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あさかぜさんは見た

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02/10

Fri

2012

五感を欠落させないこと

これからどんどん情報化社会になってきて五感情報が欠落してくる。
何度も言いたいのだが、繰り返し言うつもりだが、五感情報を欠落させないことが重要だと思っている。

そんな中、ふと、この言葉遣いでは通じないのではないかというまとめがあった。
よく聞くことだが「精神疾患は努力で治る。精神病になるのは甘え」というやつだ。

私はこの理屈で、冗談でも誇張でもなく現実で命を一つ二つ犠牲にしそうになったので、口が割けてもこれが言えない。
だが、そのような危機になる前は確かにこの理屈はまかり通っていたし私も苦しめられた。
自分が人殺しになるかもしれない、などという危機感などあろうはずがない。

そもそも人間はとことん因果な生き物で、自分の感覚に近い情報を集めて脳内情報として編集し、蓄積していく癖がある。
なので基本的には思いやっても、わからないものはわからないし、理解しようと思っても限度がある。

まとめられていた内容を端的に言うと、「甘え派」の主張は自分の主張がくくっている「グレー」の部分と「アウト」の部分を混同していて、もはや医療そのものに対する批判、暴言にまで自分の主張が達しているのに、その分別ができていなかった。
ようは自分が見てきた、主張してきたものを肯定する情報だけ集めていたのだが、大事なのは自分の意見が批判された時に他者を納得させられるだけの論拠が提示できるかどうかが対話であり正しい分別と思考なのだ。
最もやってはいけなかったことをやっていたのだが、「アウト」の部分「完全に精神疾患となり苦しんでいる人たち」「もはや自分の努力ではどうにもならない人たち」を、「グレー」の部分である「自分が主張している半分落ち込みぎみで努力でもなんとかなるが鬱にもなりそうな人たち」と混同して絡めていた。
自分が思い描いている「グレー」の部分を「アウト」部分と絡めるだけではなく、医療や精神疾患の人たちにまで主張が及んでいるのが完全な暴論や罵倒の部類であるということに気がついていなかった。

このように自分の感覚に沿って情報を集めるということは、いくら表面上綺麗に言おうと以上のようなとんでもない罵詈雑言の範疇を人に対して叩きつける暴力を平然と行ってしまうことにもなりかねない。
そしてこのような主張のほとんどは実例に基づくものに乏しく、ほとんどが「また聞き」「間接的情報」による推論と「極めて小さな規模の個別の事情の集積」による極論である。
テレビでああいっていた、私の友達が知り合いが、といって全体を否定するのは完全な感覚の閉鎖性を示している。
これは分別ある大人とは言えない。
何も理解していない子供が言うことだ。

おそらくこの「甘え」の主張をした人は、私が言う「五感を大事にしろ」の言葉も、自分の感覚の中に取り込んで理解するだろう。
私は経験している。経験したことしか言ってない。だから正しい。
もしかしたら全体には適応できず「自分とそのお仲間にしか正しいこと」なのかもしれないとは絶対に思わないわけだ。

このような事例が目の前に出たからには今回はまた私の主張を補足しておきたい。
そもそも正常な五感感覚とは「自然」であるということだ。
「自然」とは「自然物」のことであり、当然「人工物」ではない。
人工物は人間の作り出したあらゆるものを指す。
情報や自分の中に存在しているもの、人が作り出した物(物体)など、人工物である。
ここで「自然物」を出したときに、混同するところは、一体どこなのかということを考える。

端的に言えば「他者感覚を知る」ことができるのが正常な五感を鍛える近道だ。
私も小説を書いていてようやく気がついてきたが、閉鎖的な感覚、辛いときなど自分の主張しかできない。
自分の主張が精一杯で他人の感覚へ想像力がいかない。
これは知らないからしょうがないとも言えるのだが、他者感覚を鍛えるには、かなり辛いものがある。
というのも自分の感覚を優先させているうちは自分以外の自然に存在している感覚は少し理解し辛い。

例えば風を出すとわかりやすいのだが、風は体に受けないとわからない部分が大きい。
温度や湿度や風力などは体感温度でわかるし、時には雨や雪など気温や天候によって風の中に混じるものが違ってくるのはよくわかるだろう。
そして同じ場所に立っていれば、だいたいは皆同じ感覚と意見で仲違いをせずに一致すると思う。
しかしこれが「どこからこの風が流れてきているのか」とか「この風はどこへ行くのか」「どう変化してきて、どうなっていくのか」という部分になるとたちまち争いが起きる。
ここで一番正しい意見を言うものは足を使って風や地形や雲行きなどを追うものであって、その場から一歩も動かないで体感だけで言う人間ではない。

自然のものを知る。
五感を自然に慣らす、五感情報を人工物によって欠落させない、というのは流れる様々なものの中で自分の立ち位置を変えながら物事を見ていき、今までとは違った感覚があることを知るということだ。
そこに突っ立っているだけでも「知識」はつくかもしれない。
しかし実用的な知恵は頭だけ動かしていてもまったくわからない。
推論だけで語るならまだしも、他人にまで推論を根拠にして指示をするようになる。
自分はずっとここに立ってきて感じたことは間違いないから、”この先もこうなるはずだし、それを証拠付ける体験もしてきた。お前らもそうだ。”、となっていく。
自分は農耕民で相手が遊牧民にもかかわらず平然と言う。
「個人の意見」がいつの間にか「集団の理論」にすり変わる瞬間だ。
自分が立ち位置をまったく変えない限り、自分のテリトリー内での意見であることをわきまえられないと、何もかも絡めてやたら大きな問題にまでしてしまう。

多くの分別のつかない人間がすることは、コンパクトにまとめ、選り分けなければならない問題を、あれもこれもごっちゃにすることで雪だるま式に問題を大きくして、場を混乱させるというのがあげられる。
物事を知ることがなぜ辛い作業なのかというと、自分の立ち位置を変えることは、時として真っ向から反対してくるものの立場と考え方を知るという場面にも遭遇するからだ。
この作業が一番苦痛を伴うし、相手の攻撃性に余計に持論を固めて意固地になる心理作用が出てくるため、大抵の場合は、喧嘩別れする。
それも自分の知識や知恵や教養不足からくることなのだが、攻められ反発しなければ敗北感に見舞われるため、相手を認めたくないし、もし認めてしまったら自分を否定することにつながると感覚的に思うのでやらない。

頭では議論を公平にしたいとわかっていても、感覚的に「勝負」の土俵になってくる。
おかしなことだ。
もしかしたら世界はこんな風に争いを繰り返しているのかもしれないが、少なくとも持論を引っ込めてよく相手を観察することでしか相手の感覚は飲み込めてこないし、感覚が飲み込めないと言語感覚すらも理解できないと私は思っている。

知識を深める。
よくものを知る。
自然を知っていく。
これは「ざっくり」ではいけない。
植物は緑だ。
本当だろうか。
魚は皆水がないと生きていけない生き物だ。
水がないと生きていけない生き物は魚だ。
逆にしてみたがたちまち違和感が出てくる。
Aさんは明るい人だ、と言えても、明るい人はAさんだ、とは言えない。
かと言って、Aさんはずっと明るいままの人だ、とも言えない。
こういう当たり前の感覚が頭だけで考えているとわからなくなるのが怖いところだ。
このような間違いは人間はよく起こすが、その度に自分以外のもの、自然物に触れて頭の中を叩き直していく。
こういう作業ができるのが自然であり、五感が鍛えられていると言える。
昨日までの自分は今日の自分ではないし、ましてや他者ならなおさらだ。

いつの間にかざっくりと知った程度で「わかったつもり」になっていないだろうか。
何か異種のものに降れたとき、自分が間違っているかもしれないと疑問が持てるのが正常な感覚であると申し上げておきたい。
五感を鍛えるには「自然」に触れていることが大事だ。
それは決して理屈の世界ではないことが皮膚感覚でわかってくるだろう。

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02/08

Wed

2012

デジタルの時代で「思い出」に革命は起きるか

ひとつ課題として考えていることのひとつにデジタル時代に入り思い出というものにも革命が起こるのか、という疑問が浮かんでいた。
というのも、遺品整理の際、多くの物を捨てる。
その中に「写真」がある。
これは当然現物としての写真が一枚二枚と積み重ねられていくことになる。

もしかしたらこの先写真は現物では存在しなくなるかもしれないなどと考えながら、目の前にある写真を遺族が捨てていく様子をテレビで眺めていると、多くの思い出は「物」の中に存在し、その人の「人生の中」に存在しているのがわかる。
人の「所有物」と「思い出」は今まで密接な関係を持っていた。

テレビでは義理の兄が亡くなった妹の写真を捨てていたが、理由は「自分の死を意識するから」だった。
義理の妹は心不全で孤独死。
ちょうど義理の兄は家族旅行へ出かけていた時だったという。
義理の兄も高齢っぽく、残り時間のことを考えるのだろう。

昭和の時代とは違い、これから多くの物がデータとして残っていくことになる。
データとしてたくさんのものが残るということは「不要な物」も多く残るということになる。
この膨大なデータは一人の人間が取り組んで編集しようとしてもどうにもならないぐらいの膨大な量になる。
ネットの記事に本棚の中の自費出版物として編集された「日記」というものがあり、これが資料になり、そしてその資料の欠片が寄り添って新たな編集物として再編されるようなことが書いてあったが、疑問が多く残る。
まず「誰が見つけるのか」という問題。
遺品整理の際、遺族がいとも簡単に捨てる確率の方がはるかに高い。
それだけ「他人が持つ個人の記憶に対する価値」は薄れていくと悲しいながら思っている。
そうしないためには今から地道に活動しなければいけないほどだとも。
あとは、これからの人間は「紙で残すか」という問題。
わざわざコストのかかるものを選択するだけの価値が生み出せるほど個人に編集能力はつくのか。
結局はデジタルによって吸収され、編集の作業は検索エンジンのようなアルゴリズムがし、そして人間が選び取るという考え方の方がはるかに私は実感が持てる。
生み出すものよりも編集する側の方がはるかに貴重になるため、価値が出てくる。
「思い出のデザイン化」という現象が起きてくる。

「思い出」は誰のものになるのか、という問題はまずここでは論じない。
デジタル時代に出てくる問題よりも、ここでは「所有物」に吸着していた「思い出」という作られ方、残され方が、デジタル時代になるにつれて変わるのか、ということを考えていきたい。
もちろん「物」が消えることはない。
どんなに愛着が物になくたって、人間が幽霊のような某アニメのようなネットの中の「データ」に意識が入り込めない限り、「物」は使わなければならない。
場所や服や日用品。
これらの中に思い出とまではいかなくとも「愛着」が出てくることはある。

それでは「思い出」の最初の段階として「気になる」や「好き」や「愛着」が出てくるとしたら、何が発端になるのか。
相手の「脳」を使ってもらって、さらに「記憶」に落ちるまで「脳で処理」してもらうには、羅列された信号だ。プログラムによって並んでいるにすぎない景色だ。
所詮はデータなどその程度の物なのだ。
ユーザーが検索エンジンによって選んだ「ピンポイントの興味の対照」だけではどうにもならない。
私たちにとっては他人のデータなど流れて埋もれていくものであるが、個人にとっては、それなりに価値がある。
多くは個人の経験を起点にしてネットも動いている。
なぜなら自分の知らないことは調べられないし、価値観の中にないものを価値と感じることはそうあることではないのだ。
だから個人は経験を元にして価値を取捨選択するというのはしばらくは続く。
その経験も都市の情報化社会で純粋培養された人たちにとっては、どう認識されるようになるのか、私には想像が現段階ではつかない。
もう少し技術が出てきて人の生活に浸透するまでは。

私は今ものすごく大きな勘違いをしているのかもしれないと、ここまで書いて気がついた。
今まではパッケージ化されたものを「コンテンツ」と呼び、そして囲まれたユーザーたちが作り出していくものを「コンテキスト」とさしていた。
だが、デジタルの時代になって本当にそう認識されているのか。
もはや「コンテンツ」と呼んでいる物は見事に「コンテキスト」に化けているのではないのか。
その「コンテキスト」を共有できる人たちだけがデジタル上に存在するものを取り囲んでいる。

例えば私が作り出した小説はすべて「個人的なコンテキスト」なのではないだろうか。
少なくとも実感として感じているのは、デジタルの中に放り込まれれば「コンテンツ」ではなく、何者かの「コンテキスト」に近い状態で認識されてしまうということだ。
そしてソーシャルなのとちまたでは言っているのだから、妙な感触を受ける。
本当に「コンテンツ」となるものは何か。
逆流しているようなこの流れから考えればデジタル時代に重要なのは個人に「コンテキストによってコンテンツを与える」、今はわかりやすく言い換えるならば「経験」「思い出」を与えるのは「コンテキスト」に移り変わろうとしている。

そして本当のデジタル上の「コンテンツ」とは大きなくくりになろうとしている。
数々のソーシャルネットワーキングのサイト、各社検索エンジン、音楽販売サイトなど、いわゆる「今までコンテンツと呼んでいた小さなものの集合体」こそがデジタルでの「コンテンツ」に成り代わろうとしている。
そうなれば人間に適応すれば、もはや一個の人間の脳こそ「コンテンツ」であり、そこから出た物はすべて「コンテキスト」としてデジタル上では処理される。
「思い出」や「愛着」は既にデジタルでは「コンテキスト」なのだ。

「コンテキストから思い出は作られるのか」という疑問が浮かぶ。
それが強い共有を生めば、アクション、衝動を生むことができれば、彼らの思いの集合体がデジタルで「コンテンツ」となるのだ。
ならばデジタル上では発想を変えなければいけない。
膨大なデータというコンテキストの中で思い出を集めて「コンテンツ」を完成させて、ようやくデジタルではパッケージ化されるのだ。
それまで個人の「思い出」は、ふわふわと塵のようにネットの海に漂うだけだ。

デジタル時代の「思い出」は、他人の思いの集合体によって、ようやく「思い出」として形作られるのではないかと、ひとつ考える。
もちろん、これだけではないし、少し最初の論旨とはずれてしまったが、データと思い出との関係はひとつ炙り出せたように思う。

少なくとも言葉による定義は、技術などにより認識による定義にすり変わろうとしている。
そう考えれば何故ネットで繋がっていても「孤独」なのか、説明がつく。
生身の人間である「コンテンツ」そのものに興味が持たれていないと、皮膚感覚でどこかわかっているからだ。
これは蛇足だった。

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02/07

Tue

2012

ぱっといつもの癖で変換して確認しないで打とうとして「配車と駐車」という題名にしてしまいそうになりました。
いいえ、違います。
歯医者と注射で正しいのです。

そもそも、わたくしは一億年と二千年前からしつこいほど申し上げて、今回の記事で百万回くらいは記事で書いたと思うのですけれど、歯医者と注射が嫌いなのです。
そして歯医者は注射もするから余計に嫌いなのです。

そういえば前回いつ歯医者行ったんだろうと思ったら、2003年でした。
いつの時代でしょう。
きっと日本が戦争を追えて、ようやく立ち直ろうとした時だったような、そんな昔まで、うん、いかないね。

ということで、前歯の歯と歯の間のところに何か穴のようなものが見えはじめ、歯がしくしくとしてきたので、もう観念して行って参りました。
雪祭り会場を通ってきたのですけど、周囲の景色がとってもブルーに見えたよ。
限りなく透明に近いブルー。
あ、雪のせいか。

会場の楽しい雰囲気、世界各国の料理が屋台として出ていて実においしそうな匂いが立ちこめておりましたが、ああ、ぼくちんはどうして虫歯などになったのであろうと、色々思い返しておりました。
あ、歯をきちんと磨いてなかったからだ。
そういえば酒飲んで、そのまま寝ちゃったことも。
すいません、チョコレートとか和菓子洋菓子結構食べていたような気がします。
その後すぐ歯は磨いてなかっ、うわぁ! ダメじゃん!

かくしてなるべくして虫歯になったのです。

唯一の救いは歯医者さんは中年の方なのですが、その他のスタッフは皆かわいい女子。
心の救い。
地獄での天女。
絶望へと射し込む光。

そしてそんな女子たちを前に、いい男っぷりをアピールすることもできず、そもそも自分にはそんなアピールポイントがないことに気がつき、そんなことよりも歯医者でそんなアピールをしたら、あの麗しき天使達の目によって場が急速冷凍されることは目に見えており、大人しくスゴスゴと治療台の上に乗りました。

やっぱり緊張しますよね。
いい大人がソワソワ落ち着かず、まるで檻に入れられたばかりの小動物のように、あちらこちらと見てしまいます。
そして9年ぶりぐらいに再会した先生。
いや、同じ先生だったのですよ。
お互い生きててよかった! と感動の再会をするために熱い抱擁をしようと待ち構え大人しく座っていた私に大人の会釈。
職人は余計な口は聞かず、仕事で語るという硬派なスタイルを貫いていらっしゃる。

いざ歯を見てもらい、すぐさま麻酔。
なんかチクッともするのですが、ぐいっと押し込まれているようなしびれが来ます。
死ぬ。きっと死ぬ。このまま意識朦朧、疲労困憊、肥満間食、遺憾千万。
水がかからないための白いタオルをかぶせられて、いざ治療。
でも時折タオル効果ないし!
私口小さくて指三本縦に入れるのが精一杯。顎外れる。
そのくらい小さくて、大きく開けられないのです。
そいで時折漏れた水が鼻の中とか来て、むせそうになる。
そして漏れた水は左目に流れ出してくる。
ぎゃー! 必死に目をつむる。
麻酔の時から「楽にしてくださいね」なんて言われながら、強火で煮込みすぎたチャーシューみたいにガチガチに固まっているぼくちん。
まな板の上の鯉みたいに騒ぎ出したら、もう出入り禁止になるのではないかと、祈るような気持ちで黙っておりました。
偉い! 頑張ったね、私。
誰も褒めてなんてくれないので、幼稚と罵られようが、臆病と言われようが、小さいと言われようが、自分で自分のこと褒めてやらぁ!
しかし、最近の虫歯治療は早いのですね。
前歯の詰めも含め、ものの20分くらいで終わってしまいました。

治療が済んで、目にかかった水を拭こうと、眼鏡をとってハンカチで目頭を抑える。
ん? ちょっと待てよ?
部屋には歯科助手のかわいい子がまだいる。
後ろからハンカチで目を拭いているのを見ている。
これって、なんか大の大人が歯の治療されて泣いたみたく見えるんじゃないの!?
な、泣いてなんかないんだからね!?
治療の時に水が目に流れ込んで来ただけなんだからね!?
目から水が出たんじゃないんだからね!?
しかも鼻に少し入った水が残っているような、麻酔のしびれでよくわからないような感じで、帰り際に鼻の下押さえながら帰るというマネをしてしまい、かなりの歯科助手さんたちに見られたのですけど、泣きながら帰っているわけじゃないんだからね!?

ああ、歯医者で歯を削られても平然としている、クールな男でモテ男作戦が見事に瓦解したわけです。
はい。歯医者にそんな目的で行くなというよい教訓でした。

外に出ると昨日よりも暖かな風が吹き、景色が潤んで、いないってばっ!
また来週勇気を出して行ってきます。

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02/04

Sat

2012

占い 前世のカルマ

2、3年前くらいに、占星術か何かで知り合いが占ってくれたことがある。
その時随分と思い当たることが多かった。
まず前世からのカルマとして家族との間の大きな溝というのがあった。
十数年悩んでいたことだった。
どこかでずっと改善したいと思いつつもできなかった。
それよりも改善までいかなくとも、家族と関係を切りたいと思っていた。
もうこの家族とは一生関わらない。
そして自分も家族は一生持たない。
どのような事情になろうと子供は持たない。
自分で終わりにしよう。
同じ目に合わせることはない。
30になろうとしているのに、ろくに生きていけない、偏屈で鬱屈した精神を持つ人間を育てることはないのだと考えていた。
きっと自分は子供に当たる。自分のコピーを作る。立派に育てる、という名目で精神的な虐待をする。
子供な親は子供を育てることなどできないし、きっと子供の欠点を見つけて責め立てるような醜い気持ちを持った親になるだろうことは理解していた。
だからもう自分で終わらせる。
ずっとそう思っていた。
だから自分の命を軽視していたし、家族のことも軽視していた。
自分自身に価値を置けないと、他人のことを虫けらのように、何の価値も見出せなくなるのですよ。
精神が荒むというのは、これだけ酷い状態になる。
正しいことが恐ろしく、敵視する。
そんな気持ちは絶対に理解されない。
精神科医である親戚がいるが、話しても通じない。欠片すらも理解されない。
そりゃそうだろう。
余計に疎外感と人に対する憎しみは募った。
突然殺してやろうかと思うこともあった。
私の精神の奥には拭いきれない憎しみのようなものが沈んでいる。
約10年間、2時間頑張ればぐったりして一日中休みたくなるような精神力しか持ち合わせていなかった。
私は弱い人間の精神構造がわかる。
鬱屈した精神を持っている精神メカニズムが見える。
同族嫌悪とでもいうのだろうか。
見えるからこそ関わりたくないと思う。
いや、ストレスに耐えきれないので、底に沈んでいる泥をすくい上げられると一気に心が濁るのだ。
今でも「強者の理論」というやつが心底嫌いだ。
ずっと持っていたものの名残りは続いている。

私は長い時間をかけて、まず私が生きている間には覆らないかもしれなかったカルマの因果を覆した。
家族と少しずつ歩み寄れるようになったのは強い呪縛の鎖を解けるというよい兆候だ。
作家「光野朝風」の誕生にはいくつかの条件をクリアしなければいけなかった。
まず、家族とのカルマの支配権を握ること。
母親の生存。
父親の価値観の変革。
家族以外の「愛」を与えてくれる存在。
自らの立脚点の構築。

私は人より10年間も出遅れている。
それもまた、思い返せば宿命だったのかもしれない。
すべてが必要なことだった、などとふざけた言葉で片付けられるような内容ではないが、私が歩んできた「落ちこぼれ人生」は、自分がどこにいたかを忘れるなよ、という戒めなのかもしれない。
できない人間だったから、本当に多くの人間を傷つけたし苦しめてきた。
そのくらい、よくわかっているんだよ。言われなくたって。

10年出遅れたからといって、もっと早ければなどとは思わない。
人は過去に対して色々後悔を持ち、あの時ああすればよかった、とよく思うが、私はそれを思うとぞっとする。
あと5年早く動けていたら、私は最も大事なものを失い、一生罪悪感で苛まされたことだろう。
それは作品にも大きな影を落とし、作家としては完全に終わった形となり、自分の人生も大きく鬱屈したものになっただろう。

人生を評価することそのものが愚かなのかもしれない。
人には人の気持ちがあり、価値観があり、人生がある。
そういうものは、よくできた人間ではないと慮ってくれない。
ひとつの物差しで世界や人間を評価するようなことはできないのだ。

今日、なんとなく記したくなった。
改めて、どこを通ってきたのか確認したくなった。
いつの日か、私が死んだときにでも「こいつはどこを歩いてきたのか」という資料として、素直に記しておきたいと思った。
まだ饒舌に詳細に語る勇気がないのは、まだ私が這い上がる途中にいるからだ。

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02/04

Sat

2012

なんとなく、日本の行く末も見えてきたな。
絶望的ではないけれど、英語で仕事ができる、というのが必須になり、日本の組織内の独自ルールはこれで崩れる。

5年以内にはきちんと英語を扱えるようにしないといけない。
圧倒的な差が出てくるし、今の常識なんて全部なくなるわけだから、早く忘れた方がいい。
そして基礎的な教養をきちんと身につけておかないといけないし国境を越えてもきちんと発揮できる判断基準を持っていないといけない。
とにかく、日本はもう変わったのだね。

大きな、震災よりも大きな変化が訪れる。
もう、「経済大国」ではなくなるのだね。
最もその素質を持っていた国が教育と教養の乏しさによって世界に敗北したのだ。

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
45
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みますが光野(こうや)とか朝風(=はやぶさ)でもよろしゅうございます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。自分でも困るほどの「皮肉屋」で「天邪鬼」。つまり「曲者」です。

2011年より声劇ギルド「ZeroKelvin」主催しております。
声でのドラマを通して様々な表現方法を模索しています。
生放送などもニコニコ動画でしておりますので、ご興味のある方はぜひこちらへ。
http://com.nicovideo.jp/community/co2011708

自己プロファイリング:
かに座の性質を大きく受け継いでいるせいか基本は「防御型」人間。自己犠牲型。他人の役に立つことに最も生きがいを覚える。進む時は必ず後退時条件、及び補給線を確保する。ゆえに博打を打つことはまずない。占星術では2つの星の影響を強く受けている。芸術、特に文筆系分野に関する影響が強い。冗談か本気かわからない発言多し。気弱ゆえに大言壮語多し。不安の裏返し。広言して自らを追い詰めてやるタイプ。

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