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あさかぜさんは見た

日記

01/20

Wed

2010

※酔っ払いながら書いています。

ずっと携帯電話をいじっている。
アプリやワンセグ、着歌などなど旧世代からいきなり今の携帯に躍り出た自分には、なぜか懐かしさばかりがあふれる。

例えばアプリ。
自分はちょっと違ったゲーム遍歴をたどった。

普通はファミコン、スーパーファミコンと任天堂ハードをたどるところが、ファミコン、ディスクシステム、PCエンジン、PCエンジンCDROM2とたどってきた。任天堂からNECへといった。
家庭用ハードはそれで終わる。
得に当時としてはCDから直接音楽や音声を読み込み「声が出る」というCDロムロムは自分にとって他を圧倒するものだった。
現在のプレイステーションやXボックスの能力に追いつこうと映像に力をいれ、映像に見劣りしないような音楽を作ろうとするように、なんとかスーパーファミコンよりちょっと背伸びしたようなCDロムロムはそのCD音質に合わせようと今から見たら子供だましのようなアニメやドット絵を駆使して演出をしていた。
色々な話を見た。
得に今でも印象に残っているのは「バベル」「ソードマスター」
糞ゲーと呼ばれる、面白くもないゲームと評価されていたが、自分にとっては今でも印象に残っている。

「バベル」は男と女の主人公がいた。
世界は時空の壁と呼ばれる雲のようなものに徐々に飲み込まれ、収縮し、いずれバベルの世界そのものが滅びてしまう。
人体の体にはある程度の機械が適応できるほどの文明で、腕などが機械の人間がいるが、それでも銃や戦車などの現代の主力武器があり、ラピュタに出てくるようなロボットを巨大化させたようなものを作るには突出した帝国のような国しか作れなかった。
アガメムノンという太古から存在する機械の船があり、そこへと行こうとするのだけれど、男の主人公のヒロインの機械の女の人、男の主人公と一緒に旅をする女の主人公、サブキャラを取り巻くキャラ。
みんな感情むき出しの子供のような茶番劇だけれど、「どうせ世界は滅びるんだよ!」という意識が蔓延するすべての人の憤りの中、「地球」という幻の星があり、機械の女に「私はその星のことをデータとして知っているだけ」ということを教えられ、主人公は崩れゆこうとする世界に対してあらがい、仲間が次々と犠牲になり、かつて仲間だった人間が、世界の崩壊に耐えられず、裏切りの果て死んだりする中、すべての犠牲の中アガメムノンの中で目的地を「地球」と言うと、次の瞬間、どこか違う近代の街の中にいて、「今までのは幻だったのか」と戸惑う中、とある喫茶店に迷い込むと死んだ人間も含めて登場キャラがみんないる。
「遅かったじゃないか」「ずっと待ちくたびれてたぞ」「おねえちゃーん。おにいちゃんがきたよー」
そんな声の中主人公の男に抱きつく機械だったはずの女。
上空にはアガメムノンガ浮いている。
簡単に説明するとそんな話だった。

「ソードマスター」は残虐な主人公と、プリーストの女がいて、冒険の果てに主人公は魔王を倒すのだが、主人公が魔王と人間の間に生まれた子供だとやがてばれる。
自愛に満ちたプリーストと残虐な主人公とは馬が最初は合わないが、やがて女は男のことを理解していく。
これはうろ覚えなのだが、エンディングの時に女と寝る主人公が苦労をかけた女に対して血の涙を流すのだけれど、次の朝主人公は消える。
女は主人公を探そうとするのだけれど孤児の子供にいつもどおり振舞う。
その時涙を堪えながら孤児を抱きしめると、女の名前を呼び孤児がこう言う。
「おかあちゃんの匂いがする」
そこで女は泣き崩れ、エンディングの中でかつて目の色が赤かった主人公が別の目の色で出てくる。
その孤児のセリフだけははっきりと覚えている。

「リンダキューブ」
世界が滅びることが決まっていて、動物をつがいで集めて箱舟とともに惑星を脱出するゲーム。
シナリオA
なぜかリンダの母が父の体に取り込まれていて、最後までなぜ父が狂い残虐非道な行為をしたのか明かされないとか。
シナリオB
博士が死んだ娘に執着してケンにサチコという死んだ娘を科学の力で復活させロボットにし、「サチコ!サチコ!サチコはどうだ!」と迫り、リンダの代わりにさせようとする執念とか。
青野武さんの名演技が光った。
シナリオC
AやBで死んだキャラたちが仲良くまとまっている。
当時としては画期的なゲームのシナリオだったし、敵として現れるモンスターを捕獲するために追いかり、捕獲した動物で装備などを作るなど斬新過ぎるアイディアだった。

「バスティール」ジャズがよかった。
「バスティール2」いかれてる最後の悪の元凶に「それでもこの人が好きなの」と一緒に死ぬ女が印象的だった。
だって子供だよ?
子供がジャズとか人間の狂気とか極限状態とかをシナリオで体験するわけですよ。

正直今のゲームは、ほとんど当時のアイディアの上乗せにしか感じない。
アプリも当時やっていたゲームがあって懐かしさを覚えた。
得に今のアプリゲームは当時のゲームとあまりかわりがない。

ゲームばかりの話しになったのはゲームっ子だったのでアプリをしながら色々と思い出したのだけれど、サイトの作りも10年ほど前にiモードが出てきた頃とあまり変化がない。
懐かしい掲示板サイトもまだ存在していた。
そこに出入りする年齢層が幅広くなったというのが少し変わった点だとは思うけれど、人とのつながりを求めて寂しさを抱えて人がサイトに出入りするところはまったく変わってない。

なんら、10年前と変わらない姿がそこにある。
これはずっとそうなのだろうか。
なぜなのだろうか。
結局技術が進歩しても変わってないものがある。
日本人が抱えている現実のような気もする。

そして思い出したこともある。
暗闇の中で必死に携帯電話をいじりながら「携帯依存症」にも似た感覚で妙な陶酔感と、苛立ちと、人とのつながりを求め必死に掲示板に書き込みをし、自己アピールをする自分。

思い出した。
この携帯に必死に向かう閉鎖的な感覚。
ここしかないんだという閉鎖的な思考回路。
その世界にしがみつくしかなかった自分の世界への麻痺。
無気力と諦観の狭間でぼんやりと携帯電話の画面へ向かっていた自分。
パケット代だけで五万を超えていた頃。
電話代でさらに三万。
ただ孤独とストレスに耐え切れなかった。
誰も理解してくれない感覚の中で自分の話を聞いてくれる人がいる慰め。
すべてが懐かしい。
懐かしすぎて、イライラしてきて酒を飲んでしまった。

技術は進歩しても、人間は何一つ進歩してなかった。
何も変わってはいなかった。

思わず、この文章を書きながら苦笑している自分がいる。
正直、日本人の「精神」は、この10年以上停滞したままだ。
はっきりわかったよ。

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01/15

Fri

2010

実はパケット定額ができない旧世代の携帯をずっと持っておりまして、昨日いよいよ新しい携帯に換えたわけです。
一度買い換えると普通に壊れるまで持っているほうで、大事に使っていたのですが、通話の音声が悪いと数名から指摘を受け、買い換える決心をしたわけであります。

色々と知識はあったものの、まるで自分が化石状態で、夜中に色々と携帯をいじっていたら興奮してきて眠れなくなりました。
テレビが見れただけでも少し興奮。
と言っても、見たい番組なんてほとんどないのですが。

今回はもっと長持ちしますようにと、頑丈そうなやつを仕入れました。
防水らしいです。

色々と見ていると、やっぱりPCブラウザで見るのと、ねっころがりながら見るのとでは、妙に雰囲気が違うというか、たとえば私が文章を書くにあたり、いつもはPCのキーボードでカタカタと打ち込むのですが、同じ文章でも寝る前に暗闇の中、携帯の小さなディスプレイから見える世界はとても孤独感があり、妙な切なさがあり、小さなぬくもりを求めるのに携帯のウェブサイトや文章というのは、あくまで読み手の「慰め」でなければならないような気がしてきて、小さな孤独や切なさゆえに、その暗闇の中の光は妙な陶酔感があるのかもしれないと感じたわけです。
寝る前に頭なんて働かせたくないし、これが行き帰りの電車の中やバスの中であろうと、それほど文章に神経を割く事はできない。
携帯で見る文章というのは、たとえ「小説」であっても、厳密には「小説」の形をとれないのだと、ちょっとした核心に至りました。

携帯の文章形態はあくまで「メッセージ形式」でなければならず、小説として進化できるとすれば「詩文形式」にとことん特化していくしかない。
漢文や和歌などは、現在の義務教育や一般の知識としては広く教養として身につけられているとは言いがたいので、ひとつの進化形態のヒントにはなるものの、ふさわしくはない。

よりコンパクトな情報プラットフォームとしての携帯の進化は望めるけれども、少々画面が小さく、最終的には「メッセンジャー」としての機能に特化していくのではないかと思った。
つまり、テレビでいきなり画面上部に出てくる緊急メッセージのようなものが、頻繁に携帯に集まり、もちろん詳細は見れるものの、携帯の端末を通してコンパクトPCや街の各所にあるより大きな情報端末画面で確認するなど、よりID性が高まり、情報もパーソナライズされることが加速されると今更ながら考えるわけです。
そこで出てくるのが情報の無料化と企業広告。
これは恐らく情報が階層化されて、より深く詳しい、または多くの人が必要としないようなものはランクごとに値段が変わってきて、浅い情報は広告付きで無料化される。
そんな即時性のある電子新聞が一般的になるかと思われます。
今、どんどん加速化しているけれどね。
広告もまた、記事や地域性によって完全に特化する「コンテンツマッチ型」に変化していくでしょう。
三丁目の新年近い町内会の行事の記事には近所の花屋と小料理屋の広告とかね。

しかし、まあ、情報コンテンツにおける、その先にある生産性を考えるに、情報を流すだけでは創造は行われない。
利益=創造に結びつく新しい、より技術や生活に密接した情報がこれからは求められるし、情報を元に新しい製品や産業が生まれてくるように、発信元は進化しなければいけない。
技術と生活している生の声がいかに結びつくのか。
独自の生産力を持つものが、いかに人間・生活の苦境を吸い上げ、幸福へと還元するのか。
完全に分類化され、整理された情報が利益として流動する。
そこがこれからの時代の一番のポイントになるかと思われます。
その上で新しい技術というのも創造していかなきゃいけない。

さて、それよりも私自身の問題なのですが、これからの時代における作家の役割とはなんなのかと、避けて考えることはできないのですが、ジャック・アタリ氏は日常の苦痛を忘れ去るためのヴァーチャル産業(映画なども含む)がこれからはもっと活発化していくだろうということを本に書いていた。
そんな気がするし、でももしそんなことになったら苦笑せざるをえないけれど、この考えは当たりそうな気がする。
結局は「フィクション」を与え続けるということになる。
それも、「前向きな現実へと向かわせるためのフィクション」ではなく、「ストレスの日常から解き放つために別空間へと誘うためのフィクション」、つまりは「完全なるファンタジー」に需要が…って今もそうだけど、これからなお活発になってくる。
ディズニーランドって今でも人気が衰えないものね。
楽しくないものは長続きしない。
だからといって、商業作家ならまだしも「小説家」が「人間を見つること」を忘れちゃいけない。
いや、もしかしたら自分に一番今欠落している視点は「ヴァーチャル空間で活力を得る人たちの心理」なのかも。

新しい携帯で何できるのかな。
前のと違って見れなかったサイトも見れるようになったし、しばらくは携帯四六時中いじってそう。

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01/13

Wed

2010

このようなことを書くには、まだ早すぎる年齢であることは確かだ。

世の中には「食わせてもらっている身分で」と言う人がいる。
しかし、最近は子供を殺す親、親を殺す子供がまれにニュースで取り上げられる。
赤子を捨てる親、虐待する親。
核家族化によって不透明になった家庭環境が、風に当てられない傷口のように化膿しきっている。
すべての悲劇は当然のようにひっそりと始まり、ひっそりと終わる。

私の父親は、気分屋だった。
私は思い通りにはならない息子で、それゆえに誰かに見せるのも恥ずかしい子供だった。

私の父親は暗闇が嫌いなのか、寝るときに電気スタンドをほどんど消したことがない。
密閉された空間が嫌いなのか、寝室のドアは完全に閉めることがない。
コンプレックスの塊で、トラウマがあるように見えた。
その魂を軸にして、あらゆる罵倒や嫌味が出た。
物事を表面上でしか捉えず、深く考察することがなく、ほとんどの言葉は受け売りで、小心者で器が小さかった。

私は父親の財産をほとんど食いつぶしたといっていい。
文字通りの「ごくつぶし」だ。

私の家庭は親しく付き合っている親戚も含めて芸術家、及び芸に携わって世で活躍しているものを輩出したことがない。
それだけに、社会システムを遵奉しきっている、ごくどこにでもいる、他人と深く関ることもない平凡なサラリーマンだった。
私は父親が会社を辞めてから友人と遊びにいく姿を見たことがない。
そのかわり、退職金などで旅行に出たりする。

寝起きは必ず機嫌が悪く、視界を何度も横切ると機嫌が悪くなり、口答えすると機嫌が悪くなり、気に入らないことがあるとゴミ箱の底を漁るように過去の文句を言い出す。
自分が興味のないことには絶対に理解を示さず、大衆が評価を下したものから、さも自分が見つけてきたように自慢げに話す。

興味がなければチャンネルを数秒ごとに変えて、断片的に番組を見る。

そう、まるで気分もチャンネルを次々と変えて一周していくように変わる。

私が父親から学んだものは、「心の痛み」だった。
抑圧され、苛立ちと、怒りと、いつまでも心に残る罵倒に対する悲しみだった。
それはきっと自分がどうしようもない人生を歩み、長年にわたり苛立ちと、情けなさを父親に与え続けたせいだと思っている。
食卓で心から打ち解けて会話をしたことが記憶のある限りまったくない。
談笑とは程遠く、会話の糸口さえも余計な一言で打ち切られる。
だから、ゆっくりと食事をしたことがない。
まるで流し込むようにして食べる。

逆に男性にとって父親とまるで恋人といるようにべちゃくちゃと話しているのは気持ちが悪いだろう。
もしかしたら、父親と息子という関係が、真の理解を示すのは、互いにもっと年を取って様々な経験をしないといけないのかもしれない。

しかしこれからまったく普通の社会人には理解されないような領域に私は入っていく。
小説家も「芸術家」の一種だ。
ある意味ヤクザ家業であり、自分の人生を常に「経験」のために使う。
あらゆる意味において破壊を行い、創造をしていく。
嘘をついて金を稼ぎ、言葉で人心を操る。

私はこの分野において、はっきりと自分の未来が見える。
誰も信じない、自分だけが見ている未来がある。
そこへと行き着くだろう。

それでもきっと父親は理解してくれない可能性が高い。
きっと話し合っても、私が説明をするだけで、まるで夢物語を聞かされているような顔をするに違いない。

どこかに別の可能性を期待している自分がいるけれど。

長年父親の呪縛に精神を痛めてきた。
まだそんな程度では、どうしようもない子供であることは間違いない。

飛び立たなければいけない。
もう、悩んでいる暇はなくなってきた。
私の財産は「心の痛み」だと思っている。
これがなければ、私はもっともっと思いあがっていた。
十数年も苦しんで、ようやく人の痛みがわかりはじめてきている。
あとは「世間」に出れば、勝手にそこで罵倒や中傷や悪意が投げつけられ、また痛めつけられるだろう。
もう父親からは充分だろう。

私にとって「父親はどんな人間だったか」を語るにはまだ早すぎる。
若さゆえの浅慮は愚かさなのか。
皆等身大の悩みがあり、それは比較して語るものではない。
少なくとも私にとっては辛かった。

こう記しておく愚かさを、いつか「まだ若かったな」と笑う日も来るだろう。
しかしそれでも、感じていたことを素直に記録することは、むき出しの感情を忘れ去らないための、大事な作業。

陳腐で、幼稚で、くだらない。
こんな文章しか書けない文章家が、小説を書こうとしている。
こんな気持ちしか表せない人間が、小説を書こうとしている。

まだ足りない。
まだ痛みが足りない。
殺されるほどの痛みがなければ、何も見えない。

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01/09

Sat

2010

ダラダラな生き方

デビュー当時、偶然発見して、それから唯一追っている作家さんがいる。
特にこれといって作家を決めて読むことがないだけに珍しい。

デビュー四年にしてスポーツ新聞の連載、雑誌への掲載など作家として忙しい日々を過ごしているだろうし、血のにじむような努力をしているのだと思う。
元から才能のあった人だと感じただけに、「ああ、この人は伸びるだろうな」と思っていたらメキメキ伸びてきた。
売れてからが地獄だけれど、うまく読者に媚びることもなく自分の路線を突き進むのではないかと多少心配ではあるが、今後の成長も楽しみな作家ではある。

名声への誘惑と作品は切り離せない地獄の葛藤だからね。
人間だから。



「ねえ、あなたは日々どうやってがんばって生きているの?」

と友達に聞かれ、

「何をおっしゃるのやら!私は毎日省エネモード、超低空飛行、めんどくさいめんどくさいとダラダラ過ごしながら、日々をいかに努力せずに生き抜くかという次元で生きている男ですよ!?」
と言ったら友達が笑っていた。



北野武氏が昔の番組で
「人間は努力しなきゃ泳げない。魚は努力しなくても泳げる。だってそれが自然の状態だもの。芸人は努力して泳ぐようだったらいけない。長嶋さんだって、あれバット振らなきゃ眠れないっていうじゃない。あれは努力じゃないだろ?だって振らなきゃ眠れないんだから。芸人の世界が厳しいなんて外から見てもわかる。でも上にのし上がればこれほどいいことないだろ。そんなのは最初からわかりきっていること。それをやっていけないから出て行って、また帰ってきてやりたいだなんて、そんなバカな話はない」
結局「芸をやる人間の覚悟」のことを言っているのだけれど、最もだと思った。
貧乏で食っていけないのは当たり前、才能を磨くための努力をするのは当たり前、でも芸人だったら努力して芸人やってるんだなんて他人に思わせるようなら失格。

芸の世界は自分の自己満足じゃなくて五感や直感を研ぎ澄まし、技術を常に練磨すること。
とはいえ、やっぱり活躍している人を見ると素直に「チクショウ、うらやましい」なんて思ったりする。

ついついよからぬ気持ちを抱いて、先ほど書いた作家さんのことも純粋に応援できなくなってしまう。
ああ、なんて気持ちが弱いのだろうなと、少し落ち込む。
特に読者からの反応が多かったとか書いていると、なぜかむっとする。
「何で自分のは反響がないんだ」と卑屈になってしまう。
自分は自分の書きたいのだけ書くって考えているのに、矛盾している。

ダラダラ生きたくてもどこか焦っている。
書いた瞬間欠点が見つかる。
矛盾ばかりでがっかりすることばかりだ。

しかし今年は妙なことに占いに「人の縁」が強く出ている。
この兆候は、恐ろしいほど強く出ているので、自分の運命が大きく変わるかもしれない暗示だ。
人を動かすのは結局は人。
どんなに一人でがんばっても大きなものは動かせない。
その結果、自分がようやく活躍できる。

誰にも到達できない場所へと軽々と行ってやりたい。
久しぶりに生き生きしている自分がいて嬉しい。

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01/05

Tue

2010

未来が楽しみですね

「私の夢は覚めることはない。私の目は見開いている。夢を見たいなら今すぐ何もかも忘れて楽になって眠ることだ。目をつむり、願い続けることで、望む夢は見れるのだから」



私は正直、直感だけを頼りに生きています。
そして、ろくでもない生き方をしていますし、これからも破天荒な生き方を選択していくでしょう。
ちょうど二十歳を過ぎた頃、高校生の時よりも感性が鈍っており、衝撃を受けました。

「このままではいずれ第六感的な、肌身で感じて体の中に堆積する、言葉では説明できない感覚がいずれ消えてしまう」

そんな危機感を覚えました。

感覚を残せているかどうかは不明ですが、論理に頼らず、少しでも違和感を覚えれば言葉を徹底的に排除して感覚だけを覚えておくようにしています。
そして、「自分の感覚」から再度論理を構築して言葉を吐きます。
言葉を吐いた上で自分に違和感があればまた崩します。
そんな繰り返しです。

「ようやく子どものような絵が描けるようになった。ここまで来るのにずいぶん時間がかかったものだ」

これはウィキペディアから引用したピカソの言葉です。
私自身は「子供が子供らしい絵を描くことはたやすいが、大人が子供らしい絵を描くことは困難だ」という風に覚えていました。
たまに、この言葉を思い出します。

高校生の頃、あれだけ感受性豊かだった友人たちが、どうにも閉鎖的で、しかも感覚が鈍っている。
それを感じたとき、とても驚きました。
社会に出てから、それほど変化しない環境に馴染んでから、ほんの十年以内にそれほどまでに変貌してしまう。
社会人は数多くのことを学んでいると錯覚しがちですが、「好奇心」と「創造性」のない環境では、子供よりもむしろ頑固になっている。
だからと言って社会を責めるわけではない。
無論、使われるよりも人を従える立場にまわる人もいる。
しかし、突拍子もない、子供のような感受性を受け入れる組織というのは稀な例であると見ていいでしょう。

私が伝えたいことは、

「一度自分の才能を麻痺させてしまうと、それを取り戻すことは容易なことではない」

ということです。

何を目指したいのか、何をしなければいけないのか、その上で自分の中に何を育てて何を捨ててしまってはいけないのか、それをじっくり考え、悩まなければいけません。

人と関ることは非常に難しい。
思い通りにならないし、欲を押し付けられ、また自分も押し付ける中で、自分を殺していったりしなければならない時もたくさんある。
利害関係が強く前面に出るこの社会での人間関係の中で心から「ありがとう」と言われることは少ない。
己に勝っていかなければ、甘さを見抜かれるし、自分のために動けば人は外見上「利己的な人間」だと安易に判断されるでしょう。
その上での苦しみはたくさんある。

人は無力なものです。
たった一人では非常に無力です。
自分の力を過信しすぎてはいけないし、一欠けらでも蔑んではいけない。
自らを尊重するということは、傲慢にならず、等身大の自分を偽りなく見つけていくということです。
よき人は、そんな人に惹かれていくものです。
そうすればよい人たちが、たくさんの力を与えてくれることでしょう。

人の心に触れるのが怖いのはきっと誰でも一緒です。
傷つけてしまうのではないか、不愉快にさせるのではないかという不安が行動を億劫にさせます。
あらゆる意味で「行動の勇気と覚悟」が問われることになるでしょう。
たとえそれが「相手がこのままではダメになってしまう」と思うからこその親切心を発揮しても理不尽な形で裏切られることも少なくはないでしょう。

人には、「時期」があります。
たとえ30でも40でも、年齢関係なく子供みたいな人間はいます。
一生自分の過ちに気がつかない人もいれば、ある日突然雷に打たれたように悟ったり、痛い目を見て徐々に知っていく人もいます。
そのタイミングは本人にも他人にもわからないし、理解しそうもないことを何度も念押しに言っても理解されないことがほとんどです。
それゆえに理不尽な事態になったり、「当然」と思っていることも軽々と裏切られることになるでしょう。

私はお話を書いていますが、お話の中ではなるべく他人同士が「理解しあう瞬間」や「理解しあえない理由」をあぶりだして書くようにしています。
それは、「お話なればこそ」です。
しかし、ごくごく平凡な例を、ごくごく普通に肯定して現実を書くならば、他人同士は理解しあえないということをとことん書くかもしれない。
環境も年齢も違えば大事なところで分かり合えないし、分かったふりを互いにするだけです。
だからこそ向き合ってぶつかり合わなければいけないし、時には「時期」ではない時は諦めることも必要になるかもしれません。
そして明らかによからぬ意識を持っている人間に対して、うまくかわしていく術も必要になるでしょう。
非難を加えるのではなく、あくまでかわす。
その上で自分がなすべき最低限のことはする。
その先の不徳はあちらの問題になります。
自分は確かに正しいことをしている。
そういう自負心があれば、他人の反応など問題ではないのです。
他者の反応は恐ろしく、つい過敏に察知し、その邪念を心に映し、清らかな心を持っているほうが間違っているのではないかと思わせるような大人は社会には数多くいます。
自分の親のような年齢の人間でさえ、より狡猾に立ち回り、子供よりも姑息な手段で威圧的に人の心を潰しにかかることはよくあることです。
私だって、納得のいかないものを「なぜ!?」「なぜ!?」と攻撃的にやり込めることはあります。
相手が傷ついていると知っていても。
でも、おかしいと思ったり間違っていると感じたことは曲げたくはない。
時にそれは確執を生むとわかっていてもです。

自分が媚びればよいのだろうか。
自分の気持ちは押し殺して相手を認めれば機嫌がよくなって今まで通りのやりとりができるけれど、本当にそれでいいのか。
もう関らないほうがいいのだろうか。
二度と前のように互いの価値観を交換し合って話し合うことはできないのだろうか。
どうしてこうも変わったのか、変わったのは自分か、相手か、両方か。
以前と比べてまるで別人に見える。
同じ人間だとは思えないほどの価値観の変わりよう、視野の変化。
自分のほうが悪いのか。
何かがおかしい。
でもそれをうまく言葉にできない。
伝えても伝わらない。
伝えたら逆に切れられた。
自分は間違ったことは伝えていない。
だから気がついて欲しい。
今のあなたはおかしいのに。
しかし逆に自分の思いばかりを伝えて相手の気持ちを知ろうとしていないのは自分なのではないか。
自分のやり方がいけないから相手は自分をけなすのではないか。
それよりも、もう二度と関らなければいいのではないか。
そのほうがもういいではないか。

去年の後半はそんな思いにかられることがたくさんありました。

私は人間のことを短い期間では捉えないようにしました。
それは私がろくでもない人生を歩んでいるから。
そして自分なりに少しずつ昔よりかはよくなってきているのではないかと思うから。
期限を守らない人間です。
約束を守れない人間です。
それでも、待ってくれている人がいるし、信じてくれている人がいる。
裏切った人もたくさんいるし、利用した人もたくさんいる。
小さなことをつつけば、生きていて申し訳ないような人生を過ごしている。
それでも、少しずつ変わってこれた。
そんな自分への思いがあるから、他人のことも変わるんだと信じたい。
自分への甘さから、他人への思いやりになるとは非難に値することかもしれない。

人の絆もまた、短い期間では量ることができない。
変な話、10年後にわかりあえるかもしれない。そんな可能性だってある。
他人を思い通りにすることはできない。
何も役に立ってない。ただ相手を怒らせて傷つけただけだと無力感に打ちのめされ、相手に与えられた衝撃に何もかも放棄したい悔しさにかられることだってある。
人は強くはない。
でも強くあろうとすることはできる。
傷ついても、汚れても、這ってでも前に進む勇気があれば、必ずほほ笑んでくれる人は出てくる。

苦しもう。
悲しもう。
人を救おうとすることは、本当に辛いことです。
途中で投げ出して裏切ったと言われることだってあるのです。
だから、覚悟しなければいけない。
その中で覚えていてくれる人はいる。
人の絆とは、魂の中にある。
思いをぶつけるだけではどうにもならないのは、まだ自分の身がかわいいと守りに入っているからかもしれない。
どんな綺麗事言っても、泥臭さが感じられないのは、所詮美談を脚色して語っているに過ぎない。
生身で傷つく覚悟がないと、人は救えない。

社会に出れば、ほとんどの人間は汚れます。
処世術という狡猾さと騙しあいの術を学びます。
それは悪い意味ではなく、どうしても自分の身を守るために、手段を学んでいかないといけない。
じゃなければ悪意のある人間にいとも簡単に騙されます。
金を取られたり、地位を奪われたり、手柄を奪われたり、女性の場合は犯されたりもする。

子供のような純粋さを持ち続けることは難しい。
子供のような感受性を持ち続けることは苦しい。

それでも、魂を尊く持ち続けることだけは諦めてほしくない。
一度捨ててしまえば、取り戻すことは非常に困難だからです。

生きている限り、どんなに失意の底に落ちても、未来はある。
だからこそ希望はある。
自分の可能性というものを強く信じて欲しいと願っています。
そして私も自分を信じて、私の出現を待っている人たちのために、世に出たい。

絆は、消えることはないでしょう。
望み続ける限り。
私も今は連絡していなくても待ってくれている人の存在を信じることがで。
そんな存在がたくさんできれば、人生を力強く歩んでいけると思います。

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
46
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。

気が付いたら他人からとても褒められる娘ができまして、人生が大きく変わりました。
この小さな可能性と向き合うため頑張って生きております。

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