http://www.ebook2forum.com/2010/06/mechanical-or-logical-approach/
機械思考と論理思考:ゲシュタルト崩壊を超えて : EBook2.0 Forum
ゲシュタルト=人間の精神は部分や要素の集合ではなく、全体性や構造こそ重要視されるべきとすること
ゲシュタルト崩壊=全体性を持ったまとまりのある構造(Gestalt: ドイツ語で形態)から全体性が失われ、個々の構成部分にバラバラに切り離して認識し直されてしまう現象
Wikipedhiaより
これは面白い記事。
電子書籍分野におけるシステムの捉え方の話だが、ピックアップしていくと特にこの分野に興味がなくても学ぶべきものがある。
>それはオープンスタンダードとオープンソースによって実装における複雑性をいとも簡単に乗り越えることができるからだ。ただしこれらを効果的に使うには抽象化能力に優れた個人を必要とする。
意外にもこの抽象化能力の高さってやつが後のアイディアの精度、作品における完成度にも関わってくる。
一つの基点から抽象化していくも、抽象化されたものから基点へとたどり着くのもプロセスはどちらでもよいけれど、アイディアを発展させていく上でも、ビックバンのような抽象化能力は求められる。
つまりどういうことかっていうと、アイディアって「思いつき」なわけでしょう。
お話を書くって結構「思いつきの連続」で、さらに求められるのは「発想力の柔軟さ」なのである。
そうじゃなきゃ最初からガチガチで行き詰ってしまう。
例えば自分の彫刻作品を作るのに、最初から出来上がったものが目の前にあったら、作りようがない。
せいぜい壊れないように磨いて、その状態を保たせるしか方法は残っていないわけだよね。
「感動したいよな」という人が目の前にいて、あなたは石しか持ってない。
それをそのまま投げつけてしまったりするのは「思考停止状態」に他ならないし、ちょっとイカレテル。
泣かせることはできるかもしれないけど、それは「感動」じゃない。
それとも石を振りかざして「感動しろよ」と脅しちゃう?
でも我々って日常でそれに近いことを気がつかずにやっていたりする。
抽象化するっていうのは、自分が持っている「石」を「石ではないのだ」と捉えるところから始まる。
そうじゃなければ別の用途が思いつかない。
目の前にあるもの、持っていた思考、そういうものを「再加工」するには「思い込み」では狭められる。
結果的に最後に出来上がるものは、抽象さというものをとことん削っていった具体的なものになるが、それは「結果」「結論」だ。
それってしかも「絶対」ではなく「ある一つの現象」だ。
ほとんどの人ってここから発想を広げることができないし、あいまいな状態から一つの現象を導き出し、統計的に結論付けていく、という両方の視点は持っていない。
>抽象化能力は論理思考、数量化思考とイコールだが、米国は偉大な人材を生み、育て、受け容れて存分に活躍できる場を提供することで最大のソフトウェア産業とWebビジネスを築いた。日本は逆に、学校教育で抽象化能力を退化させ、この「異能」者を隔離して実社会での権力を与えなかった。
この部分は非常に鋭い私的なのではないかなと考える。
日本では権力を与えないどころか、「穴埋め式」に特化してしまった。
社会のシステムも人々の思考のあり方も、ほとんど多くの人は「与えられた答えのマスに決められた答えを書く」という「穴埋め式」の行動様式となってしまった。
結果社会を構成する部品は数多く生まれたが、社会を牽引する才能は生まれづらくなっている。
「金槌しか持たない人間には、万事が釘のように見えてくる」
現在の日本人の特質はこの言葉に集約されるのではないのかなと考えたりする。
私たちってなかなか自分がこだわっている発想や気持ちを捨て去ることができないし、何かにとても執着しがちだ。
「現状把握」「現状認識」はとても大事だし、今の行動を決める上では重要な材料になるが、現実を認識する能力だけでは非常に危うい。
だからこそ「抽象化能力」が求められるのだけれど、これって「俺ロケットとかに頼らないで宇宙に移動してみたい」って言ってみるのと一緒。
たいていの日本人って馬鹿にするんじゃないのかな?
今は無理でも自分たちが死んだ後に実現されるかもしれない。
しかもその技術のきっかけになる発想って、この人が作り出してしまうかもしれない。
そういう「現実的な可能性」のことにすら想像が及ばなくなってしまったというのは自分たちで首を絞めあっているのと同じ行為だということに気がつかない。
IT化が進み、ネット環境が整うということは「思考が常に世界から試され挑戦の場に置かれる」ということだ。
ここから乖離するには非常に閉鎖的な独善性に特化するしかない。
>出版社にとってのコンテンツの価値最大化は、つねに読者を開拓することでしか実現しない
これは作者にとっても言えること。
読者に媚び続ける発言や作品作りは論外だが、どうやったら効果的に発信して、かつネットワークを構築できるのか。
その上で出来上がった空間に読者が参加してくる。
これが次世代の「作品作り」になってくるのではないかと考えている。
これは「本」というものが進化するのではなく、基点に戻ろうとする抽象化作業だ。
その上で「時代」というものとどう共存していけるのかを考えなければいけない。
私たちは日本語を扱っている。
そしてその豊かな言語性によって思考や精神を重ねている。
「日本語」という可能性から生まれる様々な未来について、「日本語を通して共有する」という作業がなければ、言語というものは、その可能性を失ってしまう。
そんな危機感を持ちながら、ひとつ動画を見ながら思ったわけです。
「ドルアーガーの塔」や「ゼビウス」というゲームを作った遠藤雅伸さんという人が話していたことですが、
「(昔ファミコンやってた人が再度やって)面白いなっていうのは本当に面白いのではなく、自分の思い出に対しての価値観が変わってないだけ。ファミコン廃れた世代にも面白いって言われたら本物だけど大抵そんなことはない。ゲームにおける普遍性というのはこれから考えられることだけど、でもどうやらトレードオフ(ハイリスクハイリターンなど、ある一方を犠牲にして対価を得ること)は重要らしい」
ゲームのことだから本作りとは少し事情が違うけれど、ゲームとは違ってまだ「普遍性」というものは「本」にはある。
特に「文学」とか。
それでもこれからは「本作り」やそのアプローチの方法において「内容」は変化していくであろうことは容易にわかる。
でも私たちって基本的に「文化」というものに望んでいるものって、自分たちの生活をより精神的に高めるための共有感覚なのではないのかな。
個人がたった一人でいい思いして便利になってなんでもできて、それでも孤独が消え去ることがないという違和感を持ち始めているわけでしょ?
そういう「孤独になるかもしれない」「何か寂しい」という予感に強烈な不安感を感じているわけだ。
それって我々が精神的な価値感覚による「文化」というものを失いつつあるからじゃないのかな。
他者を受け入れるということは常に変化にさらされる。
そんな人とのつながりの中で自分がいい方に変えられる快感っていうのは、なかなか感じることができなくなってきているのは、私たちが思考・精神ともども「孤立化」してきているからじゃないんだろうか。
守り続けなければいけないものもある。
しかし変化し続けなければいけないものもある。
その両者のバランスを失い、基点をなくしつつあるのが今の状態なのかもしれないと思ったりする。
私は文章を書いているから、たいそうなことは考えられないが、まずは本というものを考えるなら、「中身を伝える」パッケージの重要性もあるけど、本の中身の面白みっていうのは構成の技巧とかストーリーの面白さとかに目がいきがちだけど本当は読んだ後に「なんか今までの自分とは違う」っていう変化と感じた人間味。それを「他人と共有できるかもしれないっていう期待感」にあるんじゃないのかな、と考えている。
私たちは本をなどを通じて互いの考え方の違いを楽しむ豊かな「教養」を育てることに非常に無頓着である。
もっと自分が心地よく破壊されることの快楽というものを考えていってもいいと、望んでいる。
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