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あさかぜさんは見た

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11/24

Sun

2024

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02/23

Wed

2011

人は変わるが言葉は残る

最初に私信ですが、だいぶ過去の記事まで熱心に読んでいただいてありがとうございます。

この「記録」も兼ねたブログもだいぶ前から書いているのですが、やっぱり過去の記事を見ると間違っているところもあるし、まだまだ甘いものもあるし、それを自分で確認できることは「ああ、自分ちょっと成長しているかも」と実感できることでもあるので、ずっと書いていますが、それ以上に書くことで、「過程」というものをしっかり積み上げることができるので、間違っていたとしても、その時に思った感情や思いを大事にして記録しています。
なぜってそれは、二度と出てこないかもしれないから。

どうしても小説は自分という体を通して書くものですから、自分も一つの観察対象として事細かに記録していかないと、いざって時になかなか投射できなかったりするのです。
その時何を思っていたか、どういう感覚で言葉を出しているのか、その「言葉の皮膚感覚」を記録しておかないと、後日書こうと思っても心の状態が失われているので「嘘」になってしまいます。
それは写真家が写真を撮ることによって、現地の皮膚感覚を記録し伝えようとすることと似たようなもので、私の場合は作品ができる前段階として数多くの「言葉の皮膚感覚」を記録しています。
そしてこのことは20歳くらいに「高校の頃より感覚が鈍っている」ということに衝撃を受けたことから、馬鹿にされようと罵られようと「子供らしい感性を自分の中に失わずに保存しておく」ということでした。

実際、この10年間、生活実態がまともではないことも重なり、罵られもしたし馬鹿にもされたし、白い目でも見られてきたし、元々まともな感覚ではなかったばかりか、ひどく鬱屈した精神を持っていたため、世間ずれし、社会と馴染めず、一人で黙々とネット空間で言葉を残してきたというのが事実です。
それには一つの理由があります。
つまり、いつまでもこの世界にしがみついているのは、具体的にどのようにすれば自分の能力が上がっているのか見えるのです。
これが見えるか見えないかはどの道にいようと、とても重要なことのように思えます。
自分が踏み出していくべき一歩先の道が確実に見えることはもちろんのこと、どこまでいけばひとつの区切りになるのかという、ある程度の先の状態、言い換えれば「自分の節目がわかる」ということは、自分の人生を歩む上で欠かすことのできない要素だと考えるわけです。
そしてこれがなければ、いつまでも迷い、同じところを行ったりきたりし、何かに常に振り回され、自分の力をふるえないまま無気力になっていくことが多いように思います。

目先のことにすら踏み出せない何らかの物理的・精神的束縛があった場合、どのような未来を思い描いていたとしても、踏み出せない場合が多いのですが、人間自分の思い描いたベストの状態から踏み出せるのは極めて幸運な例であり、それこそ宝くじを当てて豪邸を買ってから事を起こすというぐらい、可能ではあっても現実的には不可能に近い確立であるということがほとんどです。
だいたいそのような低確率の幸運を願うようでは絶望するに決まっているのです。
ですから、足りない状態から物事を始めていくというのが人生においては絶対条件だし、その過程の中で節目を作り「準備万端」にしていくというのが賢い生き方だと思うのですね。

このことは「商売」に置き換えるとよいのですが、「~だったらよかったのに」とか「~のせいでこうなった」とか、現状の前でそんなことを言ったからってどうにもならないわけですよね。
時代も変わった、ニーズも変わった、じゃあ自分の今までの状態じゃダメだ。
常に現状に即した形で物事を進めていかないと商売なんてできない。
ないものねだりをしてもどうしようもないので現状に即した形で進み、どうしても欲しいなら自分で作り出すか獲得するか協力を仰ぐかしかない。
これってつまりは「現状に対する全肯定」をした上で次の一手を打っていくという、「現状絶対肯定姿勢」でもあります。
結局「ないものでは商売はできない」という絶対原則でもあり、これを個人に置き換えると「ない自分で勝負なんかできない」ということであります。

弱みがある。
なら補うしかない。
強みはこれじゃないのか。
ならそれで攻めてみるしかない。
やっぱり失敗したよ。
なら失敗を徹底分析してノウハウを蓄積していくしかない。

重要なのは「失敗する経験」だと私は考えます。
この世界には弱い人間であふれています。
私もそうですし、たぶん他の人もそうでしょう。
でもなんとか生きている。
この事実は他社と接する上でのひとつの思いやりにもなって蓄積されていくと思うのです。
だからこそ、そういう人たちにも届くようなものが少しずつ出来上がってくる。
もちろん、弱者を徹底的に無視したサービスもあるでしょう。
高級感を出し、差別化を図るという意味で。
しかしそこでも大事なのは「人の弱さを知る」ことではないでしょうか。
困っているところを自然に補う。
お客のして欲しいことを先回りしてサポートしていく。
こういうことも徹底されていると高級感って味わえますよね。
ある意味こういうのも経験でもありますが「人の弱み」に関することでもあります。

そして弱みを知ることは何かを育てることにも直結していくことを実感しています。
対象の弱さを知り、サポートやカバーをすることができれば、それは育っていくのです。
植物のように。
たとえば土に栄養が足りないのかもしれない。
何かの原因で栄養がいきわたっていないのかもしれない。
こういう自分が携わっている土壌や、今目の前で育っていこうとしている対象とじっくりと向き合い、失敗を積み重ねることで、逆にそれが失敗しないための経験に変わっていく。
こういうことだと思うのです。

自分は弱い。
そして愚かです。
だからこそ「記録」しているという側面もあるのです。
以上のような理由から。

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02/21

Mon

2011

私は創る立場だから規制されると困るものもあるし、本当に少数ながら今ある事実を堂々と示唆できなくなると、その悪い勢力をけん制することはできなくなる。
そもそも、臭いものに蓋をしたからといって、臭いものは消えるはずもなく、ただ臭いが充満するのを防げるかな、という程度の話であって、根本的な解決にはならない。
それに、性欲などの本能にいたっては、理性の弱い人間ではどうしようもない部分がある。

ナイフがあっても、それを恨みを持った人間が殺人の道具に全員が使わないのは、理性があるからだ。
人間として情があって、相手のことを多少でも思いやる瞬間があった時、殺すのを躊躇する。
もちろん、性にいたっても同じことが言える。
傷つけてしまった、傷つけてしまう、そういう相手への情が、行動を躊躇させる。
これは「良心」の問題だ。
私たちはこの「良心をいかにあるべきものにするか」の問題で悩んでいる。

そして私は規制反対派だが、その影に隠れてどのような勢力が身を潜めているのかも多少知っている。
小学生に性的興奮を感じ、意にそぐわなければ過剰な罵倒を繰り返し、大人の女性とうまく付き合うよりも、まるで人形を育てるかのような感覚で自分好みにしていくという妄想を抱いているアンダーグラウンドな存在が増えてきているのも知っている。
また、過剰な暴力性に興奮し、これもまた反吐が出るほどのサディズムでいたぶられる人間を「かわいい」と堂々という人たちの存在も知っている。
こういうのをひとつひとつあげていったらきりがないほどだ。

私は親ではないが、やはりこういう人たちの存在を知ると、全面的に規制に抵抗することに躊躇を覚える。
カリフォルニア州では20歳以上に酒やタバコを販売していて、夜の時間帯のこの手の物品にいたってはIDの提出のみならずパスポートまで要求されることがあった。
それだけチェックが厳しい。
規制を続けていくと、それが思わぬものに悪用され、不当な逮捕や社会的制裁を生む可能性をはらんでくる。
アメリカのポルノ規制のように。

規制を厳しくしたからと言って、安泰になるわけではない。
嫌なものを押し付けられるとさらに抵抗を示すように、規制する側もされる側も過剰に反応していくだろう。
そして特に規制される側には本能の問題にも触れてくるため、抑圧状態に陥った後、過剰な行動に出るであろう事は、人間心理として当然なのではないのか。

この社会は市場主義社会だ。
買う人間がいて、創る人間が養われているから、その行為が途切れることがない。
つまり、それだけ需要がある。
言い換えれば、抑えつけて買わせなくしても、ネットもあり海外とも繋がっているこのご時勢、抜け道はたくさんある。
臭いものに蓋をしても臭いものは残る。
ようは、それに性的興奮を示さない良心的な市民を育てるほうが大事なのではないのか。
隣人を大事だと思える社会作りをするほうに力を入れたほうがいいのではないのか。
そういうフォローがなければ、何百年も前から続いてきたこの手の争いには妥協が図れない。

アンダーグラウンドは死滅することはない。
それだけは言える。
そしてその勢力が伸びているということは、社会そのものが病んでいるからじゃないかと思うのだ。
人間は法によって生きる動物だろうか。
日常生活の中でいちいち法律のことを考えて行動するだろうか。
もし生活の中で規律があるとしたら理性や良心があるからこそではないだろうか。

違うのだろうか。

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02/17

Thu

2011

米書店大手に淘汰の波 ボーダーズが破産法申請(日本経済新聞)

※リンクが貼れず不便なので転載。

 【ニューヨーク=杉本晶子】米書店チェーン大手に淘汰の波が迫ってきた。16日には全米2位のボーダーズ・グループが米連邦破産法11条(日本の民事再生法に相当)の適用を申請した。電子書籍端末やタブレット型と呼ばれる多機能携帯端末の普及で、本や雑誌をインターネット経由でダウンロードして読む消費行動が広がったのが背景だ。ネットでの書籍販売も広がり、従来型の書籍流通モデルは変化を余儀なくされている。

ボーダーズの閉鎖予定の店舗(ミシガン州)=AP裁判所への提出書類によると、ボーダーズの負債総額は12億9000万ドル(約1080億円)。大口債権者には、英出版大手ピアソン傘下の米社など、主要出版社が名を連ねた。ボーダーズは米国内店舗の約3割に相当する200店を4月末までに閉鎖し、規模縮小で再建を図る。従業員も削減する方向。金融機関との間で、再生手続き中に5億ドル強のつなぎ融資を受けることで合意した。

 ボーダーズのマイク・エドワーズ社長は同日の声明で「長期的に事業を続けるための資金の手当てがつかなくなった」と説明した。同社は1971年創業の老舗だが、2010年1月期まで4年連続で最終赤字を計上。四半期では10年8~10月期に債務超過に陥っていた。

 米書店チェーン首位のバーンズ・アンド・ノーブルも2010年8~10月期の最終損益が1200万ドルの赤字となるなど収益悪化が続く。オンラインでの書籍販売額は増えたが、実店舗の既存店売上高が振るわなかった。一方、米アマゾン・ドット・コムは1月末、電子書籍のコンテンツ販売がペーパーバックの販売数を超えたことを明らかにした。

 米国では書籍市場全体が07年をピークに縮小に転じている。金融危機を引き金とした消費冷え込みに加え、端末さえあれば比較的手ごろな値段でコンテンツをダウンロードできる電子書籍の普及で、従来型の書籍が押されている。




日本でも大型書店に追い詰められ、小さな書店が次々と閉店していっている。
ちょうどシネマコンプレックスができて、小さな映画館が次々と閉館するように。

書店は本を売る場所だ。
しかし今本はあふれかえるほどある。
そして電子書籍の登場により、紙の本よりもはるかに面白い本が出てくるのは時間の問題だろう。
紙でこそ出していないものの、才能のある人間はこの日本にもいる。
あとはその演出方法が整えられれば、チャンスはより拡大する。
そうなると出版社も危うくなるわけだが、その前に書店が打撃を受けることになる。
アマゾンなども次々とサービスを拡大し、家にいながら本に対する人の感触を調べられるようになった。

そもそも、本の魅力とは何だろう。
それは元々「共有したい」という欲求だったのではないかなと思う。
たとえば和歌や伝記や神話には、どこかしら人間らしいものがあって、有体に言うところの「普遍性」がある。
今は好みが多様化しているし、よりニッチになってきているかもしれないが、人間らしい欲求というのは、人間が人間でいられる限り変わらないと思う。
というのは、やっぱり本から何かを得て、無駄に終わらせることはできないわけで、何かしら共有したくなる。
それは「感覚」だったり「考え」だったり「絆」だったりする。
それらのものが一緒に体験できて膨れ上がったら、これほど面白みのあるものはない。
だから人は繋がろうとする力を持ち続けようとするのだ。

書店は、本を売る場所だ。
しかしアマゾンは本を売る以上の機能があって、作家コミュであったりレビューであったり掲示板であったり、本に馴染みのない人でも参考になる。
現在ある大型書店もまた本を売っている。
だから、小さな書店は「本を売ってはいけない」。
つまり大型書店と同じことをしていても潰れるしかないし、アマゾンよりも魅力のあるお店にしなければいけない。

じゃあ、どうすればいい?
普通の本屋では紹介しないような埋もれている名作をアピールして欲しいし、棚だって特殊なカテゴリーで出来上がっているものがあってもいい。
より書店員は専門性を求められる。
私はこれからの時代「本におけるライブ感覚」を引き出したものが生き残っていけると考えている。
書店における「本のライブ」とは、たとえば子供が集まっての感想会だったり朗読会だったり、書店員からの本の力説だったり、大人同士が忘れていたことを真剣に思い出しあったり、「文脈の力を人の体で直に伝える」ことであると思う。
どうしたらこの体を通じて「本の魅力」を伝えられて「相手に本を体感」させることができるのか。
それが実現できた本屋だけが生き残れる。

いわば本屋も「本を物として売る」のではなくて「本を表現する」時代に来たのだ。
売れている本をアピールする時代はすでに終わった。
それはもうアマゾンやネットで充分すぎるほど行われている。
小さな書店がそこにかなうはずがない。
埋もれている味わい深い作品を、地域の人たちと共有するために、店の中の作りから、その演出方法、時には月一でも「書店便り」を作ってお店の中にフリーペーパーとして置き、イベントのお誘いなど、「人と人が関わり、リアルタイムで変化する書店」を作らなければいけないのだ。

その可能性を拡大してくれるのは、皮肉にも電子書籍を通じて発信することになるだろうが。

大本になる「本作り」も、自然と本を作るのではなく「表現してもらえる本作り」にシフトしていくだろう。
それはより強力な文脈を持った本作りをしていかなければならなくなる。
つまりは、より高度な技術が要求される。
一言で言えば「リアルさ」だ。
それは日常におけるリアルさであったり、心におけるリアルさであったり、仕事におけるリアルさであったり、エンターテイメントにおけるリアルさであったりする。
「より感じられる本」。
もう、時代は変わったのだ。
本はより「人のリアル」に踏み込んでいく力を持たなければ生き残れない。

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02/10

Thu

2011

人の価値は目に宿る

「たったひとつの部品です。どういう使われ方をされるか、そのことによって部品ひとつの価値が変わる。そのことは、あなた方職人の技術も同じなんじゃないですか?」
~NHKドラマ「ハゲタカ第六回目」より~

小説家としてやっていくために、この言葉を何度も考えている。
ことあるごとに思い返し、一人の作者としてどうあるべきかを考えている。

「いい物を作れば、自然と売れる」

職人気質の人間はよくこう考える。
しかしこれからは違う。
職人の技もその売り方もすべて含めて「事業」になる。

事業をする、ということは買ってくれるお客の元へいかにして届けるか、その過程も含めて計画を練り、戦略的に展開することを言うと考えている。

NHKドラマ「ハゲタカ」を何度も見直している。
特に一回目や最終回を見ながら「お金」と「資本の論理」というやつを考えている。
お金は実に単純だ。
お金をより持っているものが強者になれる。
ゲームのような単純な理屈がそこにある。
何でもできるし、人に言うこともきかせられる。
お金を持っていないものよりも、絶対的にお金を持っているほうが強者になれるという理屈は惹かれるものがあるだろう。

お金もひとつの道具だ。
そう考える人はなかなか普通の暮らしの中ではできない。
物を売ってお金を得る。
でも、本当に「物」だけ売ればいいのだろうか。
売れるものだけ作ってお金というものに純粋に追随していけばいいのだろうか。
こびていくだけなんじゃないだろうか。

お金を獲得するには「仕事」をすればいいと誰もが言う。
仕事をするとはどういうことなのだろう。
単純に「食うため」「生活するため」と子供でもわかるような答えがある。
じゃあ「食って」「生活して」何を得るのだろう。
私は作る側だから、作って稼いで、金だけ得ればいいという考えにはならない。
それよりも、「生活する」ということが人間にとってどういうものなのかも私には定義できない。

「生活する」ということを小説で書けといわれたら、まだその主題は書ききることができませんというだろう。

売れないと本当に焦る。
お金も得られないし、将来のことも不安になる。
ネガティブな感情が支配して、もうだめなんじゃないか、これ以上続けないほうが、いや、もっとお金を得られるように、今売れているものをすぐにでも作って、それだけに徹していればいいんじゃないか。
小説家を目指している自分としては、売れる文章だけ書いて、媚びて、もう書きたいものなんか、目指したいものなんか夢見ないで、それよりも、本当に書くことをやめてしまおうか。

否定され、罵倒され、生活もろくにできない、人間として価値がないところまで言われてしまう。
こんな人生に、こんな道に何か価値はあるのか。
彼らが言うように、自分には今人間としての価値すらないのではないか。
そこまで追い込まれてしまう。
その憎しみや怒りが余計にドロドロとした感情をあおって、どうしようもなく敵意を向けてしまう。
そして精神力を使わなければならない作業に、余計な力を割いて、結局何もできなくなってしまう。
そういう悪循環だった。
おかげさまで弱い人間の精神構造を嫌というほど味わった。

これから「地べたを舐めさせられる」という気持ちや「地べたに這いつくばる」という気持ちは忘れないでいようと思う。
恨みを持ち続けるという意味ではなくてね。

その上で小説家としてきちんと人間を見つめ、人間を相手にし、人間を知っていくためにも、「自分自分」していてはどうしようもないのだ。
芸術家の素質として「情熱」がある。
この「パッション」は独善的なものでなければ、まず成り立たない。
だから芸術家の「芸術性」というのも、一歩間違えればひどく内向的になり、「芸は自然から学ぶことを忘れるな」という基本的なことがぽっかりと抜け落ちてしまうことが多々ある。

小説家としてやっていくためにも「小説を使った事業をする」ということを考えなければいけない。
ようやくこの心境になるまでに相当年月を費やした。
精神が安定するにも相当時間がかかったし、心構えもそう簡単にできるものではなかった。
精神は作られるものではなく、自分で作っていくもの。
自分でこの心に何をつめて、何を発していくかを決めていかなければいけない。
それが人生だし、命を使った一大事業だ。

その上で一番最初の言葉に戻る。
あらゆることは、どういう使われ方をされるかで、その価値が決まる。
人であっても物であっても同じだ。
ましてや個人ならばなおさら。

人の価値は目に宿る。
心をこめて、その炎を目に輝かせながら、小説という事業とその展開に改めて邁進していこうと思った今日の日。
明日は建国記念日か。





何か、ようやく自分がしてきたことが、これでよかったのだと思えそうな予感がしている。

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01/26

Wed

2011

「都市」という機能

最初に注意として以下の文章は「コミュニケーション空間の育成と人間力」に力点を置いて書いていきます。
「会社と資本」の話が出ますが「経済における会社と資本の役割」とをごっちゃにして考えると間違えますので絶対になさらないようにお願いします。
そして、札幌市政についての提言でもありますので、他の都市の場合はうまくその都市に見合ったものに応用してください。



去年NHKスペシャル番組「無縁社会」の札幌座談会に参加してきました。
「無縁」ということを受けて前々から「都市機能」「都市」とは何かと考えておりましたが、では「都市」になる前の日本人のコミュニティーとは何であったのかという疑問が浮かび、少し民俗学を調べてみたのですが、やはり「村」という単位が最も日本人の根深いコミュニケーション組織なのではないかと考えています。

「無縁社会」というのは、ご覧になられた方も多いと思いますが、都市において、またはそうでなくとも家族や親族がいるにも関わらず「直送(葬式などがなく火葬場まですぐに行って焼かれる)」が多く、遺骨も引き取り手がなく無縁仏になってしまう人の実態を調べたドキュメンタリーでした。
そこに至るまで地縁を失い会社の縁もなく親族の縁もなく肉親の縁も失うというすさまじいものでした。

このような事態を防ぐために我々はどのように行動していけばよいのか。
そのヒントを模索している番組ではありますが、どうやら「無縁」へと至るケースも様々あり、細かく調べた上でカテゴリー分けしないと、とてもではないけれど見えてくる問題ではないと思いました。
それだけ「見えない問題」、これはまさに「心のあり方」の問題にも関わってくることでしょうが、結局は「個人のあり方」にまでメスを入れなければならなくなってきています。

そこで問題になるのは「どうして人の縁が希薄になり、孤立化へと向かってしまうのか」という点です。
ここでは「村」と「都市」の差異を考えたいと思います。

まず大きく上げられる点として「都市機能そのものにコミュニティー組織を解体していく機能がある」と考えています。

1、都市には人的流動性の高さによりコミュニティー意識が育ちにくく、独自の風土が育ちにくい。

2、サービスの多様化・利便性の追及が常になされるため、特に自分で積極的に参加しなくても「誰かがやってくれる」という意識が育ちやすい。

3、技術・知恵の伝承は主に「人」から「会社」という組織に変化している。

4、情報網、情報内容の量の多さと断片化により、スムーズな情報サービスが行き届かなくなる。

5、都市における「お金」と「人」。

6、継承(交流)の断絶による個人の価値観の硬化。

蛇足、水資源の保護。




1、都市には人的流動性の高さによりコミュニティー意識が育ちにくく、独自の風土が育ちにくい。

「村」という組織は隣に誰が住んでいるかもわかるような場所です。
それだけに人付き合いが大変という側面もありますが、「隣人が何者であるか」という認識・安心感が育ちやすい。
これに対し「都市」は人的流動性が高く、土地に対する意識やコミュニティーに対する意識が希薄で、なかなか参加しづらい。
ある本の中に「子供が迷子になった時、土地のものは懸命に探したが、他所から来た人は来たもの同士あれこれと噂話をするだけで捜索には参加しなかった」という記述があります。
特に村ではなくとも、来たすぐの人、札幌でもよくあることですが「引っ越してきた人は除雪に参加しない」という苦情があったりします。
これは隣人をコミュニティーの一員と捉えずに「他人」として捉えているからにほかなりません。
また都会には新聞紙などのニュースが伝える事件、悪意のある他人の介在により、隣人を警戒しているし、また2の影響により深くかかわらなくても生活していけます。
元々社会的な力というのは「お金」というものに目が行きがちですが、「歴史性」にあると私は考えています。
そういう意味では土地の歴史の源は人にあり、人が人に伝えるからこそ、本来の底力が保たれるものと考えるのです。

失業率の問題もありましたが、求人する側もされる側も人や職を選んでいるという側面があります。
隣人を大事に思えない風土では職業観も育ちにくく、相談する人間も似たような年の人間になることが多いため、世代を超えた交流がなされず、各々の心情や意図すらも疎通できない状態が続くと考えています。
世代間の価値観の差というのは、古今東西、そして未来永劫尽きない問題ではありますが、この世代間の情報交換をいかにスムーズにするのか、という点は健全なコミュニティー作りには欠かせない要素となります。
そして2050年には直面する老人の割合が国民の4割を超えるという事態を考慮しても、今からこの問題に取り組まなければ将来の憂いを残すことになります。



2、サービスの多様化・利便性の追及が常になされるため、特に自分で積極的に参加しなくても「誰かがやってくれる」という意識が育ちやすい。

都会は便利であるばかりではなく、資本主義で動いているため、「稼げないサービス」は廃れる傾向にありますが、個人に対するサービスが特化していくことによって「集団」を個々へと分断化していくという作用もあると考えています。
これにより、地域への参加意識が薄れ、個人は独自の趣味に特化した生活をすることができ、極めて個人的な生活をしてもなんら差しさわりがない状態があります。
無論これ自体が悪いことではなく、こういった個人の嗜好は尊重されるべきであり、これこそ都会の都会たるゆえんではありますが、個々に分断化された後の再結合が追いついていない状況も指摘できると思います。
再結合の作用は民間の会社や、ボランティア、現在はソーシャルネットワーキングなどによるインターネットでの出会いなど多様化しておりますが、新しいシステムを考えるにあたり、そのサービスが個人に特化すればするほど集団を個々に分断していくマイナス面の補助を考えなければならないと考えます。
仕事をし、生活も多様化し、疲れ、そしてなぜ稼ぎもできないボランティアに参加しなければならないのかと考える人も少なくはないと思いますが、自分の生活が保障されるのは「お金」を持っている時のみに限ります。
「お金」が途絶えると最低限の生活も保障されない。
隣の家に言って「米がないから譲ってくれないか」などという相談は一切できないし、「お金」が途絶えたときの底辺サポートが見つからない。
もしコミュニティー機能が高まっていけば、「底辺の受け皿」も自然と話題に上がり、徐々に整備されていくと考えています。



3、技術・知恵の伝承は主に「人」から「会社」という組織に変化している。

「村」という社会では、老人から親、親から子供、子供から孫という記憶の継承がありました。
この記憶の継承は知識や知恵を伝道する上でも非常に重要な意味を持ち、さらに重要なのは世代を超えてのコミュニケーション形成にも一役買っていたことは容易に想像できます。
この世代を超えての継承が徐々にすくなくなり、伝統芸能や、職人技術の継承危機問題にも見られるように、「稼げない」知恵の伝道が「無価値なもの」として扱われ、断絶されようとしています。
つまり「資本による価値」こそ大事であって、そうではないものは容赦なく淘汰される傾向にあります。
現在「会社」という組織が資本の力を借りて、独自の知識を積み上げてはいますが、これも資本の影響を受けます。
時代が変われば資本の質も変わる。
常に安定した継承は期待できず世界の経済の影響を都市はもろに受けながら、その軸を変えていく。
この軸が変わるたびに人々が大きく振り回される社会よりも、やはり独自の根を持ちながら発信していく都市のほうがより理想であるとは思いますが、いかにその「根」を長く土に張っていくかというヒントが、もうあります。
幸いにも私の住んでいる札幌市では大通公園で様々な職の祭典がなされていますし、植物の祭典も時折やります。
私は北海道をひとつの独立した国家のように捉え、そして地域づくりをしていくべきなのではないかと考えている人間ですが、大通り公園でやっているような地方の特産品や郷土料理を紹介するような地元の力というのを都市の利便性を利用してもっと盛り上げていくべきだと考えるのです。
その上でそこに参加できる人はどんどん参加していく。
未来を作るヒントは「共に楽しむ」「共楽」という考え方が大事だと考えていますが、「楽を分かち合う」ことを通しながら都市に住まう人々の参加協力をどんどん促進し、その時間を人々が共有していくことにより、世代間の交流も自然と深まります。
つまりは「成功体験を与え、それを共有する空間演出」が資本の流れによっても変化しない軸作りへの大事な橋かけのひとつになると考えます。



4、情報網、情報内容の量の多さと断片化により、スムーズな情報サービスが行き届かなくなる。

これから都市化やグローバル化がさらに進み、都市への世界の影響が強まると同時に、情報量も莫大になります。
様々なサービスが乱立し、必要な支援を行うNPO法人や行政サービスなどの増大により、個々が独自に情報を発信し、そしてそれらがあまりの情報の多さによって埋もれ、必要な情報サービスを探すことが困難になります。
今もすでに起こっている情報量の多さによる情報享受の弱さは、これからますます加速し、受け手を混乱させていくことが予想されます。
この混乱を防ぐためにも地域の情報を発信する中継ポイントや、情報サイトの共有が必要となります。
情報の仕分けはカテゴリー、地域ごとに分類され、それらが情報ごとにトピックスとしてあるのではなく、関連情報が一気に閲覧できるマインドマップのような、情報と情報をツリー形式でまとめる「(言語をよりビジュアルとして認識する)視覚化」された情報整備が必要になります。
情報の視覚化については、まだやっているところがなく、大学の研究結果などを元に実験的に配備していく必要性があるでしょうが、連動型情報、つまりは「行政 支援 生活」と検索を打つ前に、次の単語を連動して先に提示する検索結果、そして個別の事例による逆引きなど、検索システムもより高性能にする必要があります。
また、ネット知識のない人をカバーするために、極めてローカルな、たとえば小学校がくくっている範囲程度の狭い地域で発行している地域新聞を活性化し、組織化することも大事です。
これらのミニコミ誌などをフリーペーパー化することによって行政情報と地域情報、非営利法人情報、個人活動などを支援し、より地域に根ざした情報発信が地域の人たちに伝わるように整備すれば、公民館などの施設も充分その役割を強化できることに繋がっていくと思います。



5、都市における「お金」と「人」。

都市の潤滑油は当然お金ではありますが、観光都市としての魅力は「経済都市」という点にはないことは言うまでもないことです。
その地域にしか見られない、感じられない「地域性」を体感しにくるのが観光客です。
極端ではありますが、どれだけ潤ってようとビジネスマンしかいない都市、市民に必要なものしか売ってない都市ならば、誰も訪れようとはしませんし、お金が稼げるからといって、そればかりでは一度来ただけで、もういいやと思うものです。
私事で恐縮ですが、道外から来た友人がJRタワー展望台エレベーター前に販売している小さなコーナーで雪の結晶の紙石鹸を購入したのですが、正直札幌市がこのような活動を支援しているのは知りませんでした。
女の子は高くても、かわいくて斬新なものに惹かれるようです。
http://www.city.sapporo.jp/keizai/sapporo-style/hatsuyuki.html
どこかで読んだ話では、知的障碍者の方が紙で作った電気スタンドを作っているようなのですが、その商品は少々お高め。
知的障碍者の方が作ったとはどこにも明記しておらず、普通に展示していても買っていく人たちがいる。
こういう活動はどんどん途切れさせずに支援していくべきです。
また、札幌には現在二大祭りがあります。
よさこいと雪祭り。
その他にも小さな催しがありますが、札幌市には市民が積極的にこれらの活動をしようという意気込みが潜在的にあるような気がいたします。
地域に眠っている力は何なのか、それらを掘り起こすためには「きっかけ」となるものをどんどん整備していくことが肝心です。
また地域の力を活性化し、より参加しやすい状態、交流しやすい状態を作り出し、その交流の中で世代を超えた交流により人間力を養うには、情報を受け取りやすい状態を常に維持し、市民が自ら情報発信する土台を整備する必要があります。
「必要は発明の母」と言いますが、まさにこの「必要は何か」を集めることが、結果的には経済活動を促す引き金にもなります。



6、継承(交流)の断絶による個人の価値観の硬化。

都市の利便性がどんどん加速し、ネット上でもあらゆるサービスが多様化していきます。
情報も個人が欲しいものしか受け取りませんし、お金さえあれば人とあまり関わらなくてもよい暮らしが保障されますが、人間は孤独には勝てないものです。
家から出ずに体験しない状態が続けば、想像力が失われ、頭の中だけで物事を判断する人が出てきます。
これは極端な例でもなんでもないのですが、食物の「腐敗現象」を理解できない人がいます。
電球の替え方がわからない人がいます。
冷凍ピザをどのようにして食べればよいのかわからない人がいます。
自分と価値観の違う人間がいたり、自分の住んでいる環境とは違う環境があることを理解できない人がいます。
都市にあまりにも長く住んで他のものと交流しないあまり、自然現象がわからない人がいます。
そういうのは食品や電化製品の「説明書」でも顕著に出ています。
わざとではなく、いい大人が本当にわからなくて電話をしてくるのです。
世代間の交流や知識の伝承・交流が失われると、想像力の欠乏により、さらに悪化した状態が待っています。
そして、人間は思考が硬化すると、なかなか軟化させるのに手間がかかりますし時間もかかります。
一生直す必要に迫られない人がいます。
これらは個人のレベルではありますが、いわゆる閉鎖された村のような価値観が個人そのものに起こり、その閉鎖された個人は異種のものを攻撃するか、ひたすら閉鎖性を保つかのどちらかになります。
都市は常に利便性を追求していきます。
そして個人の価値観も多様化し、よりカスタマイズ性の高いものになっていきます。
ゆえに個人の生活さえ保障されていれば他人の生活なんてどうでもよいという考えが芽生えがちです。
これは結果として「都市での孤立化」を引き起こし、これだけたくさんの人がいるにもかかわらず「孤独感が拭い去れない」という気持ちを引き起こしていると考えています。
都市でのコミュニケーションの課題は、都市そのものが持っている機能と、人間そのものが自然的に持つ欲求との矛盾をどのように解決していくかにかかっています。
人間は自分の生活や趣味を邪魔されたくないとは思っていますが、それらを共有できたらどんなにいいことかと思っています。
人間は自分の嫌なことはしたくはありませんが、一人にはなりたくないと思っています。
相反する二つの感情を持ち合わせ、それらのバランスをとりながら生きていると思います。
バイラルマーケティングという言葉があります。
「バイラル」とは「感染的な」という意味ですが、人々が参加したくなる機能を整備する。
何かをしようとする時にあれやこれやと面倒くさいことが山積みではやる気も起きません。
どれだけシンプルに物事を整備して提示できるか。
これが「硬化」を防ぐ目標となります。



蛇足ですが、これから世界は深刻な水不足に喘ぐと現在でも予測されています。
ですからあらゆる資本家たちは将来莫大な利益を生むであろう水資源に着目して土地を買いあさっていることはご承知のとおりでしょうが、北海道は水資源の宝庫。
特に札幌市の水は水道水でもそのまま売れるほどおいしいことで有名です。
自然環境の保護と自然資源の確保は生き残るための絶対的な条件となります。
札幌市はこれからおいしい水を確保し、水不足や汚染された水資源の多い地域に水を販売するビジネスを展開して予算を独自に確保するような活動も必要になるかと思います。


それではとりとめなく、重複したことも多かったことながら、最後までお読みいただきありがとうございました。

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
45
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みますが光野(こうや)とか朝風(=はやぶさ)でもよろしゅうございます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。自分でも困るほどの「皮肉屋」で「天邪鬼」。つまり「曲者」です。

2011年より声劇ギルド「ZeroKelvin」主催しております。
声でのドラマを通して様々な表現方法を模索しています。
生放送などもニコニコ動画でしておりますので、ご興味のある方はぜひこちらへ。
http://com.nicovideo.jp/community/co2011708

自己プロファイリング:
かに座の性質を大きく受け継いでいるせいか基本は「防御型」人間。自己犠牲型。他人の役に立つことに最も生きがいを覚える。進む時は必ず後退時条件、及び補給線を確保する。ゆえに博打を打つことはまずない。占星術では2つの星の影響を強く受けている。芸術、特に文筆系分野に関する影響が強い。冗談か本気かわからない発言多し。気弱ゆえに大言壮語多し。不安の裏返し。広言して自らを追い詰めてやるタイプ。

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