「私は私のやりたいことをしている。それの何が悪いの?あなたには関係ないでしょ!私にあなたの考えを押し付けないでよ!」
そう言われたら、もう何もできないな…
なんのために集団を取りまとめているのかも、なんのために努力してきたのかも、すべて意味を失うような言葉で、あまりにもこの言葉はこちらの立場を度外視しすぎている。
何も考えてくれない、でも自分のことはしたい。
勝手に邪魔しているのはあんた。私じゃないでしょ。
内容はいくら丁寧でも中身はそれだった。
他の人も、長く己が望んでいる環境にしか染まってないと、この人のようになるんだろうか…
強烈な不安が体中を駆け巡った。
人間はいつ変わるかわからない…
いつの間にかその人は、自分だけの人になってしまった…
関係ない人は関係ないでしょ、いちいち口出ししないでよ。
もうその人の言葉からはそんな印象しか受けない。
丁寧だが、それだけ内容は厳しい。
昔はそんな人ではなかったのに、環境のせいか、それとも恋愛のせいか、「なぜだろう」「なぜここまで変わったのか」と考えていた。
結局わからないことをあれこれ考えて「この人変わっちゃった…」という思いだけ抱く。
今日は「立場」のことについてずっと考えていた。
そしてその締めくくりの事件が以上のことだった…
テレビのコメンテーターを見て今日は思った。
「この人たちはあまりにも相手の立場というものを度外視しすぎている」
何を背負っているのか、どんな重圧があるのか、たったひとつの決断で多くの人間がおかしくなるかもしれない、自分はどうしていくべきか、いやできていないのではないのか。
様々な思いで揺れ動き、立場上表明できないことや行動できないこと、そんな制限に悩まされながら「長」となっている立場のものは動く。
テレビのコメンテーターは、あくまで「一個人」からの感想を述べているにすぎず、相手の立場に立ったその人の苦しみをくんであげるような言い回しは一切ない。
そして視聴者も特に疑問を抱くことはない。
中には「そうだそうだ」と共感するものさえいる。
この「立場の違い」について、自他共にかなり「無神経」であるということに気がついた。
なぜ、ここまで無神経でいられるのか。
そしてなぜ人々はこの「無神経さ」を許容するのか。
人に与える時はあれほど気にしないのに、自分の時は過剰反応する。
個人間においてもそう。
どうして私たちは「立場の違い」について、「境界線」を設けるのだろう。
どうして私たちは「立場の違い」について、「無神経」であるのだろう。
「境界線」ができてしまっては、もはやコミュニケーションは、ある部分では不可能だ。
「あなたと私は違う。だからそれでいいじゃん。考えたくもないこと考えさせないでよ」
そういう人間とコミュニケーションをとるには「認めてあげればいい」のか?
「そうですよね。あなたはあなたで正しいのだから。それを大切にしてくださいね」
じゃあ、自分は…?
自分のこと伝えるにはどうすればいい?
自分の思いは自分の思いでしまっておくしかないのか。
行動しても気がつかれない。
ただその人は「自分のしたいことをして」「自分を守って」いく。
そんな虚しいことってあるのか…?
普通に考えても、私たちは「思いやり」と簡単に口に出すけれども、「何が思いやりか」までは、漠然としたことしか言えない。
「思いやりが通じない壁」は、いつも「立場の違い」にある。
「立っている場所が違う」と言ったほうがいいのだろうか。
その立ち位置が違いすぎると、遠すぎてまともなコミュニケーションすらできない。
近づくには…?
思いを伝えるには…?
勝手なことを言われながら、関係ないと言われながら、それでもその人の気持ちに近づいて、その人が言う言葉を自分の立場では受け入れられないんだと伝えるにはどうすればいい…?
人が争う時、常にこの「壁」に向かって怒りをぶつけているに過ぎないんだな…
どうすればいい…?
どうすればいいんだ…?
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