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あさかぜさんは見た

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11/25

Mon

2024

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05/24

Sun

2009

食事中の父の一言

「肩身が狭いだろ」
と言った。
人を思いやる言葉を聞いた。
父の口からは滅多に出ることはない貴重な言葉。
中国語を習いはじめ、大学に行き出した父。
きっと自分よりも年下、もしくは同じように退職してから勉強を始めた人達に囲まれて、心境の変化があったのだろうか。
自分のものを取られると、ひどく怒る父。
日本酒を少しついでくれた。
小さな、喜びだった。
気遣ってくれて、ありがとう。

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05/23

Sat

2009

自分がとことん独善的なのではないかと思い悩むことは多々ある。

ふと、携帯小説で流行ったやつのレビューを見ていたら、思い出したことがある。

十年も前になるかと思うが、とある掲示板サイトに出入りしている私は、固定のハンドルネームで書き込みをしていた。
毎日が楽しくて、書き込みを何度も覗いた。
パケット代だけでも数万単位で飛んだ。

その中でも親しくなる人たちがいる。
新規がそれほど頻繁には入ってこないので、当然クラスのような感じになる。
掲示板だけではなく、電話番号やメルアドも交換した仲間もいた。

ある日、当時高校生だった女の子と、似たような年の男の間で事件があった。
男は「好きだ」と女の子にアタックしていた。
人をあまり疑わないその女の子は、わざわざ車で来た男の子についていき、家に連れて行かれ、処女を奪われた。
男の家には母親もいたはずで、あれだけ嫌がったのにどうして、とか細い声で電話で話した。
その話を聞いたとき、私は憎しみを抱いた。
でも、女の子は事を荒立てないで欲しいと言っていたので、我慢した。
しばらく男の書き込みはなかったが、ある日書き込みをしていた。
その時にはむなしく眺めていた。
その前に、女は男を許した。
「これからも仲良しでいようね」
と、伝えたと連絡を受け、衝撃に震えた。

どうして?どうしてなんだ。
なぜ許すんだ。
わからなかった。
今でもわからない。
ただ、レイプとして捉えるのではなく、もっと違った形で捉えたかったのかもしれない。
憎しみを抱くより、別の形で記憶を残したほうがいい。
しかしその子のいろいろな言葉が思い浮かんでいた。
「あーあ、ファーストキス奪われちゃった」
「初めてだったのに。嫌がったのに」
明るそうに言おうとしていたけれど、いつもよりトーンの低いその言葉を思い出すだけで自分は男を憎んだ。

その女の子には、病院の治療費を渡していた。
下半身が気になり、親にもこのことを話せないのでどうしたらいいのか、と悩んでいたので、お金を送ってあげた。

その当時の女の子の行動が自分を裏切ったとは感じなかったが、自分の胸の中に育った憎しみをどこに持っていっていいかわからなかった。
好感の持てる子だった。
純粋で、明るくて、人を楽しませるのが喜びで、人の長所をとことん認めて喜べる子だった。
好きだった。
だからこそ、なおさら、男が許せなかった。

人を好きになるということはどういうことなのか、今でもよくわからない。
理屈抜きに惹かれるものがある。
だから好きになる。
その当時はそれで納得したかもしれないけれど、今はそうは思わない。
好きになることで、独善的になるのは、いけないと思っている。
そこには、思いやりがない。
好きなら、思いやれるはずだから。
だから、独善的な恋を、簡単に人を傷つけられるような恋を、自分の都合で勝手にあれこれできる恋を、自分は恋とは呼ばない。

自分の思いが、独善的なのではないかと悩むことが多々ある。
勝手な思いを押し付けているだけなのではないかと。

あの女の子は、もう結婚しているだろうか。
だとしたら、きっといい人を見つけているかもしれない。
あの子は望みを高く持つ子だったから、今ではきっと立派になっているだろう。
自分は、どうだ…?
あの頃の、愚かなままの自分が、まだ見え隠れしているような気がする。
このことを書くのもまた、自分の独善的過ぎる気持ちの表れのような気がしている。

今はどこにいるかもわからないが、幸せに生きていって欲しいと、あなたのことを思い返しながらこれを書いています。

お幸せな人生を。

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05/23

Sat

2009

「私のこと、書いてるの?」

よく女性を描く時や、詩を描く時、思いもよらない人からコメントをもらったりする。
意外な人が、同じことを思っていたのだと、そのことを指摘されることに恐怖しているのだと、そこで初めて知ることも少なくない。

多くの人たちの相談に乗ってきた。
女性の場合、人生相談よりも、恋愛相談のほうが多い。
何人も何人も相談に乗っていくと、妙なことに気がついた。
ほとんどの人間が同じことで悩んでいた。

「相手の気持ちがわからない」
「相手がこうなのだけどどうしていいかわからない」

この手の相談をしてくる女性は、すべて「自分を殺して」いた。
すべて「相手が前提」で「自分の気持ちが成り立って」いた。
他者の中に、自分の居場所を一生懸命見つけようとして、相手に気に入られようと懸命の努力をしていた。
それを当然のことだと思い、「主体性」だと思っていた。

自分は、この生き方をして、大きく人生が狂った。
もう少しで取り返しのつかない大きな十字架を背負うことになっていた。
もしそうなったら、自殺していたことと思う。
そこまで、周囲が滅茶苦茶になった。
自分を思い返していくうちに、何がいけないのかを自分なりに考えた。
それは自分が右往左往しているせいで、結局周りをみだりにかき乱し、自分では何も決めずに流されて生きてきたのだと、そう考えた。
人に逆らうことはとても恐ろしくて、勇気のいることだった。
今でも、胸のそこから吐き気がするほど、気分が悪くなって動けなくなりそうなことが多々ある。

相談をしてくる女性に対しては、女性がしたいことを優先してアドバイスをする。
これが先走って説教がましいことを言ってしまったら、「なにもわからないくせになに!?」となる。
たいてい自分の気持ちを認めてほしいから相談しに来ているわけで、自分の人生の行く先や、心の変化に対してなど心配して欲しくないのだ。
今、彼にどうしたら受け入れてもらえるのか。
その答えが欲しくて相談しに来る。
たとえ今のままではおかしくなっていくことがわかっていたとしても、それは女性が求めていないアドバイスなので絶対にしゃべらない。

そんな中で、ポツリポツリと自分の中に溜まってきた鬱憤のようなものを、作品として出してみる。
すると、それを見たネット上の知り合いなどから密かにメールが来る。
思い当たるふしがあるのだろう。

小説には普遍性が求められるとよく言われる。
「普遍性」「普遍性」とは言われるが、それはいったい何のことだろう。
わかって言っているのだろうか。
私は感覚ではなんとなくわかっていても、それを言葉で説明することはできない。

しかし、おかしなものだと感じるのは、たとえばバーで女性の横に男性が座ったときに展開する話の内容。
なぜああも人が違っても同じことをしゃべるのか。
女性を少し持ち上げつつ、男の持論を展開する。
セクシャルな話にも少しずつ踏み込みながら、人ってこうだよね、ということを語る。
自分は書いている手前、「そんなのまとめてやるよ!これ一本で充分!」と書きたくなる。

書くと言われるということは、出来としてはよいのだろうか。
まったく言われないよりかは「え?自分のこと?」と思ってくれたほうが作家冥利につきるわけだが。

人のことを、ありのままに捉え、書くことはとても辛い作業でもある。
この書き方でいいのだろうか。
この言葉回しで、届くだろうか。
趣味もあるから一概に言えないが、届かなかった時点で失敗だ。
そこはまさに真剣勝負といえる。
自分が踏み込み、斬る。
失敗すれば、惨めだ。
こっちの心がやられる。
しかし斬ったからといって、自分も無事ではすまない。
人の心に触れることは、ひどく消耗する。
勝手に「同化」することもあるけれど、もう癖のようになっている。
自分を保つのも大変だ。狂いたくなる。

安易な話を書きたい。
浮ついたような、ありえないような、「わあ、楽しかった。おしまい」みたいな、どうでもいいような話。
でも今の自分が生きているのは、永遠とも思える反復、その苦しみに少しでも決着をつけたいと思っている。
そうやって繰り返しながら人は成長していくのではない。
学ぶべきものが、捨て去られてしまっているから、愚かになってきたのだと思う。

十年後二十年後誰も覚えていなくて、「ああ、そういうやつもいたっけ?」という扱いを受けて、誰も自分が作ったものは持ってなくて、「ああ、捨てちゃった」ぐらいの扱いで、生活できる程度の金は充分にあって、それで死にたいときに勝手に死ぬ。
それでいいじゃないか。

でも、自分にはできない。
悲しみや、苦しみに出会うたびに憤る。
自分ですらそれを他人に与えているというのに。
自分が生きた証を残したいわけじゃない。
自分にできることを精一杯して、人類に少しでも貢献できるのならば、と思っている。
こんなヤクザみたいな人間でも、日本人の代表として、人類に貢献できたら、これほど嬉しいことはない。

「私のこと、書いているの?」
腕が上がれば、もっときついことを言ってくる、または恨みを勝手に持つ人もたくさん出てくるかもしれない。
私は、その憎しみすらも背負わなければいけない。
そういう覚悟を持って、今を生きている。
できるだけ、長く、生きていきたい。
人を描くということは、そういうことだと思っている。

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05/20

Wed

2009

魂が抜け落ちて、どこかがらんどうになったような、とことん足りないような、そんな虚無を感じながらでも生きていかなければいけない。

こんなロクデナシでも、最後まで生きたという例を作らないといけない。
お前ら、大丈夫だ。
ロクデナシになっても、最後までロクデナシでいれるやつは少ない。
長い時間がかかっても、思いが徐々に体と気持ちを作り変えていく。
数年?十年?
お前らが考えてもいないような年月はかかるかもしれない。
先を見れば長い。
今日に精一杯しがみつけばいい。

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05/18

Mon

2009

他人を幸せにすることで自分が幸せになる

http://www.asahi.com/business/topics/katsuma/TKY200905030090.html

asahi.comの勝間 和代さんのコラム。

疑問を差し挟んでいるコメントがあるけれど、私はこれがないと未来は絶望的だと考えている。
私は「幸福の定義は人それぞれある」とは考えてはいない。

もし、独善的な考えをして与えないものがいるのならば、すでにその人は不幸だと考えている。

稼いだものを使って与えるのは当然のことじゃないのか?
なぜならば、あなたの商売は、必ずあなた一人では成り立っていない。
使っているものをよく考えて欲しい。
その上で、お金がどのように流れているのかをよく考えて欲しい。
生活一つとっても、電気ガス水道食料衣服交通遊びなど、それらがあってあなたの生活が成り立っていて、あなたはそれらの必ずどれかを使って稼いでいる。

必ずどれかを使って稼いでいる。
お互い様の精神なんじゃないのか。

あなたはそこに感謝の一つもできないのなら、もうすでに「不幸」なんじゃないのか?
不幸も幸福も結果的には自分が招いていることが多い。

前に書いたかもしれないが、本当の「職業観」とは、自分の仕事を通じて他人を幸福にすることだと考えている。
「ああ、俺っていい仕事したな」と思えることは、幸福なんじゃないのか?
大好きな友達が自分の仕事を通じて幸せになってくれたとしたら、嬉しいだろ。
嬉しくないのだとしたら、とても寂しい人間だと思う。

人類愛だとか、友愛だとか、そんなものは必要ない。
自分が身近に接する親や友達や大事な仲間が、少しでも幸せになってくれればいいなと考えるのが、一番の幸福なんじゃないのか。

前の日記で、携帯小説を書くのを断ったと書いた。
よく考えてみれば、もし自分に高校生くらいの娘がいて、「お前たちからお金とって、この飯食わせているんだぞ」なんて言えないと思った。
それを考えるだけで、気まずくなる。
飯が喉を通らないだろ。
大人の事情は、大人だけで決着をつけるべきだ。

しかし、ドライにその年齢層を「市場」として考えて稼いだものが「勝ち」なのか。
今でも相当悩んでいる。
漫画は?中学生や高校生をターゲットにしているものが多い。
お金が現在手元にない時って、なんでもしたくなるものね。
職なし、金なし、経験なし、切羽詰ってきたらコンビニでも襲ってやろうかという人間の気持ちがわかるような気がした。
携帯小説の主力層である、女子高校生。
彼女らが食いつく内容「レイプ」「妊娠」「高望みの恋愛」「破局」「暴力」「堕胎」なんでもあり。
わざわざ書くべきなのか。
切羽詰ると高校生相手でもそんな内容で書いてもいいかなと思えてくる。
自分が不幸だと感じたら(意識していなくとも)、とたんに人は誰かを不幸にしたくなる。
お金を取られたら、稼いで、取った相手から搾り取って潰したくなる。
解雇されたら、上司になってそいつの首を「役立たず」と言って、罵りながら切りたくなる。
そういうものでしょう。
彼女らは幸福だから刺激として不幸を見たいのか、不幸だから不幸を代弁してくれるストーリーが欲しいのか。
本当の幸福の意味がわかっていないのだと思う。

自分が幸福になったら、やっぱり誰かを幸福にしたくなってたまらなくなるんじゃないのか?
そういうことを教えなきゃいけないのに、「売れない=食えない」。
ふざけんな。
冗談じゃねえよ。

他人を幸せにすることは自分の心持のことで、相手に強制することじゃない。
世の中のほとんどすべてのことは、「自分がどうするか」であって、「他人がどうあるべきか」ではない。
「どうあって欲しいか」は許されるべきだし、言うべきだとも思う。

自分がどうあって、何を作って幸せにしたいのか、私は常に考えている。

そして、お金は私のところに集まるべきだと常に考えている(え?)。
ブルータス、お前もか。

おあとがよろしいようではないようで。

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
45
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みますが光野(こうや)とか朝風(=はやぶさ)でもよろしゅうございます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。自分でも困るほどの「皮肉屋」で「天邪鬼」。つまり「曲者」です。

2011年より声劇ギルド「ZeroKelvin」主催しております。
声でのドラマを通して様々な表現方法を模索しています。
生放送などもニコニコ動画でしておりますので、ご興味のある方はぜひこちらへ。
http://com.nicovideo.jp/community/co2011708

自己プロファイリング:
かに座の性質を大きく受け継いでいるせいか基本は「防御型」人間。自己犠牲型。他人の役に立つことに最も生きがいを覚える。進む時は必ず後退時条件、及び補給線を確保する。ゆえに博打を打つことはまずない。占星術では2つの星の影響を強く受けている。芸術、特に文筆系分野に関する影響が強い。冗談か本気かわからない発言多し。気弱ゆえに大言壮語多し。不安の裏返し。広言して自らを追い詰めてやるタイプ。

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