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あさかぜさんは見た

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2024

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01/05

Sun

2020

泣き崩れた

元旦は泣き崩れた。
その胸にすがって泣いて「生きていてごめんなさい」と「もう生きていたくなかった」と「もう嫌だ」と、ただ無力な存在として始まった。
去年全部ダメになったら死ぬつもりだったのだから、いざ新年迎えると本当に惨めさだけが心の中にあって、生きていてはダメな存在として命長らえていた。
他の人からしたらどうでもいい命だから、消えてしまっても、それこそ気にされない存在だと。
だから死んでも誰も気にしないと思っていた。
やることは沢山ある。
でも日銭を稼ぐことに忙殺されて魂を保つのも精一杯だ。
魂を保つ。
そんな中でも創造性を保つ。
難しい問題だ。
生きてしまっている。
だから、とはならない。
気持ちを保っているだけで結構な感じで生きている。
心が崩れると手が震えだす。
どこから来るのかわからない不安感が支配しだして自分を保てなくなる。
こんな心を一生引きずるのなら無くなってもいいとさえ思っている。
だって、本当に辛い。
意図せず、突然、心が、壊れる。
ずっと手の中に水を入れて保っている感覚に似ているし、砂漠の中の井戸にずっとオアシスから手で汲み取った水を入れていく作業をしているようなものだ。
人は心だけは理解できない。
もうやりつくしてきたし、絶対的に無理だと理解した。
ただ僕は愛というものが何かを理解したし、そして愛を学びえる機会を多々得ている。
それはまだよかった。
でも僕は本当にダメなやつで、作った作品を心から満足できなければ、他人の何もかも受け付けないような心になってしまっている。
面倒だ。
でも、満足したい。
もう少し延命された。
そのもう少しの気力の中で何かを作りたい。
僕は闇から始めるよ。
僕はダメだ。
とても光を見つめられ続けられるほど、明るいところに慣れていない。
直視できないよ。
だから僕は闇を語る。
病みを語る。
自分に正直にね。

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12/08

Sun

2019

大人の目は死んでいるのか

40になって周囲を見渡すと、どうしてか同い年の目は死んでいて、若者の方がキラキラしていることに気が付く。
あと、社会に出たての若者の目も時折死んでいるけれど、社会人ってのは魂を殺すためにあるのだろうかという疑問が浮かんでくる。
社会に出たからではなく、会社に入ったからではなく、恐らく日本国の潜在的な坩堝に陥っているのだと思っている。
同調圧力という慣習でもなく、習慣でもなく、文化でもなく、宗教でもなく、教養でもない、ただ無自覚な集団意識によって若者の心を殺していっているのだ。
この年になると、なんと夢を語る人間に出会うことが少なくなることか。
40ってのは働きだしてから折り返しにも満たない地点にあるのに、もう魂も瞳の輝きも死んでいる。
なんだこいつらは。
どうして生きていられる。
死にたくならないのか。
生きていることに何の意味があるのか。
子供が生まれたりして子供のためと言う責任感のある人間もいる。
でも親の目が死んでいて、職場ではパワハラ繰り返していて、愚痴は絶えない、周囲を見下しているなんて親、子供は気が付くよ。
特に夢のない大人ほど、希望を持っていない大人ほど周囲への愚痴が山ほど多くなって、言うだけ言って自分は諦めているなんていうのが多すぎる。
うんざりするほど多いんだ。
どうした。どうしたんだよ。
昔からそんな夢も希望もない大人だったのか。
もう少し夢や希望を持っていいんじゃないのか。
ダメか。そんなことすら許されないのか。社会人ってのは。
俺は今年全部失ってマイナスもマイナス。
借金が4倍に膨れ上がったぞ。
もう死にたいよ。
正直こんな人生歩むんだったら生まれてこなかった方がよかったよ。
そんなんでも生きていて欲しいって言葉をもらって生きている。
そしてまた全部失うかもしれないけどチャレンジしたいよ。
いくつになっても夢があんだろ。
想像することぐらい簡単だ。
夢を語るよりも愚痴の方が多くなったら、そりゃもう魂が死んでいるって思った方がいい。
死んだ魂が訴えかける言葉なんぞ何の輝きもないし、腐臭しかしてこない。
よき大人になるには、指さされて笑われることを恐れるよりも、夢を語ることを恐れて周囲への偉そうな愚痴しか言わなくなることこそ恐れた方がいい。

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11/14

Thu

2019

「ジョーカー」

先月の話になる。

映画「ジョーカー」を見てきた。
僕はホアキン・フェニックスを見たのは実は「グラディエーター」以来で、他の作品は知らなかった。
順撮りせず怒ったけれど、ジョーカーに成ってからがわかったから逆に覚醒前が理解できたって言ってたところとか、20kg以上もの減量をして逆に力がみなぎるという現象を感じたとか、もう原理的に根源を体験して演じているいることがよくわかる。
僕はジョーカーそのものが、有名どころでジャック・ニコルソンとか、ヒース・レジャーくらいしか知らなかった。
でもリンク先の動画を見てよくわかった。
ジョーカーというキャラクターは何一つ超人的能力も道具もない。
ただ、世界中で一番崇拝されているサイコパスで、「ダークナイト・ライジング」の上映の際には触発されて映画館で銃乱射をした人間が現れるほどだったという。
その死亡事件が起きているのでアメリカでは映画館には私服警官を配置するくらいの厳戒態勢だという。
僕は一回だけアメリカに旅行以上の滞在、一か月半ほどいたことがあったけれど、あそこは本当に精神的に楽だった。
死ぬも生きるも自分次第。
ただやりたいように生きて死ぬ。
トップに上り詰めなきゃ死ぬだけ。
でも病気にかかったらおしまいだけど、一日30ドル稼げる能力があれば明日につなげることができる。
そんな感覚があった。
日本でとても辛いのは空港に帰って来た時、職員でもないし、空港の関係者だけど「線の上に並んでください」って言われた時は周囲には誰もおらず、アメリカに行った仲間だけだったのに言われたこと。
誰かいたらわかるけど、僕ら以外は誰もいないのに、いいじゃんって思った。みんなも同じように言っていた。もう文化なんだろうな。
三十分待てた電車が日本では五分待てなかった。
僕はいまだに苦痛なのは日本にいたら「こうしなければいけない」という「must」系の同調圧力が強すぎることだ。
でもなんだろう、このアメリカのある意味の自由さは。
どうして「ジョーカー」なんてサイコパスが殺人鬼が、これほどまでに魅力的な人物として崇拝されるのだろう。
アンチテーゼには絶対にならない、人間の悪の本質が、もうここにある。
理解不能なものがある。
自分の顔の皮を剥いだり、繋ぎ合わせたり。
最も相手の本質が揺らぐものを試すために、色々なものを破壊して様子を見る。
殺人だろうと何だろうとかまわない。
相手はバットマンとかだから、正義の本質は何かと問い詰めているようで、ジョーカーの心理を考えると、人間の最も原始的な感情である攻撃性、「こいつさえいなければいい」からの「いや、こいつが何故ここに存在しているのだ」となり「こいつが最も大事にしているものを壊したら、俺が嫌いなこいつの本質は消えるのだろうか」等と言う、ある意味哲学さえも含めた残虐性になって、相手を笑いながら苦しめるというキャラになるのではないかと感じるところがある。
わかる人にはわかるんじゃないだろうか。
個人の大事なものを傷つけられまくって、もう人間を信用できなくなって、無意識にいつ人間は裏切るかわからないし、次の日には誰かに僕の悪口を言ったり、どんなに説明しても一般常識や何やらで「あなたは間違っている」と言って、相手の言うことを聞かなければ周囲に言いふらし、最後まで社会的にも追い詰めてくるんじゃないだろうか、そうやって周囲の無言の暴力を受けさせて、周囲と結託して最終的には暴力を正当化させてどのようなことをしてもいいようにするのではないか。
集団性への恐怖の感情がふりきれた時、最後人間は最も悪質な方向へと垢ぬけてしまう。
振り切れてしまった時「相手の最も大事なものを知りたい」という欲求をどのようにして最も素晴らしい手段で体現するのか。回りくどいことなんてしなくていい。人間はいつだって生きていれば大事なものを作ることができる。お前はどうしてそれに固執するんだ。命がけでやる価値のあるものなんて、お前が言うほど、言葉で表すほど実はないんだぞ。そうじゃないのか。
そんな問いかけが全て彼にとっては「ブラックジョーク」なのだ。
人間が犯罪を起こすときは何か理由があるってのが僕が「太陽に吠えろ」で学んだことだけれど、人間ってのは愛がなければ愛を見失えば、無意識に悪を行う。
どうしてだろうか。
頭がどれだけよくても博識でも・・・どうしてだろうね。
悪は常に自分の中に存在する。
正義だと思っていても、いかに証拠を集めて正しくても、やり方次第で悪になる。
ジョーカーは社会の不満の体現じゃなくて、誰もが持っている「不快感のシンプルな排除」と「根源的心理への実験」なのだと感じた。
金獅子を撮った映画はとても印象的なものばかりだったけど、今回の「ジョーカー」は下知識がないと、なかなか難しいかもしれない。
そして、YouTubeで見て僕がわかったことは、「ああ、日本人なんて無視していいや」ってことだ。
アメコミで出てくるジョーカーなんて、本当に常軌を逸している。
だから見て思い出した。
表現で媚びることはない。
もっともっと自分が狂っていけばいい。
ただそれだけの話だ。
最後は一人で死んで作った物が勝手に肥え太っていけばいい。

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11/14

Thu

2019

芸術家からの影響

僕はとあるマスターのはからいで、有名な陶芸家さんと知り合った。
その方は僕に強烈な影響を与えてくださっている。
最初は相手が酔っぱらっていたのもあるが「感性が足りない」と言われ、その夜は心底悪酔いして友達に電話して悪態もついた。
出会った時、このような話をしていた。
「器を大事にしていれば、その様子を子供も見ているから子供も大事にしていく。そのような様子を見せていくのが大事」
と言う内容を仰っていた。
僕は下衆の感情を知っていたので「いや、そうはならない」ということを反論した。
「じゃあどうすればいいのですか?」
と、その時聞かれたけど納得させられるようなことは何一つ言えなかったと思う。
悪貨は良貨を駆逐する。
要は、僕の言いたかったことって「嫉妬」なのだと今思う。
嫉妬や怒りは思考回路の停止になる。
それがどれだけ素晴らしいものかは感性や知識がなければわからない。
だから、どれだけいいものが出来たとしても、見る人間が成熟していなければ怒りや嫉妬で問答無用で破壊されるのだと、伝えたかった。
でも、伝えたところで本当に「じゃあどうすればいいのですか?」になるのだ。
その答えは今わかりつつある。
自分を伝えるしかないのだ。
相手のことを考えつつ、どう、そこに対して寄り添えるか、言葉を考えて、例えて言うならば「君はこういうことがあったんだね。僕は君と同じようにこうして器を作ったんだよ」って、相手の話を聞いて、打ち明けるような、姿勢を始めて伝えるべきところで伝えるみたいな、そういうアプローチが必要で、それでこそ、ようやく苦しみの中から救われるんだろうなと。
不思議なことに僕は両極の人を知っていて、面白いもので上の人たちは下の人たちと関わることがないという現実をまざまざと見ている。
それは社長がわざわざバイトと友達になろうとしないように、知識や持っているフィールドや階級の次元によって、その下の人間とは積極的には関わろうとしないからだ。
古今東西社会や認識の断絶はこういう些細なところにあるのだけれど、多くの人はこれを意識しようとしない。
なんだか僕はこの断絶を知らない人に対して攻撃的になる傾向があった。
精神の飢餓は、どんな美的なものをも破壊する。
むしろ美を壊すことに対して快楽を得る。
でもわかるはずもない。
伝えたところで理解されるはずもない。
だが、攻略策は少し見出している。
要は「大人が精神的に貧困」なんだ。
僕が僕自身を見つめて周囲を見つめていると、やっぱり大人こそ何かに飢えている。
だから子供に対して飢えを、そっくりそのまま与えるんだ。
それじゃあいけない。
大人、馬鹿やろう。
僕は今町内会を基軸にしてそれをやろうとしている。
大人よ。
馬鹿をやって楽しもうぜ。
大人こそ馬鹿にされても自分が世界一楽しんでいる人間になろうぜ。
それでこそ、僕が今でも会って大事にしてくださっている方に対しての恩返しになると思っている。
つまりは、大人が大事にしていることを伝えることを子供に伝える、伝えるってことは子供との交流を持つ機会や場を設けるってこと。
この「場」こそ、全ての答えを詰め込める機会であって、試みのすべて試されるのだと、そう考えて小さな場から作り上げています。

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11/13

Wed

2019

働きすぎって

飲食メインで働いていて、キッチンがようやくホールの年数を超えそうなくらい今キッチンで働いていて、正社員になるほどの体力がないからアルバイトにでいるけれど、見ていると体壊していない人が珍しいくらいの実態がある。
実際労働の割には給料は多くないし、一生懸命働いて体を壊しても、その負担は当然自分ってことになるから、体強い人じゃないとやっていけない。
そんな体強そうな人でさえ、例えば膝が割れて手術したり(疲労骨折)、体どこか壊して入院したり、精神病んだりと、飲食って体育会系かつ風通しの悪い(勉強する暇もなく独自の経験則が横行しまくる)業界であるので、とにかく悪い所はとことん悪い。

最近「生活をする」という概念を知ったのだけれど、これは家事炊事掃除をきちんと確保できる時間を持っていることを指すのだそうだ。
最低限の生活はここにあるのだから、生活が阻害されるとなると少し問題が出てくるわけですな。

例えば憲法25条。



二十五条
すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。



「文明的な」ではなく「文化的な」なのですな。
ということは、読書をしたり、本を読んだり、歌を歌ったり、何かを創ったり、なんてことが出来る状態を意味している。
文化的な作業をするには、少なくとも心に余裕がないといけない。
ちなみに今心が荒んでいて家の中がどんどん汚くなっている。
掃除機もろくにかけていない酷い状態。
時間はあってもやる気がしない。
文化的でさえ、精神が荒むとできないのに、社会福祉や公衆衛生の向上なんて不可能となる。
ここまでやるには、相当生活面で余裕がないといけないってことだ。

余裕。
余裕って何だろう。
少なくとも今年はハッキリ感じたのは「お金」「時間」「孤独にならない」「人のために何かできる知識と行動力」なんてものが揃ってないといけない。
さもなければ余裕などない。

日々生活していて、とにかく泥沼にはまっていくような感じがする。
底辺の生活って、本当に心に余裕など産まれないのだなと感じる。
職場のストレスを忘れるために1日中酒を飲んでなきゃいけなくなる。
底辺の人間は鬱憤の矛先を常に探している。
だから弱い人間を見つけては捌け口にしていく。
職場以外で時間的余裕などないし、ゆえにストレス発散ができないから、職場だけがストレスコントロールの場所になる。
だから当然の成り行きとなる。
これは飲食じゃなくても、どこでも一緒。

せめて、自分だけはとは思ったけれど、攻撃の対象とされると、こっちも余裕がなくなってくる。
蟻地獄。
同じ場所に引き込もうとする。
人には人の人生があるんだけどな。
以前ブラック企業だと噂されるところで「まだ遅刻で罰金ってやってるんですか?」と聞いたら「やってる」と言われた。
あなたもこういう生活してみれば色々わかりますよ、なんて言われたけど、冗談じゃねぇんだよ。
目の下にはクマ、顔には精気なし、笑顔も不自然、自分たち以外の世界はないかのような閉塞的な価値観。
そういう人間になりたくないから自分はあんたたちの側にいかないのに。
でも文化的な生活を送るまでには達していない。

働きすぎはよくないよ。
本当に。
自分、働きすぎなわけじゃないけど何も追いついてない。
職場ストレスで動けなくなるくらいだ。

もう少し人に恵まれても、いい気がするんだけどな。

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
45
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みますが光野(こうや)とか朝風(=はやぶさ)でもよろしゅうございます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。自分でも困るほどの「皮肉屋」で「天邪鬼」。つまり「曲者」です。

2011年より声劇ギルド「ZeroKelvin」主催しております。
声でのドラマを通して様々な表現方法を模索しています。
生放送などもニコニコ動画でしておりますので、ご興味のある方はぜひこちらへ。
http://com.nicovideo.jp/community/co2011708

自己プロファイリング:
かに座の性質を大きく受け継いでいるせいか基本は「防御型」人間。自己犠牲型。他人の役に立つことに最も生きがいを覚える。進む時は必ず後退時条件、及び補給線を確保する。ゆえに博打を打つことはまずない。占星術では2つの星の影響を強く受けている。芸術、特に文筆系分野に関する影響が強い。冗談か本気かわからない発言多し。気弱ゆえに大言壮語多し。不安の裏返し。広言して自らを追い詰めてやるタイプ。

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