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あさかぜさんは見た

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11/25

Mon

2024

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03/03

Mon

2008

「そんなもんやらねぇよバカヤロウ」と言った数ヵ月後に、否定したものにどっぷり浸かっているということはよくあることだから、安易に否定しないほうがいい。
人生というのは、よくよく考えてみれば、皮肉にできているから、すべてを幸福として受け入れるもののみが、人生を謳歌できるのだと私は思う。

でも、知恵がなければ飲まれるだけだ。

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03/03

Mon

2008

本気で自分のために泣いてくれる存在がいるというのは、心の底から幸せだと思う。
自己のための悲しみではなく、本当に私のために泣いてくれている人がいるのだと、正直言って驚いた。

ことあるごとに私は父や一部の人に軽んじられる。
なぜかそういうことが積み重なると、肯定的なことも受け入れられなくなる。
自分で勝手に卑下し、軽んじる人々の意見を肯定的に受け入れる。

褒められても、肯定されても、「嘘だろ」「おせじだろ」と、勝手に邪推して自分の首を絞める。

心に後ろ向きなクセがつくというのは、その人の人生にとって、恐ろしいほどの不幸だと私は思う。
でもこれは、相当な訓練や成功体験を積み重ねないと、なかなか治らないくらいしつこい。
しかも、慢性的にぶり返す可能性もある。

そういうものを私は抱えていて、目の前で本気で泣いてくれる人を見て、その人にとって自分はどれだけ大事な存在かを知った。
自分を軽んじることは、その人を傷つけることなのだと体感した。

自分の存在があいまいで、自分の立場すらも、感覚すらも、生命観すらも希薄な人間は、まず自分を大事にしないので、他人を大事にする余裕すらない。
だから平気で自分を傷つけて、他人を傷つける。

人間一人は万人を守ることはできない。
だからこそ、選択があるのだ。

私は人と接するとき、「なるべくよい思い出をひとつでも作りたい」と思って接する。
自分がアメリカにいたときも、国内を旅したときも思ったけれど、たったひとつの思い出が、自分の人生の拠り所になることが多々ある。
そのことを思い出して、勇気を持って生きていけることが多々ある。
だからこそ、先に絶対ある「別れ」を意識しても無意味なことだと考える。
皆、生命である限りは死ぬ。
死ぬ限り、「別れ」はいつ訪れてもおかしくはない。

私はなるべく繋がった限りは、いつまでも何かの形でお互いの人生を報告しあいたいと思っている。
でも、思想や方向性の違いで、著しく対立し、離れる人も少なくはない。
自分が耐えられなくなって離れる場合もある。

思い出とは不思議なもので、意図してないときに思い出す。
どれだけたくさんのものを残せるのだろう。
どれだけたくさんの思い出を作れるだろう。
泣いてくれた人へ、私と接している多くの人へ、思いを懸命に込めたい。

自分勝手だけれど、思いがないほど薄情ではない。
たとえ冷徹に見えたとしても。


追記:親愛なるMへ。心からのありがとうをここに記す。

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03/01

Sat

2008

保留にしている小説がある。
長編小説だけれど、他のブログの人気キーワードトップ10の上位に「消えたい」があったので、忘れないうちに書こうと思った。
保留にしている小説の中で、リストカットをする女の子がいる。
その子は「死にたい」ではなく、「消えたい」と切に願っている。自分は不幸だと。

なぜ、「死にたい」ではなく、「消えたい」なのか。

それは「死にたい」と思えるほど自己を強く感じていない。まるでいないかのような、うすっぺらのような感覚で過ごしている。本当に自分は生きているのだろうか、本当に自分は誰かに必要とされているのだろうか、こんな自分でも心底泣いてくれる人がいるのだろうか。

それは、まるで「アイデンティティー」というものが、霞のようになっていて、自己を確認できないあいまいさの中にいる。泥の中にいるようで、感覚さえも麻痺して、何かを強く感じることがない。
強烈な自己否定の連鎖の中で、その痛みに耐えるために心が勝手に死んでいくのだ。

私がそこから出られたのは「偶然の理解者」だった。「者」ではなく「物」だったのだが、歌舞伎だから「者」でもある。

「心から通じ合えているな」という充実感を持っていれば、「消えたい」なんて思うことはない。その前に強烈な否定を数多く受けてしまえば、自分の存在そのものがあいまいになる。特に優しい人はなりやすい。

もし、このような人に会ったら、その人の言っていることを否定してはいけない。なぜならば、その人の言っていることは、

「自分の感覚においては限りなく真実」

だからだ。

そしてそこに反論をするということは、

「相手の感覚を否定する=その人の存在を否定する」

ということになるからだ。

「最後の砦」として、「自分の感覚」がある。
否定されたものは「最後の砦」を守ろうと必死になって防戦するだろう。
「そんな元気があるならどうしてできない?」
ということを言う人もいる。

しかし待ってください。
それは「あなたの感覚」ではないのですか?
それを押し付けているということは、「相手の感覚を無視している」ということです。

長く長く話を聞いていれば、必ず客観的な真実が見えてくる。
時間がかかるが、その部分においては嘘は付かないと思われる。

「消えたい」と思っている人は、自己のみならず、他者にまで否定的になる。
それは恐らく、ほとんどの場合は他者から強い否定を受け続けてきた結果なのだろうと思う。
このクセは、発作的に残ったりする。
よほど気持ちを入れ替えないと抜けきらない。
もしくは強い自己肯定体験(簡単に言うと成功体験)を体感しないと、人に対して心を開ききれない。

どんな人間にも必ず才能はある。
ほとんどの人間は、その才能の片鱗にも気がつかずに死んでいく。
それが「普通」だという人がいる。

私はそうではない気がする。
社会が、人が、真に人間らしくいきいきとしていけることを、地域に住まう人が一生懸命考えて実行すれば、私は「消えたい」と思う人が消えるのではないかと思う。

役に立たない人はクズじゃないよ。

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02/29

Fri

2008

・同じこと愚痴っている人

・誰かの文句言っている人

・他人をあてにする人

・行動しない人

好感を持てない人は絶対に成功しない。
・・・あたしのことなんですがね。

でも太宰みたいな文章も三島みたいな文章も川端みたいな文章も松本みたいな文章も安部みたいな文章も藤沢みたいな文章も書きたい。

気持ちを多重人格のようにしないと。

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02/29

Fri

2008

家庭、というものに対して憧れは持つけれど、理想というものが強いせいか、あまり現実の家庭に良い思いを抱いたことはない。
家族の存在がありがたいとか、いつか理解しあえるときがくるとか思っても、「人の気持ちはいつか変わるもの」だと思っているから、相手には何も期待しない。
それよりも自分が、ひどいから、ずっと付き合わせようとかも思わない。
結婚の話だから、まったく自分自身のことで他人のことなんか一切触れないけれど、自分の幸福な家庭とか家族の未来とかが想像できない。
どうしても、途中で物凄い裏切りを与えるとか、離婚するとか、呆れられるとか、そういうことしか思い浮かばない。

子どもが育っていくというのは、家庭環境などは大きく関わってくると思っている。
特に自分の場合、過保護すぎて、幼稚園児や小学生から「おじさん」と言われる歳になっても、なにひとつ世間のことを知らないという人間ができあがる。
それに途中経過も辛すぎた。
会話をしなかったせいだ。
心を打ち明けて、互いにじっと話に耳を傾ける姿勢がなかった。
そのことは子どもにとって物凄い不幸な状況だろうと思う。

すべてが裏目に出たとは言わないし、得たものもたくさんあるけれど、犠牲にするものが多かったし、これからもそうだろうと思う。

人間には自由な心がある。
だから他人には好きなことをしてもらいたいとは思う。
思わず自分は束縛をしてしまうし、嫉妬心を抱いたりするけれど、嫉妬心を持って一度としてよいことが起こらず、例外なくすべてを破壊したのでもうこういう気持ちはいいと思う。
嫉妬心を抱くきっかけすらもいらないと考えている。

信じた嫁にやがて悪態をつかれる。
みもふたもない。
そんな状態になると確実にわかっているのなら、やっぱり結婚なんてすべきではないと思っている。
自分もまた自由にやりたい。
でもうちの母親は文句のひとつも言わなかった。
でもうちの家庭は話し合いをしなかったせいでそのしわ寄せがきた。
結果的には丸く収まったけれど。

正直に告白すると、自分の家系は私が子どもを残さないと絶える。
いつごろからか忘れたけれど「私の代でもうお仕舞い」という気持ちがある。
両親の気持ちとしては「孫を抱きたい」という夢があるのだろう。
でも、うちの両親が孫を抱く姿を想像できない。
他人の子どもだったら嫌がるだろうしね。
自分たちの血が入っている子どもを抱きたいのだろう。
人間というのはおかしなものだね。
自分は自分の血すら否定しているのに。

父親のおかげでSMというものがどういうものか心理的に学んだような気がする。
ムチ3アメ1とか、ムチ1アメ1とか、精神的な屈辱や中傷を数多く与えられたにも関わらず、どこか恨みきれないのは、このアメがあるからだろうと思う。
実際父親がいないと、これほど楽には暮らせなかった。
おかげで、似ているな、と思ったよ。
SMの世界。

時折無気力になる。
誰のせいだとか言えないけれど、こんな人間に誰かを永続的に支えるなんて高等な芸はできない。
せめて、ポツリポツリと作品を残すだけ。
それも見向きもされないような未熟なもの。

自分がダメだから、ダメな結果がついてくる。
当たり前のことだろう。
それを改めようともしないから、余計に直らない。
これを断ち切らないと私には幸運は訪れないらしい。

いつか、何かの形で決着はつけようと考えている。

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
45
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みますが光野(こうや)とか朝風(=はやぶさ)でもよろしゅうございます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。自分でも困るほどの「皮肉屋」で「天邪鬼」。つまり「曲者」です。

2011年より声劇ギルド「ZeroKelvin」主催しております。
声でのドラマを通して様々な表現方法を模索しています。
生放送などもニコニコ動画でしておりますので、ご興味のある方はぜひこちらへ。
http://com.nicovideo.jp/community/co2011708

自己プロファイリング:
かに座の性質を大きく受け継いでいるせいか基本は「防御型」人間。自己犠牲型。他人の役に立つことに最も生きがいを覚える。進む時は必ず後退時条件、及び補給線を確保する。ゆえに博打を打つことはまずない。占星術では2つの星の影響を強く受けている。芸術、特に文筆系分野に関する影響が強い。冗談か本気かわからない発言多し。気弱ゆえに大言壮語多し。不安の裏返し。広言して自らを追い詰めてやるタイプ。

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