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あさかぜさんは見た

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11/22

Fri

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03/24

Thu

2011





新海誠監督作品。
この作品によって一気に有名になってきたのだけれど、映像は全部一人で作ったという作品。
その後「雲の向こう、約束の場所」「秒速5センチメートル」と長編2作を発表した。
第二の宮崎駿と評される彼の作品はジプリとは違って切なさの余韻がめいいっぱい漂っている。
この作品は短編作品だけれど、必要最小限のセリフが詩のようにつむぎだされていて、何度も見てしまう。
音楽も絶妙なタイミングで入ってくるし、SFなのだけれど恋愛の「一緒にいれない」「離れて思いあう」という感情がぎゅっと詰まっている。
思うのは男性のストイックなこと。
どちらも一途に愛し続けるけれど、男のほうが状況的に色々誘惑もあるだろうに長い時間の中で生きているかどうかもわからない女性を愛し続けるというのは並大抵のことではできない。
青春の時期って、それなりに何回か恋をするものではないですか。
それで3年とかもたてばだいたいほかの女性に恋していたりする。
10代って時間が短いようで濃縮されているから、短い時間の中で本当に様々なことを思って悩んで過ごしていく。
だから青春って輝いているのだろうけれど、新海監督が凄いのは五感の感覚が優れていて、セリフの端々に匂いや音や視覚を大事にしているのが、とてもよく伝わってくる。
この作品に出ているそれらの五感感覚が後々の作品にまで生きている。
ああ、この監督さんの地金なのだなと、この作品を見直して改めて思うわけです。
もし他の長編作品を見て気になった人は、このスタート地点たる作品を見れば「作品に漂う詩情は新海誠という人間の本質だ」とよくわかるはずです。

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01/21

Fri

2011



1991年の映画か、としみじみ。
監督はスティーブン・スピルバーグ。
たまにこの映画を見たくなるのはフック船長役のダスティン・ホフマンが大好きで躁鬱がかった大人子供のはじけようがたまらなくいいのだ。
なんだか年をとるごとに感情移入ができるのは自分が年をとってきたからなのだろうか。
自分にげっそりである。
スミー役のボブ・ホスキンス(マリオ)と漫才を繰り返す、いわばおバカコンビ。憎めない。
大人になってくると、結構いろいろな目にあうので人への警戒心が強くなり、構えてしまうところがある。
ロビン・ウィリアムスが扮したピーター・バニング(パン)のようなことになるし、夢というものを信じなくなる。

自分がこの映画へ素直に感情移入できない時は心が乾いている時やギスギスしている時だ。
とてもじゃないが苦痛で見れない。
でもそうじゃない時は「夢を持ち続ける大事さ」というのを痛感して目が潤む。
ここまではっきりした心の違いに自分でも妙な感じを抱く。
夢を育てているのか、夢を食い物にしているのか。
でもこの世界のピーターパンって父親として、一人の人間として夢を持ち続けるために前向きな努力をしている。
夢だけがあってそれを持ち続け、大人に対しての反抗心などを持つなど、妙な意味で定義されてしまった「ピーターパン症候群」のピーターパンとは違うんだよな、と感じたのだ。

大人も子供も夢がないと生きられない。
その夢の持ち方というのをどうすべきなのかは、大人の責任として考えないといけないのかなとも考えはじめている。
正直、「お、れ、た、ちゃ、海賊だ!」みたいな典型的な海賊役ができたら楽しそうと思ってしまった。
ああいう世界は裏切りに満ちているけれどもね。

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07/23

Fri

2010

Kids Return キッズ・リターン



北野武監督作品。
いまさらながら初めて見ました。
前々からずっと思っていたのだけれど、映画評論家故淀川長治さんも北野監督の映画を絶賛しておられたし、故黒澤明監督も褒めておられた。
実際『HANA-BI』では第54回ヴェネチア国際映画祭金獅子賞受賞したし、ヨーロッパではだいぶ評価は高い。
なぜ日本では爆発的に彼の映画そのものが喜ばれないのか。不思議でならない。

非常に映画全体がテーマ性、これは人間性というのだろうか、そういうものに溢れているし、そもそも北野武映画の一番凄いところは「間」なのである。
もともとお笑い芸人というボケツッコミの絶妙なタイミングとアイディアで魅せることを長くやっていたから、あれだけの「間」が出せるのだろうが、世界を見ても「静」から「暴力」「動」への狂気ともいえる、あの絶妙な「間」を出せるのは北野武監督ぐらいなのではないかと考えている。
それに自分の能力というものに対して「遊び」を多用するのも特徴だろう。自分へのノスタルジックな感情が映画全体に溢れている。

この「キッズ・リターン」という映画、カツアゲする高校生のチンピラと友達、二人を中心にして、お笑い芸人を目指す二人、ヤクザ、気の優しく人の言うことを断れない一途な男、など人間模様が華々しい。
シナリオ的にも非常に文学的だなと思うのは、多種多様な人間を同時に追うことで、それぞれの生き方、道の歩み方をフラットな状態で見つめている。
別にどの生き方を批判するわけでも賞賛するわけでもない。互いにリズムがあって、他人を巻き込んでいく。その生き方のリズム感というものがギクシャクすることなく同じ映画の中で展開されている。大人になってこの映画を再度見たとしても、あるひとつの発見があるだろう。
それはノスタルジーでも切なさでもなく、「再会」なのだ。
何に「再会」するかは人それぞれによるだろうが、子供が見れば未来のとある可能性、大人が見れば「再会」が待っている。

北野監督映画には「生」と「死」が同居している。次の瞬間人はどうなるかわからない。ひょいと誰かに不幸を渡されたり、幸福を渡されたりして、嫌でも先の人生で渡されたものを背負っていく。そして誰かに背負ったもののせいで余計な不幸を与えられたり、せびられたり、幸福へのチャンスを与えられたりする。
意識しない限りはその分かれ目は理解できないし、意識してもわからないことだらけだ。
「終わってもいないし、始まってもいない」
次には「生」が失われているのが「人間」だろ。逆に「生」を与えられているのが「人間」だろ。
北野監督作品にはそんな乾いた視点が光っている。
ゆえに生きている限りこの作品は続いてゆく。その続きを演じているのが観客であり、そして北野武監督自身でもあるというのがこの映画の醍醐味なのではないかなと思う。

ちなみにまーちゃん演じる金子賢のほうが、後に2年ほど格闘技人生を歩んだというのは現実での出来事。一方シンジ役の安藤政信はテレビ抑え目でちょこちょこ映画に出ている。

身勝手なことを言わせてもらうと安藤政信、目が純真なのに動きが狂気じみている。普段のインタビューから見える彼の姿は非常に棘があるし、丸みを帯びているような役どころで彼を使うのはもったいない。顔立ちが上品なだけに騙されそうになるけれど、彼が本当に伸び伸びと演じれる狂気を内側に内包した役どころを演じさせたら海外の賞なんて軽く取れると思うなあ、なんて思っちゃったりするわけです。

さて、それでは今日はこの辺で、さよなら、さよなら、さよなら。

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12/10

Wed

2008



同じ立場になって、始めてわかったことがある。
私から、一言付け加えるとしたら映画の最後の点にある。
カポーティの崩壊は、死刑にあったのではない。
まだその時点では、再生する可能性は寸分でもあった。
しかし、その寸分の再生すらも奪った一番の原因は、
「冷血」が名声と富を限りなく吸い上げてカポーティに与えたという点にある。
作家の苦悩は、本当に人間に向き合った後、作品を書いた後、その何倍ものことが作者に降りかかる。
その苦悩は、想像に絶する。
でも、今私は、その端だけ、なぜカポーティが崩壊したか、その切れ端だけ、理解できるようになった。
「金脈」…欲望には殺されなかった。
純粋な精神ゆえに、死んでいった。

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02/10

Sun

2008

秒速5センチメートル



だから俺は「執着すること」を捨て去ったのだよ。

新海誠は、大人のドロドロしたものをろ過するフィルターを持っている純粋な子どもなのだろう。

栃木は自分にとって、本当に思い出深い場所で、アニメに出てくるシーンには疑問を持つところがある。
那須高原までいかないと、本当に雪がない。
内地だからだ。
私は、冬に宇都宮に二度、行ったことがある。

ひたすら寒いだけの印象があった。

隙間風が部屋に流れ込み、限られた灯油で、生活費の心配をしながら暖房に火をつける音大生。

この自分の栃木での物語は、表面化して書くにはあまりのも問題がありすぎるので、思い出としてずっととっておくつもりだ。

宗教と人間のことを考えた。
必死にその子を理解しようと努めた。
でも、自分で耐えられなくなって崩した。
崩れる前に崩した。

男だけが過去に対してセンチメンタルな想いを持っていることが多い。
それは男のエゴなのだろうか。
俺は女の優しさは、あえて「期待を持たせない」「決着をつける」そういう現実感にあるような気がしてならない。

いや、男も女も、それぞれの人生がある。
そして、道が分かれたとき、接点を絶ったほうが、お互いのためだと思うのは、ケジメのためなのだろう。
象徴的に、思い出に決着をつけることで、ようやく新しい場所へ踏み出す。
人はそうして大人になっていくのだろう。

自分もやっているクセして、当たり前のやり取りに、どうしてだろうな、耐えられないときがある。

大人は汚れてしまう。
でも俺はもっと愚かしいと思うのは、己が汚れているクセして、他人の汚れを許せないことだ。
俺は最も憎憎しいと感じる。
他人の汚れを笑い、己がどす黒く染まっていくことにも気がつかないのは、己があざ笑っている対象よりも、もっともっと劣っているからに他ならない。

大人が愚かだから、子どもが愚かしくなる。

俺は子どもに夢を与える大人にはなりたくはない。

俺は、子どもたちを苦しめたい。
寄り添うつもりもない。
考える機会をたくさん与えたい。

純粋に、育てていきたいだけだ。

もうそうするしか、俺の未来に広がる空虚を埋めることができない。

時として母となろう。
時として父となろう。

俺なりの愛情を、示してやろう。

新しいものを育てていかなければ、俺は今まで犠牲にした、これから犠牲にするであろう数々のことに、示しがつかない。

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
45
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みますが光野(こうや)とか朝風(=はやぶさ)でもよろしゅうございます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。自分でも困るほどの「皮肉屋」で「天邪鬼」。つまり「曲者」です。

2011年より声劇ギルド「ZeroKelvin」主催しております。
声でのドラマを通して様々な表現方法を模索しています。
生放送などもニコニコ動画でしておりますので、ご興味のある方はぜひこちらへ。
http://com.nicovideo.jp/community/co2011708

自己プロファイリング:
かに座の性質を大きく受け継いでいるせいか基本は「防御型」人間。自己犠牲型。他人の役に立つことに最も生きがいを覚える。進む時は必ず後退時条件、及び補給線を確保する。ゆえに博打を打つことはまずない。占星術では2つの星の影響を強く受けている。芸術、特に文筆系分野に関する影響が強い。冗談か本気かわからない発言多し。気弱ゆえに大言壮語多し。不安の裏返し。広言して自らを追い詰めてやるタイプ。

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