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あさかぜさんは見た

日記

08/06

Thu

2009

認めたくないもの

本当に滅びて欲しくない大事な文化があるのなら、金を払うべき。
じゃなければ、いずれ自分の認めたくないものが多くはびこって、最終的には古いものは破壊されていく。

自分で作っていけるのならまだしも、それができないのなら、守るべき行動と資金源を確保して、あらゆる意味で投資していかなければいけない。

…って、思う。

アンチ携帯小説のコミュを見ているけれど、本当にああいう小説はおかしいと思うし、官能小説にフィルターがかかって、彼らの際どい、もしくは度が過ぎた内容に規制がかからないのは、正直言っておかしいし、狂ってる。
やりたい放題の下劣な御伽噺。

でも本音としてはおいしい話なんだよ?
少ない文字数で文学よりも稚拙で推敲や一文にかける労力も少なくていい。
いわば職人技術が必要だったものが、技術度外視で、片手間でできて、売れれば数百万以上が手に入る。

真面目に小説作ったり文学をするには、本当にお金がかかる。
どうしてお金がかかるか。

人生経験で書ける小説なんていうのはせいぜい生涯に二三本だと思う。
本物の小説家はジャンルも経験もしたこともないことを書けないと役に立たない。

当然、題材にする対象を取材しなければ「文学」と呼べるレベルまで描写が緻密にならない。
その取材費の中には「資料費」「滞在費」「移動費」「生活費」その他もろもろの税金など、様々な費用がかかってくる。
また意外に多くなるのが「交際費」。
これは大きい。
飲み屋で話を聞く、誰かに付き合う、現場にある程度密着したことをやるには「遊んでいる」ような金も必要になる。

話を聞くだけじゃ、空気までは描写できないよ。
必要ないと言われればそれまでだし、そこまで求めなくてもある程度話だけで小説は何とかなる部分がある。

悲しいけれど金がないとある程度本格的なものはできないよ。
その金が稼げるところに人が流れていくのは「業」だ。

文学というものから若い世代が離れているのには、教育や環境もあると思う。
それは証明ができないほど間接的な要因も含まれているだろうけれど、残念ながら責任の一端は社会を構成している我々にもある。

例えば携帯小説が嫌い。
だったら、文学がどれだけ面白いのか日夜伝えているのか。
文学が廃れないように、なんらかの行動はしているのか。
批判は大事かもしれないけれど批判だけじゃどうにもならないよ。
この世の中。
大きな流れは少数の人間じゃ止められない。

我々のような名前も売れない雑魚は「ダメなもの」に加担するしかなくなってくる。
認めたくなくても、もう現実がそこにあるじゃないか。



P.S.
現在現役女子学生の友達の携帯小説を読んでいますが、なんとなく理解できたのは、携帯小説は「読み物」として成功したのではなく、「コミュニケーションツール」として成功したのではないでしょうか。
誰もが書き手になれる。自分の都合のいい話を書いて、まさに彼女らの「したい!」「きゅんとする!」「悲しい!」そういう気持ちを共有しながら、自分が置かれている様々な環境について話し合うきっかけができる。
そういう役割が大きいように思いました。
そして直接的に自分のことを話さなくても、自分が誰にも打ち明けられない感情を何かの力を借りて誰かに間接的に言う。
このようなコミュニケーションとしてのツールとして成り立っている。
じゃあ、現在の文学について「何が危機なのか」という問いの答えが少々変わってくるように思います。
文学の力が失いつつあるひとつの原因として「人と人を繋げる力が弱くなっている」ということが、ひとつ上げられてくると思います。
当然従来言われていたように、日本語、言葉力の弱体化は言えると思いますが、上記の原因を挙げると、現在の学生は何かをきっかけにして本音の連帯感やコミュニケーションをするという安心感を得たいのだと推測でき、その裏には「孤独感」があるのではと推測できるわけです。
人を描くということは、当然人間社会が抱えている潜在的、表面的問題が自然にあぶりだされてきます。
人間らしい人間が描写されているということは、個人、社会への投げかけとほぼイコールになります。
しかし、ただの「お話」を書いてしまえば、その力は薄れます。
プロの作家でさえ、商業的で安易な話を量産するのですから、御伽噺を書いているという点においては中高生となんら変わらないわけです。
そして、携帯小説よりもコミュニケーション機能が弱いとなれば、惨敗していると言ってもよいくらいです。
人間は心理的に大きく行動が左右されます。
ちょっとしたことでも気分が変わり、行動が変わり、そしてそのちょっとした変化が大きな分岐点になることもあります。
「お話」というのは、これらの複雑多岐な可能性と要因をほとんど無視して、作者の思い通りにことを運ぶ読み物であります。
小説における作品が無限の情報を持っているということも、この幾百万あるかわからない分岐点や可能性の示唆であると思います。
ご都合主義の携帯小説に、ご都合主義の出版社。
金の流れるところに業ありき。
欲望を満たそうとする互いの感情で成り立っている側面もありますが、変えたいのなら、文句を言う前にもっと関っていかなければいけないのではと感じました。
そうでなければ、余計にひどくなるからね。
想像力のない人間は、必ず貧しい発想で人を不幸にする。
正統派では、到底生きていけない時代になってしまったのです。

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07/31

Fri

2009

ブックオフなどの大型店舗でもない限り、個人経営の古本屋は買取の本を選ぶ。

「うちじゃ必要ないんですいません」

と断られた本の中には、今売れている大衆作家の小説や国語に出てくる文学もあったりする。
自分がやろうとしている職業というのは、やっぱりまともな仕事じゃないのかもしれないと感じてしまった。
自分が書いた本だって、そう言われてつき返されるかもしれない。

万人に受け入れられる人間なんていないのだから、当然本というのは必要な一部の人だけに受け入れられて、あとはいらないに決まっている。
だから、必ずしも落胆する必要なんてないに決まっているのだけれど、やはり色々心の中に曇ったものが出てくる。

ある程度自分の中で柱はあるものの、改めて「作家とは何か」ということを考えてしまう。
「この世の中に確かに存在している、しかしまだあいまいな、形にすらなっていないものを、形にするのが仕事」
と、安部公房の言葉を借りて定義付けてみる。

書きたいものが山ほどある。
一生かかっても足りないくらいある。
それを書くには取材が必要で、取材にはお金が必要で、お金を手に入れるには作家としての地位がなければいけない。
成果がすぐに出ないからといってやめられないし、諦めきれない。
北海道のことだって書いてないことはたくさんあるのに。

今や携帯小説なの、エンターテイメント小説なの、この作品がどう将来に役に立ってくるのだろうというものばかりで、自分は小説なのに人間が描かれてないのが一番読んでいて無駄だなと思う。

自分はもっと読み手に考えて欲しいなとか、違った風を吹き込みたいなとか、こういう問題点があるのではないか、などなど、ぶち当たっていきたいけれど、少しでも考えさせるのはなかなか受け入れられない。
…その前に自分の腕がまだまだなのかもしれないけれど。

読み手に媚びるような小説は書きたくはない。
それだけで読者を馬鹿にしていると思うし、小説家はサービス業じゃない。
…のはずなのだが、現代ではしっかりエンターテイメントがなければいけないし、小説家も立派なサービス業と成り果てている。
むしろ大手の出版社も、そういう作品を望んでいるしね。
挙句の果てには中高生に妊娠、レイプ、暴力、薬、堕胎、これらをエンターテイメントにして金を取る始末。

確かに彼らが置かれている事情や環境は今の大人が思っているよりも、もっと影がある。
興味しだいでそれらが「日常」になる可能性が充分にある環境があるのだ。
でもその携帯小説も一過性。
「セカチュー」なるものがあったけれど、一年たてばもう過去の産物。
流れが早すぎる。
当然古本屋もその手の小説は扱わないし、いっせいに書店で姿を見かけなくなる。

古本屋にいつも置いてもらえる本ってどんな本なのだろう。
価値のある本を残したい。
価値が残っていく作品を残したい。

もやもやしてたまらない。
とりあえず、本があまっているのでブックオフに電話して引き取ってもらおう。
残しておきたい本は、限られている。
古本屋でもいい本。
ちゃんと買って残しておきたい本。
後者の本を残せる作家でありたい。

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07/29

Wed

2009

最近デモンストレーションで飲み屋の店員を登場させた短編をその飲み屋に持っていって見せている。
ずっと詩文調で作ってきたので、俗に言うキザったらしい表現が多用されている。
もともと文字に入り込んでいるのも詩が最初だから、なんとかして言葉を使って収めようとする。

ちょっと見せたら「くせえなあ」とか「イライラする」とちらりと言われた。
それが評価なんだろうなあとしみじみ感じる。
読んでいる人間にすっと受け入れられるような、普通に生きている、普通に感じている人たちになじむような表現をするには、自分が詩文調の表現から少々脱却しなければいけない。
そして、もっと自分が泥にまみれたような生活をしていかなきゃいけないのだとつくづく感じた。

独善的な世界を展開して、そこに溺れる。
芸術家特有の罠だろうけれど、それが吉と出たりもするので、何が正しいとも言えない部分がある。
特殊で優れた部分と、誰よりも泥臭く生きている匂いが作家には必要で、作家特有の匂いが読者をひきつけてくる。

自分らしく生きるとか簡単に言うけれど、それが本当はどれだけ辛いことなのか、自分らしく生きられないことも、自分らしく生きることも、どちらにいったってジレンマに違いない。

自分だけしか愛していない人間が、誰かに愛されるはずがない。
もっと、自分を考え直さないといけない。

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07/28

Tue

2009



面白いものを見つけた。
「俎上の鯉は二度跳ねる」は、ボーイズラブと呼ばれる、美少年同士の恋愛もの。
「1Q84」は、村上春樹の小説。

さて、何が面白いかと言うと、レビューである。

村上春樹といえば、昔から活躍していた小説家で、「春樹節」をだいたい予想して、「ああ、やっぱり春樹だ」というノスタルジックな気分に浸り、あたかも浸かりやすい温度の湯に満たされるような緩いファンタジー感を楽しみ、現代社会のギスギスした人間関係の苦しさから必死の呼吸を試みるための空気転換というのが、彼の作品の主目的なのではないかと思う。
空気転換をしたからと言って、部屋の様相が変わるわけではなく、浸かりやすい湯に浸ったからと言って、明日の運命が変わるわけではない。
村上春樹の小説は、ちょっとした逃避旅行をしながら、異世界から違う気分で何かを見つめなおすのにちょうどいい。
彼の小説たるや、人生を突き詰めていった百戦錬磨の大人が改めてテーマを捉えて考え直すようなものではなく、そこに今まで思いもつかなかった、いや、思いこそしなかった子供に、このようなことも考えなければいけないのですよ、と優しく問題の入り口へと導く入門書のようなものなのである。
逆を言うならば、忘れかけていた初歩的な問題点に立ち戻るためにも、村上春樹のファンタジー世界は重要なのかもしれない。

そのうえで、今更村上春樹小説にケチをつけるなんていうのは、「小説あまり読んだことありません」と豪語するに等しい行為であり、いちいち子供の素行にケチをつけて彼らに何も教えたがらないアダルトチルドレンと同等のレベルと見ていい。
読みなれている人は「ああ、またか」「見逃してやれよ、ハルキなんだから」と、批判している人たちを「どうしようもねえな」という気持ちで眺めているに違いない。

しかし、問題点は春樹の小説ではない。
各々のレビューにある。

「俎上の鯉は二度跳ねる」はボーイズラブという、恐らく通常の男はほとんど手に取りも興味もわきはしない、男同士の恋愛ものである。
小説ではなく、コミックなのだろうが(というか読んだことがない)、かつてこれほど熱意みなぎったレビューを読んだことがなかった。
だいたい読者は主に女性。
読んでいただければわかるのだが、この手の話にまったく興味がない私でも非常に内容が気になった。
特に読みこみ方が玄人の域に達していて、通常の書評のレベルを凌駕しきっている。
作品を何度も読み返してプロットの仕掛けまで読み込み理解し、小説ではないコミックであるにも関らず、下手な小説家よりも貫通力の高い比喩で作品をぶち抜き、そして各キャラクターが背負っているテーマすらも神を信じて疑わない命をも捧げる信奉者のごとく自らの心に宿し我が身のごとく共有し、そして何よりも語っても語りつくせない、こんな私の陳腐な言葉では足りない、この作品の至上の価値は伝えきることができないのだという切なさと、それでも断崖絶壁の向こう側の愛しき存在に必死に気持ちを届けたいのだという熱意の強烈なジレンマが感じられる。
そして作品の内容をも離れ、紙質やコマ割りにもこだわり、私はこの作品に出会うがために生きてきたのだという運命すらもレビューから感じ取れるとはいかなることか。
この作品のすべての存在こそ完璧でなければいけないのだという思い入れよう。
この作品はもはや作品ではなく、私の体の一部の痛みとして、喜びとして、愛情として、悲しみとして、そして糧として存在しているに他ならないのだとでも言わんとばかりのレビュー。
読んでいるだけで感動するではないか。

村上春樹ファンに告ぐ。
君たちはこれほどの熱意と語彙を持って、かつて春樹作品を賛美しただろうか。
いや、強烈な春樹ファンでさえ、このレベルに達することはできない。
これはそもそも作品が持っているポテンシャルのせいなのか、それとも春樹のファンすらも春樹を理解しきれていないのか。
それとも村上春樹と心中する気持ちはないのか。
恋は人を詩人にするというが、愛情すらもまた人を詩人にするようだ。

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07/14

Tue

2009

いらないつまらないと言われればそれまでだけれど、好きになってくれた人は、恋をしているにも似ている。
もっと読みたいなと、もっと一緒にいたいなと、恋人と一緒に時間を積み重ねるにも似たり。

努力のない関係はありえなくて、よりよい関係は惚れさせてやろうという意気込みと積み重ねと、惚れてよかったと思える関係に似たり。

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
46
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。

気が付いたら他人からとても褒められる娘ができまして、人生が大きく変わりました。
この小さな可能性と向き合うため頑張って生きております。

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