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あさかぜさんは見た

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07/30

Tue

2013




第三次世界大戦が起きて、第四次世界大戦を防ぐには、どうすればいいかってことで、「感情の抑制」で世界の平和を保っている社会。
そこでは感情抑制薬「プロジアム」を打ち、憎しみや怒りも感じなければ幸福も感じないという、安定した精神状態になり、定時に打つことが義務付けられている。
薬を打たないで感情を持つ「テロリスト」たちを取り締まる警官として「クラリック」という役職がありクリスチャン・ベールはクラリック役です。

さて、最初に言ってしまえば、ひっどい映画なのです。
キャストは豪華なのにね。
何が酷いかって、もうゲームの雑魚キャラ並に敵の動きが酷い。
今の3DCGアクションゲームの雑魚キャラだってもっとましな動きするぜ。
見所は「ガン=カタ」という銃等を使った不思議なアクションがあるのですが、格好がいいんだか、これはギャグなのか非常に迷ってしまう斬新な映像が展開されまして、それだけは一見の価値あり。
まるで舞踏のようにゼロ距離で銃を撃ち合うラストの戦闘シーンは「こんなの見たことない!」と笑うこと間違いなしです。
結構カメラワークで映像誤魔化していたよ。

それでこの映画の特筆すべきことは、感情を想起させる道具として絵画や音楽などがあげられています。
薬を使わないテロリストたちは何故か芸術品を大事にするんですね。
豊かな感情を作り上げるものだからでしょうか。
感情が抑制されているのならば、何も感じないのならば芸術品などゴミクズでしかありませんものね。
主人公のクリスチャン・ベールがベートーベンの第9楽章を聞いてショックを受けるシーンがあります。
心が動かされていくということは、逆に代償も払います。
喜びを感じることが出来るのならば苦しみも感じていく。
心の豊かさはそんな繰り返しで開拓されていくのかも。
改めて「豊かさ」を考えさせるきっかけにはなるけど、何せ主題の落としこみ方が甘く、ただの世界設定にしかなっておらず、深い問題提起までにはいたっていない、惜しい映画となっております。
あー、クリスチャン・ベールは格好いいなぁと。
それには見入ってしまう。
ついでに『ダークナイト』も見たくなりますね。

これと似たような映画で『Vフォー・ヴェンデッタ』という映画があります。
こっちは「思想統制」なのですが、同じように危険な思想に繋がる著書や芸術品を取り締まり、しかもどちらの映画もハーケンクロイツに似たような文様の旗が出てくるのが面白いですね。
まるでディストピアの象徴みたいじゃないですか。
私としては『Vフォー・ヴェンデッタ』の方を断然お勧めするのですが。

これと似たような設定で『PSYCHO-PASS』というアニメがあったような。
こっちはしっかり見ていないので、チェックします。

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05/22

Wed

2013

『インセプション』




久しぶりに映画を見た。
そして、久しぶりによい映画を見た。
題材は「夢」なのだけど、実際は「深層意識」だ。
クリストファー・ノーラン監督というと、最近は「バットマンシリーズ」が有名だけれど、私がこの監督さんの作品を最初に見たのは『インソムニア』か『メメント』あたりだったと思う。
特に『メメント』に関しては10分間しか記憶を維持できなくなった男が妻殺しの犯人を追うというストーリーだけれど編集が10分毎に過去に逆行していくという一風変わった映画だった。
実験的と言うか、まあ、新しいことをやるのだから前衛的とも言えるし、他の人が撮らないような映像を作っていく印象がとても強い。

心理学については、専門的な知識はまだあまりなく、現代心理学がどこまでいっているのか知らない。
基本的には無意識の提唱をフロイトがし、夢に着目しだしたのはユング程度の大雑把な雑学程度でしかないのだけれど、この映画は深層心理を階層化していて、階層が進むほど目が覚めやすくなるという設定だった。
そして「心の中では世界を組み立てられる(例えば建物とか人とか)」が、「上の意識階層で起こっている物理的現象に下の階層が影響を受ける」という世界観だ。
実際面白いのが「無重力空間」というのがあった。
あれどうやったんだろう。
ワイヤーかな、なんてカンフーアクションのやつしか思い浮かばない。

他人の心の中に潜入するのだけれど、複数でも入れる。
しかも相手の心の中に入っていても、主人公の深層意識が影響してくるとか、より強いものは夢の中で具現化される。
この「インセプション」という題名、「inception=初め、発端」という意味がある。
つまり深層意識の発端となっている、基本的なその人間の「アイディア=idea=概念、思想、着想、思いつき、見解、理念」だ。
この「idea」という単語には日本語でパッとイメージするよりもたくさんの意味を内包している。
私たちは結構この深いところにある自らへの着想のようなものを根底にして人生を動かしている。
それは相当意識しなければわからないほど自然にやっているし、他人への見解も実は、この自分への思想が大きく影響している。
この映画ではトラウマの存在が夢の世界へ大きく影響していて、いわゆるトラウマというのは自分の意識では、そう簡単にはどうにかできない厄介なものだ。
トラウマは無意識領域に沈んでいて、どの階層でも出てくる。

私たちの心は自由に世界を構築できる。
それを具現化するには、現実世界でのあらゆる段階を経ていかなければ、なかなかなるようなものではないが、「設計」、つまり「心での具体的なビジョン」がなければ、具現化することは難しいし、さらには「具体的なビジョン」を維持し続けるだけのちょっとした訓練が必要になる。
そうしたいくつかの条件さえクリアできれば、現実で受けるあらゆる障害をはねのけて持続可能な意志を維持することが可能になる。
それはこの映画の中では深層意識の中に「理想世界」を築いていたため、夢と現実の境目がつかなくなるとか、夢の中に取り残された意識は虚無に陥って、二度と現実で動くことはできなくなるというものだった。

最近「心」のことをよく考えているので、この映画への発想は何度か見直して、もっと考えていきたいと思ったほどだ。
何せアクションシーン満載だし、タイムリミットありだし、エンターテイメント映画としてもよく楽しめる。
脚本ももちろん面白い。

深層心理は「錯視・錯覚」も存在しているし、それがたとえ「錯覚」だったとしても心は「本物」として捉える。
その心のトリックは自分で解いていかないといけないし、心の迷路は誰の中にもある。
心の迷路が永遠の葛藤や迷いにならないよう、私たちは辛いものと向き合わなければならない時だってある。

これは久しぶりにお気に入りの映画になった。
嬉しい限り。

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10/04

Thu

2012

大丈夫であるように-Cocco 終らない旅-




Coccoについては、あまり詳しく知らなかった。
シンガーソングライターで、拒食症を患っていた、というぐらいの知識だ。
どうして興味を持ったかというとこの後の映画で『KOTOKO』でベネチア映画祭オリゾンティ部門でグランプリを受賞したからだ。
この映像はドキュメンタリーだけれど、音楽活動を通してどんな視点を持っているのかというのがわかった。
ちなみに彼女が沖縄の人であるということも、この映像で初めてわかった。
沖縄の人間は基地問題と共にあり、毎日のように基地について考えている。
中で「阪神大震災の慰霊モニュメント」も出てくるし「六ヶ所村」のことも出てくる。
身内が働いていて給料を貰っていたら、どんなに村から離れていて関係なかったとしても何も言えない、ということを村の関係者の人が話していたのが印象深い。
Coccoはファンの手紙を貰って「六ヶ所村」のことを知り、そして沖縄の問題と重ねあわせて考えていた。
自分たちが生活を送っている裏で何らかの犠牲を背負っている人たちがいる。
特に都市圏に住んでいる人間はこの意識を持ちづらい。
かく言う私もずっと札幌に住んでいて、それなりの都会であるので、都市を維持するための労力は思い描くのが難しい。
原発の問題も基地の問題も、国家の裏でどういうやり取りがあってそうなっているのか民衆には理解しづらい部分があるし、「民意」と言ってもダイレクトに反映されているとは言いがたい。
「生活をするための、しょうがないこと」
こんな意識が取り巻いているのではないだろうか。
映像の中でもCoccoは絶望だけじゃなくて何とか前向きに生きようとしていると言っていた。

ふと他県に移って私も気がついたことがある。
地元以外の他県の情報は「東京の視点」でニュースになり、地元は「地元の視点」でニュースになる。つまり地元の問題は「東京では問題にならないこと」は外に出ていかず、地元に閉鎖的に情報が流される図式になっている。
Coccoが沖縄の問題は沖縄だけでたくさん流れている、というようなことを言っていた。
中にはジュゴンが海に帰ってきたというニュースが差し挟まれ、道民の私はそのニュースを映像の中で始めて見た。
このドキュメンタリー映像は、ほとんどCoccoのファンぐらいしか最初は興味を持たないかもしれないが、はっとさせられることがある。
それは「誰かの苦しみや悲しみを救おうとすることで自然とメッセージ性が出てくる」ということだ。
六ヶ所村から住む女性から手紙を貰ったCoccoが「助けてっていう手紙がほとんどだけど、この手紙には一言も助けてと書いていなかった」とあった。
このメッセージからもCoccoが祈りの対象のようなものであり、救いの神のような扱いをファンから受けているのではないかと思わされる。
さまざまな苦しみや痛みや悲しみに目をむけ、音楽を通してそれらを少しでも緩和できたらという気持ちが全編に流れている。

最後のほうに親としての視点があった。
一人でいたときと、親になったときの気持ちの変化が宮崎アニメ「もののけ姫」を通して語られていたのが面白かった。
守るものが出来ると、つまり後世のためのことを考え始めると、一人でいるときとはまったく視点が違ってくる。
絶望よりもなるべく希望を残していきたいし、共有したいという思いは誰にだってある。
しかし希望だけ並べ立てても現実は塩辛い。
なぜなら生きることそのものが何者かに犠牲を強いることだからだ。
この構図は人間が生物である限り変化しない。

全ての人間の苦しみを救うことは不可能だ。
だからこそ「終わらない旅」なのだろう。
彼女のファンではなくとも、何かと考えるところがあるしっかりとしたドキュメンタリーだった。


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03/12

Mon

2012

SHAME -シェイム-



久しぶりに頭をフル回転させました。
そして何年かぶりに劇場で見たいと思った作品。
映画を見て一つ気がついたのは「ああ、ハリウッド映画ってなんて饒舌だったのだろう」ということだ。
饒舌な映画というのは、とにかく喋る。
シーンを説明するために、何が起こっているのかを観客に考えさせないように、とにかくスクリーン全体を通して「喋り続ける」。
だから売れ筋のハリウッド映画というのは、考えなくてもいいし、余計な思考回路を使わなくていい。
だからこそ、この映画を見て、人により様々な解釈を与えるアプローチがとても久しぶりに思えた。
ああ、こういう映画も出てくるものなのだな、と感動した。

内容は成人もの。
最初からマイケル・ファスベンダーのイチモツが出てくるような裸のシーンがドーンと出てくるし、セックスシーンも多く含まれている。
この映画の一番特徴的なところは「饒舌ではない」というところだ。
例えば「この台詞が成り立っているのはどうしてか」「このシーンが成り立っているのはどうしてか」という仕掛けが随所にあり、そこに観るものの様々な憶測と解釈を生む。
饒舌なハリウッド映画に慣れている人は見ても、やたらとセクシャルなことしか出てこないように思えるかもしれない。
そして「疑問を持って初めて観客として成り立つ映画」なので、様々なことが明示されず、解釈できなければつまらないと思う。
何が起こっているか饒舌には説明してくれない映画なのだ。

マイケル・ファスベンダーが演じるブランドンは「セックス中毒」とあるが、部屋でポルノビデオを見たりビデオチャットセックスもするし部屋だけではなく会社でもパソコンの中はポルノ映像でいっぱいでトイレで自慰をするくらいだから相手がいなくとも「性的な刺激」がないと、どうしようもないような主人公。
この映画でヴェネチアの男優賞をとっている。納得。
私は男性だったのでちょっとわかる部分があるのだが、男性が「過剰なセックスをしたがる」というのは多くは「フラストレーションを抱えている」ことがあげられると思う。
フラストレーションの発散の手段として性的な刺激を欲しがる。
だが埋められない。
問題の根本を解決しているわけではないから。
部屋に上がり込んでくるシシー役のキャリー・マリガンも宣伝だけ見たら「娼婦役」かと思ったら実の妹だった。
そして一番重要な点はシシーを最後まで肉親として扱うというところだ。
これがセックスをする対象になってしまったら何がなんだかわからなくなって、一気にこの手のセクシャル映画がやりがちなB級C級への脱落を果たしていたところだった。
このシシーもリストカットの痕があるのだが、やはりそういう細かなシーンを見ていくと「この二人の子供たちが育ってきた環境」というのもうっすら推測できるし、「傷持ちであり、兄とは反対の位置にいる不安定な身分の妹」から「仕事部屋を与えられるほどのオフィスに勤めていて、自分の部屋も持っている注意力深い、できた兄」を見ると、実は同じ「傷持ち」なのではないか、ということもうっすら浮かんでくる。
そうなると途端に「なぜ性的刺激が必要なのか」ということに切なさがつきまとう。
「同じ傷」とは何か。
繋がらないようで裏で繋がっているのは何か。
ここらへんは観客の解釈の多様性が生まれてくる。

全体的に映像が綺麗で透明感のあるシーンに彩られていくが、男として見ると「プライベート空間に入ってきた肉親の気まずさ」や「やたらと動画を探したり、女性を性的な対象として舐めるように見る」という主人公に感情移入してしまう。
妹に自慰を見られて絶望的な気持ちになり、お前の家じゃないのだから出ていけと切れたり、その怒りの勢い余ってポルノ雑誌や毎日動画を見ていたパソコンやアダルトグッズをすべて捨ててしまうとか、妹が自分の家で上司とセックスしだして、いたたまれなくて走り出してしまうというやり切れなさ、フラストレーションの発散の場を失い苛立ち、妹は性的な対象として見ないという、きちんとした区切りの中で身の置き場をなくしていくような心の乱れがよく出ていた。
何せ自由にコールガールを呼べたのが、妹がいるから全然呼べなくなるのだしね。

同じものを持っていながら対照的な二人。
部屋は小奇麗にしているが、心まではどうなのだろうとか考えてしまうし、とにかくいろんな意味で「危ない」と思ったのは「性的な嗜好」で「これよくアメリカで問題にならなかったな」という人種的なシーンまで入っているので刺激的と言えば刺激的だった。
主人公が最長で女性と四ヶ月しか付き合ったことがないとなると、何かふっと思い出すことがあった。
というのは、以前私自身「恋愛の過程」が好きで「好きになってもらったら興味を失う」という変な癖があり、「好きでいられる」ことが重かった。
人から好かれるということに違和感があったし、本当に好かれているのか疑心暗鬼に勝手に陥るということもあった。
人を愛せない人間はだいたい思春期などの多感な大事な時期に何らかのトラウマを負っていることが多かったり、愛された経験が圧倒的に少なかったりする。
リストカットをしなければいけない心理も、なんとなくわかるだけに二人の立場が非常に辛く見える。
自己嫌悪と愛情飢餓の中でもがくからこそ人をうまく愛せず、うまく付き合えない女性。
きちんと話し合いたいが溝は深まるばかりで、どうしたらいいかわからず、やっぱり自己嫌悪が爆発してしまうというやり切れなさ。
とにかく「やり切れない映画」なのだ。
そこにある程度の理解が及ぶかどうかが映画を楽しめるかどうかに関わってくる。

この映画に強い感想を持った女性がいるのなら、ぜひ語り合いたいと思いましたよ。


追記:
2012年3月14日
非常に鋭い視点のコメントをいただいたのでご紹介します。

今日観たのですが、非常に共感するところがありました。相手から与えられるものに対して性欲と愛の区別がつかない妹シシーと、愛することから自らを閉ざしてひたすら性欲を満たして日々をやり過ごす兄ブランドンは裏表の関係で、あからさまに異常な精神病患者などではなく社会に適合してそのあたりに普通に生活しているような人たち。愛と性欲の関係が現代ほど多様で混乱した時代ってなかったんじゃないかな。多かれ少なかれ皆シシーやブランドンのような当惑を抱えて生きているような気がします。(無記名)

実はこの手の女性は結構見てきて、昔精神が病んでいたころは、「メンヘラ」といわれるような女性とよく仲良くなった。
「愛される」ということに非常に敏感で、性的な関係が一度でもあると、そこに「愛情」や「恋」を見出してしまいのめりこむ。
一度「裏切り」のようなものを男に見出すと過剰に反応したり、とにかく相手の愛情が欲しく、執着がどんどんひどくなっていく。
「愛情」をくれない男にひどく当たったりするが、別れるとなると豹変してすがりつく。
これが男性になるとよくDVになり、別れるとき人が変わったように優しくなる。
そこまで精神が病んでいなくとも「愛情に手応えを感じない」という人間は数多くいるように感じる。
それこそ「愛情の種類を選び、自らも出せるものが限られてくる」という現代人の環境・スタイルや感情の間で成り立つ恋愛に多種多様な性癖も絡んでくる。
ストレスを多く抱えているし、性が商品化されてフラストレーションの捌け口とされている。
性と愛。
性の場合、本能だからどうしてもムラムラくるときがあって、そこに「愛情」など一切差し挟みたくないときもある。
だから「自慰」という手段があるわけで。
でもやはり人と接する快楽は自慰よりもいいわけですね。
そこに「愛情」を差し挟まないで、お互い「欲求の発散」と割りきれれば、これほど都合のいいことはない。
現代は性商品にあふれていて、性的な繋がりを持とうと思えばいくらでも持てて、「愛情」というものを紡ぎあって生きることの境目をきちんと持っていないと感覚的なものから境目が曖昧になる。
理屈ではわかっていても感覚的に感情が侵食されて境目が消えていくという現象が起こってくる。
そして性的なものに対して、ある種の抵抗が薄れてきている。
ネットではいくらでもあふれているし、若者にだってきちんとした性教育がなされていない。
日本でだって性がカジュアル化するという現象が起こっているくらいだから、この映画だって他人事ではない。
この手の映画は嫌煙されがちで、つい「ポルノ映画」みたく先入観が持たれてしまうけれど、本当にうまい脚本だなと改めて思いましたよ。

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05/08

Sun

2011



「BABEL」で世界的に有名になったアレハンドロ・コンサレス・イニャリトゥ監督作品。
ショーン・ペンとナオミ・ワッツとベネチオ・デル・トロが出ておりますが、なんとまあ重苦しい。
人を選ぶ作品ではあります。

「life goes on=人生は続く」という言葉がぼちぼちと作中に出てくるように、喪失と再生の物語から「人生は続く」ということまでを繋げる作品ではありますが、一口では「悲劇」なので、エンターテイメント系の映画しか見ていない人は覚悟してみないと辛いかもしれない。

この映画の最も特筆すべきことは「編集の勝利」といったところでしょうか。
文字通り非常に編集技術が優れています。
「BABEL」でもそうでしたが、時系列にシーンを並べません。
ストレートに並べてしまったら、ひどく凡庸な映画に終わってしまったと思う。
この監督さんは「人間らしい記憶の視点」を大事にしているのではないかな。
だから編集もそうだけど、カメラワークが第三者の視点であったり当事者の視点であったり、人が見ようと意識する視点に沿っている。

監督さんの母国メキシコでは「死」が生活と隣りあわせだという。
日本の日常では忘れ去るほどの距離にあるように感じるが、それはいつも近くにある。
21gというのは誰かが死んだ時に軽くなる重さだそうだ。

監督さんは「三人の弱さを愛している」と言っているけれど、人は弱さを持っている。
それは小説を描く点でも同じ視点で描く。
「弱さ」こそが人間らしい機微を出すのに一番リアリティがあるのだけれど、この映画の主人公たちは「弱さ」で引き寄せられている。
そして自らの「弱さ」に翻弄されているけれど、「弱さ」という視点で見るならば一番自分と向き合おうとしているのはトロちゃんじゃないのか。

この映画はひたすら「弱さ」というものに流されていく、いや、それこそまさに「絶望」なのだろうが、このシナリオだと命の輪廻は、まるで偶然で成り立つようにも思えてくる。
人間は意志があって、行動する限り、どうしても自分の欲(行動から来る因果)から「自分の人生は偶然によって成り立っているのではない」と思いたいだろうし、たとえすべてが「偶然」だとしても、そこに「意味」や「意義」を見出そうとする。
そうして「理由付け」をしながら人生を進めていっているように私は感じるのだが、どうだろう。
この監督さんのように、まるで「方丈記」のような「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず~」という境地にまでは、通常の人間は達観することはできない。
だからこそ、通常体験しないような絶望的な悲劇と私は無縁である、という意識のほうが先にたって、この映画を「遠い誰かの悲劇」だとしか受け取れないのではないだろうか。

でも、自分が体験した悲劇以外は感じ取ることができない、というのも寂しいけれど。
人間は通常「明日以降も人生が続く」と考えて生きている。
だから目標を立てたり、意義を見出したり、人生は決して偶然の産物ではないのだという要素をどこかに見出そうとして気力を奮い立たせる。
前を見ようとするきっかけをどこかで見出そうとしている。

ああそうか、きっとこの映画が示唆しているのも、そこなんだろうな。

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
45
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みますが光野(こうや)とか朝風(=はやぶさ)でもよろしゅうございます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。自分でも困るほどの「皮肉屋」で「天邪鬼」。つまり「曲者」です。

2011年より声劇ギルド「ZeroKelvin」主催しております。
声でのドラマを通して様々な表現方法を模索しています。
生放送などもニコニコ動画でしておりますので、ご興味のある方はぜひこちらへ。
http://com.nicovideo.jp/community/co2011708

自己プロファイリング:
かに座の性質を大きく受け継いでいるせいか基本は「防御型」人間。自己犠牲型。他人の役に立つことに最も生きがいを覚える。進む時は必ず後退時条件、及び補給線を確保する。ゆえに博打を打つことはまずない。占星術では2つの星の影響を強く受けている。芸術、特に文筆系分野に関する影響が強い。冗談か本気かわからない発言多し。気弱ゆえに大言壮語多し。不安の裏返し。広言して自らを追い詰めてやるタイプ。

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