忍者ブログ

あさかぜさんは見た

リクエスト何かあれば「comment」に書いてください。「note」「Paboo」で小説作品読めます。

11/19

Thu

2009

メッセージ 独白

老婆心と言えばいいのか、この年で「老婆心」というのもおかしいのですが、何かと口うるさく私も他人に口出ししていました。
当人にとってはその環境はとても満足できるもので、私などのアドバイスや批判などは、ただ耳障りな嫌味や皮肉にしか最終的には聞こえなくなってきていて、「もう関らないで」状態にまで関係が悪化してしまい、ひどく落ち込んでいました。

あなたの日記を読んで、何があったのかは知りませんが、「いらない批判はただの個人否定」にしかとられないのかなと、ふと自分のことを思い返し、また落ち込んでいました。
たぶん、まったく違う状況ではあるのはよくわかるのですが。

正直その言ってもわからない人には、私も「さようなら」したいくらいで、でも現状態でわからないのであれば、立場の違う人間のこともこちらとしては理解して欲しく、相手の「理解」を待つには、相手が「経験してくること」を待つしかなく、親切心やおせっかいというものは、ひどく他人を不愉快にさせることがあるということを反省中です。

どうしても長すぎるスパンで物事を見がちなので、相手からすれば「なんでそんな先のことまで決め付けられなきゃいけないの!ふざけないでよ!」みたいな感情になるのは当然かなとは思いながらも、どうしても今の状態ではこの先「詰む」ことが、自分のみならず多くの人の話からもわかるので、ついつい言ってしまうのですが、相手にとってはただ怒りを誘うような侮辱にしかとられないようです。

現状がそれでよいと思っている人に対して、「将来失敗するのになんでこうしないの」と、くどくどと説明することは、もう聞く耳持たないのでしょうか。
ずっと、悩んでいて、そして困っています。
わからない人に、わからせるには、どうすればいいのだろうと、深いため息ばかりついている今日この頃です。

独り言でした。
突然すみません。

拍手[1回]

PR

11/17

Tue

2009

人の忠告よりも自分で理解

”こういうことあるけど どう思う?”
それで済む話しではないのかもしれない。
それでも、私はそれだけでよかった。
あさかぜさんの文面は、なぜか以前のやり取りから、薄っすらと嫌味を乗せて、ネットリとした気持ちの悪い表現で、私を分析して、批評する。
あさかぜさんが置かれてる、状況・環境を無視したまま。
それが嫌だった。 その表現が。。。
だからあえて”私は・・・私は・・・”と言い続けた。
何も気づいてない、わからないと言っていても、言葉の中からあさかぜさんならそのくらい 簡単に読み取れるでしょう。
それでもあさかぜさんは私の分析に拘っている。
私が言葉に踊らされてる、そうわかっていてもそれを続けた。 そういうあさかぜさんの見下したような、面白がっているような姿勢が ただ嫌だった。



ある方に上記のような文面をいただき、思い当たるふしも多々ありすぎ、色々と思い悩む日々を過ごしておりました。


ずっとずっと考えていました。
人は悲劇が起こるまで、自分が痛みを背負うまで、もしくは必要とするまで、何も受け入れようとしないのか、と。


自分がどうしたらその人を受け入れられるのか。
話を聞く前から批判的になっていたのではないか。
自分も自分の状態を理解して欲しくて、伝わらず、ただ無意味なアドバイスを受けるだけの辛さを味わってきました。
「今の自分はそれどころじゃない」
それがわかってもらえず、心理的にもがくという日々を何年も体験しました。
その時は救ってくれるものを求めていたのは確かです。


リスクを話しても受け入れられないのはなぜでしょう。
私は何度も言った通りの結果になってきた人を見てきていつも思います。
「どうしてこうなる前に自分で気がつけなかったのか」
当然言った人すべてが言った通りになるわけではないので、よい方向へと変わっていく可能性もあるし、ひと時といえど「幸福」であることは真実であるということは間違いないのでしょう。


正直言うほうも楽じゃない。
見下しているわけでもないし、そうなって欲しくないという気持ちですが、余計なお世話だし甚だ不愉快なのはわかってます。
批判されることも嫌われることも覚悟で、言うことは正直傷つくし辛いです。


「たとえば、もうそれしか見えなくなっちゃった場合、いつ忠告に気がつくの?」
「ほとんど終わった後だね。その最中は何言われてもダメだよ」


かつて何も見えない、ぞっこん状態だった友達に聞くと、そう答えてくれました。
自分で「体験」しないと、わからない。
でも、それもわかる。
じっとそれを待つほうも、例えようもないほどのジレンマに陥る。
結果を見て、どっと落ち込む。
いつも、「何かできたのではないか」と悔やむ。


自分がどれだけ傷つけているのかも、どれほど傷つくのかも、体験しないとわからないだなんて、何故なのだろうと思う。
割り切れないけれど、現実は「体験した人」にしかわからない。

拍手[1回]

11/05

Thu

2009

「私は私のやりたいことをしている。それの何が悪いの?あなたには関係ないでしょ!私にあなたの考えを押し付けないでよ!」

そう言われたら、もう何もできないな…
なんのために集団を取りまとめているのかも、なんのために努力してきたのかも、すべて意味を失うような言葉で、あまりにもこの言葉はこちらの立場を度外視しすぎている。
何も考えてくれない、でも自分のことはしたい。
勝手に邪魔しているのはあんた。私じゃないでしょ。
内容はいくら丁寧でも中身はそれだった。
他の人も、長く己が望んでいる環境にしか染まってないと、この人のようになるんだろうか…
強烈な不安が体中を駆け巡った。
人間はいつ変わるかわからない…

いつの間にかその人は、自分だけの人になってしまった…
関係ない人は関係ないでしょ、いちいち口出ししないでよ。
もうその人の言葉からはそんな印象しか受けない。
丁寧だが、それだけ内容は厳しい。
昔はそんな人ではなかったのに、環境のせいか、それとも恋愛のせいか、「なぜだろう」「なぜここまで変わったのか」と考えていた。
結局わからないことをあれこれ考えて「この人変わっちゃった…」という思いだけ抱く。

今日は「立場」のことについてずっと考えていた。
そしてその締めくくりの事件が以上のことだった…

テレビのコメンテーターを見て今日は思った。

「この人たちはあまりにも相手の立場というものを度外視しすぎている」

何を背負っているのか、どんな重圧があるのか、たったひとつの決断で多くの人間がおかしくなるかもしれない、自分はどうしていくべきか、いやできていないのではないのか。
様々な思いで揺れ動き、立場上表明できないことや行動できないこと、そんな制限に悩まされながら「長」となっている立場のものは動く。

テレビのコメンテーターは、あくまで「一個人」からの感想を述べているにすぎず、相手の立場に立ったその人の苦しみをくんであげるような言い回しは一切ない。
そして視聴者も特に疑問を抱くことはない。
中には「そうだそうだ」と共感するものさえいる。

この「立場の違い」について、自他共にかなり「無神経」であるということに気がついた。
なぜ、ここまで無神経でいられるのか。
そしてなぜ人々はこの「無神経さ」を許容するのか。
人に与える時はあれほど気にしないのに、自分の時は過剰反応する。

個人間においてもそう。
どうして私たちは「立場の違い」について、「境界線」を設けるのだろう。
どうして私たちは「立場の違い」について、「無神経」であるのだろう。

「境界線」ができてしまっては、もはやコミュニケーションは、ある部分では不可能だ。

「あなたと私は違う。だからそれでいいじゃん。考えたくもないこと考えさせないでよ」

そういう人間とコミュニケーションをとるには「認めてあげればいい」のか?

「そうですよね。あなたはあなたで正しいのだから。それを大切にしてくださいね」

じゃあ、自分は…?
自分のこと伝えるにはどうすればいい?
自分の思いは自分の思いでしまっておくしかないのか。
行動しても気がつかれない。
ただその人は「自分のしたいことをして」「自分を守って」いく。
そんな虚しいことってあるのか…?

普通に考えても、私たちは「思いやり」と簡単に口に出すけれども、「何が思いやりか」までは、漠然としたことしか言えない。
「思いやりが通じない壁」は、いつも「立場の違い」にある。
「立っている場所が違う」と言ったほうがいいのだろうか。
その立ち位置が違いすぎると、遠すぎてまともなコミュニケーションすらできない。
近づくには…?
思いを伝えるには…?
勝手なことを言われながら、関係ないと言われながら、それでもその人の気持ちに近づいて、その人が言う言葉を自分の立場では受け入れられないんだと伝えるにはどうすればいい…?

人が争う時、常にこの「壁」に向かって怒りをぶつけているに過ぎないんだな…

どうすればいい…?
どうすればいいんだ…?

拍手[1回]

11/04

Wed

2009

結局、苦しみがはじけた時しか、新境地は見えないのかもしれない。

きっと、死ぬまで創りたい、創って思いを知りたい、創って感動させたい、なんて気持ちに突き動かされるのだろうな。

衝動とも、使命とも、背負ったものとも、それらのすべてとも。

今世界をとても静かに感じている。

拍手[1回]

11/04

Wed

2009

人が覚えているもの

自分がまだまだ幼かった頃、自分が必死にもがいている頃、自分のその時の状態を否定されても、ただ自分のすべてを否定されたとしか感じなかった。
自分がなぜ、相手の不快を買っているのか、うすうすわかっても相手の出方まではわからなかった。

つまりは経験不足すぎて何もわからなかった。

何もわからない状態で、上からものを言われる苦痛というのを私は充分に知っている。
そして、「自分の思いで生きていって何が悪い」というような、孤立した独善性もよく知っている。
ゆえに、何も見えなかったのだと。
括弧書きのところは確かに悪くない。
しかし、他者への思いの使い方が大きく間違っていたのだ、ということを知るには、長い長い年月と苦しみを要した。

自分はよく物事を見ていると、思っていた。
それは自分が人のことをよく考えて、自分の立場からあれこれ、この人はどうだとか、自分なりに悩み、苦しんでいたからに他ならない。
その時、世界はあくまで私中心でしかなかった。
だから「自分の目」でしか見られなかった。
あくまで自分の世界から相手を考えていただけであって、相手の世界に飛び込んでまで物事を考えることはしなかった。
しようとしていたが、入り込み方がわからなかった。

私は色々と物を言う。
これはおかしいと思ったら、相手がショックだろうと傷つこうと言う。
その時恨まれても嫌われてもいいと思って言う。
「今このタイミングでこの人に言ってあげないと、誰が言うんだ」と。
妙な使命感を持つ。
それがたとえ通じなくてもいい、将来的に何も生かされないかもしれない。
しかし、言っておくことで、もしかしたらこの先どこかの瞬間で気がつくかもしれない。
私はこの一点のみに賭けて、あえて人に言う。

人は長い年月を要すると、感覚だけが残る。
「ああ、あの時あの人が確かあんなことを言った」
と思い出すのは、ひどく痛みを経験し、反省した時だ。
もし、反省や痛みがなければ、「賭け」も失敗に終わる。
つまりその人にとっては、ただ嫌な、苦痛としてしか残らない。
「生かしてほしい」とは願っても、「必要ない」と思われれば、言った言葉もその人にとっては「ゴミ」にしかならない。
後には、どんな言葉も、どんな思いも忘れ去られ、どんなことをされてきたのか、ということだけが残る。
そうなると一生誤解を解くことはできない。

でも、人間には未来がある。
生が続く限りは、可能性を信じなければいけない。
だからこそ、創造していかなければいけない。
人を破壊してはいけないんだ。

拍手[1回]

フリーエリア

にほんブログ村 小説ブログへ
にほんブログ村

バーコード

プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
45
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みますが光野(こうや)とか朝風(=はやぶさ)でもよろしゅうございます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。自分でも困るほどの「皮肉屋」で「天邪鬼」。つまり「曲者」です。

2011年より声劇ギルド「ZeroKelvin」主催しております。
声でのドラマを通して様々な表現方法を模索しています。
生放送などもニコニコ動画でしておりますので、ご興味のある方はぜひこちらへ。
http://com.nicovideo.jp/community/co2011708

自己プロファイリング:
かに座の性質を大きく受け継いでいるせいか基本は「防御型」人間。自己犠牲型。他人の役に立つことに最も生きがいを覚える。進む時は必ず後退時条件、及び補給線を確保する。ゆえに博打を打つことはまずない。占星術では2つの星の影響を強く受けている。芸術、特に文筆系分野に関する影響が強い。冗談か本気かわからない発言多し。気弱ゆえに大言壮語多し。不安の裏返し。広言して自らを追い詰めてやるタイプ。

最新コメント

(07/27)
(02/23)
(03/05)
(03/02)
(01/24)
(07/29)
(01/21)
(08/16)
(04/28)
(04/20)

ブログ内検索

カレンダー

03 2025/04 05
S M T W T F S
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30

忍者アド

Copyright © あさかぜさんは見た : All rights reserved

TemplateDesign by KARMA7

忍者ブログ [PR]