http://www.dailymotion.com/video/x5ph7g
このリンク先には鳥、牛、豚がどのようにさばかれているかの映像があります。
見たい人は覚悟して見てください。
「食肉って工業製品なんだね」と言っていた人がいた。
「もうお肉食べられない」と。
実はうちの父親の子供の頃の家の隣に鶏が飼われていて、それをそのままさばいて食べる様子を見ていたそうなので父も父の妹も鶏肉があまり食べられない。
特に父の妹はまったく食べられない。
現在現代人は自然界の「食われる」という事情からとことん解放されている。
そして人口が増えて「食う」事情だけがとことん肥大化してきているわけだ。
これを見て初めて肉を食べることを考える大人をとても不思議に思うところがある。
どうしてそんな簡単なことも想像できないで生きてこれたのだろうと。
私は極端なベジタリアンみたいに「動物がかわいそうだから食べないでいましょう」と言うつもりはない。
「食べられるものが選べて、私たちは草も肉も選んで食べられる環境がある。私たちはそれに感謝すべきで、それ以上でもそれ以下でもない」
結局は荒野に生きていたら草食よりもやや肉食に傾きだすかもしれないのだ。
また森林に生きていたら肉よりも木の実などで補えるようになるだろう。
人間の食は環境に左右される。
上記のようなことを言ったら肉反対派は「痛み」のことを言ってたっけ。
草は痛みを感じないから、食べるけど動物は痛みを感じる。
爪を切るのと肉を切るのとでは違うでしょって言ってたような人がいたな。
でも、正直そんなこと「人間の科学が証明している」範囲程度の理屈でしかすぎなく、また「食のスタイルが選べる」からであって、実際のところ「植物が『痛み』を感じるかどうか」は人類はまだ証明していない。
ただ「動物に見られるような神経組織が見られない」という程度でしょ?
植物にとっての痛みもまた人間とは違うかもしれないしね。
昔から人間は食べられそうなものはなんでも挑戦してきたはずだし、その延長線上に「肉の工業化」があったわけで肉食の歴史が莫大な人口増加に対応するために行き着くところまで行き着いたということも言える。
そして最も重要な点は現代人は「自分に都合の悪いものをとことん排除し選択していける環境を整えている」という現実だ。
この「肉の工業化」もそう。
我々は昔なら当然見ていたような「生き物を殺して食べる」という事情をまったく意識しなくても肉が食えるようになった。
スーパーなどのクレームでもおかしなものがあったりする。
貝が砂をかんでいて食べられなかったとか、ゼリーを夏にお供えしていたら突然爆発したとか。
ここまで「自然現象とかけ離れて生きている」現代人というものの存在を不思議に思うことがあるわけです。
そしてその延長線上で「不都合なものをとことん排除していく」という傲慢にも繋がっている。
この肉に関してもひとつのテクニックがあるわけです。
どこが食べられるとか、どういう風にさばいていくのかとか、肉と内臓の処理の仕方、すべてが技術なわけで、「肉食いたいならお前がやれよ」と言われても、どうやればいいのか戸惑う。
刃物ひとつにしても研ぎ方がわからないし、どんな刃物を使って肉を解体すればいいのかもわからない。
文字通り専門職があったのは納得できる話だ。
そしてその専門職の人たちがいるから、はじめて食卓まで肉が届けられるわけだ。
当然口にする肉は飼育されて殺された上で食べれるように加工されている。
そんな当たり前のことを考えなくても生きていける現代って少し異常とも言える。
そして挙句の果てには一度も命を食らっていることを意識せずとも死ねる整備された環境すらもある。
命を食らう、生きるってことは自分たちが思っているよりもシビアな事情がある。
だからこそ感謝しなきゃいけないし、残したら「もったいない」し、無駄にむさぼることがいかに下品であるかということを意識しないといけない。
本来は自然界に生きていれば人間も「食べられる」事情の中に組み込まれるけれど、どうやら今は人類の脅威と言えばウィルスと化学物質ぐらいしかない。
現代文明は「不都合なもの」をとことん意識・物質的に「分類」して構成していっている。
不都合なものを見なくてもいいように区分けしているのだ。
でも現実は見ても見なくても存在している。
この肉のように。
どうせ食べるならおいしく食べたほうがいい。
料理をするという文化があり、その犠牲をより感謝すべきものへと変えてくれる。
毎日に「ありがとう」が必要なのは、我々は命を食らって生きるという動物として当然の宿命から逃れられないからだ。
だからこそ「もったいない」という価値観も出てくる。
現代社会は常に「消費」という観点で動いている。
「もったいない」などという考え方は「貨幣の流通の妨げ」にもなりかねないだろう。
「消費」こそが「資本主義の基本」なのだろうか。
「消費」されたものに思いをはせることは「消費」ゆえに無駄なのだろうか。
私にはよくわからないけれど、「消費」という考えの影で犠牲にしているものがたくさんある。
まだ日本では三万以上もの自殺者が存在しているし、莫大な食料を輸入しているにも関わらず年間可食部分と見られている食料廃棄量(食品ロス)は500~900万トンと推測されている。
http://www.maff.go.jp/j/soushoku/recycle/syoku_loss/pdf/panf.pdf
(農林水産省:食品ロスの削減に向けて2009年3月)
消えていかなくてもいいものに対して「もったいないな」とは思わないのだろうか。
「もったいないな」
「もったいないお化け」って昔いたけど今なら笑われそう。
「食べる」という現実を見つめるということは「生きる」という現実を見つめることでもある。
都合の悪いものがたくさんあってはじめて成り立っている現代社会だということを忘れてはいけない。
自分の都合のよいものだけで社会は構成されている・していけると思っていたら大きな過ちだ。
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