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あさかぜさんは見た

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11/25

Mon

2024

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10/19

Sun

2008

東京まできてみました

東京レポート。

都心部となると心臓を巡る血流のごとく人がひしめき流れている。
各地域はそれぞれ内臓の器官のように特化した機能性を出している。
原宿・渋谷、新宿、東京・銀座・有楽町、秋葉原など。
特に秋葉原などは趣味に没頭する人たちの目がギラめいている。
しかし、電車に乗っていると、中には疲れ果て、瞳から輝きを失い、曇っているものさえもいる。
心が日常に慣れてしまって、それ以上の向上心や、外界に対しての美しさの探究心を持ちづらいためと思われる。
絶望の曇りではなく、はるかに深い諦観のようなものが宿るからであろう。
精神が回復する間もなく、疲弊していくからであろう。

ちょっとした住宅街のど真ん中で子猫と遭遇した。
子猫は警戒心たっぷりにこちらを見、近づこうとすると逃げ出した。
実は秋葉原で室内に案内されて絵を見せられたのだが、値段が100万前後していた。
版画で棟方志功の作品がそれぐらいだから、結構ふっかけているといえばふっかけているのだが、説明されている人を見ると、人の良さそうな学生っぽい人たちばかりだった。
店員は絵には関係ない話、相手を褒めたり、おだてたりすることに重点を置いていた。
その時、「ああ、なるほど」と頭をよぎったのだが、私なら絵に興味が無くても学生くらいで一・二年働いて稼げるくらいの値段をつけ、ローンを組ませ、月々5万くらいの支払いで買わせる。
絵は繊細なので返品のとき傷がついたとか言えば返品できなくなるし、あらゆる理由を付けて返品できないようにはできる。
実際やられたわけではないが、歩いていても変な誘いが来たりする。
東京に住む人は、常に警戒心があるため、見知らぬ人を信用していないし、実際構っている時間もない。
これだけの人が居ながら、皆が他人なのだ。
あらゆる価値観があり、その価値観の共通するところで人は繋がりあっている。
東京において他人とは、私が住宅地で見た子猫に近い印象を受けた。

流動性の高い人が、各地域に流れる理由は、そこに金脈があるかということに限られる。
自分の感覚を刺激するもの、流行の最先端、話題性。
地域はひとつの購買型の劇場と言っていい。
あらかじめ仕掛けがセットされ、宣伝され、選んでいるつもりが、どこか選ばれ、流され、そして埋もれる。
主体性や個性を強く持ち、自我を強く認識していなければ、すぐに自分を見失い、大きな人の流れに流されるだけの人生になる危険性をはらんでいる。

人の多さゆえに、少々変人が居てもさほど気にならないし、困っている人が居ても面倒をさけて関わらないようにする。
先ほど述べたように他人を警戒しているし、モノのようにそこに「ある」と認識した方が都合がいい。
優しい人ほど危険に見舞われやすくなる。

あらゆるものが消費を前提に動いているが、利益を維持させるためのアイディアすら「消費」されていく。
この地域で生まれるほとんどすべてのものが「利益」に還元されるための「生産」であり、「消費」されるための「生産」である。
よって、利益をむさぼる為に、利益となるものは次々と模倣され、改良され、それゆえに短い間隔で次々と新しいものを作っていかなければ自らが明日の職を失う危険性があるほどに移り変わりが早い。
人間さえも消耗品として扱っても、なんら罪悪感は生まれないだろうし、人的資源も消費される事前提で成立っているところも無いわけではない。
そのためか、時折人が酷く義務的で、人工的である。
つまり、心から微笑んでない、楽しいと思っていない、しょうがないからやっている、といった具合だ。

終電間際の電車の中で疲れ果て、もう一歩も動けないような顔をして立ちながらも眠ろうとする人が多い。
この都会において身体と精神を回復させるということが、いかに重要な位地を占めるのかということはよくわかる。

当たり前の事かもしれないが、都心部は周囲の供給があってはじめて成立っている。
特に生活に直結するものに関しては危ういほどにもろさを浮き彫りにさせている。
水、食料、エネルギー・・・もしこれらの生きていくのに欠かせないものが、なんらかの影響で都心まで運べなくなったとき、いったいどうするのだろうという恐怖と危惧感が襲った。
人が多すぎるゆえの欠点もあるし、公園で過ごす若いホームレスの姿も気になった。

歌舞伎町にあるゴールデン街を歩き、薄暗く狭い路地にある、肩が触れ合うほどの狭さの飲み屋を次々と見ながら、「国民の生活をよくする」なんて政治ポスターを見ると、思わず苦笑したくなる気持ちになる。
国がネットカフェ難民にお金を支給するという案をどこかで見たが、都立でも国立でも寮つきの職業訓練校を作った方が、よっぽど底上げになる気がした。
つまり、人材派遣サービスをしてしまおうというもの。
足りないものを補うという発想の中に、育てるという発想ではなく、物質的に欠如したものを埋めるというのは、あまりにも機械的過ぎて、紙面でしか物事を考えていないのがよく分かる。
東京で暮らすと、植物がどのようにして育って行くのかもわからなくなってしまうのではと思った。
人もまた似ている。
人を育てるということは、土壌があり、システムがあり、循環があるということだ。
職業訓練校があり、寮があり、寝る場所と食事の安心と、職への意欲が高まり、失敗してもまた挑戦できるものがなければいけない。

使い捨ての発想からの転換をいかにするかが、課題であろう。
肥大化したエネルギーをどう縮小し、コンパクトかつエコロジーにまとめるか、これも政治の役割でしょう。

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10/10

Fri

2008

心が不純物で浸されると、鈍い自覚症状がくる。
泥の中でもがくような気持ち。
純粋であることとは、程遠く、様々な邪気が混ざりこんでいる。
純粋な憎しみ、純粋な喜び、純粋な眼差し、全てに初めて出会ってそこに全力で感情をぶつける子供のような気持ちを取り戻したい。

自分の心が濁っているから、作り出すものも自然体じゃない。
自分でガチガチだと思うし、自然物ではなく、意図的に作り出した人工物的な不自然さを感じる。

お金のこととか、売れる=人数で換算する、始める前から腐った価値観が自分の中に渦巻いていて、相変わらず他人を見下しそうになったりとか、浮いた気持ちが地面から離れていって、しっかり生きようとすることからどんどん外れて、もうどうにかなってしまいそう。

心の中の邪気をしっかりと祓う方法もしっかり考えて実行していかないと、どこまでも落ちていくように人間はできている。

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10/07

Tue

2008

己の弱さからくる、もろもろのことを他人に無遠慮にぶつける人。
こういう類の人間は昔から遠慮させてもらっていた。
最近では友達としての縁を遠慮なく切らせてもらっている。
なぜならば、たとえば私が大事な友人をその人に紹介し、その人が私の友人に粗相をしたら、結局私の信用が落ちる。
信用とかいう言葉を出さなくても、単純に友達がなにかあったらなんて不安を抱えながら人を紹介できない。
たとえていうなら、当社の紹介した他社が取引先とトラブルを起こしたら、もう手がつけられないほど大変なことになる。
こういうことは常識的感覚だと思うが、大人になってもわからない人間がいるのだということに驚いているし、またそういう類の人間には会わないと思っていた。

自分に負けているから、自分の中で明らかに処理できる小さなことでも、処理しきれず、他人に嫉妬したり、他人を憎んだり、なんとも思ってないようでグチグチ女々しく言ったりする。
つまり、もっている器が小さすぎて、小さな負の感情さえもあふれかえり、その汚水を他人に浴びせかけている。
上記のように例えると、私がこの類の人間をどのように思っているかと言うことがわかると思う。
自分の場合ももちろん同じように思う。
心が揺れていたり汚れてきていたりすると、自分でまずいと思いながらも制御できなかったりする。
昨日?テレビでやっていたが、秋元康さんが「嫌いな人に一年に一回は会う。嫌いな人は自分が持っている嫌いな部分を持っているから、それを知るために会う」というようなことを言っていたと思うが、自分がこれを考えると、とことん落ち込みそうです。
自分が一番最低なのではないかという気持ちがふつふつと湧き上がって、どうしようもなく立ち直れなくなりそうなので、いつも真剣には考えていない。
確かに、自分がやっていても、他人が自分と同じことをしていたら許せないとか、よく考えたら誰にでもある・・・と思うが、どうだろう。
なるべく私は他人がどのような行動をしても、よほどではない限り容認するタイプなのだが、私の精神活動に悪影響を与える人間だけは遠慮なく縁を切る。
これは、私のやっていることが、精神を主体にしてやっていることで、ここによからぬ影響を与える人間と言うのは、私の活動のメリットにはならない。
デメリットになるだけの人間とどうして付き合わなければならないのか、という気がする。

無理をして、嫌な思いをして、人と付き合うことはないと思う。
世の中には権力や自分の優位さを利用して、他人をこき下ろすような下劣極まる人間もいることと思うが、そのような人間が周囲にいて、なおかつ会社の付き合い上、同じ職場の関係上、切っても切れないという人は、本当に気の毒に思う。
私は「サラリーマンは大変だ」と思うよりも、そのような愚か者を社員の意思に反して会社にのさばらせるようなシステムを堅固してきた体質そのものを気の毒に思う。

人間のもろさについて考えてしまうわけですが、今無性に藤沢周平の小説が読みたくなりました。

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10/06

Mon

2008

傲慢が社会に蔓延しているから、そのような言葉が出るのではないでしょうかね。
なにひとつ当たり前のことなんてありませんよ。
各々がお互いの意思通りになるような関係をお望みなら、独裁的な王にでもなれば満足するのではないでしょうかね。

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10/05

Sun

2008

自分の感情に打ち勝つこと。
自分を常に凌駕していくこと。

それがこなせれば、人生はコントロールできる。

敵はどこにもいない。
自分のみ。
すべて己のみ。


悟りとは、心を開くこと。
相手に向かって心を開くとは、聴こうとすること。
たかだか人生四五十年で何を語れることがあろうか、いや、何もない。



自分、雑念ばかりの欲まみれの、世界観の狭い子供でしかないようです。

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
45
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みますが光野(こうや)とか朝風(=はやぶさ)でもよろしゅうございます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。自分でも困るほどの「皮肉屋」で「天邪鬼」。つまり「曲者」です。

2011年より声劇ギルド「ZeroKelvin」主催しております。
声でのドラマを通して様々な表現方法を模索しています。
生放送などもニコニコ動画でしておりますので、ご興味のある方はぜひこちらへ。
http://com.nicovideo.jp/community/co2011708

自己プロファイリング:
かに座の性質を大きく受け継いでいるせいか基本は「防御型」人間。自己犠牲型。他人の役に立つことに最も生きがいを覚える。進む時は必ず後退時条件、及び補給線を確保する。ゆえに博打を打つことはまずない。占星術では2つの星の影響を強く受けている。芸術、特に文筆系分野に関する影響が強い。冗談か本気かわからない発言多し。気弱ゆえに大言壮語多し。不安の裏返し。広言して自らを追い詰めてやるタイプ。

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