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あさかぜさんは見た

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11/24

Sun

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08/06

Fri

2010

札幌は30度を越えている。
あまり超えることがないだけに暑い。
慣れていない。

30度でさえ集中しないと自分が何を考えていたのだが忘れてしまいそうなのだから、35度となったら何も考えられなくなるだろう。

どこかに暑いと書きたく、南の人からすれば「そんなもん暑くねえよ」と言われそうだが、きっと私が東京とか大阪とか福岡あたりに行くと、病院に運ばれそうな予感がする。
まだ暑いといっても、夜は涼しくなってくるので眠れない夜とまではいかない。

…で、何か考えていたのだけれど何を書こうとしたのかも忘れた。
このままこの日記は終わりたい気分に今直行しつつある。

いや、ちょっと待て。
ああそうだ。
あ、でもいいや。

暑いとあまり動きたくなくなる。
きっと酷暑の場所で働いている人はこんな感じなんだろうな。
…と、勝手に当てはめてみる。

突然「あーっ!」と叫びたくもなるが、やっぱり思い直してやめる。
体が熱くなるからだ。

今日は何のためにもならない内容だ。

あ、そうだ。

手足の痺れや舌のもつれを感じたらすぐに病院に行きましょう。
特に中高年の方。
脳の血管が詰まって、最悪の場合死ぬことがあります。
甘く見ないように。
水分補給をしっかりと。

なんとか暑い夏、乗り切ってください。

最後に寒くなるギャグでもひとつ…え?いらない?
じゃあやめます。

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07/31

Sat

2010

膨大な量の知識がこの世界には存在している。
それを全て知ることは不可能だし、ましてや「お前そんなことも知らないのか」という言葉を吐くということは逆説的に「いかに自分の了見が狭すぎるか」ということを露呈させているに等しい。というか、むしろ子供過ぎる。知ってなければいけないこともあるが、そっと差し出しておくのが大人でカッコいい。
知らないもの同士教えてあげるというのが最もな付き合い方だと私は思う。

この世界には知識だけを語って知恵を持たないものがいる。
「この人バカだなー」と思う時、その人は現実世界での感覚から知識を語るのではなく、知識から感覚を作り出そうとしている。
頭だけで作り出されたものに本当の叡智は存在しない。
「机上の空論」という言葉は知っていても、それがどんなものかは知らない。
私は「体験」にずっと耳を傾けている。
別に知識がなくても、世間では頭がいいと認められなくても、きちんと自分の体験から得た考え方や思いというものがあれば、それだけでその人の一つの個性、大事なもの、だと考えている。
そういう人は「バカ」とは言わない。

この世界は知識だけならいくらでも集めてくることができる。
それらしく感覚のない知識だけで作り出された血の通ってない「まがいもの」は量産できるだろう。
ただし本当の「叡智」は、そう簡単には量産できない。
その人が人生において培ってきたものを凝縮しなければいけないのだから、大変な作業なのだ。
だいたいそういうものって観察も含めて「実体験」だ。
自分で見聞きして感じたものを凝縮している。
知識をつけることは大事なことだ。
大いに人生に役立つことがこめられている。
しかし知識だけを無駄にむさぼり、自分の感覚からもそれたものを語ろうとする者はたいてい「バカ」だ。
あまり例外はなかったりする。
しかもそういう人に限って「感覚」が欠落しているので平気で人にも自分の知識を押し付けてこようとする。

しかし間違ってはいけないのは他人に向かって「バカだ」とは言わないことだ。
それは意味のないこと。
言ったところで機嫌が悪くなるだけだろう。
大事なのは「自分がバカなのではないか」と気がつく、考えてみる、ということだ。
自分の普段の素行を考え、「バカに成り下がっているのではないか」と省みることが「知識が板についてくる知恵への一歩」であるのだ。

と、まあ、自分のことをちゃんと見直せる人ってバカじゃなくて、それができない人がバカだから困るところなのだが。

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07/26

Mon

2010

自己思考破壊の快楽

http://www.ebook2forum.com/2010/06/mechanical-or-logical-approach/
機械思考と論理思考:ゲシュタルト崩壊を超えて : EBook2.0 Forum
ゲシュタルト=人間の精神は部分や要素の集合ではなく、全体性や構造こそ重要視されるべきとすること
ゲシュタルト崩壊=全体性を持ったまとまりのある構造(Gestalt: ドイツ語で形態)から全体性が失われ、個々の構成部分にバラバラに切り離して認識し直されてしまう現象
Wikipedhiaより

これは面白い記事。
電子書籍分野におけるシステムの捉え方の話だが、ピックアップしていくと特にこの分野に興味がなくても学ぶべきものがある。

>それはオープンスタンダードとオープンソースによって実装における複雑性をいとも簡単に乗り越えることができるからだ。ただしこれらを効果的に使うには抽象化能力に優れた個人を必要とする。

意外にもこの抽象化能力の高さってやつが後のアイディアの精度、作品における完成度にも関わってくる。
一つの基点から抽象化していくも、抽象化されたものから基点へとたどり着くのもプロセスはどちらでもよいけれど、アイディアを発展させていく上でも、ビックバンのような抽象化能力は求められる。

つまりどういうことかっていうと、アイディアって「思いつき」なわけでしょう。
お話を書くって結構「思いつきの連続」で、さらに求められるのは「発想力の柔軟さ」なのである。
そうじゃなきゃ最初からガチガチで行き詰ってしまう。

例えば自分の彫刻作品を作るのに、最初から出来上がったものが目の前にあったら、作りようがない。
せいぜい壊れないように磨いて、その状態を保たせるしか方法は残っていないわけだよね。

「感動したいよな」という人が目の前にいて、あなたは石しか持ってない。
それをそのまま投げつけてしまったりするのは「思考停止状態」に他ならないし、ちょっとイカレテル。
泣かせることはできるかもしれないけど、それは「感動」じゃない。
それとも石を振りかざして「感動しろよ」と脅しちゃう?
でも我々って日常でそれに近いことを気がつかずにやっていたりする。

抽象化するっていうのは、自分が持っている「石」を「石ではないのだ」と捉えるところから始まる。
そうじゃなければ別の用途が思いつかない。
目の前にあるもの、持っていた思考、そういうものを「再加工」するには「思い込み」では狭められる。
結果的に最後に出来上がるものは、抽象さというものをとことん削っていった具体的なものになるが、それは「結果」「結論」だ。
それってしかも「絶対」ではなく「ある一つの現象」だ。

ほとんどの人ってここから発想を広げることができないし、あいまいな状態から一つの現象を導き出し、統計的に結論付けていく、という両方の視点は持っていない。

>抽象化能力は論理思考、数量化思考とイコールだが、米国は偉大な人材を生み、育て、受け容れて存分に活躍できる場を提供することで最大のソフトウェア産業とWebビジネスを築いた。日本は逆に、学校教育で抽象化能力を退化させ、この「異能」者を隔離して実社会での権力を与えなかった。

この部分は非常に鋭い私的なのではないかなと考える。
日本では権力を与えないどころか、「穴埋め式」に特化してしまった。
社会のシステムも人々の思考のあり方も、ほとんど多くの人は「与えられた答えのマスに決められた答えを書く」という「穴埋め式」の行動様式となってしまった。
結果社会を構成する部品は数多く生まれたが、社会を牽引する才能は生まれづらくなっている。

「金槌しか持たない人間には、万事が釘のように見えてくる」

現在の日本人の特質はこの言葉に集約されるのではないのかなと考えたりする。
私たちってなかなか自分がこだわっている発想や気持ちを捨て去ることができないし、何かにとても執着しがちだ。

「現状把握」「現状認識」はとても大事だし、今の行動を決める上では重要な材料になるが、現実を認識する能力だけでは非常に危うい。
だからこそ「抽象化能力」が求められるのだけれど、これって「俺ロケットとかに頼らないで宇宙に移動してみたい」って言ってみるのと一緒。
たいていの日本人って馬鹿にするんじゃないのかな?
今は無理でも自分たちが死んだ後に実現されるかもしれない。
しかもその技術のきっかけになる発想って、この人が作り出してしまうかもしれない。
そういう「現実的な可能性」のことにすら想像が及ばなくなってしまったというのは自分たちで首を絞めあっているのと同じ行為だということに気がつかない。

IT化が進み、ネット環境が整うということは「思考が常に世界から試され挑戦の場に置かれる」ということだ。
ここから乖離するには非常に閉鎖的な独善性に特化するしかない。

>出版社にとってのコンテンツの価値最大化は、つねに読者を開拓することでしか実現しない

これは作者にとっても言えること。
読者に媚び続ける発言や作品作りは論外だが、どうやったら効果的に発信して、かつネットワークを構築できるのか。
その上で出来上がった空間に読者が参加してくる。
これが次世代の「作品作り」になってくるのではないかと考えている。
これは「本」というものが進化するのではなく、基点に戻ろうとする抽象化作業だ。
その上で「時代」というものとどう共存していけるのかを考えなければいけない。

私たちは日本語を扱っている。
そしてその豊かな言語性によって思考や精神を重ねている。
「日本語」という可能性から生まれる様々な未来について、「日本語を通して共有する」という作業がなければ、言語というものは、その可能性を失ってしまう。
そんな危機感を持ちながら、ひとつ動画を見ながら思ったわけです。
「ドルアーガーの塔」や「ゼビウス」というゲームを作った遠藤雅伸さんという人が話していたことですが、

「(昔ファミコンやってた人が再度やって)面白いなっていうのは本当に面白いのではなく、自分の思い出に対しての価値観が変わってないだけ。ファミコン廃れた世代にも面白いって言われたら本物だけど大抵そんなことはない。ゲームにおける普遍性というのはこれから考えられることだけど、でもどうやらトレードオフ(ハイリスクハイリターンなど、ある一方を犠牲にして対価を得ること)は重要らしい」

ゲームのことだから本作りとは少し事情が違うけれど、ゲームとは違ってまだ「普遍性」というものは「本」にはある。
特に「文学」とか。
それでもこれからは「本作り」やそのアプローチの方法において「内容」は変化していくであろうことは容易にわかる。
でも私たちって基本的に「文化」というものに望んでいるものって、自分たちの生活をより精神的に高めるための共有感覚なのではないのかな。
個人がたった一人でいい思いして便利になってなんでもできて、それでも孤独が消え去ることがないという違和感を持ち始めているわけでしょ?
そういう「孤独になるかもしれない」「何か寂しい」という予感に強烈な不安感を感じているわけだ。
それって我々が精神的な価値感覚による「文化」というものを失いつつあるからじゃないのかな。

他者を受け入れるということは常に変化にさらされる。
そんな人とのつながりの中で自分がいい方に変えられる快感っていうのは、なかなか感じることができなくなってきているのは、私たちが思考・精神ともども「孤立化」してきているからじゃないんだろうか。
守り続けなければいけないものもある。
しかし変化し続けなければいけないものもある。
その両者のバランスを失い、基点をなくしつつあるのが今の状態なのかもしれないと思ったりする。

私は文章を書いているから、たいそうなことは考えられないが、まずは本というものを考えるなら、「中身を伝える」パッケージの重要性もあるけど、本の中身の面白みっていうのは構成の技巧とかストーリーの面白さとかに目がいきがちだけど本当は読んだ後に「なんか今までの自分とは違う」っていう変化と感じた人間味。それを「他人と共有できるかもしれないっていう期待感」にあるんじゃないのかな、と考えている。

私たちは本をなどを通じて互いの考え方の違いを楽しむ豊かな「教養」を育てることに非常に無頓着である。
もっと自分が心地よく破壊されることの快楽というものを考えていってもいいと、望んでいる。

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06/14

Mon

2010

※プリミティブ (primitive)とは、「原始的」「素朴な」「幼稚な」という意味。

cobaというアコーディオン奏者がいる。
この人の名前は知らなくても、CMなどで音楽が多用されているのでテレビを見ている人なら一度はどこかで聞いていることと思う。
アコーディオンそのものは1822年ベルリンのフリードリッヒ・ブッシュマンに開発されたというのだから、まだ楽器としては200年もたっていないということになる。
cobaはアコーディオンの魅力を「胸に直接響く」「恋人を抱くように」と表現している。
当時マイナーだったアコーディオンの知名度を上げるために、二者択一の周囲の押し付けの人生にも反発しイタリアに渡ったがすべてが衝撃的だったという。
日本でもイタリア人のイメージと言えば自由奔放な感じがするが、イタリアの文化自体が良くも悪くも「プリミティブ」であるとcobaは表現している。
つまり欲望に忠実に、人生は一度きりだから楽しもう、やりたいことをやろう。
それだけだといさかいが起きるはずなのに、どうしてなのだろうと観察してみると他者をリスペクト(尊敬)しているという。
だからうまく社会が循環している。
ただ、欲望に従っている分、それなりの悪い意味でのハプニングもイタリアではたくさん起きるから、全員を善人だと思っていたら痛い目にあうわけだけど。

cobaの音楽を聴いていると、アコーディオンという楽器だからというわけでもなく、非常に自然で人間的な哀愁が感じられることがある。
それは彼がイタリアで見てきたものと、日本人としての感覚が混ざり合い、うまく人間の喜怒哀楽を表現した音楽性に現れているのだと思っている。
イタリアにはまだいったことがないが、よく経済的にも比較されることがある。
例えばGDPははるかに日本よりも悪いのに自殺率が低いのはなぜか、など。
こういう視点にも日本人の悪さが露骨に出ているから嫌悪感を覚えるが、芸術関係に携わると、今の現代日本人の生活観の中に芸術を楽しもうという開かれた気持ちが非常に小さいということがわかる。
その理由は諸説紛々だし話せば長くなるので割愛するが、一言でいうならば芸術を楽しむにも精神的な余裕が必要であり、その精神的な余裕を現代日本人は持ち合わせづらい、ということだ。
これは実際に携わると肌身でわかる。やる側としては「いいわけ」に過ぎないので、そんな人にも届くようなものを作っていくのがプロ根性なわけだけれど。
ただ、表現者として言わせていただくならば人間として精神的に自立するということは他者を認めるというところにあるのではないだろうか。
その付き合い方はまた個々人別々としても。

こうしたインターネット空間でも様々な人たちと交流し、互いに持っていたプランが現実化することはよくある話になってきて、非常に便利だが不愉快に思うことも多々ある。
特にこのような場所においては言葉の価値はほとんど低く、言葉そのものに価値を持たせるには背景に多大な努力を必要とするが、人はおかしなもので「よくお前が言える」というようなことを言っても、その人間にそれらしい環境があれば周囲は信じてしまうという不思議な作用がある。
しかしそういうものはそれこそ「プリミティブ」なものであって、その人間が創りだした一種の事実ではあるのだから、責めたり恨んだりする前によく観察してみると面白いことが多々見つかる。
ひとつは他人を通して自分自身の醜さをはっきりと垣間見ているということと、その「プリミティブ」さ、愚かさこそ人間活動の本質なのではないかということだ。
自分すらも結局は「プリミティブ」なものの上に「大人を装って」いるにすぎないのだから、互いの「プリミティブ」さが完全に合致するということはまずない。
だからこそ喜怒哀楽があるのだとも感じる。
現代日本ではサービスが細分化されてきていて、自分と直接的にマッチングする商品と出会える。
だから逆に自分の趣味や好みのフィールドを極限化できるというメリットもあるが、それゆえに逆にデメリットにもなる。
安定し、反復した日常を送る中で、いつの間にか自らが他者を拒絶するような環境を作り出している。

かつて白洲次郎という人間が「日本人にはプリンシプルがない」と言った。
プリンシプルとは「原理、原則、根本、主義、信条」などと訳されるが日本語訳が難しいと言われる。
私なりに解釈をすれば「自己を確立するための骨格がない」というところだろうか。
確かに「プリミティブ」なものであふれ、それを大事にできる個々人の環境は非常に整えられてきているが、はたしてそれを認め合うだけの「自己」が我々にはしっかり備わっているのだろうかと、私自身も日々自問自答する日々だ。
自分の「プリミティブ」さが肥大化する環境は他者が懸命に作り上げている現代社会のサービスにおいて、「己」のみを追求するというのは滑稽ではないか。
そこを現代日本人は大きく勘違いをしていると考えるのだ。

しかしこのことを言葉で言えば角が立つ。
なぜ過不足なく暮らしているのに、余計に疲れるような精神作業をしなくてはいけないのか、と反発を買う。
そんな「プリミティブ」な感情にこそ、「プリミティブな楽器」とアコーディオンを言った奏者cobaの音楽やお近くの美術館などに足を運んで、ちょっとした美術芸術に触れてみることをお勧めしたいわけだ。




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06/13

Sun

2010

小惑星探査機「はやぶさ」 13日深夜帰還

<完結編>探査機はやぶさにおける、日本技術者の変態力
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とりあえず、動画でおさらい。
あとで記事書きます。
日本はちゃんと科学技術にお金かければ、まだまだすごいものがあるんだぞ、と。

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
45
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みますが光野(こうや)とか朝風(=はやぶさ)でもよろしゅうございます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。自分でも困るほどの「皮肉屋」で「天邪鬼」。つまり「曲者」です。

2011年より声劇ギルド「ZeroKelvin」主催しております。
声でのドラマを通して様々な表現方法を模索しています。
生放送などもニコニコ動画でしておりますので、ご興味のある方はぜひこちらへ。
http://com.nicovideo.jp/community/co2011708

自己プロファイリング:
かに座の性質を大きく受け継いでいるせいか基本は「防御型」人間。自己犠牲型。他人の役に立つことに最も生きがいを覚える。進む時は必ず後退時条件、及び補給線を確保する。ゆえに博打を打つことはまずない。占星術では2つの星の影響を強く受けている。芸術、特に文筆系分野に関する影響が強い。冗談か本気かわからない発言多し。気弱ゆえに大言壮語多し。不安の裏返し。広言して自らを追い詰めてやるタイプ。

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