いつだって愚かな自分と向き合わなければいけない。
さもなければ、人生の半分は否定していることになる。
環境を変えることは難しい。
過去を変えることは不可能だ。
「もっと気楽に生きればいいのに」
未来に不安を持つことは愚かだ。
なぜならば起こってもいないことで今を損しているからだ。
だが未来に予想できることで後悔することは愚かだ。
どれだけ自らの人生を放棄してきたかがよくわかる。
人は一生愚かなままではない。
愚かだと思えないものが最後まで自らの愚かさで人生を奪っていく。
気楽に生きればいい?
そんな軽い言葉に憤りを覚えることがある。
互いの人生に介入させない他人同士が深い絆をもてるはずがない。
愚かしいことだ。
苦しみに固執する必要はない。
だが、感情を自由に操れるのなら他人に苦しめられることもない。
操れないから、固執してしまう。苦しむ。
ありのままの自分を否定してはいけない。
しかしそれは自らを無視することと同意ではない。
つまりは、すべて認めたうえで、何をするべきか何をされているのかを見つめていかなければいけない。
自分が勘違いをしているのかは、自分で気がつかなければいけない。
過ちを悟るのは自分。
正しいものを見つけるのも自分。
他人は時として「錯覚」をしている人間に対して無力だ。
過ちは、すべての結果を見て初めて理解する。
いつも人は愚かしい。
前に進もうとする人は今の自分を突き破ろうとする人。
今に留まろうとする人は常に現状維持に努めて進歩はしない人。
前者には努力が必要で、後者には言い訳が必要になる。
どちらも努力だし、変わろうとしないこともある意味よいかもしれないが、自分の悪いこともそのまま残していることに気がつかなければいけない。
それは人生での環境を常に「自分にとって都合のいい状態」にしないといけない。
新しい環境を得ることができないし新しい考え方もできない。
自分にとって都合のよい状態と都合のいい言い訳を常に用意していなければいけない。
人間性を否定するわけではない。
少なくとも人は「一人では生きてはいない」。
一人では生きていけるかもしれないが、現代社会では正確には一人で生きていけないし、もっと言えば「一人で生きれない社会システム」になっている。
衣食住を考えてみればいい。
人一人の力は非常に大きい。
今はどんなに迷惑をかけている人間であったとしても。
もし「自分なんていないほうがいい」と思っている人間が、周囲の存在に気がついて、その人たちを大事に思い、たった一人の人でもいい、真剣に思えたのなら、それは大きな大きな力になる。
人は生きるために消費を繰り返している。
だからこそ人は人生の中で創造しなきゃいけない。
消費するだけなのなら、人類はこの地球上には存在しなくていいだろう。
他の動物とは違うのは、創造ができるからだ。
他の動物には真似できないものを創造できる。
それが、人の力だと信じている。
現状に常に流され、意思のない人間が育ってきている。
私はこんな時代の流れに危惧しているし、「尊重」の言葉を掲げつつ「傲慢」を押し付ける人たちに非常に傷つけられもしている。
人は理由付けをする。
ネガティブなものでもポジティブなものでも「自らの心情を立証するための証拠」を待っているし、それをかき集めようとする。
不思議なことだと思う。
結果一つとってもたとえば「だからそうなるでしょ」と捉えるのと「何がいけなかったのか、またやり直して見つめなおすしかない」と捉えるのとでは違う。
心は、「心を形作るための現象や証拠を集めている」
時代や歴史も、これが作り上げる。
もちろん人生も。
一人では抜け出られない時だってたくさんあると思う。
だからこその他人だし、信じれる他人の存在は大きい。
甘えたら、誰かをその分助ければいい。
そういう気持ちが少しでも芽生えるのなら、人生はまだ捨てたものではないと思う。
生きて欲しいと、思っている。
よりよく、創造していって欲しいと願っている。
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