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あさかぜさんは見た

日記

03/29

Sun

2009

マンションのわりと高い場所に住んでいるのに・・・って理由は成り立たないかもしれないけれど、足の長い金色っぽいくもが壁を降りてきた。
思わず手に持っていた百人一首の本で叩いて殺してしまった。
だって自分の寝室だったんだもの。
寝ているときに蜘蛛が顔についたりしたら、悪い夢でも見そうなんだもの。

顔につく 一人寝る夜の 蜘蛛の体 いかに恐ろし ものとかは知る
(一人寝ているところに蜘蛛の体が顔につくことがいかに恐ろしいか知っているでしょうか、知っていないでしょうね)
適当大将軍


いつも蜘蛛を殺すと思いのほか、いつまでも考えてしまう。
ああ、地獄に落ちたときに、誰も拾ってくれないんじゃないだろうかとか、蜘蛛の逆襲が始まるとか、芥川龍之介の小説を思い出しながら震える思いで過ごしたとか過ごさないとか。

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03/26

Thu

2009

自分は特別、特殊なのだという思いがある。
そんなことを考えているようなら絶対に失敗すると注意された。
傲慢を抱けば必ず滅びる。
確かにそうだと思う。
でも、自分の場合、その「特別だ」という思いが「使命感」みたいなものになっている。

自分しかやる人がいないのではないか。
自分がやらなかったら誰もやらないだろう。
待っていても誰もしてくれない。
自分がやるしかないんだ。

その思いが「使命感」になっているし、自分が「特殊だ」と思い込ませる理由になっている。
傲慢なのだろうか。
誰がなんと言おうと、自分の感覚はここにあって、自分の現実は変わることはない。
その現実に対して、どうしていくかという問題が常にあって、行動するかしないかの選択が常に付きまとっている。

自分には「使命感」がある。
やらなければならない。
やり遂げなければならない。
自分しかいないかもしれないという「自分は特殊」だという思いが、強い「使命感」になっている。
傲慢、だろうか。

とにかく、やるしかない。

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02/26

Thu

2009

新・人間失格 あ~ う~

 ようやく終わりのメドがつきそう。
 長かった。
 あと一ヶ月以内には確実に終わるでしょう。
 本当に長かった。

 これまで何度も(というか何十回も)太宰治の「人間失格」を読み返し、あらゆるコメントや批評を読ませてもらってきたけれど、不思議と的確にこの作品を捉えている文章は皆無に近いくらいなかった。
 私はこれほどひとつの作品を読み返したことはなかったのだけれど、書くにあたって、一文一文に気を使いながらずっと書いていると、作者側の意図として、逆に作品が捉えられるようになるが、読んでいるほうはどう見てもその感想や理解力からして「読み流し」としか思えないほど的外れで、「なぜここにこの一文があるのか」とか「なぜこの行にこの言葉が入らなければいけないのか」というところまで、まったく考えておらず、ただ個人的な感情や推測や知識から、作品を等身大で捉えずに、何かと何かを並べ立てて好き勝手に論じているに過ぎなかった。
 逆から考えないんだよね。
「もしここに、この一文がなかったら作品はどうなるのか」
 そこに着目して鋭い論評を行っているものはない。
 書いてあるものだけを個人的な思いで受け取っているに過ぎない。
 そんなものなのでしょうかね?「読書」と「論評」って。
 物足りない作品というのは描写が足りないのです。
 ある行と行の間に入るべき描写がまったくなく、ゆえに作品の深みが損なわれるという、惜しいものは数多くあり、その描写があるがゆえにどれだけこの一文が重要な位置を占めてくるかというのは、通常の読者は意識しないようです。

 これは色んなところで作品の感想を読んで、ぞっとしていることなのだけれど、つまり書いたことは100%意図してない方向へと暴走し始めるのが運命らしい。
 そして、暴走したものに翻弄され、もみくちゃにされちまうのが作家の運命らしいです。
 しょうがないことです。
 まだ終わってないから喜ぶには早いけれど、メドがついてほっとしてます。

 通常の人間なら、普通におかしくなるわ。
 あんなの読み続けたら。
 でも、俺のはもっと強烈だわ。
 一生これを背負うのだろうなと、今から胃が痛み出してます。

 うっへっへっ。

 しょうがないよね。
 だって人間だもの。
 みちゅお。

追記

 ああそうだ、大事なこと書き忘れていた。
 「21g」という映画でアレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督が「カタルシス」について、「目の前の悲劇に自分を重ね合わせて、そこに自分を参加させる。これこそ(この参加作用が)エンターテイメントだ」と言っていたのを印象深く今でも胸に焼き付けています。
 悲劇は薬と同じように、必要ない人には必要ないのです。
 健康な人が病気のときと同じように薬を飲んだりしない。
 病気だから飲むのです。
 これが悲劇の作用だと思うし「カタルシス」だと思う。

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02/20

Fri

2009

これから起こる私への責め苦は、私が起こした罪への罰に過ぎない。
誰かが犠牲となって大きな人柱となれば、時代が動くこともまたありうる。

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02/16

Mon

2009

戦うことだと思う
人を背負うことだと思う
文章を書いていて
ふと
気がついたことなんだ
対象があって
その人の気持ちなり人物を文字に起こすとき
最近今まで思ってもみなかった感情が沸き起こってきた
重みってやつが
ずっしりときた
その人の人生を馬鹿にしないで
生をとことん尊重しながら
ありのままの姿
醜いのも綺麗なのもそのまま受け止めて
ちゃんと書ききれるか
ということ
愛は常に生あるものへと向けられる
それが風であろうと匂いであろうと
命があると感じたものは愛の対象となる
愛するとは生を尊重することだと思っている
とことん生を肯定していくことだと思っている
少なくとも逃げ場所を求めてあれこれと思い悩むことじゃないと思っている
だから戦うことだと思っている
これは
俺の考え

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
46
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。

気が付いたら他人からとても褒められる娘ができまして、人生が大きく変わりました。
この小さな可能性と向き合うため頑張って生きております。

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