忍者ブログ

あさかぜさんは見た

リクエスト何かあれば「comment」に書いてください。「note」「Paboo」で小説作品読めます。

04/18

Fri

2008

ストレスで心の余裕をなくす

現代人は、特にストレスを抱えて生きている。
私もなれない密接形の接客業を始めて、相当ストレスを抱えている。
それも、「おもてなし」をしなければならない側で、そんなことしたこともない人間にとっては、もはや客側からしたら「なんでこんなやつがいるのか」という心境だろう。

ストレスというものを抱えて気がついたのだが、気が散って何もできない。
集中力がないのはいつものことかもしれないが、それ以上に、夢を膨らませられなくなった。
色々な想像をして豊かに物語を作っていかなければいけないのだけれど、不安や心配でまったく身が入らない。

いちいち評価というものがなされ、ある基準の中に押し込められて、「できる」「できない」が常に判定される。
私はとろくさいので、いつも「できない」側だし、むしろできる人よりもできない人の心境のほうがよくわかる。
どうしようもできないことでも責められる理不尽な状況を現代人は生きている。
どうにかしたくてもできない思い通りにならない苦痛の中でも現代人は生きている。

必要以上に欲を出さないことは、資本主義の中ではむしろ悪行に近い。
なぜなら、会社にとって利益が出なければ、自分が生活していく分も怪しくなるからだ。

無欲に徹することができない。
我が強すぎて、人に押し付けてもなんとも思わない。
情報を拡大解釈しすぎる。
人間の思考は、自分で思っている以上にめちゃくちゃだ。
だからルールを決めなければいけないのだろう。

他者との距離感がめちゃくちゃな人は、必ず自分を押し付ける。
「こうされて当然」「おかしいのは絶対お前だ」
その思考の中に、「自分が相手にできることは何か」という考えは一切ない。
そして常に一方的で対話の意思がないし、日本人の場合、察せずしていかがなものか、という精神論が入る。

でもこれからの時代、わがままを言う人ほど淘汰されていく。
地球事情が人間のわがままを許さなくなってきている。
お互いに協力して、何ができるのかという時代になっていくだろう。

消費も他者へのわがままの押し付けも破壊行為に他ならない。
夢を認めない社会ほど育たないし、夢を育てない社会ほど茨のような居心地の悪い世界になる。

最近会社がどのように会社員のストレス、もっといくといじめなどに対処していくかが重要課題になっているようだ。
ストレスは夢を壊す。
ストレスは、会社を疲弊させる。

バブルの時代が終わったからこそ、もっと人のことを考えなければならない時代になってきている。
見かけ上の「仕事ができる人」が、もし他者へなんらかの理不尽なことをしていれば、結局は会社を壊している。

常識なんて本当はどこにもない。
国が違えばやり方も違う。
歳が違えば感じ方も違う。
時代が違えば考え方も違う。

これからの時代、破壊は完全なる悪行となる。
正常な意味での、人同士あたたかな関係やぬくもりが持てる場所を再興しなければ、日本もまた破壊のしっぺ返しを受けることになる。

お話書ける頭になりたいな。
夢をたくさん描きたい。
人のありのままを見たい。
落ち着かなくて、いつも気が散ります。

拍手[0回]

PR

04/12

Sat

2008

細かなものを覚えるのが苦手で、ひとつのことしかできない。
漠然としたものを捉えるのは得意だが、暗記はできない。

すぐ忘れる。
ぼやけた幻想だけが見えたりする。

人と違うものが見えたり、感じたりする。

社会で生きていくには不必要なものばかりで、社会で生きていくための能力に少々欠けている。

まいった。

これはバカだと思われてもしょうがない。

拍手[0回]

04/08

Tue

2008

親はきちんと子どもを保護するのではなくて、生きていくための術を教えたほうがいいという気持ちが強くなるのは、社会で厳しい思いをしてわかってきた。
だが、子どもは柔軟な頭のまま、奇抜なアイディアで世をあっと言わせるような考えは持ち続けたほうがいい。
それに向けて確実に行動していくこと。
それが大事だと思った。
大人が子どもの想像力や夢を奪ってしまうのは、現実に擦れすぎているからなのではないかと考えたが、実際に生活して、稼いで、なおかつ子どもを食べさせているのだから、現実生活に対しての不安や恐怖心を、子供の未来とどうしても重ね合わせてしまうことは心理的によくわかる。

私は小学生から「おじさん」と言われ、おじさんからは「若者」と言われるような歳になったが、まだまだ子ども過ぎて、気遣いや、心配りや、言葉配りが圧倒的に足りなく、コミュニケーション能力も欠けている。
これは社会を上手に生き抜くため、苦労しないためにも必要だ。
身につけておかないと、きっと生きていくことが苦痛になる。

人は人を支えているのだろうけれど、その中で見下されながら、人から押し付けられながら低給料の人たちは仕事に従事している。
擦り切れそうな気持ちを抱きながら、明日への不安を抱えている理不尽さに耐えかねて、命を絶つ気持ちもあるいは持つのだろう。
苦しみ続けて大人になることに慣れすぎてしまって、それが当然のことのように考えるのは、そもそも間違いで、辛いことを他人に押し付けるのではなく、少しでも我々がよい方向へと向かわせ、そして次の世代に悪いものを残さないでおこうというのが大事だ。

自分が苦労したから、お前も苦労しろ。
これから苦労するから、今必死になれ。

親は保護する必要なんてまったくない。
子供だって人間だ。
意思を持っていれば必ず現実から学ぶ。
押し付けなくても学ぶし、辛いことから保護することもない。

過保護に育てると、社会に出てからとても苦労する。
私はされることばかりで、ほとんどしたことがないから、他人からあきられるほど常識はずれのボンボンに育ってしまった。
「ぬるま湯育ち」とか「ぼっちゃん」とか「苦労しなかった」とか「社会人として失格」とか、色々短期間の間に言われた。

知識もなく、要領も悪く、ぼんやりしていて、優柔不断。

そう、評価されている。
サラリーマンとして生きていくには、とてもじゃないが「役立たず」なのだろうと思う。

人とずれているから、人と違うことをしなければ生きていけない。

親が何をさせたいかが子供の人生ではない。
子供が何をしたいかの意思を子供自身で実行させることが、きちんと子供としての人生を与える親の義務のように思う。

あとはいくらでも遠回りさせればいい。
10代なんていくらでも取り返しがつくし、いくらでも経験できる。
無駄に過ごすのは、そこから何も学ばなかったときだ。

拍手[0回]

03/26

Wed

2008

才能とは絶えずそこに浸らせておかなければならない。
さもなければさび付くのだ。

ほかの事を一生懸命していて日常に追われ、そしていざストーリーの世界へと入り込もうとしても何も浮かばない。
浮かばないのが非常に苦痛で、積み重ねられないのが苦痛で、ため息をつく。

そういえば、高校の頃の友達とごくまれに連絡が取れたとき、昔あった鋭いインスピレーションのようなものがなくなっていたことにショックを受けた。
どうしてなくなってしまったのかはわからないけれど、はっきりとあたりの感覚でわかる。

幼い頃の鋭敏だった、何よりも尊いものが、大人になって消えうせている。
何のせいなのだろうとか考えるつもりはないけれど、寂しいと思った。

自分でさえ、一週間二週間あけば、このざまだ。
ひどいものだと思う。
また最初からやり直さなければならないような気持ちになって、面倒くさくなる。

思えば夢を語る人にあまり出会ったことがない。
こうしたらとっても楽しいとか、こうしたら幸せになるとか、でかいこと考えて、バカみたいに突っ走っているという話をする人がいない。
それはとても寂しい。

自分が何かを作るとき、子供の心だけは忘れていない。
いつもそうだ。

純粋な心が、何かに一途に向かわせる。
汚れてしまっては、まっすぐには進めない。



最後の時
僕らは確かめ合った
ここにいると叫びあった

地球はめぐり
星は流れ
僕らの時間は
どこかに置き忘れ
昔のあの夕日は
いつの間にか消えている

幼少の頃の輪郭は
ぼやけて汚れてしまった

明日を迎える
僕らは見つめあった
確かに存在する現実

言葉は増え続け
傷つきあい
喜び合った時間は
過去に流れ去り
昔と呼べるほど
懐かしむことがあるのだろうか

幼少の頃の輪郭は
ぼやけて汚れてしまった

拍手[0回]

03/24

Mon

2008

「芸術」という辞書としての定義

辞書の定義を求めてある一定の物事をくくりたいのなら、辞書を引けばいいのに、なぜ私の感覚をわざわざ言葉にする必要性があるのか疑問に思う出来事があった。
「芸術ってどういうもの?」
という簡単な質問だった。

考えながらまごまごして、「無形物から生まれる有形物でしょうかね?」と答えたら「それは芸術の定義にはならないな」と答えられた。

別に定義で芸事をしようとしているわけではないから、どれだけコケにされようと私には関係のないことだった。

その方は非常に本を読まれる方で、私の読書量の大変少ないことに対して「そんなことで文章書こうとするほうがおこがましいわ。やることを言わないほうがいい」といわれた。
そりゃそうなのだが、文学とネット上でのコンテンツとしてのエンターテイメント文章とは、まったく違う方向を向いている。

私は少なくとも紙にはしたいので、確かにその方のいわれることも一理あるかとは思うが、芸術の最終目標は「限りなく無限に近い同化」であって、限りなく限定されたものへと向かうのは「感覚」を「広げる」ことから反している。
つまり、何かでくくろうとすること自体、行動としての芸術には反する。

芸術には矛盾がある。
我々はツールを使う。
本を書くなら文字を、絵を書くなら絵の具や筆などを使う。
これは、限りなく無限に近い状態、つまり感覚の鋭敏さが世界へと溶け込んでいく、同化することによって得られる達観した状態を限りなく封じ込めることになる。
無限を限定すること。
芸術としての矛盾はすべてここにあると私は考えている。
そして、永遠にこの矛盾と戦い続けるのだ。

経営コンサルタントをなさっている方だったが、正直に言って「商売になるかならないか」なんてことはどうでもよいのだ。
私は「利道」の大原則は「投資」にあると思っている。
「投資」とは、「他人の幸福を育てる」ことだと思っている。
投資におけるお金とはそのように扱われるべきなのだ。
物を売るということの裏には、「この道具を使うことによって少しでも幸せに貢献したい」という思いがなければ商品は魅力を持たないと私は考えている。
さもなければ最終的にお金に裏切られることになる。
それもそうだろう。
最初からお金を裏切っているのだから、最終的に見放されるのは当然だ。
私は「これは儲かる」「これは儲からない」という基準よりも、一人でも幸福にできるだろうか、もしくは後世に何か残せるだろうかを基準に考える。
一人殺して百人救えるのならば、私はちゅうちょなくやろう。

辞書としての定義などどうでもいい。
一人殺すことが「救済」かと言えばそうではないではないか。
だが結果的に百人を「救済」している。

定義が人を救っているわけではない。
定義が芸術をしているわけではない。

拍手[0回]

フリーエリア

にほんブログ村 小説ブログへ
にほんブログ村

バーコード

プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
45
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みますが光野(こうや)とか朝風(=はやぶさ)でもよろしゅうございます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。自分でも困るほどの「皮肉屋」で「天邪鬼」。つまり「曲者」です。

2011年より声劇ギルド「ZeroKelvin」主催しております。
声でのドラマを通して様々な表現方法を模索しています。
生放送などもニコニコ動画でしておりますので、ご興味のある方はぜひこちらへ。
http://com.nicovideo.jp/community/co2011708

自己プロファイリング:
かに座の性質を大きく受け継いでいるせいか基本は「防御型」人間。自己犠牲型。他人の役に立つことに最も生きがいを覚える。進む時は必ず後退時条件、及び補給線を確保する。ゆえに博打を打つことはまずない。占星術では2つの星の影響を強く受けている。芸術、特に文筆系分野に関する影響が強い。冗談か本気かわからない発言多し。気弱ゆえに大言壮語多し。不安の裏返し。広言して自らを追い詰めてやるタイプ。

最新コメント

(07/27)
(02/23)
(03/05)
(03/02)
(01/24)
(07/29)
(01/21)
(08/16)
(04/28)
(04/20)

ブログ内検索

カレンダー

03 2025/04 05
S M T W T F S
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30

忍者アド

Copyright © あさかぜさんは見た : All rights reserved

TemplateDesign by KARMA7

忍者ブログ [PR]