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あさかぜさんは見た

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11/25

Mon

2024

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06/27

Fri

2008

 この世界の全ては思い込みだ。
 自分の人生も、自分に対する評価も、与えられてきた情報も、すべては思い込みでしか過ぎなかった。
 なんて馬鹿な人生を過ごしてきたのか。
 
 思い込みなら、幻をぶち破ればいいのだ。
 明日のために今日を作り変えればいいんだ。
 呪いのように与えられてきたことも、呪縛を断てばいいだけの話だ。

 なんてことだ・・・
 これに気がつくまでに、十数年もかかったのか・・・

 状態を維持するのが大変なのだけれどね。

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06/27

Fri

2008

・・・でたらめ記事 犯罪件数 検挙率 自殺者

 ふと、犯罪発生率と検挙率が気になって調べてみたけれど・・・
 あれあれ・・・?

http://www.npa.go.jp/toukei/index.htm
(警察庁の統計)

 少年犯罪件数は五年連続での減少を辿っている。
 少年ではない成人の刑法犯認知件数も年々下がってきている。

http://blog.livedoor.jp/kangaeru2001/archives/51518805.html
(少年犯罪データベースドアの記事)

 これらを見ると、自分はなんとひどいデタラメ記事を書いていたのだろうと青ざめてくる。
 一般市民や非難しているマスコミレベルと同じじゃ、非難する資格もないわ。

 自殺者も無職の人間が多い。
 働いている人間が自殺することに比べれば、職がなくてお金に困って・・・というとこだろうか。

 なぜ、マスコミは凶悪化していると言うのだろう。
 少年法改正も法律に対する民意の先導も、マスコミが操っていることになる。
 マスコミが操っているのではなくて、マスコミを支配している誰かが操っているということはないだろうか。
 誰がマスコミを支配している。

 考えを改めないと。

 ここまでマスメディアがひどいとは・・・
 ごめん。自分もひどいけどね。

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06/27

Fri

2008

 三重県で18歳の少年が友達?顔見知りの女性の母親を殺害して現金10万円を奪ったらしい。
 三女は事情聴取をされるまで母親が死んだことを知らなかったというから、むごい話だ。
 しかし、この事件は物凄い純粋な動機だ。生粋の犯罪者と言っていい。目的のためには人殺しも、虫けらを殺す程度にしか考えない。金さえ手に入れば他はどうでもいい。

 映画で思い出したものがある。
 リドリー・スコット監督作品に、「ブラック・レイン」という高倉健、マイケル・ダグラス、アンディー・ガルシア、そして松田優作が出演した有名な映画がある。
 松田優作の悪役振りには、ハリウッドが騒然としたというが、この松田優作のヤクザの悪役は、目的を達するためには、極道としての道すらも外し、目的のためだけに純粋に動いていくという悪なのだが、組の親分が「戦後、アメリカから押し付けられた文化で、(松田優作役の)佐藤のような男(任侠、人情、礼儀もない目的のためには手段を選ばない人間)がたくさん生まれた」という内容のセリフがある。
 1989年の作品だ。
 脚本は日本人ではなく、そのセリフにすべての真実があるかというとそうではないが、効率と利益を追い求める現代人なのに、逆に精神論も唱えるという矛盾したことを言い続けているのは団塊の世代あたりだ。純粋にその考えを抽出したら、金のために奴隷になれと言うことだ。
 こんな日本になったのはアメリカのせいだとは言わないけれど、仏作って魂入れずの国になってきているのではないかという懸念や憤りはいつも抱いている。

 単純な理由で殺される。単純なことで傷つけられる。
 このネットでさえもそうだし、ネットを越えて現実でもそう。我が身大事で他人はどうでもいいなら、その部分に関してだけいえば、犯罪を起こした少年と何も変わらないことになる。

 この文章を読んで何かと腹立たしくなる方はたくさんいると思うが、時々チャットで未成年と話していて、たまに妙な気持ちになる。
 動機が単純で、人間のことなのに、まるで物のように言う。
 子供はああがいい、こうしたい、結婚するなら若くして子供生んだ方がいい、ババアやジジイじゃ参観日がかわいそう。
 気に入らなければ暴言(いい大人も子供と同じレベルでやる)。
 色々と具体例をあげるのも面倒くさいくらい。
 
 もう常識なんてぶっ壊れたんだね。
 真面目に働いて、通り魔に殺される時代になったんだよ。
 財布の中に入っている5、6万でも取られて殺される時代なのだし、溜まり溜まった鬱憤をみんな持っていて、どこで爆発するかわからない。
 そういう時代になっちゃったんだ。

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06/26

Thu

2008

自分の人生を歩んでいないから誰かのせいにしたがる。
自分の人生をコントロールできないから誰かに支配される。
操られ、己の意思を曲げられ、従うことが正しいと調教される。
奴隷になるのか、それとも自らを操るのか、意識と行動で全ては変わる。

殺したい人間がいる。

誰かを殺す前に自分を殺したい。

自分が一番危うい。

自分がもし何かをしたら、みんな驚くだろうな。

あんな子が信じられない。
よくテレビで言われることを言われるのか。
身内は知らない。
自分がどんな気持ちなのかも。

自分がいなかった。
表現できなかった。
そんな気持ちで過ごしてきた。
殺されてきた。
行動すらできずに潰れてきた。
クズに成り下がっていた。

私は弱きものの王だ。

甘えすぎたクズだな。
今日も吐き気がする。




 6月24日、人身事故があって、出先から帰るのに1時間半ほど遅れた。
 ちょうど高校生たちが帰る時間帯らしく、駅にはたくさんの人がいた。
 そこはベッドタウンの駅なので、会社勤めのサラリーマンなどは、ほとんどおらず、恐らく都市部の中心駅から、こちらの駅に来る人間がほとんどだ。スーツ姿の人間は指を折るくらいしかいなかった。
 みんな早く家に帰りたいと思っていただろう。
 よく次のような言葉を聞くことがある。
「死ぬなら迷惑かけない方法で。死んでからも迷惑かけるなんて」
 生きている人間が理性的に、死にゆく人間を批判することがあるが、「?」と私は首をかしげる。
 誰かのことを思いやれる気持ちの余裕があるなら、その人のことを考えて「死にたい」とは思わないはずだ。
 自己を破壊するのは最終的な破壊行為だ。もうそれ以上は破壊しようがない。「世界との断絶」を意味する。
 わざわざ言葉にしなくとも、誰しも「死」の意味はかわっている。
 しかしそれは、多くの人間が「生の側から捉えた死」でしかすぎない。
 死にゆく人間の多くは「死の側から捉えた生」というものを捉えるのではないだろうか。

 新聞ではない、リアルタイムで起こった人の死という事件。
 なぜ死んだのか、気にはしたけれど、調べるまでにはいたらない。
 自分をどのように表現すれば、自分がどのように活躍すれば、自分はとても楽しくなるのか、どうにも「夢を語る人」に、ここ最近出会ったことがない。
 こうしなければならない、こうしたほうがいい、しかたない、なにもわかってない・・・などなど、随分と自分を縛る言葉の多いことか。
 自分を解放させるような言葉にあまりであったことがないのがとても不思議に思う。
 なぜだろう。

 時間に縛られているから、限られた時間の中で利益活動を行っているから、効率を追い求め、利益のために多少えげつなくなっても、それが常識だと思い込む。
 きっと、人身事故が発生しても、痛み入るどころか、死者にムチを打つような考え方をした人は少なくはないと思う。
 逆転の発想ができないから、既存のものに縛られて革新的なことができない。

 ちょっと笑い話になるけど、ドリフのコントで加藤茶のハゲオヤジが瀕死の人を囲んで泣いている家族に混じり、「あいつもう死にそうだ」とか「棺桶の寸法はこうだな」とか、葬儀の準備を勝手にするというものがあった。
 いわゆるタブーを無視した逆転の発想で見事なコントに仕上げている。

 効率を無視したら何が残るだろう。利益を無視したら何が残るだろう。
 その逆転の発想から人間を生かす利益活動はあるのだろうか。

 もう少し人を殺さないようにする方法はないのだろうか。
 年間4万も自殺で死んでいるんだから、もはや国内では交戦状態だと言っても過言ではない。
 戦国春秋の大きな合戦でさえ、それほどの死者を出さなかった。
 だが、現代で一年間の戦争で死者4万人と言ったら、日本人はどう反応するのか。
 4万という自殺者を異常と思わない現代人こそ異常だと私は考えている。

 みんないつか死ぬけれど、死にそうな気持ちほど悲しいものはないし、虚無に満ちたものはない。
 自分はここにしかいない。自分探しなんてしても無駄だ。自分を生かせる環境を作ることが自分を見つけることに繋がる。苦しいのは充分だろ。

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06/22

Sun

2008

できないことは言うな

 生まれて初めての強烈な二日酔いで一日を潰した。
 朝から晩まで胃のものを全部吐き尽くしても、まだ胃液が出てくるというありさま。
 せっかくいただいたものまで吐いてくるという、いかにも大人気ない飲み方。
 色々と細かなことで鬱憤が溜まっていた。
 飲みに出かけて、それが人にわかったのだろう。
 店のマスターに「ここはストレスを発散させるための店じゃない。そんなのはもう許さない」と言われた。
 新しい店員がいて、調理専門だったと聞き、その腕をみたくなった私は、最初におごりで出してもらった料理に「こんなんじゃ腕がわからないから味で勝負して来い」とお金を払って作ってもらった。
 もちろん最初に出されたものは全部食べたけれど。
 最初はソーメンサラダ。それなりに単純ながらも工夫を凝らしていた。酔客には充分だとも言える思いやりあるメニューだったが(強い酒を飲んでいたので、脂っこいものや胃にもたれるものは避けたのだろうという思いやり)、これではまだ彼の本当の腕はわからずじまいで帰ることになる。たぶんカチンと来るだろうと思って言ったけれど、やっぱり思惑通り本気を出してきた。
「せっかくおごりで出したものをつき返してあの言い方はない。いくらでも厨房貸してやる。そこまで人に言うなら、人を納得させるだけの味を作ってそれを示せ。それならあいつも納得するから。あいつ優しいから、ああやって作ってくるけど、もうそんなやり方はこの店じゃ許さない。じゃあ手本示してと言って、俺料理作れないじゃ誰も納得しない。自分でできないことは人に言うな」
 そうマスターに言われながら、彼が作ってくる料理を楽しみにしていた。わくわくしてたまらなかった。そしてしばらくして、おいしいスープカレーを出してきた。
 出来合いのものでしか作れないけど、とは言ったけれど、それでもいいからそれで勝負できるものをどうぞ、と言ったら、本当にお金を払う価値があるというか、単品でも立派に店を出せる味を出してきた。
 あの店とはしばらく仲良くはできそうもないけど、良い思い出というか、記憶に残る立派な味を堪能した。
 嫌われ者とはなったけれど、自分のやったことに対しては後悔はしていない。
 そのお店がどのような方針でやるかは、その店が決めることで客が主体になって決めるわけじゃない。
 店としての主体があって、そこにお客が賛同するスタイルを最後にとったのなら、それでいいと思う。いい店だし、これからもよくなっていくと思う。

 ストレスが溜まっているのは否めない事実だった。
 でも「できないことは言うな」というのは、私は半分反対。ただ、私のスタイルとして反対なだけで、他の人にまでは強要しない。自分のスタイルは持っても人に押し付けないのが最低限の礼儀だけれど、私はよく下品になる。下品な自分が好きだったりもする。
 自分が一生懸命作ってきたものに対して、わかったような口ぶりをされれば私もカチンとくる。だから言ってみた。志があるなら反抗してくるはずだし、必ず忘れないで覚えているはず。恨まれてもいいけれど、本人に向上する意思があるかどうかは、そこに眠る志にあると思う。
 みな、それを持っているから頑張ろうという気持ちになる。
 私がどう言われようとも文章をやめないのは、ここにしか自分の生きられる道がないと思っているから。ここで活躍することで、私は多くのものを生み出せると信じているから。私の作るもので人を変えられると信じているから。

 最初は誰も信じてくれない。なぜならちょっとやそっとで出る結果なんて努力じゃない。才能があっても、それを維持させられる努力だって必要だ。みな、何かしら苦労はしてきている。馬鹿にされても、やめろと言われても、自分を信じぬき、努力したことで勝ち取った成功だ。
 本当にやりたいと思うことなら、だったらやってやるよコンチキショー!って思う。

 味は直接わかる。文章はどうなのだろうと思う。
 直接届いているのだろうか。あいかわらず、ちょっとわかりづらい文章ばかりで、ここを数行読むのにも苦労がいるのかもしれない。
 読者のことを考えないで、思ったことからつらつら書いて、重要な主語が抜け落ちていたり、あいまいな表現でありふれていたりで、他人に読ませる文章というよりも「心のメモ」に近いのかもしれない。

 自分が書いている、お話そのものも、爆発的に人気が出るということはない。地味に地味に宣伝して、ようやく一人、また一人と知ってもらっている状態だ。
 私が食べた伝説のスープカレーみたいに「おいしいからあそこに食べにいけ」なんて口コミで広がるようなものもない。
 いつ道が開けるのかと不安になったり、これでよいのかと不安になる。自分を信じる力が失われたり、数々言われた否定語がふつふつと心に再現されて、重なってくる。
 あの時言われたあの言葉。この時言われたこの言葉。見下された言葉だったり、否定された言葉だったり、馬鹿にされた言葉だったり、現実を見ろと辛らつに言われた言葉だった。
 そういう言葉の数々が、心の中に溜まっていて、ふとしたことで思い出していてもたってもいられなくなる。
 溜まった言葉が心を汚している。

 できないことは言うな。
 私のお話を読んでくれた人は、思ったとおりに言う。言わせている。どんな意見でも必ず聞く。それが役に立つかたたないかは自分で判断する。
 相手が文章をかけないからと言って、「お前がじゃあやれよ」とは言わない。それが、どんなに子供じみているか、自分でよくわかっているからだ。だって、やっているのは私。できるのは私。やろうと決めたのは私だから。相手になすりつけてもしょうがない。放棄したと同じことだから。
 人あっての文章だ。人の心に届くために書いているのに、人を無視するわけにはいかない。だけれど、媚びるための文章ではない。媚びた文章は下卑たゴミであって、ただの心を売り払った中身のない魂だ。
 そんな、自分の信条がある。

 嫌われるのや失うのが怖くて博打は打てない。人に好かれるような行為ではないけれど、私は私の感じたいままに動く。そこに賛同しようとしなかろうと別にかまわない。
 なんらかの形でいつも返そうとは思っている。あの時、ああしてしまった。自分がしてしまった失態。あの時、ああいう恩義を受けた。純粋に思いやりをくれた人には、恩返しを少しずつしている。

 自分はいつ、こんなクソガキをやめられるのかと思いながらも、クソガキな自分が反面好きだったりする。嫌悪したり、好きだったり、あっちいったりこっちいったりで疲れるけれど、吐いて胃が痛んで、どこかすっきりした。

 Tくん、戻してゴメン。でもとてもおいしかったです。あなたにとっては嫌な客かもしれないけれど、私にはよい思い出ができました。ありがとう。

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
45
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みますが光野(こうや)とか朝風(=はやぶさ)でもよろしゅうございます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。自分でも困るほどの「皮肉屋」で「天邪鬼」。つまり「曲者」です。

2011年より声劇ギルド「ZeroKelvin」主催しております。
声でのドラマを通して様々な表現方法を模索しています。
生放送などもニコニコ動画でしておりますので、ご興味のある方はぜひこちらへ。
http://com.nicovideo.jp/community/co2011708

自己プロファイリング:
かに座の性質を大きく受け継いでいるせいか基本は「防御型」人間。自己犠牲型。他人の役に立つことに最も生きがいを覚える。進む時は必ず後退時条件、及び補給線を確保する。ゆえに博打を打つことはまずない。占星術では2つの星の影響を強く受けている。芸術、特に文筆系分野に関する影響が強い。冗談か本気かわからない発言多し。気弱ゆえに大言壮語多し。不安の裏返し。広言して自らを追い詰めてやるタイプ。

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