ふらふらと漂いながら、なんか詩になる写真が撮れないかなと、何枚かは撮ってきたけれど、色々と写真を見るに、自分で思っているほど凄くないし、凄くないってことは感性もないってことで、「ああ、所詮こんなもんよねぇ」と思いながら、またトボトボと歩いていく。
ネットでたまに見かける、「おおー」と思う写真を、どうにか自分も撮れないかと思うのですが、どうにもうまくはいかないらしい。
常に練磨させていないと、鈍ってくるのが感性で、一度鈍ると、硬くなって柔らかくするのに物凄い時間を使ったりする。
特に日常の「常識」という習慣に、脳が慣れてしまうと、「異次元的発想」が受け入れられなくなる。
これは想像と創造を武器にする人にとっては、致命的なことで、「脳が一般人化する」ということでもある。
同じ感覚を持つことはもちろん大事なのですが、同じ感覚で、同じ場所に立ってはいけないのです。
作り手というのは、傾いているくらいの不安定さを同時に持ち合わせていないと、つまらない視点で物事を見てしまうのです。
それは、創造のバリエーションを自ら狭めるということです。
普通芸術家ってのは、人と同じものを見て、同じように感じない人がなるもので、みんなと同じようしか物事を見れない人は、ひとつのものしかひとつしか受け取っておらず、1受け取って10とか20とか創り上げるのは難しくなるのです。
で、そういう意味からも、だんだん自分の感性が狭まってきているなとつくづく感じ始めていて、「ありゃ、やばいねこれ、どうすればいいの?」と、あたふたしてしまうわけです。
なんだかんだと尻込みしてやらないと、またひどいことになるので、ぐちぐちいうよりも、黙ってやるのが大事なのですけどね。
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