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あさかぜさんは見た

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11/05

Fri

2021

ひとまず20kg痩せました



痩せてきて、ついにベルトを切らないといけなくなった。
そりゃそうだよ。
MAXから20キロも痩せてるんだもの。
ベルト最大のところでもきつかったのに今は切らないと止める穴見つからないから。
久しぶりに札幌に飲みに行くと店主が僕を見て少し間がある。
マスクしてるし外見は痩せてるし。
むしろはじめましての勢いで言われるくらい。
気にしてないからそのまま自分誰ですとも言わずに飲むけど、やっぱり途中で気が付かれる。
「痩せたねー」
今1か月1キロ近くのペースで痩せてきてるから、あと13キロはいきたいな。
食事も酒も減らしてない。
本当に足をぐるぐる回してるだけなんだって。

痩せたい痩せたい言ってる人にこの方法スクワットよりも簡単なのに教えてもやらないの。
数人に言ったけどやってる気配はないみたい。
痩せる気あるのかな。
まったく苦しくなく深呼吸するくらいの優しい運動なのに、それすらも継続できない人が沢山いるってことに気が付きました。
どういう心のメカニズムなのか純粋に知りたいよ。
具体的な体重変動
106→84

ちなみに足をぐるぐるやるとは、壁に手をついて体を若干傾かせ足を外側から内側へ回しながら上げて下ろすだけ。
左右5回ずつ。
これを週に3回は必ずやるだけで体重が減ってくる。
本当に。

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10/25

Mon

2021

声から飲食。でも何故か繋がる因果。

まさかね、東新宿でデモやってた会社の傘下にある事業で働くことになろうとはね。こいつは因果だ。そうか。僕は長い時間がかかるんだろうけど、運命の手の平にあるわけだ。悟ったよ。
そうなのか。自らの生を呪わなくていい。
まだ神の手の平にいるのなら、自分の生きている過程を信じられる。まったく、思ってもいない偶然が積み重なっていく。師匠に出世するコツは運だと聞いたけれど、自分の運はまだまだ途切れていないんだな。
やっぱり僕は遅いんだな。
でも必ず辿り着く。
確信した。
まだ自分は大きな力に導かれている。



追記:

居酒屋の不安定さと未来の予測不可能な時代になったことで居酒屋にお別れを告げ酒に頼らぬパスタ屋で働くことになったけれど、3月下旬に新宿東口で不遇によるデモを行っていた人の眼の前の食堂の親会社がシステムを持っている飲食店で働くことになろうとはね。
入って1か月少し、個人事業主(フランチャイズ店)としてやっている店だけれど唯一いた社員さんが鬱になり働けなくなり自分が店長を支える立場になってしまった。
店長の奥様に「あなたがいなかったらどうなっていたかわからなかった」と言われた。
まだ半分も覚えていないのに状況が状況なだけに不思議な感覚。
人が沢山いたら出来る人と比べられて「あいつは仕事ができない」と言われる世界で、初めて心から人に感謝されている。
つまりは因果とはいえ、やはりここに居るべくして居るのだろうなという実感はますます高まってくるのだった。
神の手の平にいるというのは、何かを考えるよりもまず与えられているのだという運命感に依るものなのだ。
そして創作パスタながら、せっかくパスタやるのだから「イタリアンって何?」を勉強するつもり。
鬱に関して言うと少しだけ詳しい。
十年以上前に身内が鬱が深刻化した中で首を切った。
でも当人は切ったことは覚えていないし遺書らしきものもあったが、よく覚えていないようだった。
鬱はこじらせると年単位で治療が必要になる。
普通の人間が「気分が落ち込む」というレベルでもないし身内が体育会系の「鬱になるのは心が弱いからだ」という考え方だったのも首を切り救急車で運ばれたのを境に考え方を改めた。
もしあの時身内が死んでいたらもう罪悪感で生きてはいられなかった。
しかしその時の経験を元に店長に鬱病の人の扱い方のアドバイスができる。
今ここにいることの因果とは、そういうもろもろのことが重なってきていているからに他ならない。
だからこそ、もう少し生きていようかという気持ちにもなるし、この先に待っている因果の結果も見届けていきたい。

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08/11

Wed

2021

初めて義父と会った話2

医者に怒鳴られ追い出されるようにして病院を後にした両親だが、その前からも気功の大先生から遠隔治療を受けていた。
「癌の気は消えていった」と家族は気功の大先生から聞く。
彼女はその大先生の家族が癌で死んでいることを知っているため、あくまで科学的客観性を欲しがっていたし義母にも科学的客観性から話をしようとしていた。
その時気功や霊の観点から義母は激怒。
「父ちゃんに死んでほしいのか」と言わんとばかりの言いようだった。
まず「死ぬ」という現象すら信じたくはなかったのだろう。
彼女は泣きながら違うと弁明し、あくまで科学的客観性を説明しようとしたが聞く耳持たずだった。
「看護師なんて長くやらなければよかった」
泣く彼女を抱きしめるしか自分は手段を持っていなかった。
これほど言葉が無意味な空間は存在しない。
容体は徐々に悪化し4月20日、他の病院で彼女の務めていた大きな病院への紹介状を書いてもらったはいいが、21日義父は用も済ませられなくなるほど脱力し失禁、救急車の中で吐血し、病院でも吐血しそのまま集中治療室に入る。
21日彼女に電話。
彼女の夜勤初日。
救急車で運ばれたとの連絡を受け彼女は勤務先の病院に連絡。
「誰か代わりの家族の人が行けばいいじゃない」
と師長から言われる。
勤務には午後4時に家を出なければならず、時間は迫っていた。
自分は嫌な予感がしており、
「万が一のことがあったりしたら一生後悔するから何が何でも休んで今すぐ行こう」と告げる。
今度は家族とのやり取りの後病院へと連絡。
以前の職場仲間がそこにいるとわかり、知っている看護師と挨拶をして病状を聞き、担当医も一緒に仕事をしていた人だとわかり連絡を待つ。
担当医から連絡。
「明日まで持たなかったらごめんなさい」
慰めを言わない先生だからと知っていた。
かなり緊迫している状況を聞き、師長が休ませてくれないからと夜勤にこだわる彼女に対し、
「全部今聞いたことを師長に話して人数が足りないとか代わりいないとか関係ないから用意して行こう」
彼女師長に連絡。
「この世に唯一の親なんで休ませてください」
泣いて懇願すると、ようやく休みの許可が下りる。
「何を用意すればいいのかな? 手が震えてる」
動揺する彼女に
「万が一のことは考えた方がいいから喪服と数日の着替えは用意して。今日行ける便探して行こう」
義母に喪服を用意していることは悟られてはいけない状況だった。
何よりも自分が葬儀に出席させてもらえるのかまったくわからない。
行って自分がどのように扱われるか、また罵倒の対象になるのか、自分にも覚悟が必要だった。
「今更何しに来たんだ!」と最悪地獄の責め苦を味わうことになるかもしれないことすら想像すると、胃がキリキリと痛んだ。
そんなことよりも彼女が生涯の後悔を残さないようにするのが先決で、21日中に羽田の便で行けることが決まった。
羽田から電車で茨城までは約2時間。
彼女の妹が駅まで迎えに来てくれた。
ついこの前まで「彼(自分の名前)と一緒に行くから」と彼女が言った時「誰?」と姉の旦那であろうとまったく興味を持っていなかった妹だ。
意外にも丁寧に挨拶をしてくれて後ろの席に座っていたが姉妹同士の話が弾むようで車内では多少リラックスできた。
日付も変わる時間に近づいてはいたが義母と義兄が起きていた。
「お久しぶりです」「初めまして」
挨拶は交わしたけれど怒鳴り散らされるような雰囲気はなく、義父が寝ていた部屋で自分は寝ることになり、多少の戸惑いを覚えながら寝ることになった。

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08/05

Thu

2021

暑さにやられている

32度以上はもうダメらしい。
正直頭がほわんほわんしてて、慣れてない・・・じゃない環境でようやく頑張ってやってる感じ。
今まで体験したことがなかった。去年とは少し違う。今年の北海道は去年を上回っている。
北海道昭和世代は「クーラーつけるのは負け」みたいな考え方があった。
それは一か月以内で夏は終わるからだ(実際お盆を過ぎたあたりから急激に温度が下がる)。
そして北海道の夜は20度近くまで下がる・・・はずだったのに、何故ここまで温度が下がらないのか(室内温度は25度が平均)。
ちょうど昭和の東京がここに来ているのではないか。
僕の住んでいる北広島(札幌のちょっと南)でさえ、外で布団を干す文化がない。
干すと子供から「あそこの家布団干してるよ?」と母親に質問されるぐらい必要がない。
「万年床にしておくと床にカビが生える」
この話は僕の偏見として東京らへんから南の話かと思っていたけれど、以前の東京やらの話が北海道に移り住んでいる事実に驚愕しているし、僕は受け入れる前に倒れている。
文字を打っている間も朦朧としている。
相方は茨城出身だけれど初めて来た最初の冬は蕁麻疹が出て、頭痛が止まらなかった(逆に今の夏の温度くらいは普通に過ごしてきたから大丈夫なんだって)。
九州から来た俳優さんが札幌でバーを営んでいるが(探偵はBARにいる)、その方から聞いた話でも最初の一年は体がおかしくなったと仰っていた。
まさか自分がブーメランを受け取るとは思いだにしなかった。
僕は京都で夏場から半年は過ごしていたにしろ夏場の対応、がっちりしている人たちはクーラー絶対つけていた。
その前に夏場に旅行で京都に泊まったことがあったけれど、ホテルだってどんなに安くてもクーラーはついていた。
一緒に暮らした京都半年生活もクーラーつけてた。(ただしこの条件はフェレットがいたということだが)。
だから寝る時間は快適に過ごせていた。
もう来年は北海道であろうともクーラーをつけなくてはいけない。
気候に関して難しい話を絡めるつもりはないんだけれど、こりゃ来年は今年を上回ってくるのなら「蝦夷梅雨」という言葉はあったけれど梅雨の本場はこちらに移る可能性もあるかもと思ってる。
実際積乱雲とまではいかなくとも重苦しい雲が風に流れてくるようになった。
そして怪しいなとは思ったものの重苦しい雲の流れで洗濯したシーツや布団を干すとやったら濡らしてしまった。
長くは雨が続かなかったにしろ来年はあまり楽観視しない方がいいのだなと痛感した。
気候が変わってきた実感はニュースでも裏付けられている。
日本酒(岐阜の三千櫻143年の歴史、現在東川町)、ワイン(ブルゴーニュで300年の老舗が函館にワイナリーを移すドメーヌ・ド・モンティーユ)等々、北海道に移ってきている人たちがいる。
北海道ではマグロが捕れなかった。北では青森の大間が有名だけれど十勝沖でもかかるようになったとは数年前から聞いていた。
となると、もう札幌のすぐ近く、石狩湾沖(小樽産等)のマグロがブランドとして出てきて南のものは徐々に北に上がってくるのではないか。
打っている間もちょっとまずい。
本当にダメなんだ。
まともに文字も打てなくなってきた。
僕は慣れてない。
こいつはまずい。
ひとまず水風呂だ。

追記:8月7日
純粋に北海道で育ってきた人って札幌市民であろうと30度以上は耐えられないと思う。
札幌駅から大通りススキノまで続く地下歩行空間はJamiroquaiもリスペクトしたくらいだから。
地上に人はいないのに地下に沢山人がいるって。
そして夜になると、もう秋の虫が鳴いているんだ。
札幌より少し気温が低いからなんだろうけど、一足先に秋の兆しがここにあって、風も日中冷たくなっていた。
そして聞いてたけどJamiroquaiソロユニットだって初めて知ったよ。

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07/16

Fri

2021

初めて義父と会った話1

5月4日、初めて養父と対面することができた。
いつかは会えると思っていたけれど、時間はかかるだろうなと思っていた。
それが10年なのか、20年なのか、恐らくは体も弱ってだいぶ不自由になってからかもしれないと漠然と考えていた。
その頃までには覇気も衰え、思考も変わってくるだろうと思っていたからだ。
思っていたよりも、かなり早い形となった。
相方が北海道に来る前から会うことを拒否されていたし、僕は両親からの罵倒の対象だった。
一部彼女から伝えられてはいたけれど、かなり酷い言われようだった。
そもそも彼女はそういう家族の反対を押し切ってきただけでも凄いのに、当時最も大事だと思っていた「家族」を天秤にかけてきた。
大事だと思っている両親から「縁を切る」と言われていたのだ。
人間は人生で一番大事なものを捨てる覚悟を持つことは非常に難しいしそれができるだけでも圧倒的に普通の人間とは違う。
「家族の縁なんて、そう簡単に切れるものじゃないから大丈夫だよ」と慰めたものの、彼女は縁が切れると泣きながら覚悟していた。
その彼女の深い覚悟は恐れ入るものだった。
彼女は霊力の強い実の母親から28歳で死ぬと言われていたが、長生きしている。
正直その点だけでも彼女の運命には勝利していると考えている。
他の人間は自分が死のうがどうしようが関係なく時間が過ぎていく。
だけど彼女には自分が関与していかないとダメだろうと強く感じていた。
僕は彼女の運命を導いていると断言できるほど様々なきっかけを作っている。
いちいち例を挙げるときりがないけれど、例えば、北海道に移り住んできてから2つ精神的な事情で病院を変えたが、今いる病院へ入るきっかけを作った。
自分は北広島に来てから町内会の人たちを集めて小さな宴会をしていたけれど、その人たちの中に、ある病院のセンター長がいて「もし転職をお考えの際は紹介しますので、ぜひよろしくお願いします。お互い10万円入りますから」と冗談交じりに言っていたものの、結局はお言葉に甘えることになった。
今は精神的にはとても落ち着いていると言う。
もちろん自分も変えられた。
お盆に墓参りに言った時よく自分を覚えているおばあちゃんが寺にいて僕を見ると「よく笑うようになったねぇ」と言っていた。
それだけ笑わない人間だったのかもしれない。
短い旅もよくするようになった。
3日間で伊達から稚内へ行き北広島へ帰るという1100km程のプランなしの弾丸旅行、突然支笏湖に月を見に行こう、中山峠まで星を見に行こう、岩内町は夕日が綺麗そうだから行こう、襟裳岬は朝出れば夜までには帰れるから行こう等、1日500kmも走ったことがある。
おかげで助手席に座る自分は北海道のお酒や食べ物を知れるようになり、まったく知らなかった北海道を知ることができた。
今はだいぶ仲良しになったが一緒に暮らした1年ほどは酷い喧嘩ばかりしていて、互いの価値観の違いに戸惑っていた。
都道府県独特の価値観というものにもぶち当たった。
時間はかかったものの、価値観のすり合わせも少しずつできているし、行動パターンもお互いにわかるようになってきた。
何を考えているのかも、多少は。

今年に入って養父の食が細くなってきていると聞いていた。写真を見せてくれて「だいぶ細くなったけど」と。
連絡が来たのは彼女の誕生日の3月1日。
いよいよ本人の気力だけではどうにもならぬ事態が出て検査。
胃カメラと血液検査。
胃潰瘍で済んでいるといいが、胃癌だと思うとのこと。
彼女の知り合いに呼吸器内科医がいたため胃カメラ写真を見せると「胃癌の可能性が強いと思う」との回答。
看護師の経験的な勘が働いてもいた。
医師の横で写真レントゲン等見ていた経験もある。
信じたくはない気持ちが少しはあった。
でもダメかもしれないと悟った。
だから号泣していた。
義父は我慢強い人間で仕事も文句も言わずにこなしていたという。
朝は庭の畑、一軒家は建つくらいのスペースはあったが、その畑の世話をしていた。
自分がやるまでわからなかったが、とにかく畑仕事は雑草との戦いだ。
その髭を一本ずつ抜く作業をするようなことを毎日やっていたという。
そんな我慢強さと真面目さが裏目に出た。
お腹の不調は去年あたりからあったらしい。
つまり食が細くなってきたのを含めて周囲から見ても半年ほどは放置されていたかもしれないと心当たりを義母は吐露していた。
紹介状を書いてもらったが、紹介状の先で診断される。
「ステージ4の胃癌ですね」
その時治療方針で担当医と衝突。
霊媒師の仕事そのものの観点を義母が告げる。
それは義父との同意の事だった。
「抗がん剤治療はやらず、気功で治す。でも点滴とかはやって欲しい」
医者激怒。
「そんな都合のいいことはない!」
追い出されるようにして病院を後にする。


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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
44
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みますが光野(こうや)とか朝風(=はやぶさ)でもよろしゅうございます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。自分でも困るほどの「皮肉屋」で「天邪鬼」。つまり「曲者」です。

2011年より声劇ギルド「ZeroKelvin」主催しております。
声でのドラマを通して様々な表現方法を模索しています。
生放送などもニコニコ動画でしておりますので、ご興味のある方はぜひこちらへ。
http://com.nicovideo.jp/community/co2011708

自己プロファイリング:
かに座の性質を大きく受け継いでいるせいか基本は「防御型」人間。自己犠牲型。他人の役に立つことに最も生きがいを覚える。進む時は必ず後退時条件、及び補給線を確保する。ゆえに博打を打つことはまずない。占星術では2つの星の影響を強く受けている。芸術、特に文筆系分野に関する影響が強い。冗談か本気かわからない発言多し。気弱ゆえに大言壮語多し。不安の裏返し。広言して自らを追い詰めてやるタイプ。

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