北野武監督作品。
いまさらながら初めて見ました。
前々からずっと思っていたのだけれど、映画評論家故淀川長治さんも北野監督の映画を絶賛しておられたし、故黒澤明監督も褒めておられた。
実際『HANA-BI』では第54回ヴェネチア国際映画祭金獅子賞受賞したし、ヨーロッパではだいぶ評価は高い。
なぜ日本では爆発的に彼の映画そのものが喜ばれないのか。不思議でならない。
非常に映画全体がテーマ性、これは人間性というのだろうか、そういうものに溢れているし、そもそも北野武映画の一番凄いところは「間」なのである。
もともとお笑い芸人というボケツッコミの絶妙なタイミングとアイディアで魅せることを長くやっていたから、あれだけの「間」が出せるのだろうが、世界を見ても「静」から「暴力」「動」への狂気ともいえる、あの絶妙な「間」を出せるのは北野武監督ぐらいなのではないかと考えている。
それに自分の能力というものに対して「遊び」を多用するのも特徴だろう。自分へのノスタルジックな感情が映画全体に溢れている。
この「キッズ・リターン」という映画、カツアゲする高校生のチンピラと友達、二人を中心にして、お笑い芸人を目指す二人、ヤクザ、気の優しく人の言うことを断れない一途な男、など人間模様が華々しい。
シナリオ的にも非常に文学的だなと思うのは、多種多様な人間を同時に追うことで、それぞれの生き方、道の歩み方をフラットな状態で見つめている。
別にどの生き方を批判するわけでも賞賛するわけでもない。互いにリズムがあって、他人を巻き込んでいく。その生き方のリズム感というものがギクシャクすることなく同じ映画の中で展開されている。大人になってこの映画を再度見たとしても、あるひとつの発見があるだろう。
それはノスタルジーでも切なさでもなく、「再会」なのだ。
何に「再会」するかは人それぞれによるだろうが、子供が見れば未来のとある可能性、大人が見れば「再会」が待っている。
北野監督映画には「生」と「死」が同居している。次の瞬間人はどうなるかわからない。ひょいと誰かに不幸を渡されたり、幸福を渡されたりして、嫌でも先の人生で渡されたものを背負っていく。そして誰かに背負ったもののせいで余計な不幸を与えられたり、せびられたり、幸福へのチャンスを与えられたりする。
意識しない限りはその分かれ目は理解できないし、意識してもわからないことだらけだ。
「終わってもいないし、始まってもいない」
次には「生」が失われているのが「人間」だろ。逆に「生」を与えられているのが「人間」だろ。
北野監督作品にはそんな乾いた視点が光っている。
ゆえに生きている限りこの作品は続いてゆく。その続きを演じているのが観客であり、そして北野武監督自身でもあるというのがこの映画の醍醐味なのではないかなと思う。
ちなみにまーちゃん演じる金子賢のほうが、後に2年ほど格闘技人生を歩んだというのは現実での出来事。一方シンジ役の安藤政信はテレビ抑え目でちょこちょこ映画に出ている。
身勝手なことを言わせてもらうと安藤政信、目が純真なのに動きが狂気じみている。普段のインタビューから見える彼の姿は非常に棘があるし、丸みを帯びているような役どころで彼を使うのはもったいない。顔立ちが上品なだけに騙されそうになるけれど、彼が本当に伸び伸びと演じれる狂気を内側に内包した役どころを演じさせたら海外の賞なんて軽く取れると思うなあ、なんて思っちゃったりするわけです。
さて、それでは今日はこの辺で、さよなら、さよなら、さよなら。
[2回]
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