだとしたら、君はその人のことを忘れず、恩返しはすべてできないにしろ、欠片でも返していけと。
それが次の世代へ自分が生きてきた証を示す大きな墓標になるのだということを、やがては死ぬことを考えられない世代へ送りたい。
それが次の世代へ不幸を強いることがないのであれば、私は正義とは言わず、自らが考える他者の幸福の為に尽くしなさいと言いたい。

それを訴える理由を今から書く。
先ほども書いた通り、個人の才能や個性を最大限に生かすのは集団の機能である。
これは個人が個人の為に集団を利用しようとしては成り立たず、個人が集団の為に尽くし、集団の幸福の為に行動してこそ彼らも個人の為に何とかしようと動く精神作用を言っている。
これが逆だと、あいつもこうしているのだから、俺らも別にいいじゃんという足の引っ張り合いになる。
当然全を最大限行っていると思っていてもそれを利用しようとする悪も後を絶たないだろう。
だがそれを追随してしまってはいけない。
そういう他者を利用しようとする人間が損をするのだという行動例を自分で作っていけばいいのだ。
責めるのではなく、実力でねじ伏せる。
いつだって歴史は強者によって塗り替えられてきた。
その手段は様々だが、我らは利害によって成り立ってはいけない。
それは悪は悪を追随するという構図を社会上に作ってしまうからだ。
善と悪の概念は当然社会構図によって変わるだろう。
幸福の概念さえねじ伏せられ、捻じ曲げられられる。
私たちは「吸い取るもの」と「与えるもの」を厳密に考えていかなくてはいけない。
私も恐怖のあまり保守的な考えに浸り、厳しい評価を与える人々に対抗する術を持たぬシステムの中で悩む人間の気持ちは、ほんの少しだけ考えを及ばすことが出来る。
経済もまた、哲学であるといっていい。
だが実際には数字が支配する世界において、彼らの信じているものは数字であって、その奥にある複雑な構成をしている人間たちの精神作用ではない。
正直言って、私も偉いことを言えた身分ではない。
沢山の人間から恨みを買っている。
だからそれを負い目に感じているし、いつか返したいと思い行動している。
だが我々は個人の為ではなく集団の機能性を考えて行動しなければいけない。
自分の為に利用する集団ではなく、個々人のために機能する集団の為に尽くしていくのだ。
この方法でしか、新しい価値概念を形成する未来の集団を作ることが出来ない。

私たちは既存の価値観の中から利用できるものを選び取って自分の利益とするような考え方を止めなければ、また上の世代の考え方を引き継いだ新たな権力者が同じ苦痛を強いて国を形成するだろう。
個人との決着を付けるのは自分自身である。
その後は、他社の為に尽くさねば、永遠に君を生かす人間は現れはしない。
自らを生かすために集団の機能性へ尽くせ。

拍手[0回]

02/04

Mon

2013

バカの極み

夢を見るのは大変な勇気が必要で、維持させるための精神力がどれほどのものになるかなど、なかなか想像がつかないものです。
さて、一ヶ月あたり4時間ぐらいのバイトを25日程度入ったとして自給850円でも8万6千円が手に入ります。
現在の私の文字での収入は、安定しているわけでもなく平均的にそこまでにははるかに至らない金額で、「自分はやれる」という信心ひとつで続けているわけです。
普通に社会生活を送りそこに浸っている人間にとって、この実質上の数字の圧倒的な差と、いつ芽が出るかわからない不安定な状況には当然何かしらの勘定、天秤がけが入り、稼げもしないのに続けることはおかしいし、極めてバカらしい行為を送っているのだと思うことでしょう。
私もふとそう思うことがあります。
何度も止めようと思いました。
芸の世界というのは何百万もの死体の上に立てる本当に優れた人間のみが食っていけるような世界といったほうが解りやすいし、簡単に言えば完全出来高実力主義の場所でありますから、食えない人間は何かしら欠点があります。
このご時勢、総合的な力が必要になりますし、例えばいくら文章が凄くても売り込む力がなければ気づかれもしないのです。
しかし凄くなくとも愚直に続ける人もいます。
それを支えているのがわずかな希望なのだと思います。
まだできる。まだやりたい。
そんな気持ち一つで続けていて、お金の勘定などは二の次なんだと思います。
例えば役者なんかで役作りの為に歯を抜く人がいますが、普通の人から考えれば「何考えてるの。たった一本の役作りの為に永久歯なくすなんて」などと考えるでしょう。
私だって人生一つ賭けている。
この場に来て、はいすいません、もう止めますじゃ示しがつかない。
のたれ死ぬかすんでのところで這いつくばっています。
その続ける理由は何なのかなと思うことがあります。
バイトで稼げる金すらも稼げない自分は一体何者なのだろう、と。
比較をしだして自分を見ると眩暈がしそうです。
世の中に出ると常に何かと比較されて見られます。
一番大事なのは比較せずに自らの長所をどんどん伸ばしていくことだと様々なところで聞かされながらも、他人を見るときは何かを基準にして見ているわけです。
極めていやらしいですよね。
でもそういうもんです。
なのでやるからには、ある一定の基準をクリアする必要はある。
その上でさらにプラスアルファがないといけなくなる。
まるで永遠の自分探しです。
それなのに貴重な人生の時間を浪費しているかのような愚行を止めない。
そう。役作りの為に人体改造すらする役者よりもバカで自分の財産を守らず投げ打ってでも全てを曝け出してでもやり続けるのが小説家なのかもしれないなと、いや、少なくとも何も持っていない自分はそうしなきゃいけないのではないかと思うわけです。

先日壬生寺で狂言を見ていたとき、生まれて初めて流れ星を見たんです。
近くの神社で願い事をして、その後偶然視界の片隅に入った流れ星。
小説頑張りますのでどうかよろしくお願いします応援してくださいと言ってきた後に流れたものですから、これは幸先がよいとバカ正直に自分の幸運と実力を信じているわけです。
幸福堂のきんつばに、お多福豆。
つい買って食べました。
ここ京都は本当に縁起を担ぐものが多くことあるごとに願掛けをしています。
札幌にいた頃は願を掛けることも少なかったのですが、格段に多くなりました。
もちろんそれだけではいけないのですが、少なくとも気持ちは向きやすくはなっています。
「ああ、あいつはバカだね」
言われ続けてきたことです。
この年までろくに働きもせずに小説書いているなんてね、なんて目で見られるのが痛いほどわかるものなのです。
でも、止めない。
やると決めたからには、ここに骨を埋めないといけない。
何も成せぬまま止めるのだとしたら、それはきっと死ぬときでしょう。
簡単に死ぬと口に出すのはおこがましいことではありますが、そのくらいの覚悟はあります。

バカの極み。

自分はバカだと思いますが、まだもう少し足りない。
もう少しバカになる必要があるのだと感じました。
成りきれてないから、勢いがないのだと。
専門業を極めていくということは、バカの極みにまで達しないといけないのですよ。

拍手[0回]

フリーエリア

にほんブログ村 小説ブログへ
にほんブログ村

バーコード

プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
45
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みますが光野(こうや)とか朝風(=はやぶさ)でもよろしゅうございます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。自分でも困るほどの「皮肉屋」で「天邪鬼」。つまり「曲者」です。

2011年より声劇ギルド「ZeroKelvin」主催しております。
声でのドラマを通して様々な表現方法を模索しています。
生放送などもニコニコ動画でしておりますので、ご興味のある方はぜひこちらへ。
http://com.nicovideo.jp/community/co2011708

自己プロファイリング:
かに座の性質を大きく受け継いでいるせいか基本は「防御型」人間。自己犠牲型。他人の役に立つことに最も生きがいを覚える。進む時は必ず後退時条件、及び補給線を確保する。ゆえに博打を打つことはまずない。占星術では2つの星の影響を強く受けている。芸術、特に文筆系分野に関する影響が強い。冗談か本気かわからない発言多し。気弱ゆえに大言壮語多し。不安の裏返し。広言して自らを追い詰めてやるタイプ。

最新コメント

(07/27)
(02/23)
(03/05)
(03/02)
(01/24)
(07/29)
(01/21)
(08/16)
(04/28)
(04/20)

ブログ内検索

カレンダー

10 2024/11 12
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

忍者アド

Copyright © あさかぜさんは見た : All rights reserved

TemplateDesign by KARMA7

忍者ブログ [PR]