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あさかぜさんは見た

日記

11/25

Thu

2010

本の力 Sony Readerの発表を見て

電子書籍リーダー、端末合戦が始まっている。
今日はユーストリームを通して電子書籍ビジネスにおけるソニーの取り組みとリーダーの発表をやっていた。

内容はそれほどでもなし。
ソニーのブックストアーには2万冊の品揃え、と言っていた。
検索機能もついていて、似たような内容のが数冊同時に並べられ、類似作品を表示してくれるらしい。

正直な話、アマゾン越えられるのかなと。
発表だけ聞くと「本を読んでいる人の発想」ではなくて、やっぱり端末の性能だけがいいのかなという印象。
もちろん端末の性能がよいに越したことはないだろうけれど、端末の性能がよくても本におけるサービスの内容で負けていれば、結果を見るまでもなく惨敗すると思う。
端末の性能だけが際立っていても「書籍ビジネス」では勝てない。
これが、ゲーム、映像など、ソニーが持っているコンテンツと合体させた形ならまた違うかもしれないけれど、少なくとも「書籍ビジネス」に絞って考えるならば、本を読む人の期待を超えてくる力はまったく感じられなかった。
米国では売り切れという形が出たとアピールしていたけれど、それは米国ではきちんと作家も出版社などを通して本の力をアピールしているし、大衆もその力を直接受けて刺激を受けている。
当然コミュニティーの力も強いし、本を読む人は作り出される創作の力というのを本を通して直接感じている。
しかし日本にはそういう力がない。
アメリカで「ラストサムライ」という映画がやった後に新渡戸稲造の「武士道」が日本でもクローズアップされた。
あれは元々英文だったけれど、アメリカに行くのに日本語訳と英語の両方の文が載っている「武士道」を持って何人かに渡した。
それで本を渡すと、ある人が「サインをしてくれ」という。
「どうして?」と聞くと「アメリカでは渡した人の名前を書いたりするんだよ」と言っていたので照れくさかったがサインして渡した。
声のトーンがかなり高くなるほど喜んでいた。
本であれほど喜ぶ人を初めて見たが、アメリカにはこれぐらい本に対して喜ぶ人がいるのだ。

そもそも「本の力」ってなんだろう。
日本の電子書籍のビジネスは「本」そのものを見てはいない。
これは「コンテンツビジネス」そのものにも言えることかもしれない。
金が稼げるからそれを出すのでは、コンテンツそのものは育ってこない。
文化を育てる、技術を育てる、こういう発想が「金」という「数字の力」の次に位置している。
本来の「本の力」とは当然数字では見えないところにある。
「本の力」とは「動き出したくなる力を与えてくれる」ところにあると思う。
「世界観が変わった」「新しい知識から気づかなかったことに気づきそうだ」という静的な興奮も含めて、体の中から湧き上がるような衝動を感じるのが本当の「本の力」だと思っている。
そしてこの「本の力」を生かしきるコミュニティーの力が日本では非力すぎるのだ。

本における「売れる」を感覚の面から捉えるならば、とことん普遍的、または社会性の高いものでなければいけない。
普遍性を最初から書ける作家なんて天才と呼ばれる人しかいないし、ほとんどは失敗を繰り返しながら徐々にものになっていく。
しかし通常はそのような天才などごろごろは出てこないから、だいたい「掘り下げる」ということができなくなる。
万人受けするのを目指すあまり、本の内容を当たり障りのないないようにするしかなくなってしまう。
これは、ある側面における物事の核心に迫ることができない、ということを意味もしている。
つまり少数でも確かにある世界の事実というものには「売れるもの」を最初から目指していては消極的な目で見るしかないし、当然掘り下げることもできない。
しかし、大事なところはいつもこういう小さくとも確かにある力強い真実の中にある。

今の売れ筋の中には「本当に価値のあるもの」は残っているだろうか。
「本の力」と「金の力」はイコールではない。
しかし、金の力がないと本当に価値のある本はなかなか出来上がってこないもの事実だ。
ここら辺の事情を理解している人はかなり少ない。
小説だって娯楽小説みたく楽しめても、「きちんと書く」には綿密な取材が必要になる。
その資金や労力だって結構かかる。
そうじゃない本も、これからたくさん出てくる。
いわゆる「現場からの声」や「告白」に近い本だ。
これは部外者が取材費をかけてする外側からの目ではなく内側からの目によって見られた本だ。
電子書籍が活発化してくるにつれ、地方を訴える本、個人を訴える本、組織を訴える本、妄想を訴える本など様々な範囲における本が乱立することになる。
だから逆に「売れるものだけ」をピックアップしてお勧めしたくなる気持ちもわからないまでもないが、これから「混乱期」を迎えるからこそ、きちんとした「書き手」の存在や「編集者」が必要になってくるし、「本の力」を生かしきる新しいフィールドが必要とされるのに、一体日本の本に携わる組織は何をやっているのだと憤りを隠せない。
きちんと仕事ができる人間を育てることやコミュニティーの結合力を高めていくのも「技術の世界」には必要なことなのだ。

別にこれ、ソニーさんだけの話じゃないのだけれどね。
ただ、大手の会社の発表を見るにつれ「ああ、ここもか」と落胆してしまうのも事実なのだ。
ソニーさん、プレイステーションを出す時の勢いぐらいはないと、「本の世界」に新しい風は起こせないのではないのかな。
当時任天堂がハードとしては主流だった世界に「無謀」とも言える挑戦をした。
しかし、プレイステーションはメジャーとなった。
その「無謀さ」がなければ、この世界は衰退する一方だと思いますよ。

最後にもう一度言いたい。
本の本当の原動力とは「動き出したくなる力」があるかどうかにかかっていると思うのです。
これをさらに爆発させるようなものがなければ「革新的」とは言えない。

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10/17

Sun

2010

まず〔まづ〕【▽先ず】

[副]

1 はじめに。最初に。「―下ごしらえをして、その後料理する」

2 とりあえず。ともかく。何はともあれ。「これで―一安心だ」「―一休みしよう」

3 ある程度の確信をもって判断や見通しを述べるときに用いる。おおよそ。多分。「この調子だと―大丈夫だろう」「―助かるまい」

4 (下に否定的な表現を伴って)どうにも。いかにも。


Yahoo辞書から引っ張ってきました。
まず、という意味ですね。

ツイッターを使っていて結構引っかかることがある。
それは人々がどのように言葉を拾って解釈しているか、ということだ。

以前に、

民俗学ではまず文献を読むなというのが基本原則らしい。なるほど、作家も似たようなものだな。本当に小説を書きたいなら小説は読むな。人とひたすら接し、人々の気持ちを一つ一つ知っていけ。これが本物の作家の大原則。…となったら生存している作家の中で残るのは誰だろう。

というツイートをしたら、

民俗学ではまず文献を読むなというのが基本原則らしい。

という意味が強く残ったのか、これを拾われ「文献を読まずにできる学問なんてあるの??」という文面が飛んできた。
あえて拾わなかったけれど、その他の人たちも「文献を読むな」という部分だけ強調して意味を拾ってきている。
しかも前線で活動している学者さんや研究者さんがやっていたのでさらに驚いたわけです。

これは自分が書いた文章そのものが悪いのですが、正確には「文献に頼るな」というのが正しい文面。
「頼るな」と「まず読むな」では、相当意味合いが違うし伝わる状況も天と地ほどの違いがあるけれど、それでも「まず」が入っていることで「まったく読まない」ということとはイコールにはならない可能性は多分に残している。
…と、私は思っていたのだけれど、読んだ人はどう思うだろう。

まず、という言葉を意味もなく飾りのように使っていますか?
それとも3の意味合いで使うことがほとんどでしょうか。
同じ言葉でも前後の言葉から意味が違ってくるのが文章の不思議な感覚的魅力ですが私たちって自分の感覚に合うような言葉を選んで多用しているところがある。

文章家だからなるべく正確な文面を探し出すことを第一としなければならないし、特にこの場合は本に書いてあることだから自己解釈で捻じ曲げては論外だが、ひとつ気がついたことは「人は弱い言葉を添えても、強い言葉に引っ張られて頭の中に残すのだな」と思ったものだった。
私は小説家だから、人の中で起こる「言葉を捉えるときのあいまいな意味の揺れ」を探って書く。
文章は書いているけれど、小説家は「感覚を与える」ことを第一とするので、論文における正確な意味合いの文章を作る技術とはまったく違う。

以前にもよくこの言葉の解釈で「?」と思ったことがあった。
それはその人が、たとえば「まず」の意味を3の意味でしか捉えてなくて、相手に向かって「違います」と堂々と言っていたことだ。
実際に調べれば3以外の意味があり、相手側が書いてある文面で間違ってはいないのに、その人は3の意味しか知らないから相手に向かって皮肉交じりのことを言う。

こういうことが短い文章上の中で多発している。
その上で争いになることも少なくはない。
言葉の解釈の中で起こる個々人の多様なぶれというのは、当然起こり得るものだが、現代人気質とでもいうのだろうか、相手の言葉の意味や価値観を強制しようとする行為はネットを問わず現実空間でも多々起こっている。

どうしてだろう。

明らかに訓練ができていないということもあるが、言葉の中に多様な感覚や意味のブレがあるということの気構えができていないのではないだろうか。
この「気構え」というのは「興味の範囲」が著しく個人の中で完結しているということだ。
だから他人が持っている感覚に興味がわかない。
気がついても入り込めない。
と、ここまで来ると訓練ができてないということに戻るのだろうが。

個人は感覚の中で生きている。
言葉を持つ前の出発点は感覚である。
それが集団を形成するひとつの鍵になっても、集団としての特性を現すには隔たりすぎている。
しかしその集合感覚こそ、集団であることは間違いない。
先ほどのツイートの内容は結局言葉というのは、感覚を基点としているからこそ、人の感覚を知り、そこから文章なりを編み出していかないといけないということだ。
私は民俗学のことなど知らなかったが、小説家のこのような感覚から照らし合わせれば、民俗学というのも同じように文字から探り当てるのではなく、人の息吹を体の中に叩き込まなければいけないのだ、というのはよくわかる。

だからこそ小説家も他人の感覚をどんどん吸収した上で、他者の著作なりを改めて読んで、より多様な感覚でもって体に叩き込まなければならない。
それでこそ、小説が息をし始めるものだと思っている。

言葉というのは大事だ。
今の若い世代はどんどんボキャブラリーを失って感覚的に伝えるようになってきているが、言葉は感覚を表現するのにまず役立つ。
現在の国語の試験のように答えが決まっているわけではなくて、「まず」のように色々な意味を含んでいる。
感覚だけがあって、言葉にできないと、誰かに気持ちを伝えるときに言葉以外の行為になってしまう。
まず言葉は自分の感覚を解釈するために使用される。
その上で伝えられるわけだ。

もっと高度になると他人の感覚を解釈するために使われる。
技術的なことやシステム的なことを言葉にするとどうしても「説明」が多用されることになるから、言葉の意味も他者との中で限定していき、その意味のブレが極めて小さいのが好ましい。
この説明の技術と、日常会話の技術、つまり言葉の使い方は違う。
説明は意味のぶれを狭めるのに対して、日常会話や対話というものは意味のぶれを楽しむところがある。
この意味のぶれを受け入れて、違った形でやりとりするのが他人と交流する上でとても大事なことだ。

しかしその「交流の前提」すらも成り立たなかったら少々困ることだろう。
先ほどの例のように「まず」がAさんにとっては1の意味、Bさんにとって3の意味で押し通し譲らない会話が永遠と続けば喧嘩になることは当たり前なのである。
大げさな例に見えるかもしれないが、実は大げさではなく結構やっていることなのです。
最近「無縁社会」の座談会に出席したけれど「無縁」の意味や内容や感覚でさえ一致していない。
現在はみんなばらばらになって、手探りで見えるものを追っている状態。

言葉には「文字」と「口頭」があるが、どちらにも感覚を根底としている。
言葉を解釈することは感覚を解釈することでもある。
その中にある本人だけが抱えている微妙な感覚は言葉にできないことがほとんどだ。
言葉を解釈する上で一番大事なのは「自分がその言葉について知っている意味とは違う可能性もある」ということを、きちんと頭の片隅にでも置いているのかということでもあると考えている。

自分の中で意味を限定すると、人は数多くのものを見失いがちなのである。


元ネタ

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09/20

Mon

2010

http://poemoon.seesaa.net/

今度詩の電子書籍を発売しようかと考えているのですが、それと同時に朗読も再会しようかと思いまして、一年と数ヶ月ぶりに!再開しました。
電子書籍では音声データを入れるとでかくなるとのことで、中の詩はすべてこちらのサイトで朗読して、写真付きの点が電子書籍版のおまけということになりますな。

それにしてもやりかけのものがたくさんありすぎて、しかも自分の声って恥ずかしいものですな。
耳で聞いている声とは全然違うけれど、聞きなれたら最初の驚きもなくなってくるというものです。

朗読となるとまた表現方法が違ってきて、下手っぴこの上ないですが、精進していきたいと考えております。
難しいよね、朗読って。
また声の表現ともなると、ちょっとしたイントネーションで感じが違ってくるから不思議なもの。
下手でもやっていれば、新しい発見もありそうなので、こういうの好きな方はどうぞ寝る前当たりにお楽しみください。

続けていれば、また新しい道も開くかもしれないしね!

ちなみに「おいしいところを持っていく悪役」がやりたいです!(爆)

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09/20

Mon

2010

年齢に対する焦り

小さな頃はまったく焦りもないし、嫌だ嫌だで様々なことが過ぎ去っていったけれど、どうにも年齢を重ねるごとに「このままではいけない」としみじみ思うようになってきた。

その焦りは自分の知識であったり、経験であったり、視野の狭さであったりする。
何もかもが浅はかで、とてもじゃないがこの世界で生きていくには多様性に欠く。
「年相応」ということもよく考えるが、作家としてやっていくには、若さだけでは押し通せない部分も出てくる。
「若さ」と、「なぜ若さが通らないか」の広い視野において「若さ」を捉える必要性が出てくるからだ。
いつまでも「若い若い」だけの薄っぺらな小説ばかりでは、自分でも「未熟なままで満足しきっている馬鹿」と感じるようになるだろう。

基本、発想がネガティブでもあるので、一度はまり込んだら抜け出られない。
なので、なんとか未来においてそういう状態になることだけは勘弁したいと幅広く学んでいこうと思うわけですが、なかなか心をずるずる引きずっているような感じで思うように前には進めない。

作品としての深みを出すには、その知識や経験を前面に出すと味気なくなるが、さりげなく配置することで味わい深く奥行きのある描写になる。
現在作りかけのものがたくさんあるが、それをすべて完成させるだけでも2,3年はかかりそうだ。

通常の人は小説は自分の経験によるところが大きいと考えるが、残念ながら20本とか30本とかいう作品数になると、自分のそれまでの経験では絶対に補えないものが数多く出てくる。
その未知の経験や知識を得るために、今の感性、この感性の部分は知識や経験を得るごとに鈍る側面もあるので注意しながら伸ばし、知識や経験を得なければいけない。

もっとたくさんのものに出会いたいし、もっとたくさんのことに感動したい。
この世界は絶望ばかりではない。
たとえ特殊行政法人に国の金が300兆流れ、その金がヤミ金や外国との取引に流れていて、この先2・30年ほどで日本という国がなくなってしまおうと、自分という人間だけは残る。
自分という人間が世界の中で残った時、何が武器になるのか、どうしたら生き残っていけるのか、どうやっていったら再生できるのか、そして一人でも多くの人間を助けることができるのか。

もうこの先を考えるなら「日本の中の私」ではなく「世界の中の私」を考えなければ生き残ることはできない。
そのための「私」であろうとすることを目指さなければいけない。
「遅れてる」という焦りだけが積み重なっていく。
もっと自由に動きたいのにな。

相変わらず、下手な作品ばかりを書いていているが、いつか自分でも納得できるようなものを出せたらいいな。
広く世界を見て、広く人を知って、広く伝えていきたい。

「生きる」っていうのも、捨てたもんじゃない。

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09/15

Wed

2010

人間は常に自分の「感性」の範囲において物事を理解する側面がある。
そして、感性を逸脱するものに関しては、多大なる時間をかけなければ理解しないという特性も持つ。
たいていの人間は、時間をかけることにひどく苦痛を見出すので、結局は自分の感性の範疇に戻って理解しようと試みなければ、頭の中で整理できない。

強大な感性を持つ者…と言っても、それが「どんなものなのか」を説明するにはペンで地球を実寸台で点描するくらい困難なことなのだが、本当に能力のあるものは、目の前の「秋刀魚」に宇宙を見出す。
別に「秋刀魚」でなくともいいのだが、それが石ころでもりんごでもよい。
芸術家肌というのはその感性の強大さにおいて世界と戦い続ける。
感性というのは「心の核融合炉」である。
これは親指の第一関節くらいの大きさのウランで核爆弾を作れるように、たかが「秋刀魚」と普通の人が思うようなものに「宇宙」を爆発的な想像力で感性で見出すことができるのが芸術家の特性なのである。
なので、感性の部分については当事者ではない限り永遠に実寸台で伝えることができないし、優れた作品を残そうものならほとんどの人間は、その感性によって作られたものに翻弄され続ける。
そしてこの芸術家当事者と鑑賞者の「齟齬」こそ、「そご」とは食い違いや行き違いのことなのだが、これこそ新しい派生物を作る大きな原動力なのだが、通常の感性の持ち主は、一番最初に書いたように自分の感性において物事を理解しようとするので当然困惑することが多いし、やはり実寸台では理解できない。

よく考えてみれば、この「齟齬」こそ発信者と受信者の間に生まれる新しい力であるにも関わらず、我々は共通認識として強制的に「齟齬」をなくそうと試み、そして「齟齬」の生まれるものに関しては排除しようと無意識にでも圧力をかけようとする。
これは現代人がシステムというものをシンプルに遵守し社会の円滑さを求めるあまりに陥ったひとつの墓穴であるとも私は考える。
一対一の間柄であっても私たちはいつの間にか対人関係に「齟齬」が生まれていくことを恐れていくし、その解決方法を磨こうとする前に算数計算のように「切るべきか」「繋がるべきか」の計算を頭でしている。
それが「利益主義」だ。

社会という存在は、この「齟齬」を受け入れなければいけないし、対人と対人の間に生まれる「齟齬の力」というものを、もっと活用できる柔軟さがなければ当然罪がないにも関わらず死すべき人間が出てくるのは当然の帰結と考えるが今はよしておく。

アルコール、と題名を打ってしまって別のことが浮かんでしまったので上記の内容に…いや、関係しているのだが、正直悩んでいる。
悩みすぎて酒をあおりながら書いていると浮かんでしまったので書いたのだが、当初は「すれ違い」のことについて色々考えていた。
人は自分のことばかりを主張しがちだし、もちろん私も例外ではない。
相手の「伝えたいこと」を、きちんと「相手に伝えて自分のことも伝えていく」ということは結構訓練が必要だ。
これはたくさんの仲間の中に自然にいた人たちには「?」な話なのだが、私のような引きこもりというか、説明が面倒なので「引きこもり」で通すが、それに近い人には「現状」と照らし合わせてよく肌身でわかることだと思う。

さて、いわゆる「齟齬」の中には大きな苦痛がある。
それは現実的な手段においてかもしれないし、当然精神的なものであるかもしれない「齟齬」には、ある程度の苦痛が伴うのは絶対なのだが、私の場合その「苦痛」に大きく反応する。
様々な芸術家が己の「心の活動」において、死に至ったわけだがアルコール中毒とか本当に他人事ではないような感じが切実にするのである。
それは「心の核融合炉」が原子爆発を起こすからであるのだが、私の話ばかりしても、自縄自縛、どん底にまで落ち込みそうなので一般論に話を戻す。

最近「男と女とは一体何なのか」と考えるようになってきた。
女性は適齢期になれば「結婚」ということを自然と考え出す。
聞くに適齢期の女性は「この男性は結婚する意志があるのか」というのを鎌をかけて試すのだそうだ。
当然女性には身体的な事情により結婚というものを遅くとも35歳ぐらいまでに決めなければ精神的な焦りがひどいということは多くの人から聞いている共通認識だ。
この「結婚」や「男と女」の話にまで今回は広げないが、たとえば「して欲しいこと」「自分が望んでいること」がある場合、自分を主体にして相手を捉えていくのは避けられない認識であると思う。
自分の望んでいること、広く言う「認識」が知覚の範囲であるし、やはりこれを「感性」と置き換えても、これらのものから逸脱するものにはひどく理解への困難を伴う。
しかしこれを全肯定して「人は自らの望むべきことのみを追い続けるべきである」とは私は言えない。
なぜなら「齟齬」を「理解しようとする努力」の中にこそ「希望」や「未来」というものが語れると考えているからだ。
たとえそれが、理解できなくても、そこへ至ろうとする努力にこそ心打たれ「この人のために何かしてやりたい」と願い同じように努力しようとするのが人間の素晴らしさのだと私は信じたい。

私は「齟齬」の中にこそ「希望」があるのだと考えている。
当然感性の違いにおいて、理解できないもの、理解しがたいもの、理解しようとも思わないもの、などなどの中でひどく魂を傷つけられることは多い。
人間は仙人でも神様でもないので諦めもするし、傷つきたくないばかりに心を閉ざし、会話を閉ざし、赴くところ一心において主張ばかりを繰り返す愚かな存在であるかもしれない。

だからこそ少し立ち止まって「なぜすれ違うのか」、その「齟齬」の根本原因を真剣に考える機会があってもよいのではないか。
それを考える機会を可能な限り与え、そして自らも考え続けなければいけないのではないか。

こんな単純な願いでさえ届かず、自らはごちゃごちゃになって酒をあおる。
自ら願うことであるにも関わらず、放棄したくなる。
人はこんな「希望」と「現実」の間に生まれる「齟齬」にも、アルコールで誤魔化すようなことが多々あるのだ。
しかし、酔いが覚めた後、きちんと戦わなければなるまいと思うのだ。

これを読んだたった一人でも、自らが与えているものと受け取り手の間に生まれる「齟齬」を真剣に考えてくれることを願って、今日は酔っ払ってようやく平静を取り戻している廃人の私が記す。

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
46
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。

気が付いたら他人からとても褒められる娘ができまして、人生が大きく変わりました。
この小さな可能性と向き合うため頑張って生きております。

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