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あさかぜさんは見た

日記

05/18

Mon

2009

他人を幸せにすることで自分が幸せになる

http://www.asahi.com/business/topics/katsuma/TKY200905030090.html

asahi.comの勝間 和代さんのコラム。

疑問を差し挟んでいるコメントがあるけれど、私はこれがないと未来は絶望的だと考えている。
私は「幸福の定義は人それぞれある」とは考えてはいない。

もし、独善的な考えをして与えないものがいるのならば、すでにその人は不幸だと考えている。

稼いだものを使って与えるのは当然のことじゃないのか?
なぜならば、あなたの商売は、必ずあなた一人では成り立っていない。
使っているものをよく考えて欲しい。
その上で、お金がどのように流れているのかをよく考えて欲しい。
生活一つとっても、電気ガス水道食料衣服交通遊びなど、それらがあってあなたの生活が成り立っていて、あなたはそれらの必ずどれかを使って稼いでいる。

必ずどれかを使って稼いでいる。
お互い様の精神なんじゃないのか。

あなたはそこに感謝の一つもできないのなら、もうすでに「不幸」なんじゃないのか?
不幸も幸福も結果的には自分が招いていることが多い。

前に書いたかもしれないが、本当の「職業観」とは、自分の仕事を通じて他人を幸福にすることだと考えている。
「ああ、俺っていい仕事したな」と思えることは、幸福なんじゃないのか?
大好きな友達が自分の仕事を通じて幸せになってくれたとしたら、嬉しいだろ。
嬉しくないのだとしたら、とても寂しい人間だと思う。

人類愛だとか、友愛だとか、そんなものは必要ない。
自分が身近に接する親や友達や大事な仲間が、少しでも幸せになってくれればいいなと考えるのが、一番の幸福なんじゃないのか。

前の日記で、携帯小説を書くのを断ったと書いた。
よく考えてみれば、もし自分に高校生くらいの娘がいて、「お前たちからお金とって、この飯食わせているんだぞ」なんて言えないと思った。
それを考えるだけで、気まずくなる。
飯が喉を通らないだろ。
大人の事情は、大人だけで決着をつけるべきだ。

しかし、ドライにその年齢層を「市場」として考えて稼いだものが「勝ち」なのか。
今でも相当悩んでいる。
漫画は?中学生や高校生をターゲットにしているものが多い。
お金が現在手元にない時って、なんでもしたくなるものね。
職なし、金なし、経験なし、切羽詰ってきたらコンビニでも襲ってやろうかという人間の気持ちがわかるような気がした。
携帯小説の主力層である、女子高校生。
彼女らが食いつく内容「レイプ」「妊娠」「高望みの恋愛」「破局」「暴力」「堕胎」なんでもあり。
わざわざ書くべきなのか。
切羽詰ると高校生相手でもそんな内容で書いてもいいかなと思えてくる。
自分が不幸だと感じたら(意識していなくとも)、とたんに人は誰かを不幸にしたくなる。
お金を取られたら、稼いで、取った相手から搾り取って潰したくなる。
解雇されたら、上司になってそいつの首を「役立たず」と言って、罵りながら切りたくなる。
そういうものでしょう。
彼女らは幸福だから刺激として不幸を見たいのか、不幸だから不幸を代弁してくれるストーリーが欲しいのか。
本当の幸福の意味がわかっていないのだと思う。

自分が幸福になったら、やっぱり誰かを幸福にしたくなってたまらなくなるんじゃないのか?
そういうことを教えなきゃいけないのに、「売れない=食えない」。
ふざけんな。
冗談じゃねえよ。

他人を幸せにすることは自分の心持のことで、相手に強制することじゃない。
世の中のほとんどすべてのことは、「自分がどうするか」であって、「他人がどうあるべきか」ではない。
「どうあって欲しいか」は許されるべきだし、言うべきだとも思う。

自分がどうあって、何を作って幸せにしたいのか、私は常に考えている。

そして、お金は私のところに集まるべきだと常に考えている(え?)。
ブルータス、お前もか。

おあとがよろしいようではないようで。

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05/15

Fri

2009

リストカッターの知り合いがいる。
常習犯で、下手をすれば死ぬ恐れもあるほどの激しい出血を伴う切り方をする。
何年か前から連絡を取り合っているので、事情はわかる。
私は否定する気がない。
肯定する気もない。
あるがまま、その人の気持ちを受け止めたい。

「理解してもらえない」
と嘆いていた。
「理屈で説明できない衝動を、他人に理解してもらおうとするほうがおかしい」
と俺は言った。
自分も最初の「お飾り程度」のことはやっていたから、どのような過程を経てそうなるのかがなんとなくわかる。
それが精神的な「トリガー」を持ち、「フラッシュバック」を伴い、精神の杭となり突き刺さっているのが、自分はモノを描く手前、なんとなく推測できる。
「フラッシュバック」や「トリガー」を持たない人間は、ここには一切口出しできない。
これは精神が強い弱いの問題ではない。
「トリガー」とは、何かがきっかけで引き金が引かれ、一気に混乱し精神がぶっ飛ぶ、その「きっかけ」に近いものをさす。
これは「言葉」であったり「シチュエーション」であったり、「行動」であったりする。
たいていは「言葉」の場合が多い。
他人はこの事情がわからないから、まるで腫れ物に触るような感じで接する。
冗談も言えないような息苦しさを感じながらその人物と接する。
しかし私から言わせてみれば、品性をきちんとわきまえていれば他人を傷つけることはまずない。
なぜなら、ほとんど他人に対して否定語を使うことがないからだ。
見下すような仕草もしない。
他者に対する品性とは、他者という未知の可能性に対して尊敬することだと思っている。
「生きづらい」
と言っていた。
通常は前向きに物事を考える人でそれほど多くない「笑い療法士」の資格を持っている人だ。
生きづらいことは、自分も感じている。
特にこの日本は、閉鎖的な気質が強すぎて、何かにくくられ、閉じ込められていくような息苦しさを特に感じる。
我々の意識が、他者を追い詰めている。
それは自分でもよくわかる。
「血が止まらない。吹き出ている。どうしよう」
と言っていたが、電話じゃどうしようもない。
風呂に入っていたらしく、下着すらも血で汚れるので着ることをためらっていた。
変なやつ。
「あのさ、裸で救急車で運ばれていくのがいやだったら、着るか、観念するかのどっちかにしなさい」
「裸で運ばれるのは嫌。でも着たら服が血で汚れる」
「いいから!どっちがいいのよ!裸見られるのと、服汚れるのと!」
しぶしぶ服は着たようだった。
変なやり取りだなと思いながら、話を聞く。
貧血になると息が苦しくなると言っていた。
血は酸素を運んでいるので、致死量ギリギリまで出血すればそうもなるだろうなと思った。
「あのさ、電話中に倒れられても困るんだけど。最後に話していたの俺で、警察とかから電話きても俺答えられないよ?」
と言ってやった。
当然なんだけどさ。
ちょっぴりドキドキしてた。
本当に倒れられても困る。
だって住所知らないもの。
衝動であろうとその人間が選ばされたことであり、選んだことだ。
出血多量で死んだとしても、それは本人が徐々に体に刷り込んでいったものだ。
電話を切るとき「ありがとう」と言っていた。
そういうところは、律儀だ。





わかるんだ。
この人の世を生きるには、繊細な心では生き抜けない。
汚さを身につけるしかないし、自分が汚いことにすら気がつかない人間は人生を一生幸福に過ごせる。

携帯小説を書かないかと私にとある組織から誘いが来た。
断った。
彼ら高校生たちを相手にすれば確かに金になる。
金になることを量産すればいい。
自由に金を使えるようになる。

自分は人にどれだけ大事なものを残せるかに作品への思いが宿る。
忘れ去られるような一過性のものを描いて、彼らから金を巻き上げて、どんな幸福な未来があるというのか。

以下が、コメントになる。

携帯小説は彼ら独自の文化で、私がそこに介入しなければならない理由がない。
やりたいようにやらせてあげればいいじゃないか。
大人が子どもに媚びるのは愚行だと思うし、彼らを飯の種にして金を巻き上げるのは品性がない。
我々が彼らに残してあげたり、教えてあげられることは何?
そんなものを考えもしないで、彼らの流れに反して、彼らを金づると見て、大人の理屈を振りかざしたり、彼らに取り入ろうとする?
もし先生だったとしたら、その先生教師続けていられないだろうね。
彼ら高校生は未熟で当たり前。
でも未熟なうちに祭り上げたら、本当に人間ダメになると思う。
未熟さを指摘するのもいけないし、大人が彼らの等身大に迫ることは難しい。
金を稼ぎたいだけなら、ただ彼らを騙せばそれで済む話だろ。
大人は汚いんだからさ。
彼らの世代に何か残せるものがあるのならば、一生懸命描く。
でも今は理由がない。
大義名分がない。
彼らが描く夢の世界で楽しめるのなら、それでいいじゃないか。
大人が参加してありえないおとぎ話を描く必要はない。
不幸を見せ付けるようにして描いて同情を引くこともない。
そういう話は下卑すぎている。
現実はもっと辛くてしょっぱい。
うまくいくことがむしろ少ない。
彼らもわかっているから夢を見たがる。
でも彼らの世代に必要なのは、夢を見させることじゃない。
一緒に悩んでくれる身近な大人だと思う。
おとぎ話を提供する大人じゃない。









世界はおとぎ話では成り立ってはいないのだ。

でも、希望は捨てないで欲しい。
私はそのために、作家でいたいんだ。

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05/13

Wed

2009

夢で見たことを現実で忘れようとしている。
起きた時にはどっと疲れている。
夢と現実の境目が時々わからなくなる。
夢の中では醜い自分がいる。
いじめの圧力から逃れるために弱い友達を見せしめにいじめたりしていた。
陰口を堂々と叩かれて、気にしないかのように通る。
結局は自分の性格の悪さを言われているに過ぎない。
刃物や劇物を振り回したり散らかしたりしているイカレタ人たち。
直接の知り合いではない何人かが殺されている。
とにかくめちゃくちゃだ。
夢にまで追い詰められている。
大丈夫なのか?俺。
夢に殺されるんじゃないのか?

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05/12

Tue

2009

いつまで自分は苦しまないといけないのだろうなと思う時がある。
もうやめたいと。
やめたい=死ぬってこととたいした自分にとっては変わりのないことだから、捨てきれない。
ここでやっていくしかないのだと思っている。

魂が死なない。
どうしてなのかな。
死に絶えれば、楽になれるというのに。
憤って、絶望して、人間に希望なんて抱かなければいいのに。
どうも、そうはならないみたいだ。
残念だ。
残念で仕方ないから、進むしかない。

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05/09

Sat

2009

ネットコンテンツの将来

~自分なりに思ったことを書いてみる~

世界の動きがどうなるかはわからないが、少なくとも日本は小さな端末に様々な機能が凝縮されていく方向で、システムが作られていく。
電子本を読むだけというのは過去にすでにツールとしてあったが売れなかった。
現在の携帯電話は写真が撮れてメールが送れて音楽が聞けてテレビが見れてラジオが聞ける。ネットにも繋げるし、ゲームもできる。家のセキュリティーも管理できるし、GPS機能だってついているし、とにかくあげればきりがないほど機能がついている。
日本ではメディア媒体自体の革命が起こっておらず、アイディアが乏しいせいか、古い考えが捨てられないせいか、番組が増えてもいまいちアピール度や、協調性が足りない。奇抜なものも出てこない。
我々が何を求めているかと言えば、テレビならばひとつの画面で全部のチャンネルが見れる衛星放送のようなシステム。
わざわざどこにあるかもわからないネット番組をいちいち探すのも面倒だ。

まず、あらゆるメディアを統合してひとつの画面ですべてのチャンネルに繋げることができる、テレビのようなシステムが欲しい。番組表のようなコンテンツもこれに含まれる。
その点ではWiiやプレステ3など、ネット端末を利用できるもの、DSも将来性がある。
彼らが積極的にチャンネルを統合する動きを見せれば、ラジオ番組、ネットテレビ、音楽配信など、あらゆるメディア媒体さえも、ネットに参入し、チャンネルを作り、個人が趣味などでチャンネルを設定しておくことで、極めて個人的なチャンネルカスタマイズができるようになっていく。

その上で分かれてくるのが「公」と「私」。
この両者は両極化するように加速化していく。
公のチャンネルとは大企業などをバックにして、信頼性のあるチャンネル、彼らが選んだもののみで構成されるチャンネル。
そして、その一方で「私」が発信する、個人的なチャンネル。
これは現在の飽和状態のウェブページ群とあまり代わりばえのしないものがどんどん増えていく。
その中で「私」を制御するのが「検索エンジン」の存在になる。
また、「私」のコンテンツをまとめる「半公」の存在、その「半公」を仕切る上の階層の存在も出てくる可能性がある。

無数のゴミのような文字群の中で、どのような情報やコンテンツが選び取られるのか。
まず、エンターテイメント。
そしてニュースと衣食住、地域に関するあらゆる情報。
これは必ず残る。
紙の情報誌を持つよりも、携帯端末のようなものでGPSを利用したような、グーグルマップのようなコンテンツで地域のあらゆる情報を手に入れるということ。

紙は絶対に滅びることはないが、需要は限りなく低くなり、店頭で買ってきてわざわざかさばらせるという、時間と物量の手間をめんどくさいと思う人間が増えるに決まっている。
しかしアナログの手段は人間が人間らしいものを欲するという欲求がある限り、滅びはしない。
「公」が発信する情報を「私」が掴み、その情報に流され「私」は増殖していく。
つまり、現在打たれている手は、すべて「私」連中が限りなく増殖させていくということになる。

我々がコンテンツを作るとき、すでにありふれたものを再度焼き直ししたように作るならば、よほどそのコンテンツの質に自信があり、100万以上もの群を軽々とぬきんでることができる、という自信がなければ、危うい。
もしくは完全に観覧者参加型のコンテンツでなければいけない。
両立できるのならばなおいい。
限りなくピンポイントの隙間産業で、少人数の「変わったものを好む人」を相手にして、値段を強気に吊り上げるという方法もある。

常にコンテンツを作る側の課題は「いかに観覧者を参加させるか」にある。
もうコンテンツを作って置いておくだけの「動きのない」コンテンツは100%淘汰されていく。
常に「動的」なことがコンテンツには要求される。
はたしてコンテンツにおける「動」とは何か。
我々は常にそれを考え仕掛けていかなければいけない。
その時に常に「動」にとらわれ「一過性」のものばかりで「将来ゴミにしかならない」ようなものは、次々に我々の手を離れ、どでかいコンピューターの一データとして独立し、我々が持っていた権利を無視して新しい権利を持つことになっていく。
この権利に関する争いも近い将来決着がつくだろうが、相当もめることが予想される。

観覧者は難しいことを考えない。
「面白い」か「面白くない」かのどちらかでしか判断しない。
観覧者たちの上をいくには、どうしても「彼らが手放すことすら惜しいもの」を作るしかない。
莫大なコンテンツの中で生き残るには、これしかないと思っている。
観覧者のことを、一生懸命愛し、自らも見下されるのではなく、あくまで対等に話せるような存在でなければならない。
客に媚びたり、客に傲慢になった時点で、もはや崩壊は始まる。

愛されるものを堂々と売る。
これは我々の誇りにも繋がるじゃないか。
コンテンツに、創造者が誇りを持てないのなら、もうすでに失敗している。

どのような大きな力がチャンネルを統合するのか。
我々すらも台頭できる戦国乱世の時代。
極めて質の高いソフト、コンテンツは常に強い。
はたして「強いコンテンツ」とはいかに。

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
46
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。

気が付いたら他人からとても褒められる娘ができまして、人生が大きく変わりました。
この小さな可能性と向き合うため頑張って生きております。

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