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あさかぜさんは見た

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11/24

Sun

2024

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05/19

Sat

2012

久しぶりに怖い夢を見たというか、起きても覚えていた。

夢は見ているのかもしれないが、忘れてしまう。

もしかしたらよい夢や心地よい夢は忘れやすいものなのかもしれない。
その代わり、緊迫した夢は起きても居心地が悪い。

その夢は、中学生の頃の友人からだった。
どういう経緯で連絡を取るようになったかは忘れたけれど、映像電話を使って話していたが画面の向こう側に出てきた顔はやつれて、顔もどす黒く、とてもじゃないが元気そうだとはいえない様な顔だった。

私は彼のことを心配して「会おう」と約束し、住んでいる場所に覚えがあったので自転車をこいで走っていった。
車の通れるような路地を自転車で走りながら、どこらへんだろうと探していく。
最初はきちんと碁盤の目に住宅地も整備されていたが、だんだんとアスファルトがなくなり、タイヤの跡で草だけが剥げたようなでこぼこ道を行くと、ようやく民家の点在する一角に彼の住んでいる家を見つけて自転車を止めた。

ちょうど彼は地下から友達と上がってきたところだったが、その地下というのが入り口だけでも少し気持ち悪い。
というのも、入り口から奥へとフジツボのようなものが生えていて、私はそれを見たとき、キノコを栽培しているのだと直感的に思った。
その胞子が入り口にまで来ているのだ、と。

久しぶりに旧友に出会い、2階へと通される。
その家では旧友を含め3人住んでいたのだが、2階にいたもう1人のやつは、完全に薬をやっているのか少し話がわからなくて、支離滅裂なことを言っていた。
そして台所の近くの壁にかけてあった、小型の針付の瓶。
ちょうどサイズが小指の先ほどで、そこから小さな針がついているものがびっしりと並べて掛けられてあり、ひとつ小瓶を抜き取ると腕に注射をしだして、先ほどのピリピリしたような雰囲気とは打って変わって安心したような表情になり穏やかになった。

部屋の中も見回ったが掃除などされておらず汚い。
それに、こいつらやってるのヤクだろと、さすがにわかり旧友を外へ誘い出し自転車に乗せて逃げようとする。
旧友を乗せて自転車をこぐのは大変で、のろのろとふらつきながらも走るが、最初地下からあがってきたやつが気がつき、後ろで何か叫びながら追いかけてきていた。
マズイなと感じながら余計に力を入れてでこぼこの悪路を走る。
やがてパンパン! と乾いた音が鳴ったかと思うと、目の前の民家のトタンに穴が開く。
やられる。逃げないと。
そうやって逃げて、目が覚めた夢。

起きてからも友人の亡霊のような顔が忘れられなかった。

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05/16

Wed

2012

素人作家にありがちな理想論とスランプ

若いころ、具体的に言えば20代前半など、作家を熱心に目指す人にとっては、様々な理想的な状態を思い浮かべている。

当然実践の理論ではなく、それらはすべて理想論なので、年上から見えれば「宙に浮いた考え」に見えるのだが、当人にとっては全力で、むしろ周囲の人間が何故理想的な状態ではないのか、お前たちこそ間違っているぐらいの勢いで来る。
それは私は間違ってはいないとは思うし、本当にその人に実力があり、反骨精神を貫けるのなら、ぜひ逆風という大きなチャンスを生かしてのし上がって欲しいと思う。
つまり作家は注目されなければ意味がない。
書いても認知されなければ、それは「妄想」と同じレベルで他人に処理される。
現物がなければ「何こいつ」程度で誰も話してくれない。
そこを例え批判とは言え、否定されようとも、注目されているうちはチャンスを握っているといっていいし、むしろ主導権は自分にある。

技術職は現場でしか腕が鍛えられないのは、どの職業でも同じことだ。
作家にとってはあらゆるものがチャンスになる。
つまりきちんと理想論へのプロセスを戦場で鍛えていれば、必ずチャンスをものにできる。
できないのは、そのプロセスとノウハウがごっそり抜け落ちているからに他ならない。
プロの現場は理想論へ近づくプロセスを突き詰める。
だからこそ理想論だけの状態が無意味だということを身をもって知っている。

素人作家にありがちなのは、特にこのプロセスを積み上げるという作業で、理想論だけが浮いて存在するので、口から出るのは泥臭いものではなく、かなりの綺麗ごとや、今まで自分の妄想の中で積み上げてきた偏屈な考え方だったりする。
そして理想的な状態を自分にも当てはめるばかりに、作品に対して「これでは完成ではない」「もっと素晴らしいものができるはずだ」もしくは逆の発想だと「こんなものでは見せられない」「批判されるのが怖い」という思いで他者に対して公開するのを止め、常に身内、気の合うサークル仲間など内へとこもりだし、最悪の場合そこで馴れ合いをしだす。
もしそうなってしまったら、理想論ばかりが大きくなり、他者への批判意識ばかりが育てられるという危険性がますます大きくなる。

理想論の中に閉じこもり、作品を外に向かって公開できないということは自分の実力すらも知らないということだ。
だからこそ無限大に理想論は頭の中で膨れ上がり、外に向かって対応できるノウハウが削られ、自分を批判するものに対して強烈に噛み付いていく姿勢が生まれてしまう。
これは特に20代の、そして少し教養を嚙み始めた学生に多い姿勢でもある。
そしてそのまま現場を知らずに過ごしてしまうと、いつまでも理想的なことだけ述べて、突然気に入らないものに対して憎悪に近い感情を燃やすということは、いい大人でもたまにやったりするので、なるべくそうならないように自分を鍛えて欲しいとは感じる。

理想論を思い浮かべるばかりに上記の理由からスランプに陥る人もたくさんいる。
複合的に理由が重なっているので、自分の中で何が原因なのかまったくわからず、かといってぼんやりと見えているような霞のような、どうにもすっきりしない状態で、かといって筆が進まなくて苛立つことに、さらに苛立つという畳み掛けで、ドツボにはまるという状態だ。
批判されても理想論が邪魔をし、自分の現在の実力を受け入れられず、いつまでも「違う」という感覚しか持てない。

そんなドツボにはまらないためにも、作家は自分に対して人に対して寛容で、かつ柔軟でなければいけないとは考えている。
さもなければ自分の視野の狭さに作品の首が絞められ、それがやがては致命傷を作家自身に及ぼしていくからだ。
一本や二本ならまだしも、生涯20,30と書いていく豊かな創造性は、自身の劣悪な視野の中では生まれてはこない。

例えば人に対して不器用すぎて礼儀を尽くせず暴れてしまうような性格というのもあるだろう。
無頼なら無頼で通せばいいし、荒唐無稽な人生だってできないこともないだろう。
だがそれは実力に裏打ちされなければ、たちまち他人に引き摺り下ろされるし、自分が思ってもいない、特に油断していた後方から突然殴りかかられるという事態だって起こりうる。
そのことは実は自分で蒔いていた種だとも気がつかないわけだが、結局は広く視野を広げてみれば、やはり自分のせいなのかなと気がつく。
もしそうなったとしても、またそれを作品にできるのが作家の凄いところで、何一つ無駄にはならないのは確かだ。
意図してやるのなら覚悟してやるといい。
愛されなければ、殺される。
二つに一つしかない。

作家は中に浮いたふわふわとしたものを追い求めるものじゃないのと言われたことがある。
半分合っているが半分間違っている。
つまりそこには現場で鍛えられたノウハウなどなく、プロセスがごっそり抜け落ちれば、口だけのやつに過ぎないし、その他大勢の人間と大差がないことになる。
それは理想を叶えようとする以前の問題で、今やるべきことは我武者羅に自分の身の丈、器の大きさを受け入れて、そこからやるべきなのだ。
所詮、人は手に余ったものをこぼれ落とせば、その分反動が来る。
恐ろしいことに、それは思いもよらない暴力的な力だったりするかもしれない。

外に出れば、広い世界が待っている。
その世界にはたくさんの人たちがいて、自分ひとりでは到底こなしていけない。
つまりは誰かの力が絶対必須になる。
そんな戦場で一人でふらふら、あちらにふわふわ、こんな状態で生きていけるはずがないのだ。
もしあなたが作家を目指したいのなら、人の力を真正面から見つめないと、次の瞬間道が崩れ落ちることはよく覚えておくといい。

批判されようと何を言われようと、頑張ってください。
その歩みこそ、美しい姿です。

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05/13

Sun

2012

文学におけるモダニズム

世の中が劇場化され、さらに記号化され、そしてその記号が形骸化する現象が進んで既に半世紀以上も経っている。
しかしまだ日本の文学は記号とその役割における文学を示したものが、ほとんど出現せず、ようやく扉が開きかけているところまできている。

どうやら、日本の文学史はモダニズムを体験していないらしい。
さて、モダニズムとは何か。
世の喧騒から浮かび上がる消費される記号、言葉たち。
それらがふわふわと軽い意味で使われ、飾りだけ派手になって、そして忘れ去られる。
消費の速度がめまぐるしいので、中身までつめなくていい。
外見だけ飾り、やがて本来中にあった機能は失われ、そして外枠だけ残る。
技術も精神性も失われ、そしてかつて何々が存在した、という記録だけが残る。

それが現代人の消費なのなら、それが現代人の言語感覚なら、それを表現したものをとことん作ってやろうじゃないか。
そして彼らが意識せずに行っている、文化への血抜き行為を、そのまま表現してやろうじゃないか。

そして日本の文学史はモダニズムを経験する。
記号と感覚が羅列されたように見えながら、計算して配置されるそれらの消費物というなの言語。
それが日本文学におけるモダニズム。
私が示せる仕事かもしれない。

しかしこんなものは、早くて5年。
遅くても10年で卒業しなければいけない。
だからといって経験しないのも了見が狭すぎて目も当てられない。

いつまでも墓を拝むのはいいが、未来へ進まなければ、我々は進歩しない。

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05/12

Sat

2012

能力はそれぞれ独立している

人には色々な才能がある。
はたから見ると、何かに優れている人は、他のことにも優れているのではないか、と思いがちだし、実際私もそう見ていた時期がある。
しかしよくよく人を見ていると、まったくそうではなく、ある能力が突出しているからといって、別に他の能力があるというわけではない。
これは逆でも言える。
なので、人は本当にじっくりと見ていかないと、判断を誤るし、やたら他人の才能のみを潰す俗物に成り下がる。

例えば、話をよく聞ける人、よく覚えられる人、人の話を他人にもよく伝えられる人。
こういうタイプがいたとしても、聞いた話を実行できるかどうかというのは別能力になる。
実行力というか、実効性におけるプロセスを組み立てられない人がいたとしたら、たいてい「あの人、人の話はよく聞けるのに、なんでできないんだろうねえ」となりがちである。
通常この手の錯覚は、ただ眺めている人には気がつかないし、そつなくこなす人にも理解されない。

精神論というのもあるが、あの人が怠惰なのは気持ちがだらけているから。
お前らがきちっとしないのは甘え。
そう言うのはかまわないし、考えるのも自由だろう。
だが、その人たちが気がつかないのは、「何故世界を統一する宗教や思想が存在しないのか」という単純明快な疑問である。
つまり言葉一つで、他人に現象や事実を伝えたからといって、何故人は変われないのか。
明快な答えがあるのなら、何故人はそれに従えないのか。

多くの人が気がつかないのは、自分で発した投げかけに対して、既に通じない部分があるのなら「失敗」しているのに、いつまでもそれに気がつかないのは、異種のものに対して物を見る能力がなく、内省的に自己の思い込みを哲学する能力がないからだ。
この手の人は自分のことがよくできたり、強いコンプレックスを別の能力で補っていたりする。
または社会的に虐げられていて、酷く精神が卑しい状態になっている場合もある。

歌がよく歌える。
優雅に暮らしている。
お金もたくさん持っている。
だからといって、人間的に優れているとは限らない。

話が得意ではない。
いつも黙っているし、コミュニケーションもうまく取れない。
集団に参加しても一人ぼっち。
あいつはどうしてここにいるんだ、使えないやつだと思われていたとしても、手先が器用かもしれない。
実は記憶能力が優れているかもしれない。

人の能力を見つけるには、かなり時間がかかる。
しかもそれは自分で見つけなければいけないし、社会の評価と一致しないかもしれない。
一致しない場合は「趣味」という部類に入るし、その「趣味」が社会の評価と一致するのならば「仕事」にできる。
他人がどう言ったからといって、個人の能力や未来に開花する才能まで限定されはしないが、普通は落ち込むし、自分はダメだ、能力なんかない、社会では評価されない、と投げやりになってしまう人もたくさんいるだろう。

だいたい他人なんて、どんなに親しかろうと、結構ぱっと言ってしまいがちなところがある。
自分を大事にできるのは最後は自分だし、延ばせる可能性、好きになれる素質を見つけたのなら、ひたすらそれを探求し、自分で辛さを受け入れながら能力を伸ばしていくしかない。

もし、できる人になったからといって、今度は自分が他人の能力を卑下するような人間になったのだとしたら、ただの下賎の輩であろう。
才能は容易には伸ばすことはできない。
だからこそ否定こそ慎重に、注意深くしなければ、小さく芽吹いた若葉を大きな足で気がつかずに踏み潰し、それを繰り返した挙句、何の才能も開花しなくなるという状態にまで追い込むこともありうる。

失敗は糧。
うまくいくことこそ少ないのであるから、人間はその身にたくさんの傷を負いながら、成長していくものであると考えております。

他人の才能や能力を大事にできる人間が増えれば、人も国も本当に豊かになるに違いない。
その理想郷を願いまして、本日の考えはこれにておしまい。

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05/09

Wed

2012

http://kobajun.chips.jp/?p=2376
【 漂流する放射線 – 太平洋を汚染し続ける福島第一原発 】

重要な写真なのでこちらでも転載させてもらう。



一年経ち、二年経ち、三年経ち、徐々に「福島原発事故はどんな深刻な事故だったのか」ということがわかってくる。

ひとまずメモのため、張っておきます。

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
45
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みますが光野(こうや)とか朝風(=はやぶさ)でもよろしゅうございます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。自分でも困るほどの「皮肉屋」で「天邪鬼」。つまり「曲者」です。

2011年より声劇ギルド「ZeroKelvin」主催しております。
声でのドラマを通して様々な表現方法を模索しています。
生放送などもニコニコ動画でしておりますので、ご興味のある方はぜひこちらへ。
http://com.nicovideo.jp/community/co2011708

自己プロファイリング:
かに座の性質を大きく受け継いでいるせいか基本は「防御型」人間。自己犠牲型。他人の役に立つことに最も生きがいを覚える。進む時は必ず後退時条件、及び補給線を確保する。ゆえに博打を打つことはまずない。占星術では2つの星の影響を強く受けている。芸術、特に文筆系分野に関する影響が強い。冗談か本気かわからない発言多し。気弱ゆえに大言壮語多し。不安の裏返し。広言して自らを追い詰めてやるタイプ。

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