久しぶりに新作で、頭のよい映画に出会った気がします。
さすが、ハリウッド。
と、言うより、「マトリックス」を作ったウォッシャウスキー兄弟が脚本を書いていたのですね。
やっぱり、相当の教養人であり、インテリであることは、この映画のひとつの主題となっている「国家と国民」からもわかります。
要するに、そこに焦点を当てることで、国家と国民との間に自然と浮かび上がってくるものがあるわけです。
例えば、権力、政治、情報、支配や統制、国家と国民はいかにあるべきか、などのことが浮かび上がり、現代社会そのものを命題にできるわけです。
舞台は近未来のイギリスで、政府が独裁政権を敷き、国民を完全統制しているという設定。
ようするに、国家が国民をさまざまな抑圧(国民が抑圧と感じなければ抑圧ではないのだが)をしいて、国民を支配している。
それだけではなくて、例えば同性愛者、異教徒、不治の病を持った者の排除、夜間外出禁止令など、いわゆるファシズム的な思想で国家が成り立っている。
変わっているのが、この映画の主人公?となる「仮面の男」。
女性でナタリー・ポートマン(スターウォーズ、レオン)が出てくるのですが、仮面のほうはヒューゴ・ウィービング(マトリックスのエージェントスミス、ロード・オブ・ザリングのエルロンド)が、本作では一度も素顔を見せずに終わります。
今回も「マトリックス」のように、しゃべり方にたいそう特徴があり、台詞もウィットにあふれているので、なんとなく真似したくなります。
この仮面の男が、独裁政権の中に住む国民へ、「君たちはこれでいいはずがないのだ」ということを訴えるわけです。
この仮面の男が、革命的な思想の元に行動を起こしていくと言う話。
アクション映画と思いきや、そういう視点で見ると、たいそう地味な感じがします。
それよりも、ああいう娯楽作品と違って、主張と命題がしっかりしているので、たいそう頭も使わされ、苦手な人にはよくわからないまま終わるかも。
この映画を見ながら私が思ったことは、「国家」「国民」「情報」から浮かび上がる現代社会の姿です。
国家が国民を支配するのか、国民が国家を支配するのか。
国家は、国民に情報を与え、プロパガンダによって操作することにより、「恐怖」の観念から、「国家が国民にとっていかに必要なのか」ということを、本能的に植え付けて統制しようとしています。
さあ、ここで鍵になってくるのが「情報」の存在です。
現代のマスメディアは、あらゆる偏見によって、情報を国民へと伝えています。
偏見のない情報はまずありえず、現代人は情報と現実の区別がつかないくらい情報にあふれています。
本物の現実の生の情報は、現実を目の前にした当事者にしかわからないはずなのに、我々は、なんらかの意思を通して又聞きし、あたかも現実を知っているかのように情報を処理しています。
現実と情報の違いは、(どちらも情報なのですが)体験したことのほかに、情報を切り離しても、嫌がおうにも自分の生活にふりかかってくるのが現実です。
情報は、情報を切り離したら、あなたの生活の何にも影響を及ぼさないもののことを言います。
その区別ができないのは、情報を知っていなければ現実生活でのコミュニケーションや、その他の生活に支障をきたす恐れがあるからです。
つまり、情報を知らないことで起こる、現実の生活に対する恐怖観念が、情報と現実の境界線を消しているわけです。
さあ、話が長くなりましたが、マスメディアは本当に「真実」を伝えているのでしょうか?
例えば、ひとつの仮定として、その「真実」が、すでに意図的に流されたものだとしたら、すでに作為の情報でしか過ぎません。
上記のすべての意味で、我々はどれだけ「真実」を知っているのかといったら、ほとんど皆無になるはずです。
そのうえで、「あなたの生活を脅かそうとしている強大な悪の存在があります」と、情報を流されたら、とたんに不安になります。
「目に見えない危機が、現実になるかもしれない」という恐怖観念が沸き起こるわけです。
その不安になった状態で「国家が、この危機に対して対処し、国民に完全なる安心を与えることを実行しました」となれば、国民はとたんに「国家」という存在に信頼をおくわけです。
例えば、現実であなたが失業して明日のご飯も食べられなくなったときに、国家があなたへ職を与え、衣食住に困らなくなるようにしたとき、あなたは必ず国家を信じるはずです。
そいういう国民の感情を操ろうとする意思を国家が持ったときに、たとえ民主主義であろうと、いつの間にか国家を支配していた国民が、国家に支配されていく国民へと変わっていくわけです。
そうして、末期の状態になったときに、「ああ、自分たちは操られていたんだ」ということに気がつくわけです。
今回の映画の中では、素顔をあえて見せずに、仮面によって「象徴化」することによって、抑圧されている国民の精神の解放を訴え、正義と自由の存在は、どのような圧制や暴力にも屈せずに生き続けるのだという「革命の精神」を訴えることになっています。
ここからは映画とはまったく関係ないのですが、多くの議論の中で、まず前提とされないのが「正義」と「自由」の定義です。
個々人がまったく好き勝手にやれるというのは、少し「自由を逸脱した無法」を招きかねないのですが、どこから履き違えるのか、個人主義が横行してきているような気がします。
そうなると、国民は国家のことも国民自身のことも考えなくなるわけです。
私はそこから国家の荒廃が始まると思っています。
そういう国家の荒廃が始まると、個人主義の国民は見事に国家につけいれられるわけです。
これは国家が「悪」と言っているのではなくて、制御の取れなくなってきた国民を制御しようとする、国家の意思が働いてくるということです。
自分のことしか頭にない国民を国家が制御しようとしたら、わりと実行段階まで気がつかれずに容易にできるはずです。
都市社会では、個人主義の観念が強いために、隣人との関係が形骸的になりがちな欠点があります。
私たちは本当に心で繋がりあっていると言えるのでしょうか。
私たちは心で繋がりあうことによって、国民としての結束が出てきます。
大きな権力に対して、個々人では対応することはできません。
国民が国民自身を考え、国家に支配されるのではなく、自分たち自身が国家を作り上げていくのだという意識がなければ、まさに民族としての恥も尊厳も消え去るわけです。
「本当にいい社会とは」を再考すること。
それが今の我々に問われていることなのではないでしょうか。
と、映画を見てここまで思ったわけであります。
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