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あさかぜさんは見た

日記

10/28

Wed

2009

「人生は楽しければいい」

それは間違いない。

「人は言葉よりも、言葉で受けた感覚を覚えている」

それも間違いない。

私は最近嫉妬という感情を抱いて、嫉妬をぶつけ、気持ちをぶつけた。
価値観や生き方の違いが、一つの物事への温度差を生み、相手を苦しめ潰れさせた。
相手は吐き気をもよおすようになり、気持ちがついていきたくても、体そのものが拒否反応を示すようになった。
そこまで相手を追い詰めてしまった。

人と人を比べてその「差」を責める。
責めていなくても、言っただけで相手は責められていると感じる。
どうしようもない悪循環のスパイラルだった。

人には各々の向き合い方がある。
その向き合い方ひとつで、とんでもない勘違いを生んでいたり、誰かを苦しめていたりする。
きちんと正面同士で向き合うことを一度でもしていれば、こんなことにはならなかったのかもしれないと他人のケースを見ていて思うことがある。

「向き合う」ってどういうことだろう。
相手がどういう考え方をして、どういう行動をして、どんなことが嫌で、どんなことが好きで、どういう息遣いをして。
そんなことをひとつひとつ知っていくことだと思う。

自分には、明らかに「知ること」が欠けていた。
互いにアプローチの仕方が違いすぎて、ぶつかりあうだけでギクシャクして、互いにショックを受けていた。
どうすればいいのかわからなくなっていた。

未熟すぎて、話にならない。
今はそんな未熟な自分のそばに置いておくのが、とても危険に感じている。
どうしたら楽になれるのか、その人間を突き放すことばかり考えている。

体そのものが拒否反応を示すほどの状態が、はっきりと現実を物語っている。
ひどいことをしたと思っている。
でもその反面、苦しんで、よく考えて欲しいとも思っている。

人には生きている限り未来がある。
自分のことをよく考え、相手のことをよく考え、苦しみ悩みもがかなければならない必要が、人生にはある。
一度でもそれをやっておかなければ、万が一の時に、人を不幸にする。
生きている限り未来があるからこそ、苦しんで欲しい。
今のままで終わって欲しくない。

その人とは、この先深い接点がでるのかどうかはわからない。
力になれるものなら、力になってあげたい。
いつだって自分はそうやって生きてきた。

幸の多い人生を心から望んで止まない。
「生きていって」欲しいと思う。

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10/27

Tue

2009

「愛」を語ったエゴ

友達からきついことを言われ、はっとした。

「愛情だと語って実は自分の負担を減らすためにしているだけのエゴ」

占いの本に書いてあったらしい。

正直堪えた。
自分は「偽善」を押し付けていたのではないか、と。

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10/26

Mon

2009

アメリカに二ヶ月近く住んでいたことがある。
語学留学という形でホームステイしていた。
片言の英語で一生懸命生きていく。
それでも楽しかった。

ホームレスみたいな人も多かったりして、治安が悪そうなところは見た目でわかった。
ガラの悪そうなのがうろうろしているし、どことなく不安になる。
食文化にはさすがに高カロリーのものばかりで参ったけれど、日本にいるときと気分が違った。

なぜ、日本にいるとこれほどイラつくのだろうと感じたほどだった。

わりと田舎でのんびりしているところにいた。
カリフォルニア州のサンフランシスコに近い場所にいたのだが、LAやサンフランシスコみたいな都会でもない限り、だいたいのんびりしている。
州知事のいるサクラメントでさえ、日本の「都市」から想像できる人口密集のイメージとは程遠い。

留学期間最後が近づいて、少しはめを外した。
学校を無断欠席して、ラスベガスのあるネバダ州の北にある、リノという街にでかけた。
カジノというものを体験してみたくて行ったのだが、まず街を出ようにも列車が来ない。
それまでバスが待っても20分以上来ないことを何度か経験しているので、気持ちも「まあいいか。じたばたしても来ないものはしょうがない」というゆったりとした気持ちになっていた。
景色だって開けている。
空をぼんやり眺めていた。
払っても次の駅で待っている乗換えのバスに間に合わなければ、電車に乗っても無駄だろうとも思わなかった。
「行ってみなきゃわからないさ。とりあえず景色でも見ながら待つか」とぼんやりしているところに列車が遅れてくる。
乗り込んで、ゆられながら時計を一度見て、あとは景色を眺めていた。

バスの待っている駅に着くと、もうとっくにバスの出る時刻は過ぎているにもかかわらず、バスがきちんと待っていた。
バスも電車が遅れてくるのがわかっているので、しっかり待っていたというわけだ。
妙なところでうまくまとまっている。

ゆるくまとまる。
そんな余裕のあるのんびり生活が、自分のペースに合っていた。
本当にあの地では自由を感じていた。

アメリカにはところどころにストリートパフォーマーがいる。
路上で楽器を演奏するなり、芸を披露するなり、チップを目的に一日中いたりする。
モーテルに泊まる金額が安くて20ドルちょっと。
一日の食費が10ドルもあれば、おなかいっぱいになれる。
つまり、一日30ドルちょっとあれば、ぎりぎり生きていけそうな空気がある。
特に「チップ」や「楽しみ」に関しては文化がもともとあるので、「パフォーマー」たちを軽蔑するような空気はまったくない。

そこにいると「なんでもやってみればいいじゃん」という、楽な気持ちになれたし、自分もまた「やらなきゃしょうがないだろ」という気持ちになっていた。
日本語が通じず、片言の英語しかしゃべれない。
やっていかなきゃ生きていけない。
コミュニケーションも取れない。
不安に思ってしり込みする時間があったら、何か手を打たなきゃいけない。
でも切羽詰っているわけではなくて、「なんでもできそうだ」という自由な気持ちでいられた。

バスに乗って長い時間フリーウェイ(無料高速道路)を走る。
ネバダ州は乾燥した大地が多く、荒野が広がっていたりする。
白い岩肌に、乾燥した低木と、まばらに見える植物。
そんな山を越えていくと、今度は赤茶けた色の土が広がる。
空気も乾燥しているせいか、太陽が嫌に青みがかって見える。
雲の形も、煙を漂わせたような、日本では見られない形ばかりだ。
移動距離も長く、移動コストも安い。
どこまでもいけそうな雰囲気があって、どこに終着点があるのかもわからない。

カジノで稼ごうとは思わなかった。
素人だし、日本でパチンコもスロットも競馬もやったことのないような男がカジノに行くのだから、勝手がわからないに決まっている。
ただ、雰囲気を味わいたかった。

クレジットカードの限度額まで現金が引き出せる。
一日で見事に十万すって、帰りの時には1ドルとちょっとぐらいしかなかった。
ひどいものだった。
もう何も残ってない。
気持ちも荷物を全部おろしてしまったように軽々としていた。
帰る切符を先に買っておかなければ、帰れなかったレベル。

帰りのバスの中で同じような景色を見る。
荒野や岩肌を見ながら、妙にすっきりした気持ちでゆられる。
その時、カントリーミュージックのようなものがラジオから流れ出し、からっぽの心の中に妙に心地よく響いた。
何も持たず、何も背負わず、もう体ひとつで、長い道をひたすらゆくロードムービーのような、妙に透き通った気持ちになれた。

「自由」

何かを押し付けることでもない。
何かにせかされるわけでもない。
ただ、ありのままでいていいのだと、ありのままでいることが本当の自分なのだと、それが一番気持ちのいいことなんだと。

失っても、何も失った気がしない。

「また、やり直せばいいよ」

こうじゃなきゃいけないとか、ああしなきゃいけないとか、色々あるかもしれないけど、大丈夫、なんとかなるよ。

ふと、アメリカにいた頃の気持ちを昨日思い出した。
「自由な気持ち」を、思い返していた。

大丈夫。
なんとかなる。
自由な気持ちで、ちゃんと色んなものを優しく包んであげれば、全部うまくいくよ。

ふと、苦しくて辛くてふさがっていた気持ちが、妙に軽くなっていた。
もし辛くなったら、せめて気持ちだけでも、あの場所に戻ればいい。

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10/25

Sun

2009

自分の感情すらもコントロールできないで、守りたいものすらも傷つけて、自分が暴走して止まらなくて、壊してぐちゃぐちゃになる。

つくづく自分はなんて幼いのだろうと、苦しみに耐えて待つことすらもできないのかと、自分の幼さに心底落胆する。

なんでもリセットできたらいいのに。
そういう安易な考えが誰だって浮かぶ。
自分もそうだ。
この苦しいことが何もかもなくなればいい。
自分がいなくなればこんなことは起こらなかったかも。
自分がいるせいでこんなことが起こっている。
あいつさえいなければ。

立ち向かうことは苦しい。
初めてのことにどうしていいのかもわからずに混乱して、ただジレンマと苦しみだけに時間を費やす。
もうこんなことはなくなってしまえばいいのに。

我慢できずに自分も言ってしまう。
よくない感情に身を任せて、他人を殺してしまう。

そのあと、残る虚しさと言ったら、例えようもない。
どうしたらいい。
伝えることは時として傷つける。
相手のことを思いやるとは、相手の考え方や価値観や経験もすべて受け入れて、頭ごなしに言っても、それは思いやりにはならない。

もっと自分は気がつかないといけない。
大切なものと向き合うというのは、真剣にやりあわないと、どうしようもなくすれ違う。

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09/25

Fri

2009

つい、自分の感情から強く自分勝手なことを言い、責め立ててしまい、理不尽な傷を与えて友達をなくしました。

後に、メールで言われたことは「感性鋭く生きる」よりも「感情豊か」に生きたい、と書かれました。

正当性のある正論であろうと、人の気持ちを尊重しない言葉には、ココロは動かされないのだと。

まったくその通りでした。

その人のほうが、はるかに人のことを考えていた。
自分のほうが浅慮だった。
つまらない感情をただ押し付けただけだった。

芸術の根本にあるのは、「感情を豊かにさせる」ことにあって、「感性の鋭さを押し付ける」ことではない。
後者が主軸になってはいけないのだと、気がつかされました。

他人のことを鋭く指摘したからなんだというのだ。
動かせないのは、動かない人が悪いのではなくて、動かせない人が悪いのではないか。

未熟すぎることを痛感しました。

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
46
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。

気が付いたら他人からとても褒められる娘ができまして、人生が大きく変わりました。
この小さな可能性と向き合うため頑張って生きております。

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