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あさかぜさんは見た

日記

11/24

Mon

2008

親しい人には絶対にしない数々のことをしてくれてありがとう。

この激しい屈辱への執念を燃やし、私は必ず這い上がる。

誰も手の届かない場所へと到達してみせる。

あなたに出会ったおかげで確実に意識は変わった。

私は執念を手に入れた。

あなたのおかげでようやくだ。

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11/22

Sat

2008

お金というやつは、そのほとんどを自分の幸福のために使うのではなくて、他人の幸福のために使って、その他人の欲にまみれてない純粋な幸福を受け取って、幸せになっていくもの。
これはお金を使わなくても、心の基本的な使い方とまったく同列で、お金というものは、他人の幸福を作ろうと純然たる気持ちに引き寄せられてくるものだと思っている。

私には足りないものがある。
「純然さ」だ。
もっと、混じりけのない気持ちを作る必要がある。

純然たる殺意。
純然たる怒り。
純然たる悲しみ。
純然たる幸福。
純然たる願い。
純然たる慈悲。

様々な感情が混じりあった、嫉妬や恨み、それを成分分けすることも必要。
感情を一つ一つ結晶化させていく。

「金」は混じりけのないものほど価値がある。
私の金脈はこの心と精神で、無限の価値と、無限の力がある。
私はもっと信じるべきだ。
純然たる気持ちで。

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11/22

Sat

2008

壊したならば作れ。
再生させたならば削れ。
肥大化した生き物は、贅肉だらけで病気で死ぬ。
古い間違った価値観にしがみつくな。
破壊だけをする短絡的で傲慢な破壊者に未来はない。
再生させるのだ。
人間の隔たった幸福感をぶち壊し、人々にぬくもりを与えるのだ。
せめて奪ったぶんぐらいは、受け取ったぶんぐらいは、返せるような人間になれ。
わかったな。




・・・わかりましたよ。
私の全能の神よ。

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11/20

Thu

2008

私は過去を悲観する癖があった。
それは傲慢なのだと感じた。
今、起こったことに少しずつ感謝できるようになって、恐ろしいほど何か運命的なものを引き寄せている。
起こったことはすべて自分にとって必要なことで、必要ゆえの試練だった。
テストだった。
今ではそう思う。
人間的な感情を捨て去ることはできないし、当然負の感情を多々抱くし、それを私は隠すことはないだろうけれど、それと同時に感謝もしなければと感じた。
この先、必要なことで、そのために今辛いことが起こっているのだと、そう思わざるを得ない。
なぜなら、出会う運命が、過去の教訓や試練を元に起こっているから。
私が自分を克服しない限りは、不幸は起こり続けるし、当然卑屈であればあるほど、その状況を恨みつづけることになる。

成長しなければ。

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11/17

Mon

2008

国語って何のためにここまで勉強しなくてはいけないの?

子供の中でこのような疑問を持つ人がいるらしい。
母国語を積極的に学ぼうとする意識が希薄なのは、もはや国民として末期状態だと言ってもいいけれど、私なら以下のように示します。

「言葉は記号ではないから」

言葉は道具ではありますが、記号ではありません。
もしあなたが自分の気持ちを他人に伝えようとしたとき、数学のように記号どおりには明確には伝わりません。
常に感覚から言葉が扱われている限りは「自分と他人との間にズレ」が必ず生じます。
そのズレはお互いの感覚の差なのです。

国語教師がそのようなことに気がつかないのも問題ですが、もし私が彼らに(教師を含めて)問題を出すとしたら、「幸福とは何か論じてください」と出します。
そして、その「幸福」がたったひとつの答えとして導き出されなかったときに、「どうして同じ『幸福』という言葉を扱っているのに、これだけ違うのか考えてください」と問題を出します。
そこで発見するのが「本当の国語教育」だと思っています。
これが言語の特性であるということを教えない国語教育そのものには大変疑問を感じざるを得ないのですが、国語教師がそれを明確に言えないのは、やはり他の数学や社会や理科などと同レベル(必ず答えが導き出されるもの)と捉えているからではないでしょうか。
ですから、この国語教育と同じ感覚で、日本語の充分わかる人に日本語を使った時、「自分と同じ感覚が伝わったはずだ」という意識を持たせるのは大変危険なのです。
なぜなら争いは常にズレから生じるからです。

言語というのは、「感覚」を根底にしています。
ですから言葉を使わなければいけないのです。
言葉を使わなければならない理由はなんでしょう。
この社会は多用な価値観で動き、多様な価値観を許容して生きているからです。
学生が、感覚として「普通に日常で接しているのだから国語は必要ない」と考えるのは、感覚として「自分が現在受け入れられないようなものもこの世界には存在している」というのを知らないからに他なりません。

つまり、言語を使用するということは「感覚の交換」とも置き換えられます。
ですから言語はコミュニケーションの道具として使われます。
正しい感覚を知るには、多くの自分と違う感覚と交流する必要があります。
その相手の感覚、ズレ、時として異種のものを知り、自分が正しくあるためにも、正常な言語感覚は必要になるわけです。

あなたは他人の「幸福」というものを、正確に論じられますか?
この文字は、たった二つの記号でしか表されていませんよ。

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
46
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。

気が付いたら他人からとても褒められる娘ができまして、人生が大きく変わりました。
この小さな可能性と向き合うため頑張って生きております。

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