ひとつ課題として考えていることのひとつにデジタル時代に入り思い出というものにも革命が起こるのか、という疑問が浮かんでいた。
というのも、遺品整理の際、多くの物を捨てる。
その中に「写真」がある。
これは当然現物としての写真が一枚二枚と積み重ねられていくことになる。
もしかしたらこの先写真は現物では存在しなくなるかもしれないなどと考えながら、目の前にある写真を遺族が捨てていく様子をテレビで眺めていると、多くの思い出は「物」の中に存在し、その人の「人生の中」に存在しているのがわかる。
人の「所有物」と「思い出」は今まで密接な関係を持っていた。
テレビでは義理の兄が亡くなった妹の写真を捨てていたが、理由は「自分の死を意識するから」だった。
義理の妹は心不全で孤独死。
ちょうど義理の兄は家族旅行へ出かけていた時だったという。
義理の兄も高齢っぽく、残り時間のことを考えるのだろう。
昭和の時代とは違い、これから多くの物がデータとして残っていくことになる。
データとしてたくさんのものが残るということは「不要な物」も多く残るということになる。
この膨大なデータは一人の人間が取り組んで編集しようとしてもどうにもならないぐらいの膨大な量になる。
ネットの記事に本棚の中の自費出版物として編集された「日記」というものがあり、これが資料になり、そしてその資料の欠片が寄り添って新たな編集物として再編されるようなことが書いてあったが、疑問が多く残る。
まず「誰が見つけるのか」という問題。
遺品整理の際、遺族がいとも簡単に捨てる確率の方がはるかに高い。
それだけ「他人が持つ個人の記憶に対する価値」は薄れていくと悲しいながら思っている。
そうしないためには今から地道に活動しなければいけないほどだとも。
あとは、これからの人間は「紙で残すか」という問題。
わざわざコストのかかるものを選択するだけの価値が生み出せるほど個人に編集能力はつくのか。
結局はデジタルによって吸収され、編集の作業は検索エンジンのようなアルゴリズムがし、そして人間が選び取るという考え方の方がはるかに私は実感が持てる。
生み出すものよりも編集する側の方がはるかに貴重になるため、価値が出てくる。
「思い出のデザイン化」という現象が起きてくる。
「思い出」は誰のものになるのか、という問題はまずここでは論じない。
デジタル時代に出てくる問題よりも、ここでは「所有物」に吸着していた「思い出」という作られ方、残され方が、デジタル時代になるにつれて変わるのか、ということを考えていきたい。
もちろん「物」が消えることはない。
どんなに愛着が物になくたって、人間が幽霊のような某アニメのようなネットの中の「データ」に意識が入り込めない限り、「物」は使わなければならない。
場所や服や日用品。
これらの中に思い出とまではいかなくとも「愛着」が出てくることはある。
それでは「思い出」の最初の段階として「気になる」や「好き」や「愛着」が出てくるとしたら、何が発端になるのか。
相手の「脳」を使ってもらって、さらに「記憶」に落ちるまで「脳で処理」してもらうには、羅列された信号だ。プログラムによって並んでいるにすぎない景色だ。
所詮はデータなどその程度の物なのだ。
ユーザーが検索エンジンによって選んだ「ピンポイントの興味の対照」だけではどうにもならない。
私たちにとっては他人のデータなど流れて埋もれていくものであるが、個人にとっては、それなりに価値がある。
多くは個人の経験を起点にしてネットも動いている。
なぜなら自分の知らないことは調べられないし、価値観の中にないものを価値と感じることはそうあることではないのだ。
だから個人は経験を元にして価値を取捨選択するというのはしばらくは続く。
その経験も都市の情報化社会で純粋培養された人たちにとっては、どう認識されるようになるのか、私には想像が現段階ではつかない。
もう少し技術が出てきて人の生活に浸透するまでは。
私は今ものすごく大きな勘違いをしているのかもしれないと、ここまで書いて気がついた。
今まではパッケージ化されたものを「コンテンツ」と呼び、そして囲まれたユーザーたちが作り出していくものを「コンテキスト」とさしていた。
だが、デジタルの時代になって本当にそう認識されているのか。
もはや「コンテンツ」と呼んでいる物は見事に「コンテキスト」に化けているのではないのか。
その「コンテキスト」を共有できる人たちだけがデジタル上に存在するものを取り囲んでいる。
例えば私が作り出した小説はすべて「個人的なコンテキスト」なのではないだろうか。
少なくとも実感として感じているのは、デジタルの中に放り込まれれば「コンテンツ」ではなく、何者かの「コンテキスト」に近い状態で認識されてしまうということだ。
そしてソーシャルなのとちまたでは言っているのだから、妙な感触を受ける。
本当に「コンテンツ」となるものは何か。
逆流しているようなこの流れから考えればデジタル時代に重要なのは個人に「コンテキストによってコンテンツを与える」、今はわかりやすく言い換えるならば「経験」「思い出」を与えるのは「コンテキスト」に移り変わろうとしている。
そして本当のデジタル上の「コンテンツ」とは大きなくくりになろうとしている。
数々のソーシャルネットワーキングのサイト、各社検索エンジン、音楽販売サイトなど、いわゆる「今までコンテンツと呼んでいた小さなものの集合体」こそがデジタルでの「コンテンツ」に成り代わろうとしている。
そうなれば人間に適応すれば、もはや一個の人間の脳こそ「コンテンツ」であり、そこから出た物はすべて「コンテキスト」としてデジタル上では処理される。
「思い出」や「愛着」は既にデジタルでは「コンテキスト」なのだ。
「コンテキストから思い出は作られるのか」という疑問が浮かぶ。
それが強い共有を生めば、アクション、衝動を生むことができれば、彼らの思いの集合体がデジタルで「コンテンツ」となるのだ。
ならばデジタル上では発想を変えなければいけない。
膨大なデータというコンテキストの中で思い出を集めて「コンテンツ」を完成させて、ようやくデジタルではパッケージ化されるのだ。
それまで個人の「思い出」は、ふわふわと塵のようにネットの海に漂うだけだ。
デジタル時代の「思い出」は、他人の思いの集合体によって、ようやく「思い出」として形作られるのではないかと、ひとつ考える。
もちろん、これだけではないし、少し最初の論旨とはずれてしまったが、データと思い出との関係はひとつ炙り出せたように思う。
少なくとも言葉による定義は、技術などにより認識による定義にすり変わろうとしている。
そう考えれば何故ネットで繋がっていても「孤独」なのか、説明がつく。
生身の人間である「コンテンツ」そのものに興味が持たれていないと、皮膚感覚でどこかわかっているからだ。
これは蛇足だった。
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