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あさかぜさんは見た

日記

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04/25

Wed

2012

電子書籍も結局は企画次第です 誰が小説を読むのか

http://d.hatena.ne.jp/asaikeniti/20120424
誰か小説を読んでくれ

自分が感じていたことをよくまとめてくれています。
結局小説なんて「超ニッチ」であり、その作品には本当に少数の人間しか反応しないということなのです。
それで不特定多数の人間が集まっている空間では、その小説を好んで読んでくれる仲間を限定的に集めることは難しく、結局はサークルを作ってそこへどのように参加させるかが、まず最初の作業になります。
小説を書いているもの同士なら書いているもの同士集まる。
読んでくれる人もそこに集める。
当然作家や作品によってまたガラリと違ってきますから、作家同士でまず繋がらないと読者が繋がってこない。
しかも各々持っている読者層は作家によって違うので、ジャンルのまったくかぶっていない作者同士が繋がっても読者が繋がらないのは目に見えています。
そこで通常はオムニバスという形でジャンルや雰囲気の似通った作家をミックスさせてカタログ的に読ませるという手法がとられますが、同人誌のように熱心にそしてなるべく長期間発行しないと効果が出てきません。
単発での企画ではなく一年か少なくとも半年をワンクールとして考え企画を練る。
今までの書籍の考え方は単発式でしたが、ウェブの時代じゃとてもじゃないが通用しないし一週間で忘れ去られます。
なのでどうしても最初からロングランで考えていかないと読み手の印象には残っていかないのです。
ここは「どのようにして読者の生活習慣の一部とするか」という目標の元に企画を練るということが求められます。
そして読者を巻き込むということは、意志決定力の素早さも求められます。
要望クレームに即座に対応するような体制を取っておかないと、これもまたすぐ読み手が離れてしまう。
とにかく性質として今の読者は飽きやすく一過性であることは言えると思います。
この流れるような河をせき止めるのは相当なパワープレイが必要になるので、まず小さな規模のところは考えたところで実行できようはずもありません。
流れの中で流れに沿った形で案を練っていくのが現実的。

ということで、まずは半年続く企画から考えるとよいのではないかと考えております。
同種の人が集まらないと何もできないのでね。

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04/25

Wed

2012

ネットゲームの話をしたので少しそこでの話。
私はゲームが好きだけれど、「飽き性」という欠点があり、同じ作業を何度もはできない。
だから最初どんなに面白くとも変化がないとモチベーションが続かない。
もしかしたら「飽き性」という性格がなければ、廃人になっていたかもしれない。



ここでは「廃人」と言っているが、本当の廃人はもっと酷い。
掲示板も管理していたことがあるので、炎上、つまりギルドのメンバーがマナーに反する行動をし、ギルドの掲示板に次々とクレームの書き込みが殺到するという状態を経験した。
そこではログを取っていて逐一どのIDが入ってきているか監視していた。
とくに匿名でできる掲示板だと「工作員」と呼ばれる「余計な情報や煽りで話をそらし、感情を逆撫でして、怒ったところの揚げ足を取る」という人たちがいたので、IDはきちんと見ておかなければ策にはまるからだ。
そのログでは掲示板に書き込んでいる当人は朝方から昼にかけての6時間ぐらいがすっぽり空いて、すべての時間掲示板を見ているというぐらい執着していた。
もちろんゲームも起きている時間ずっとやっている。

ネットにのめりこむ人間は執着心が強く器量が狭く自尊心が高い傾向がある。
月に何万も注ぎ込む重課金者であり、さらに莫大な時間を費やしてキャラクターを強くしているのだから、それなりの精神的な見返りを強く求める。
例えばこれが会社だと仕事して十分な働きを得た分だけ直接的にわかる形で報酬や見返り地位などが欲しくなるが、ゲームだとシステムに則ってわかりやすい形で見えるので、そのらへんの精神的な充足感を得やすい。

廃人とまでいく人間とこじれると、結構自分でルールを決めているなどして、様々な自己解釈をぶつけてくるので厄介な存在でもある。
しかしながらゲームといっても、そこにひとつのコミュニティー空間ができているのだから、従来では考えられないような人のつながりかたもできてきている。
オフ会と呼ばれる現実での集まりや実際に会う人々などがいる。
私のやっていたゲームでもゲームがきっかけで出会い、実際に結婚している人はいた。
ゲームと割り切ってある程度の距離を置き、きちんと時間管理の上でゲームをするのならゲームで済むのだが、中には現実空間よりもネット空間の比重が高い人がいる。
私も精神が荒んでいるところからネットに拠り所を求めていたので、気持ちがわからないまでもないが、健全な人が不健全な生活にまで落ち込むと、ちょっとまずいよなとは思う。
というのは、ゲームをするのではなく、ゲームに振り回される、ゲームその物に自分のスケジュールが管理されるという逆転の状態になるからだ。
韓国などでは実際に殺人が起こるほど「廃人」と呼ばれる人がたくさんいて、社会問題にもなった。
昔ウルティマオンラインが出たときは、わざわざ会社を辞めてまでゲームをする人も現れたそうだ。
最近は聞かなくなったが、やはり廃人というところまでいってしまった人はいるのだろう。

今は「おかしい」という感覚で見られるし、きちんと現実で五感を使って生活している人に取っては理解できないコミュニティーであることはわかるが、私はこれから先もっとネット社会が浸透してバーチャル空間が作られるようになれば、バーチャル空間にのめりこむ人間はそう珍しい数ではないほど増えると考えている。
今ネット化データ化がどんどん進んでいて、情報がどんどん管理されていっている。
知らず知らずのうちにデータを利用され、管理され、個別のサービスに特化している。
そこでさらに登場するのがバーチャル空間だと考えているが、未来の話なので今はちょっと置いておく。

ネットに比重を置いている人間に取って「リアル」と「ネット」と区別している。
「リアル」は現実空間のこと。
「ネット」はネット空間のことなのだが、既に「リアル」よりもネットの方が生活時間の大半を占めているので、正直「ネット=現実」だと言っていい。
そこである種の錯角も起こる。
ゲームだと分かっていながらも精神的な没頭をして、そこに様々な感情を投入したまま引き上げられなくなったり、むしろ辛い現実から逃げられるので、そのバーチャル空間に自分の居場所を見出してしまうなどがある。
こうなってしまうと、結構「廃人」は近くて、もう理屈では引き上げられなくなる。
どんな理屈も辛いだけになってしまい、余計にバーチャル空間にのめりこむ要因を与えてしまうということになる。

私は中学生まで携帯電話を持たせることに反対の立場だ。
というのも、携帯電話を使わなければコミュニケーションが成り立たないというのは、普通の状態ではない、不自然過ぎると考えているからだ。
といっても、今や携帯電話に限らずゲーム機はネット通信を備えているものも多く、バーチャル世界での遊びの場所は拡大していく一方だ。
逆に携帯電話がないと、はたまたゲームがないと、コミュニケーションを取れないばかりに、陰口いじめのターゲットになったりと、ツール一つないばかりに仲間と「共有意識」が持てないというところまで来ている。

ここに書いてあることが「変だな」と違和感を持つのなら、もうちょっと古い世代か、古い感覚の人かもしれない。
未来はもっとこの状態が進むのか、それともあくまで自然的な状態の中でさじ加減を持っていくのかは我々、というかお金の流れ次第だが、ゲームという場所ではなくともネット上では様々なところでコミュニティー空間ができてきている。
そのコミュニティー空間を使って商売をするなど、新しい話ではなくもう10年以上も前からの話なので目新しいことでもない。
後はゲームというシステムがつくのか、それとも別のシステムがつくのか、という話なのだ。

さて、問題になるのは映画の「マトリックス」の世界ではないが、匂いもなければ感覚もない、心だけが存在する世界で、正常な感覚は育つかと言ったら、もちろんそうではない。
実際子持ちの人が廃人っぽくなっている状態も目の当たりにしているし、大学生などが一日中ネットをしているなどざらにあった。
こういう生活は健康にも精神的にもよくない。
遊びの範疇で収められるならよいが、のめりこむ人は自制心がないからそうなってしまうのであり、現実での居場所よりもネットでの居場所が心地よいからそうしているのである。

現実よりもネットの空間に安心感を求めるのは、奇妙な感覚ではあるが一種の宗教的な信心にも似た感覚に陥る。
キャラがあってRPGならばその名のとおりロールプレイができるのだから、理想の自分を実現できるし、現実よりも確かに居心地がいい。
今やほとんどのオンラインRPGは結婚システムを導入しているので恋愛だってできるわけだ。

でもやっぱり、現実よりもネットの方が比重が大きくなり生活がそれに振り回されたり管理されるのはおかしいんじゃないかと思う。
膨大なチャットログに会話は流され、ゲームの終了とともにデータは消え去る。
残ったものは会ったこともない人間の絆で、これも100人いたら10人も残らない。
つまり生産性が著しく乏しいのだ。
何も創造していない。
ただ消費しているという状態だ。

一度ハマってしまうと理屈で引き上げるのは難しい。
そして嫌だと思うことをするのは引き上げるどころか執着させてしまう原因を次々に与えてしまう。
なのでもしネットにハマるなどしたとき、最後の手段になるのは、その状態を認めてあげて、そこでの話をとことん引き出してあげるしかない。
当然ネットを切断して人情沙汰になった事件もあった通り、人生のほとんどすべてになっている人間からネットを引き剥がすのは逆上を誘うだけだ。
よいコミュニケーション方法を与えるのは年上の仕事であって、年下の仕事ではない。
きちんとコミュニケーションが取れないのなら、それは年下のせいではなく年上の能力が乏しいからだと考えている。

もし身内に廃人を抱えてしまった場合、常日頃のコミュニケーションがものを言う。
一度も否定後を使わないで会話をなりたたさなければならないので、高度な技術、忍耐力を伴う。
今は突拍子もないようなこの話も、やがて未来には身近な話になるだろう。
願わくば、突拍子もない話のままであってくれるとよいのだが。


追記:
リアルネット廃人から復帰した人のログまとめ見つけましたのでどうぞ。
http://hamusoku.com/archives/577276.html

こっちは廃人生活で家庭崩壊の話
http://suiseisekisuisui.blog107.fc2.com/blog-entry-539.html

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04/23

Mon

2012

「まるくなったね」 オンラインRPGでのこと

2年ほど前になるが、半年少しオンラインRPGをやっていたことがある。
だいたいのオンラインRPGには「ギルド」なる団体があり、数十人あたりで構成されている。
ネットゲームと言っても組織運営はマスターの裁量次第となるわけだが、そこで90名規模の人数のギルドマスターをしていた。
最大同時接続人数は40人は越えている時があったので、もうチャットは喧騒状態で3秒目を離したら話が追えないという具合まで賑わっていた。
しかしそれも長くは続かなかった。

たくさんの人数を集めるということは、人数の分だけ希望があり、希望に沿わなければ不満が生まれる。
また実年齢関わらずメンタリティが幼い人間によく出会うのも特徴で、人間関係のトラブルにはかなり巻き込まれた。
ほとんどのオンラインRPGでは某掲示板に「晒し板」なるものがあり、気に入らない行動をするユーザーの名前を晒して、集団で暴言を吐きまくるというネチネチとした陰湿的なものがあるのも特徴ではある。

ギルドは最初はどんどん大きくなっていったが、組織の中でさらに負担や役割を細分化する作業に失敗して、自分が潰れて結局は分散していった。
ネットゲームは手軽に出きるので「俺でもマスターできるんじゃね?」と気楽な気持ちでギルドを立ち上げる人も多く、だいたいは以前のギルドへの不満から新しいギルドを立ち上げるが、実際に集めた人数を何らかの形で束ねるというのは、結構な技術が必要になる。
そうして結成と分裂を繰り返すのも、このオンラインRPGギルドの特徴でもある。
そしてそのゲームは「カップル」がシステム上重要な位置にあって、男女関係のトラブルもたくさんあった。
最初は「ゲームだから」と距離を置くことができたが、そのうち精神が疲労してくると一気に崩れてしまった。

今だからこそ、あの時は組織構成力と自分の至らなさが起こした崩壊分裂だったのだなとわかるし、たかがゲームといえど人数を集めて、不満は多少あっても皆がうまくいくようにする、という至難の技を多少体験した。
それだけの人たちと関わることで得るものもたくさんあった。
自分が、他人に従うよりも、自分で最初から何かを作りたがる体質なのもよくわかった。

人間関係のトラブルの多くはネットに関わらず、「自分の行動言動が他人にどう思われているかまったく理解できない」というところから始まる。
それぞれの思想もあるだろうが、ほとんどは伝わらず、他人の価値観で判断される。
「あの人ってわがままだよね」
「あの人押し付けがましい」
「あの人にひどいことされた」
色々あるが、だいたい当人はあまりそう思っていないことが多い。
酷い場合をのぞき、結構良かれと思ってやっていることもあるので、指摘して初めて面食らったりすることもある。
未成年ばかりのことだろうと思うだろうが実はそうではなく二十を越えた立派な社会人がそうだったりするから困るのだ。
中には30代や、たまに40代もいる。
そんなこんなで、自分も自分でイメージしている自分と他者がイメージしている自分のズレがあった。

少し気になることがあって最後の確認をしに1年に一回ほど入っていたが先日また1年ぶりに入った。
ギルドの名前は残してあったが人数はほとんど散ってしまっていた。
まだやっている人もいて、入るなり話しかけられ少し話したが数人から「丸くなったね」と言われた。
色々聞いてみたが前は少し怖かったらしい。
そんなつもりはなかったが、他人はそう感じていた。
2年間何かしてきたのかな、思うほど何もしていないのではないかとも感じるが、とにかく自分に打ちのめされる2年だった。
去年は自信のあった作品は弾かれて実力のなさを痛感したし、日記にも素直に色々書いているように明らかにどうしようもない人生を歩んでいたりするので、とにかく自分の小ささ、くだらなさ、滑稽さを学んでいるのです。
それで削れてきたのが、欲望というか、自己妄想的な意識というか、実戦を経験し実践を重ねることで浮いていた考えが叩き伏せられようやく地に足がつき、今度は腰を沈めるところにきているというか、思い当たることはたくさんあります。

こうして年月をはさんでみると楽しいなと思うことがあって、あの時何をしていたのか、というのがうっすら分かってくるわけです。
ダイレクトに何か効果が出てくるというのは人との間ではまずなく、長い年月を経て変化がうっすら見えてくる。
前々から人の可能性、変化への期待や祈りのようなものを心に秘めながら、ネットでも人と接してきたのですが、ある程度の大きな力を注がないと効果がないということと、ある程度の年月が経たないとその力の効果は見えてこないということがよくわかりました。

システム上でのルールにのっとった「ゲーム」の中での話ですが、簡易組織の変化のあり方を見ました。
今はもう莫大な時間を割くことは、時間管理が下手なのでできなくなっているし、書き物もアイディアだけ浮かんで膨大な量書けず仕舞いになっているのでできませんが、仕事の効率が今の5倍くらいになって年間1億ぐらい稼げるようになったら、また若い連中を集めて遊んでみるのもいいかもしれないなとチラと思ったりもしました。

そんな実りのなさそうなゲームの話ですが、現実でも自分が稼げるようになれば組織を作っていくのも死ぬほど辛そうだけど楽しいだろうなと、思った次第。
前々から思い描いていることがあるので、40までには実現できる能力を身につけていきたいなとも思っていたり。
さて、どうなることやら。
中小企業診断士くらいの能力は持ってないといけませんな。
英語で小説を書くことも一つの目標だし、何を選択していくのか、どの程度自分で抱え込めるのか、そのキャパシティが増えれば、きっともっと楽しくなるなと思いましたよ。
「人」というものをクリエーションするのが一番の「創造」だと思っています。

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04/19

Thu

2012

コンテンツを磨くということ

音楽が売れない、という声はもう10年ほど前から出始めている。
相変わらず10年経った今も業界関係者は嘆いている。

私は最近「コンテンツを磨く」ということをずっと考えている。
磨くということは、ある意味挑戦的でなければいけないし、ある意味骨太のところを作りこむということでもあるし、場を作るということでもある。

ある掲示板に、音楽に対するひとつの意見が書いてあり、はっとさせられた。

「昔はラジオとかを録音して、たくさんお気に入りの曲を繰り返し聴いた。大人になってお金が入るようになってから大人買いしたもんだ」

最近ブックオフに持っていたCDをほとんど売ってしまった。
大事に取っておいたが今はネットで無料で聞けるというのもあるし、音に対する趣味が変わったというのもある。
本当に今も聞くだろうCDだけ残したら300枚くらいあったのが100枚を切った。
本では二束三文にしかならないがCDだとプレミアがつく場合もあった。
おかげで必要なものが買えた。
大事にしていたつもりが売ってしまうと別にたいしたことなかったようにも思えてくる。
聞きすぎて飽きたというのもある。

さて、音楽についてだが、買いたいと思う前に、まず歌にはほとんど興味を失ってしまった。
今流行の曲は、どれもこれもダンスやパフォーマンスとセットで歌そのものに魅力がないし、詩も凄いなと思うものが減ってしまった。
メロディも外さないように必ず王道、つまり売れ筋に乗っけて作ってくるので、広がりがない。
本当にコアなファンは自分で見つけて、テレビにはまず出てこないような、かつ音楽業界では実力派の人たちを見つけてくるのがうまいが、素人はそうもいかない。
今はYoutubeで偶然見つけて初めてお気に入りにする、といった感じだ。
こんな風に私の場合「検索で見つけた偶然」でなければ、優れたものに出会うことがない、というのがひとつあげられる。

今のコンテンツ作りを見ると、ほとんどが短命であることがあげられる。
例えば個性があるなと思った人たちでも10年20年やっている人たちはいない。
音楽の消費も早いし、まるで旬が過ぎたら「もう古い」といわんとばかりに人の流動性が高い。
各メーカーも、金銭的な焦りから、まるで売れ筋をコピーしたようなものを使いまわす。
ここらへんはテレビに出てくるような人たちを言っているのだが、歌に興味を失ってから、あまり出てくる人たちがわからなくなってきた。
ジャニーズやAKBや韓国の人たちばかりで、なんだか同じものが今日も同じように演出されているといった感覚すらする。

なぜ、こんな事態になったのか。
ふと、先ほどの言葉を思い出す。
本当の「ファン」とは、何年もファンで居続けるが、短命であるばかりにきちんとファンを大事にできていないのではないだろうか、育てていないのではないだろうか。
ファンが育ってこないと、当然場も作られない。
作られた場がいとも簡単に放棄される。

私はアニメもたまに見るのだが、数年前「キャシャーン」が新たにリメイクされた。
それは元々やっていた「元祖キャシャーン」とは、まったく趣が違って、抑えた表現で滅びの世界を題材にした一種の童話のようにもなっていて面白かった。
しかしネットで見ている昔の人たちは主題歌が気に入らなくて昔のキャシャーンのOP曲を入れて喜んでいた。
趣が違うし、きちんと中身を見たら昔のOP曲が合わないことぐらいわかるのだろうが、中身を見る前に外見からもう先入観で判断している。
昔からの根強いファンは、今でも昔愛したものを大事にしていることがよくわかる。

よく「ファンを大事にしろ」とは言われるが、一体何のことだろう。
我々表現者は「ファンを大事にする=人を大事にする」ということでは、少し意味も伝わり方も違うし、この言葉では何か違和感がある。
何故なら「表現物」があって初めて表現者にファンなるものがつくからだ。
私はここは「愛される場を作りこむ」という表現が一番しっくりくる。
「場」にはコンテンツも作者もファンも練りこんで成り立つ空間だ。

今読み物の空間においても携帯小説やライトノベルが若年層に支持されている。
私はちょっとした危機感を感じていて、「思春期に印象深かったものは、大人になっても愛し続ける」と考えている。
なのでもし文学よりもこちらの方が数多く読まれているのなら将来的には文学は売れないものとして規模が半分以下に縮小されるのではないか、超ニッチな読み物になるのではないか、という懸念をしているのだ。
いや、それよりも「文学」はすっかり様変わりするだろう、とすら思う。
今「ライトノベル」と呼ばれているものが「文学」に入れ替わってしまうかもしれない。
今の中年層には本当にピンとこないだろうし、何を言ってるんだと思うだろうが、じゃあ逆にお伺いしたいのは「今あなたが愛している音楽や本は思春期や青年期など印象深かった時期に愛したものとどれだけ違ってきていますか。10年前とはジャンルも領域も違うものを愛していますか」ということだ。
人間、よほどの心境環境の変化がない限り、以前たしなんでいたものから逸脱することはない。
口癖も考え方も行動様式も変化しているようで元の自分をベースにして動いている。
人はそう簡単に自分を変えられないのだ。

さて、話を戻すが「コンテンツを磨く」ということは場を作りこむための仕掛けそのものであると考えている。
そこに「愛されるべき空間」を作るための仕掛け作りだ。
これは「自分が好きなものを投入する」こととはまったく違う。
「自分が好きなものは愛されるべきだろう」という考えとはまったく違う。

私はヘレン・ケラーが映画出演していたことを知らなかった。
彼女はより広く障害者の立場を理解してもらうために様々な場に積極的に出た。
その中で映画にも出演していたのだという。

このことは「文学だからこうしなければいけない」とか「音楽だからこうしなければいけない」という考えは、ただ意固地なだけで手段としての広がりを欠くことのようにも見えてくる。
もちろん、芸は職人の道なので腰を落ち着けなければできないことがあるので、そちらができてから、という話なのだが、裾野を広げられなければ尻すぼみになることは目に見えている。
だからこそ挑戦なき者は常に淘汰されたか、狭い環境の中に押し込められた。

スピルバーグ監督はゲーム業界に興味を持っていることをNHKでやっていた。
「イマジネーションが刺激される」というようなことを言っていた記憶がある。
コンテンツの世界は「イマジネーションへの挑戦」でしか切り開けない。
イマジネーションという魔法で愛される場を作りこむしかない。
そうして5年10年と経って、ようやく場として機能しだすのかもしれないと思っている。
元々芸術とは金銭的な見返りではないところに価値を見出す行為だ。
そこに、値段をつけていくという難しさに常に悩まされることになる。

そしてもし芸の世界に興味を持っているのならば、色々と覚悟したほうがよい。
心血注ぐことに面白さを感じなければやっていけるものではない。
コンテンツを磨くということは「業界を作りこむ」ということでもある。
自分ひとりだけの問題ではなくなってくるのだから、自分の携わっているものだけに目を向けることがないようにもしないといけない。
こういう広い視点は「愛すればこそ」なのかもしれない。
その「愛情」が「偏見」にまみれていてはいけないということだ。

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04/18

Wed

2012

「自分ひとりで作っている」という錯覚が起こしがちなこと

「海は海だけで成り立っているわけではない」
この言葉はコンブ・ワカメなどが不漁になったとき、ある漁師が「山の栄養分が海に流れ込んで初めて昆布は育つ」ということに気がつき、植林などに力を入れたエピソードからの言葉だ。

元々事業主と雇用者どちらが優先的な権限を持っているかと言うと、もちろん事業主だ。
だからこそ使われている立場では、よほどの組織の有利になることではない限り利益を阻害する活動は許されない。
つまり「文句を言うなら代案を出せ」というのもここにあるし、稼ぎもしないのに権利を主張するのはお門違いであって、会社にも資金という体力があるので、これらの範疇を超えてくるものは用済みとせざるを得ない。
誰かの世話になっているうちは、その世話している人間の口出しをたくさん受けるし、その人物の意見が理不尽であろうとも優先されがちなのは言うまでもない。
簡単に言うなら「文句言うくらいなら自分でやれば?」という話になってしまう。

ところで、製作者はとても孤独だ。
例えば私の場合文学活動をしていて、1ヶ月、長いときは3ヶ月だって平気でこもってひとつの作品を書き続ける。
その間はほとんどずっと一人でこもりっきりでやるわけだから、当然ある種の独自性を持ってくるし、悪い言い方をすれば独善的になるのはしょうがない。
そして錯覚しがちなのは「自分こそが一番働いたので自分こそが優遇されるべきだ」という意識だ。
この意識は自然と芽生えてくるし避けられない感情だろうと思う。
大物であろうと素人であろうと、よほど自制的であり自省的な人間でない限り、どんどん育ってくる感情でもある。

出版、特に出版ではなくとも組織を絡めて世に何かを発表する場合、自分が思っている以上に多くの人間が関わっている。
それこそ水道ガス電気と同じようなもので、そのライフラインを保つのにどれだけの人間が関わっているか想像できないのと同じだ。
なので例えば私が著作物を出したとき「私こそが利益を被るべきだ」と考えがちだし、編集者は編集者で「私が編集しなければ作品は磨かれなかったので利益を……」、会社は会社で「こちらが金を出して、すべてをまかなっているので、出資者が一番利益を……」となりがちである。
そうしてこの経済社会は、お金に関わる人間たちは、自分たちの利益が少しでも増えればよいと欲を主張する。
欲を主張しなければ他者に侵害されてくるのだから、防衛策としても権利と主張は繰り返す。
ここで共通する意識とは「自分が欠けたら成り立たないだろ」という自負心と自尊心だ。

元々芸術とパトロンの関係は古今東西根深く、パトロン、つまり出資者のオーダーや力に従って世の傑作は作り出されてきた側面は強い。
生活に安心できなければ芸術活動は続けられないので、自分の描きたい絵も我慢して大衆向けの絵を描きまくっていた、という絵師だって珍しいことではない。
そのような経済的な事情から解放されて自由に芸術に専念している人間は、よほど芸術の神であるミューズの加護を受けているのだろう。

昔は人と会わなければ物事が進まなかったが今は分業化が進んで各々の仕事をこなして、あとは投げっぱなしにすれば、組織化ができているところなら物事は進む。
なので余計に独善的になりがちな環境が揃っている。
権利と利益を主張する時「我こそが利益を……」と考えるようになるのは当然だと思う。
特に将来に対して不安を抱いている人間ほど主張するだろうし、不安感からもまくし立てたくなるほど主張したい気持ちも湧き起こってくるだろう。
そんな中、自分のキャパシティー以上の権利を持ちたがったり、主張をして、結果として果実を得ても、自分で消化しきれないばかりに、そのほとんどを腐らせるということをやりがちなのも、強欲が招く悲しい結末だったりもする。
大体自分で全部やっていないのだから、自分がさばくことのできないことまで抱え込み、結局は両手で抱えきれない状態、「手が足りない状態」になっていることにも気がつかず、零れ落ちたものを自分の足で踏みつけてはいやしないだろうかと権利と主張を繰り返す人間は少し考えて欲しいと、ここで勝手に思うわけです。

権利のことで言うならば著作権は時代とともに変化してくるし、うまく回らなくなるシステムは変化させていく必要がある。
「我こそが」と主張すること事態は悪いことではないが、これからの時代ネット化が進み電子化が進むのだから、よほどの自信があり組織化の能力があるのなら「我こそは」と主張すればよいと思うし権利も持てばいいと思う。
結局は自分でこなせない限りは宝の持ち腐れだし、いずれにせよ「儲けたい」のならば1000人規模以上の人間を巻き込まない限りは立ち行かないのだから「自分ひとりでやっている」という意識はこれから先内省的に見ないと、思わぬところで乗り換えられたりして泣きを見るだろう。

電子という脆い空間ではあるが、芸術家にとって昔の人間から見たら前代未聞の好条件が揃ってきている。
一度自殺した芸術家だって、また生き返りたくなるほどの。

後は道具の使い方とプロセスの問題だけになる。
本当に自分ひとりでできるのならやればよいだけの話。
その条件さえも揃っているのだから。
もしできないのなら自分にこそ優先的な権限があると考えるのではなく、あくまで協力的な気持ちでいないと、思い描いた錯覚のどつぼにはまって、やがてジリ貧になる。

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
46
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。

気が付いたら他人からとても褒められる娘ができまして、人生が大きく変わりました。
この小さな可能性と向き合うため頑張って生きております。

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