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あさかぜさんは見た

日記

12/28

Mon

2009

亀が何に脱皮したのか、随分と偉いものになったようです。

陛下も何かとご心労の多いことかとは思いますが、現天皇陛下が何をお考えになられて、どのような不安や心配を抱かれているのかということは個人的にとても興味があります。

園遊会のような大勢いる場所ではなく、個室でじっくりと伺いたいものです。

多くのものを見聞きし、その肌で感じた上での日本への想いというものを知りたい。
どれだけ有名になれば陛下に、しかも個室で面会できるようになるのだろう。

命には限りがあるし、早くそこまでいければなとは思うけれど、なかなか思うとおりにいかないからなぁ…
何かを当然お考えになっているのだろうけれど、それを公言できない立場なだけに、計り知れないご苦労があるのだろう。

知りたいな。知りたいな。

きっと自分の血肉になる言葉があるに違いないのだろうけれど。

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12/20

Sun

2009

俺はね、本当においしい酒を飲みたいだけなんだよ。

「俺が救ったんだ。俺が生きていれたから、あの人を救えたんだ」

そう人生の中でたったひとつ自負できることがあれば、俺はその先の人生をきっと笑って生きていける。
その時に飲む酒は、きっとおいしいに違いない。

生きがいを求めて生きていく。
生きようとする理由を見つけて生きていく。

そうでもしなければ、この世界で廃人となるしかないんだ。


P.S.

汝の痛みを我に与えよ。
我は汝の命を背負うもの也。
汝の心を我に問いかけよ。
我は汝の心の鏡也。

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12/13

Sun

2009

愚かさと向き合うのが人生

いつだって愚かな自分と向き合わなければいけない。
さもなければ、人生の半分は否定していることになる。

環境を変えることは難しい。
過去を変えることは不可能だ。

「もっと気楽に生きればいいのに」

未来に不安を持つことは愚かだ。
なぜならば起こってもいないことで今を損しているからだ。
だが未来に予想できることで後悔することは愚かだ。
どれだけ自らの人生を放棄してきたかがよくわかる。

人は一生愚かなままではない。
愚かだと思えないものが最後まで自らの愚かさで人生を奪っていく。

気楽に生きればいい?
そんな軽い言葉に憤りを覚えることがある。
互いの人生に介入させない他人同士が深い絆をもてるはずがない。
愚かしいことだ。

苦しみに固執する必要はない。
だが、感情を自由に操れるのなら他人に苦しめられることもない。
操れないから、固執してしまう。苦しむ。

ありのままの自分を否定してはいけない。
しかしそれは自らを無視することと同意ではない。
つまりは、すべて認めたうえで、何をするべきか何をされているのかを見つめていかなければいけない。

自分が勘違いをしているのかは、自分で気がつかなければいけない。
過ちを悟るのは自分。
正しいものを見つけるのも自分。
他人は時として「錯覚」をしている人間に対して無力だ。
過ちは、すべての結果を見て初めて理解する。
いつも人は愚かしい。

前に進もうとする人は今の自分を突き破ろうとする人。
今に留まろうとする人は常に現状維持に努めて進歩はしない人。
前者には努力が必要で、後者には言い訳が必要になる。
どちらも努力だし、変わろうとしないこともある意味よいかもしれないが、自分の悪いこともそのまま残していることに気がつかなければいけない。
それは人生での環境を常に「自分にとって都合のいい状態」にしないといけない。
新しい環境を得ることができないし新しい考え方もできない。
自分にとって都合のよい状態と都合のいい言い訳を常に用意していなければいけない。

人間性を否定するわけではない。
少なくとも人は「一人では生きてはいない」。
一人では生きていけるかもしれないが、現代社会では正確には一人で生きていけないし、もっと言えば「一人で生きれない社会システム」になっている。
衣食住を考えてみればいい。

人一人の力は非常に大きい。
今はどんなに迷惑をかけている人間であったとしても。
もし「自分なんていないほうがいい」と思っている人間が、周囲の存在に気がついて、その人たちを大事に思い、たった一人の人でもいい、真剣に思えたのなら、それは大きな大きな力になる。

人は生きるために消費を繰り返している。
だからこそ人は人生の中で創造しなきゃいけない。
消費するだけなのなら、人類はこの地球上には存在しなくていいだろう。
他の動物とは違うのは、創造ができるからだ。
他の動物には真似できないものを創造できる。

それが、人の力だと信じている。

現状に常に流され、意思のない人間が育ってきている。
私はこんな時代の流れに危惧しているし、「尊重」の言葉を掲げつつ「傲慢」を押し付ける人たちに非常に傷つけられもしている。

人は理由付けをする。
ネガティブなものでもポジティブなものでも「自らの心情を立証するための証拠」を待っているし、それをかき集めようとする。
不思議なことだと思う。
結果一つとってもたとえば「だからそうなるでしょ」と捉えるのと「何がいけなかったのか、またやり直して見つめなおすしかない」と捉えるのとでは違う。
心は、「心を形作るための現象や証拠を集めている」
時代や歴史も、これが作り上げる。
もちろん人生も。

一人では抜け出られない時だってたくさんあると思う。
だからこその他人だし、信じれる他人の存在は大きい。
甘えたら、誰かをその分助ければいい。
そういう気持ちが少しでも芽生えるのなら、人生はまだ捨てたものではないと思う。

生きて欲しいと、思っている。
よりよく、創造していって欲しいと願っている。

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12/07

Mon

2009

失念したが、エスキモーの知恵で、完全に凍傷になった手を氷にすりつけ、その摩擦熱で凍傷を軽減させるというのをどこかで見たことがある。

実際雪の中に入れておいたアイスクリームは少し溶けかかる。
摂氏0度以下にはならないからだ。
しかしあたたかい手を入れておくにはあまりにも冷たすぎる。

これと同じように、冷え切った心に急激なあたたかさを向けることは、その心が拒否反応を起こすことがある。
人のあたたかさが信じられず、自分の冷たさとの差を感じ、心に急激な負担がかかる。
だからといって冷たくすればことがすむのかと言えばそうではない。

冷たい心には、優しくされればされるほど、「差」を意識して、あたかも自分が周囲の温度を冷やしているかのような気持ちになる。
「差」を意識して、自分がいなくなったほうがという発想にもなるだろう。

ここ一ヶ月以上、色々なことを考えていた。
そして、つくづく無力だなと感じていた。
今はだいぶ心も落ち着いて平静を取り戻しつつあり、傷が落ち着くと同時に新しい目も開いてきた。
人に干渉し、その未来を変えていこうなどとは傲慢な発想ではある。
ただ、ほんの少しだけ、支えになれば、今は支えにならなくても、未来の役に立てればと、厳しいことも、そうじゃないことも伝えてきた。
人を拒絶したくなった時、その人にはどんな言葉も通じない。
どんなあたたかな言葉だって、その影に「裏切りの気配」を意識しておびえてしまう。
そうじゃなくても、自分がいるからこんなことになっているのだと、周囲のすべてのことを意識して背負い込もうとしてしまう。
そしていなくなったほうがいいのだと。
凍りついた心を溶かしていくのは容易なことではない。

正直、どう書いていいか悩んでいる。
何時間も悩んで書いている。
心を閉ざした人に対して、自分はどれだけ無力なのかを実感している。
どうしたらいいのか、自分は言葉を扱う人間なのに、言葉は風にも値しないほど存在感も意味も失うなんて。

ただ、一言伝えたいのなら、願うのなら、

「どうか、自分を許してやってほしい」

もう充分すぎるほど自分を責めた。
充分すぎるほど人を恨んだ。
あなたに非があるわけではないのに。

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12/06

Sun

2009

自分も愚痴ることがあります。
死にたいと親しい人に電話することもあります。
死に切れないのに、もう生きているのが嫌だと思うことがあります。

電話をかけられたほうは、とても迷惑しています。
「なんでそんなこと言うの」と、泣きます。
自分がもっと我慢強ければ、自分のせいで迷惑かけている。
そういうのがあからさまにわかります。
自分を常に責めたくなります。
でも、今の自分は自分を素直に認めるようにしています。

人に愚痴るということは、自分の弱さをさらけ出すということです。
理不尽な理由で傷ついているということを誰かに告げるのは、それは悪いことのようには思いません。
きちんと心配してあなたのためを思っている人の言葉に対して愚痴るのは、それは少しいけないとは思います。
何が正しいのかの基準は、どうしても自分の中で作らなければいけません。
その参考となるのは、「他者のエゴを助長させてない」という点にあります。

外で飲んで酔うと、とても寂しくなる時があります。
まるで上辺の会話で、その場限りの楽しみで、心の通じ合わない、何も心の中を打ち明けられない、そんなものにお金を払っている、なんのためにこんなにお金を払っているのだろう、自分は孤独だ、とても寂しい、消えたい、生きていたくない、苦しい、という思いにかられます。
まるで自分だけが世の中から必要とされていないような錯覚にも陥ります。
そして、死んだほうがいいのだと。
自分の中でどうしても埋められないものがあります。
きっとそれは「本当の自分を知ってほしい」という欲求なのかもしれません。

いつも冷たいものに慣れていたり、恐怖していたりすると、自分の中で破壊的な感情が生まれます。
人間不信です。
あたたかいものに触れた時に、過去の経験から、また裏切られるのではないか、またこの人は自分を傷つけるのではないか、自分がこんな状態だからきっと見限って離れていくに違いない、とあれこれ起こってもいないことに不安を抱き、恐怖します。

それを逆から完全に言うならば、「自分不信」でもあります。
これが「自己破壊衝動」です。
リストカットや自殺願望にも繋がりますね。
「自分はこうだから」
という自分不信が、自分を信じられない過去の幾多の罵倒や中傷などの経験が、自分自身を形成する強さを根底から崩し、あなたを不安にさせています。
私も一ヶ月以上大きな波を繰り返し、心のダメージと戦っていますが、これが数年以上の単位で抑圧状態が続くと、相当の長い年月をようして自分を回復させていかなければいけません。

回復させるには、どうしても自分ひとりではできないことがあります。
ぬくもりは、人に抱きしめてもらってはじめてわかるものです。
心を抱きしめてくれる人はなかなか少ないとは思いますが、あなたを見捨てたいという人間だけではないと思うのです。

もう少しだけ、自分自身を見つめてあげることも、必要なように思います。
その弱さも、今のあなたの一部です。
その上で、周囲と対話していけばいい。
そして、よいところ悪いところを見ていってあげればいい。
そう思います。

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
46
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。

気が付いたら他人からとても褒められる娘ができまして、人生が大きく変わりました。
この小さな可能性と向き合うため頑張って生きております。

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