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あさかぜさんは見た

日記

02/11

Thu

2010

軽度から重度まで、同じ「うつ病」なので、たとえばmixiなどで「うつ病」に関するニュースがあり、その関連記事が出てくると反応も様々である。

「甘え」と書いている人や、「理解してあげて欲しい」とか。
正直、他人の主観がぶつかり合っては解決すらもしないし、そして本人の神経の問題なので他人が理解することは難しい。

その中で薬のことをどうにも悪く言っている人がいた。
私もネット上の日記や実際の知り合いなどから「薬の過剰摂取」と、「医者の怠慢とも言える処方」の情報が入り込んだりする。

薬を急にやめて克服した人も中にはいる。稀と言えば稀だ。
自分の体験から「薬じゃなくて愛情が大事」と言う人もいる。
実際「愛情」は大事で、これがないと回復は難しい。

現在医者が「インフォームドコンセント」が不十分なことによって訴訟を起こされるケースがあるが…つまり説明不足のまま、患者の理解が得られないまま手術したり投薬したりして事故が起きたりすることによって訴訟が起きる、というケースが起きているが、精神科医もこの例外ではなくなるだろう。

投薬を急に中止したことによって自殺したり、加害者になったり、また投薬のパターン、薬の種類を変えたがためにそうなるケースもあり、明らかに医者の知識不足により、このケースが起きたと立証されれば判例が積み重ねられていくことは間違いないだろう。

これから精神医療は科学の進歩によって生理学と密接に関ってくる。
その場合、投薬も従来の「カウンセリング」とは別のケース、つまり脳波、いやもっと神経回路に直接根ざしたパターンなどからされる場合も出てくるだろう。
私が関った身近な人は脳波にまったく異常が見当たらず、何度か調べていたし、ペーパーテストもオールグリーンだった。あちらが不思議がっていたくらいだ。
書類上ではまったく異常が見当たらない人間が、明らかに接している人間からすればおかしくなる時があった。記憶も飛んでいた。
入院し、投薬をして、ほんの数年で治ったという幸運なケースだ。
当然良くも悪くも教科書どおりにいかないこともある。
だが、薬で間違えて事故を起こした場合、精神科医も投薬における臨床実験のパターンや実際の投薬例を熟知しておかないと確実に訴えられる時代になる。

他人の日記を見ていて思うことがある。
うつには軽度も重度もひっくるめて「うつ病」となる。
体が弱く風邪を引きやすい人間に対して「外で走って体を鍛えればそんなちょっとした風邪も治る」と言うのと、
風邪を引いてだいぶ進行して肺炎を起こしている人に言うのとでは、同じ言葉でも後者には罪がある。
うつ病、というキーワードだけで過剰反応し、ケースバイケースも考えずすべてを一緒にするのはバカにもほどがある。
やめてほしいと思う。
水は生きていくには必須だが、人間は水の中では生きてはいけない。
同じ水でもこれだけ違う。
何を思うのも書くのも勝手だが、特に非難は差し控えて欲しいと願わずにはいられない。
どうせ、言ったからって何もしないのだろうし、最低限学ぼうともしないのだから。
そういう行為は下劣すぎる。
少なくとも、どうなっているのかということを少しでも調べて欲しいと思う。

この日本には随分と精神病に対する偏見が根強く残っている。
「心頭滅却すれば火もまた涼し」なのだろうか。

ひとつ教えておくが、この発言を残したとされる快川紹喜は、火の中で死んでいったことを覚えておいて欲しい。
精神論は自分にのみ応用すべきで他者を強制的に道連れにするべきではない。
焼け死ぬだけだ。

もし、身近な人にうつ病の人がいて、力になれるのなら、その人の話には耳を傾けないといけない。
特に「主観に満ち溢れて偏っていた」としても、その人の感じていることは「真実」であるから、それを否定してはいけない。

助ける人も、無理はしないように。
お互い、体も心も大事にしなくてはいけない。

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02/04

Thu

2010

電子データにしたほうがかさばらないし、すっきりする。
生涯の親友が何人もできないように、生涯付き合っていきたい書と出会うのもまた少ない。
だから、これから「物質として存在する本」が空間的にも量的にも重量的にもマイナスに働く。
本が好きな人は図書館に通い、いらない本はすぐに古本屋に売り渡し、次々と読み続けるかもしれない。

私は本を読むスピードがとても遅い。
だから年間数百冊を読むなんて夢のまた夢に近い。
生涯で読める本の数も決まってくるだろう。
速読できるような人でもない限り、普通は私と一緒だろう。

だからこそ選別しないといけない。
良書を作らないといけない。残さないといけない。

「良書とは、期待を持って開き、利益を修得して閉じる書物である。」 (オルコット)

時代がこうなっていきますと分析されたからなんだというのだろう。
分析官が多くても軍師がいなければどうにもならないし、軍師のいる組織にやられっぱなし。
ましてや時代を切り開こうとするのではなく、その流れに従うだなんて。

ひらめくこと光の如し。
立ち向かうこと水の如し。
前進すること風の如し。
希望を持つこと火の如し。
大志を持つこと津波の如し。
人となすこと和を持って中庸を目指すべし。


起こってしまったことを嘆くよりも、起こっても揺らがない確固たるものを作ろう。
本当に職人なら、常にいいものを作りたいと思うはず。

現実を見たら何も起こってはいない。
だから未来に希望を抱かないといけない。
希望を持ち続けるだけの絶え間ない努力が必要なんだ。

人は死ぬだろ。
いつ死ぬかわからない。
最後の瞬間人は何を残す?
自分だってどんなに偉そうなことを言ったって骨しか残らない。

希望ってなんだろう。
今は見えもしないものを具現化する努力なんじゃないのか?
時代の考察に鋭くなるよりも、時代に台頭する力が欲しい。

希望は必要だよ。たとえ小さな希望でも。
だって生きているうちから「過去しか見てない人生」なんて寂しいだろ。
そんな死んだような人生過ごしていて何が楽しい。

誰かの笑顔を見たいでしょう。
誰かに「あなたと出会えて幸せ」と言われたいでしょう。

私がお話を書くのは、もう「誰かがそのうちするだろう」と年数を過ごしていくのが嫌だからだよ。
迷ったって時間は過ぎる。
疲れて立ち止まることはあるけれど、待ってたって誰もやりゃあしない。

人類にロマンチストが大事なのは、熱狂的なロマンチシズムが本当にそれをやろうと試みてしまうからだよ。
「星が綺麗。あの星に手が届いたらいいのに」
「金は儲かるから、なんとか他の金属から金を作れないだろうか」
そんな子供みたいな発想が何百年と積み重なってきて、人類は進歩してきたんじゃないのか?
次の世代に残すものは大人が常に決めている。

ゲーム、映像、漫画、エンターテイメントに変えることのできない小説はその価値を失っていくだろう。
電子の波の中で「過去に何が存在したか」すらも忘れ去られるだろう。

こう考えると、現実は劇場よりも不確かなもので、事実は作為的な幻に満ちている。
これからの小説家の役割は大衆を一個の人格とみなしてシナリオを書くことだね。
劇場に生きる大衆の意識が常に流されていくものならば、その流れを制御する意識体になればいい。

なぜか今猛烈に悲しい。


追記:
口論すると、いつも悲しい。
無駄な時間だけ過ぎて、互いに歩み寄りがなくて、不毛とも言えるやりとりを繰り返す。

親と子供は、永遠に親と子供。
どこでもかしこでも同じことで悩んでいるらしい。
昨日門限のことで他人の親に相談されました。
親は死ぬまで親の気持ち。
これは感涙に溢れる想いがある。
親の気持ち、子は知らず、子供は親不孝をして一人前になるものなのかもしれない。
子供は親の保護を受けているけれど、だからといって一個人の人生は自分自身で決めていくべきだ。
常識やモラルというものがあって、それらがよりよい公平感からくる倫理でもって判断すべきを、いつの間にか個人的な感情と多数論に摩り替えられたりしても、親は親、子供は子供。



デジタルデータの利便性は、端末によって加速される。
物という形にこだわらなくても、「データ」という形を徹底すれば、私たちの生活は驚くほど変化するだろう。
スーパーも百貨店も地域情報もニュースも図書館も。
スーパーの安売り、犯罪の情報、百貨店での物産展のイチオシ、書店・図書館でのデータ配信、食物の生産者・おすすめレシピ、IDキー、端末をかざすだけで欲しいものが手に入る。
そういう時代になる。

それと同時に、反比例して加速するものがある。
「人との心のつながり」
これも「利便化」される。
間違いなく。

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02/03

Wed

2010

※今日はいつも以上に妄想を炸裂させてみます。

電子出版事情は「電子出版」のみならず、「出版事情」そのものに関ってくることなのですが、アップルコンピューターやアマゾンが次々と電子デバイスを発表し、デジタルデータで書籍を読めるようにしています。
ipadとかキンドルとか、携帯できるものですね。

実際携帯電話では長い文章を読むには大変疲れ、大画面でないと目が疲れるどころではなく、痛くなるくらい苦痛になります。
読めるのは主に「若い人」だけになってしまうために、携帯電話での読み物の需要は絞られてくるように思います(携帯電話を使っている世代が繰り上がってくることもありますが)。
ですからどうしても大画面でなければ、長文の文字量には対応できなくなります。
そこで、デジタルコンテンツを展開しやすい画面のデバイスができると、今まで沈黙していた分野が目を覚ましてくる可能性があるのですが、私は小説などを書いているので、今回は出版に関してのことを考えてみたいと思います。

人間というのは、たとえば二つのものを提示されるとどちらかを取りがちですが、あまりにも選択肢が多いと何も選ばない傾向があるそうです。
今の本の事情も、あまりにも数が多すぎて何がなんだかわからないという印象のほうが強いように思います。特に本に馴染みのない人は余計にとっつきにくい。
ですから、この「選択の時間を節約」するためにランキングが多用されるという悪循環になり、時間に耐えうることのできる「良書」が余計に力を持たなくなります。
そのような状態を懸念している作者というのは(私の勘ですが)意外に多いと思います。

今までは出版社の支配下にあった作者ですが、ツイッターや原作者のブログなどのツールによって、徐々に内部事情が暴露され、ひどい体質のところから作者も読者も離れていくという現象が起こっています。
また、デジタルコンテンツが整備されていくにつれ、作者自身がコンテンツを作り宣伝もできるようになると、特に出版社という組織に頼らず、自らが組織化をしてしまうという流れも起きます。

原作者というのは、職人であり「出版する」という立場から物事を見ません。
あくまで「作品を通して何を語らうか」を感じているはずです。
リンゴを売るのに、いくら儲かってもリンゴの品質を落とすような売り方では作り手も酷く傷つきます。
あくまで「作ったままの想い」と「品質」をリンゴを食べる人、それを感じてくれる人へと届けたいわけですね。
じゃあ手荒な真似をする中間業者がコスト的にも品質的にもリンゴの悪化を招いているとわかっていて、なおかつ中間業者に頼らなくてもよいような流通ルートと方法ができると、「自分でやってみようかな」という気持ちが起こるのは当然です。
最初は不満を持つ各個人が自己展開する形が多くなりますが、そのうちこのバラバラの個々を取りまとめようとする大手の出版社ではない組織(これは原作者協会に近い団体)が現れ、ネットワークを作り、整備しようとするはずです。

「腕が上がると独立しようとする。しかし自分でやって残るのは2割にも満たない。つまり技術と経営とはまったく別だということに気がついていない」

特に大手の出版社は経営と流通のノウハウを持っていることに大きな強みを持っていますし、この点に過信があり「原作者が独立を志そうと、痛い目を見てまた戻ってくるに違いない」と踏んでいるはずです。

しかし在庫があまりすぎている出版社事情に反して、原作者の「作品本来の力を取り戻そう」という動きは、皮肉ながらデジタル化によって徐々に活発になり「作品力の強いものは装丁にこだわり、デザインの面からも本来の本の魅力を取り戻そう」となるのではないかと思います。
これは当然在庫があまるのを極度に恐れますから、生産量を抑制し書籍が投機の対象とならないためにも消費者の発注を受けてから生産をする「オンデマンド形式」が主流になり、店頭流通は「カフェ形式」での「店頭で紅茶でも飲みながら読む」形が流行りそうな予感がします。
カフェが月ごとにテーマを絞って店頭に置く書籍を変えるのも面白いかもしれませんね。
各書店は各分野に特化した店作りをしないと生き残れないし、大型書店はデジタル化によって現物としての本の力を徐々に失うわけですから、漫画本とかゲーム攻略本とか雑誌販売が主になり、小説などの本は一部の作者を除いて減らざるをえないのではと思うわけです。

作品本来の力を取り戻すには組織そのものが「ブランド化」する必要があります。
これはよりよいものを選別し、その経緯を透明化させ、組織が読者と親身に語らい強固なネットワーク化を図ることによって得られると思います。
…簡単に言うと、会社の中で話し合うんじゃなくて読者と話そうよってことね。
うち、こうやってて、これがいい本だと思うんだよねー…っていうことを言う。
従来の中小出版社は現在出版不況の波に駆逐されていますが、新たなデジタルにおける手法によって各地で立ち上げられ、新しい出版社同士のネットワークもできあがるでしょう。
問い合わせたら「ああ、その本はこっちの出版者のほうがいいよ」ってことになりそうです。
その出版社ネットワークに読者も複雑に絡み合うというシステムを構築できるのが「ツイッター」のようなツールであると思います。

どうにも日本における巨大な組織というのは、「白い巨塔」のように古くわずらわしいしがらみ(上の人間や組織が幅を利かす)があるようで、出版業界も同じのようではありますが、幕府に従っていてはどうにもならんという出版維新もようやく日本で起こりそうな気がしています。

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01/30

Sat

2010

文章作品にとって一番幸福であるのは「多くの人に読まれる」ということでしょう。
その上で「著作者保護期間」をいかほどにするかというのは、大きな問題になります。

昨日、酔っ払って雪道を歩きながら電話している時にバレンタインのチョコの話をしていました。
その人は自分のためにチョコを買うとのことで「ゴディバみたいな高級チョコかい」と聞くと「いやいや、この時期にしか買えないもっと高いの」と言いました。
ゴディバのチョコといえば、OKサインを作った時にできる指の輪よりも小さなトリュフチョコ一粒が500円以上もします。
それよりももっと高いチョコを買って食べて楽しむというのです。

たとえばお祭りの時、屋台のたこ焼きや焼きそばなどの売り物はどう考えても通常の2,3倍もするような割高であるにもかかわらず、気にせずみんな買っていきます。
自分も買って不思議に思っていたら前を歩いていたカップルも「どうして屋台って高いのに買いたくなるんだろうね」と話していました。

「なんで高くても買いたくなるのか」

チョコのケースは「ブランド力」と「希少価値」が値段を吊り上げています。
「品質の確実に保証されている」「この時期にしか買えない」チョコだからこそ、買うのが楽しみだと思うのです。

屋台のケースは「雰囲気」です。
お祭りの雰囲気、目の前で作っている光景は「あたたかみ」があります。
どうも目の前で作られると味を想像しながらついつい手が出てしまう。
動きのあるものに五感が刺激されます。

一方本屋では…
時代のキーワードをピックアップして即時に本を出して並べる。
ネットで支持されている「保証書」つきの(作家の)本を出して並べる。

最近私は小説や新書など、本を手にすることが少なくなりました。
書店に入っても何か似通ったものを感じてしまう。
また内容が薄っぺらく文字だけを稼いでいる本なのではないか。
そんな不安が大きく、あの縦長の新書本は目次を見ただけで読んだという気分になってしまいます。
「ああ、きっとこういうことが書いてあるのだな」と軽々と内容まで予測できてしまうし、また読んでも期待を上回ることのないことが書いてある。
多くの読者もこの傾向に大変うんざりしているのがネット上のコメントでもよくわかります。

結局これらのことをふまえて、私が一番懸念するのは「作品のデフレ化」です。
ただでさえ出版社が「金になるだけで内容のない本」ばかり出して本への信用がなくなっているというのに、これが起こってしまうと真っ当な作品が書かれなくなる恐れがあります。
つまり、資料集めのコスト、現地取材のコスト、人と接するためにかかる様々なコスト、調べる時間も含め時間を使うことと人との交流はお金がかかる。
著作権保護期間は死後に切れるようにしないと、「待てば手に入るでしょ。お金払う意味あるの?」なんて思わせたら、小説なんてもうおしまいですよ。
誰も金払わなくなる。
そんな中で誰が小説一生懸命書こうとするの?
趣味でひょうひょうとネットに流している人しか書かなくなりますよ。
それにあまりにも書店の動きが画一化されていて、宝を掘り起こしたような一品が書店に並ぶことがない。
「売れる」=「よい作品」ではないことは、もう本を買う人間からしたらわかりきっていること。
その上で本に携わるものが、自ら本の価値をおとしめるようなことはしてはいけない。

私が一番読者に期待したいのは、自分で作品を吟味し、見抜く力を養い、お金を出してこの作家に出費してよかったという満足を得てもらいたい。
また個人書店も各分野に特化した店作りと本の紹介をして欲しい。
本の金額や信頼を下げる方向にいくのではなく「お金を払ったなあ」と思うような金額でもよいと考えています。
たとえ買った作品の文章の質が少々荒くても、「この才能ならば」と期待しながら「投資をする」という価値観も養って欲しい。
最初から潜在的な才能をのびのびと発揮するような人間は本当に一握りです。
こういう職人の世界はだいたいは叩き上げに近いものがある。
誰にも見向きもされないような中、自分の作品にお金を払ってくれる人がいるという気持ちは大きな励みになります。
まあ、ただの希望ですけどね、このことは。

現実問題として大型書店ができ、小さな書店は駆逐されている。
小さな個人経営の書店は大型書店と類似している売り方が少しでもあれば潰されてしまう。
アマゾンなどのネットでの本の売れ筋が書店の売り上げを余計に圧迫している。
自分の手にとってゆっくり本を吟味するという場所は少なくなる可能性が多い。

本当の本を買う喜びというのは、アンティークとして書棚に入っていることで部屋の中の価値ある一部になる、ということではないだろうか。
自分はその本を読んで大変満足しているという証として、本棚の栄えある一部となる。
本を出す側の人間は文化の一端を担っているという意識を忘れてはいけないし、ましてや金にがめつくなったらダメでしょう。
読者の、時代における感覚や価値観は変わっても、読者が求める思いは変わらないのではないかと思う。
従来の方法でうまくいかなくなったのなら、読者の思いを導いてあげるのも本を出す人間の使命でしょう。
そしてこちらの思いも一生懸命伝える。
デジタルの時代がここまで加速しているのにアナログに固執し続けるのも愚かな話ですが、アナログが完全に消滅することはないでしょう。
だからこそ、もっと価値あるものを作って、価値があると伝えていかなければいけないのではないでしょうか。

本当に価値のあるものを、五感を刺激しながらアピールしていく。
デジタルの時代だからこそ、もっと人間の心の奥底に響いていくような情熱を伝えていかなければいけない。
またそういう作品作りをしないといけない。

小説家は職人であっても、芸術家のはしくれだと私は思っている。
だからこそ、読まれる作品ではなく、読ませる作品でなければ話にならないと思っている。
文章作品は「多くの人を読ませる」ことで作品としての真の幸福を得るのではないかと考える。

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01/28

Thu

2010

twitter ついったー やってみて思った

携帯いじりもそろそろ飽きてきたので、せっかく携帯で色々できるようになったのだからと、放置していたツイッターを半年振りに動かしてみて、どう活用できるか色々調べている。

…ということで、このブログの右側にもツイッターでのつぶやきがリアルタイムで見れるようにしておいた。
このツイッター自体は特に目新しいものではないというか、いわゆるチャット形式の変形版みたいなものだけれど、このツイッターを取り巻く周辺ツールが非常に強力で(右側のウィジェット含む)、二日間色々見回って見てもまだわからない。

…ごめん、正直に言います。
英語苦手だから英語解説のソフトとかがちょっとよくわかってないだけなの。
ツイッター活用術( http://twitter.com/goodies )の中のひとつを使って、パソコン上でもリアルタイムにつぶやきが来るようにしているけれど、もう20以上フォローしただけで喧騒になります。

情報化社会を生き抜くために一番必要なのは、ある意味情報を完全に無視することなのかもしれない。
まあ、大衆を操るには、「情報に対する連帯感」を持たせればいいだけの話しで、あとはとことん大衆から「考える力」を失わせるための社会構図を作ればいい。
今や日本の大衆のよりどころとするイデオロギーなんてないでしょう。
ちょっと調べればわかるようなことも出された情報を盲目的に信じて、あっちへ行ったりこっちへ行ったり。
そして自分の囲まれた環境が正しいと思い込んでいる。
危ないよ、自分で情報に対してフィルターかけられない人は。

話がそれているようだけれど、ちょっとこれをやりながら思った危険性というのは、情報を遠隔的に操作した人たちが、大衆を制するわけでしょう?
とにかくここでは情報が流れてくる。日常生活から政治や経済や趣味のことまで。
じゃあその情報の発信源が、政府や思想家や資本家のものだったとしたらどうなるのだろうってこと。
情報の発信源だと悟らせずに、感染的に情報を戦術的に制したものが大衆における最もたる権力者になれる。

民主政治を制するには大衆が「選択権を持っている」という意識を常に与えることだ。
誰かに強要されたわけじゃなくて「自分で選んでいる」という自負心を失わせないために、「情報」が必要になるわけだ。
これは商品にも言える。
選んでいるようで自分から時間をたくさん使って情報を掘り起こす時間もないし、手っ取り早い「売れ筋」が必要になるわけだ。

ツイッターは巨大な情報コミュニケーションツールとなった。
ゆえにあらゆる用途で使える。
自分もその活用方法を模索中です。

今考えているのは、140文字の書評をしていくこと。あとは小説とか。
やっぱり「リアルタイム」ってところを活用しないと。

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
46
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。

気が付いたら他人からとても褒められる娘ができまして、人生が大きく変わりました。
この小さな可能性と向き合うため頑張って生きております。

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