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あさかぜさんは見た

日記

06/08

Wed

2011

気に入らないものに対してモノを言う。
まるで自分の考えていることが最優先されるべきだと錯覚しているかのように。
いや、そうじゃないんだろう。
もっと感情としては軽く、かつ重いのかもしれない。
つまり「相手のことを私は考えているのに軽んじられるはずがない」という「自分は尊重しても同じように相手を尊重しない」という軽さ。
小さなものは「こう思っているから素直に言う」というモノから、まるで「そうしなければならない」という「常識」という言葉を武器にした義務感まで。

「最近の若い者は~」
という言葉がある。
この「若者の姿を嘆く中年・老人」の姿は紀元前からあったそうだ。
これはある意味古今東西人間が繰り返してきた習性と言っていいのかもしれない。

ストレスは本当に様々なものを破壊する。
外に出さなければ自分を破壊していくし、誰かにぶつければ他人を破壊していく。
それだけ厄介なものだ。
私も耐え切れず内的破壊や外的破壊を繰り返してきた。
精神的に脆弱な人間であると痛感している。

人間は当然の事ながら自分が親しんできた、自分が心地よいと思ったものを基準にして、そして場合によっては、自己基準への同意の多数をもって他者を時として断罪する。
その時自分が無視されればより義務感を高め、自己の正当性が崩れないように相手が手をついて謝るまでやり込めるなど、悪質とも言っていい行為を繰り返す。
なぜだろう。

少なくとも私自身に限っては、異種のものが受け入れられない時、自分の考え方にひどく画一的なものがあったり、平常心のようで苛立っていたりする。

この世界には自分が認められないようなものがたくさん存在する。
私はそれをわざわざ穴をほじくってまで見に行って正そうとするのは精神的なコストが高すぎてやらない。
それをやる精神的な労力を考えると得るものが少ないからだ。
気に入らないものがあって当たり前なのだ。
それが酷く人を傷つけるものであれば声を上げざるをえないだろう。
しかし「不愉快なもの」はたくさんある。
当然と言っていいほど。
この日本の中であったとしてもだ。
しかしわざわざ正そうとする人は、その行為が労力を払ってでもメリットが出ると思っているからこそやるのだろうと考える。

彼らにとっての「メリット」とは何だろう。
「気晴らし」だろうか。
少なくとも対話もせずに双方にメリットが出るはずがない。
メリットが出るのは必ず「やり込めようとする側」だ。

前にスーパーのクレームの電話でおかしなものがあった。
「あんたたちが悪いんだから、そのことを俺は言いふらしていいんだよな。だって悪いのはあんたらだから」
逆らうわけにはいかないので、口ごもってしまったが、明らかにおかしな考えかただ。
悪いのはこちらだが、「言う」という「行為の責任」はこちら側にはない。
あくまでその人の「品性」の問題だ。

小さな子供たちでも、おそらく親の影響なのだろう。
「友達って~すべきであって、~しないのは友達じゃない」と考える子がいて驚いた。
つまり、この考え方は「契約」だ。
「当事者は相手側と関係するに当たり、次のように定められたことを守らなければいけないことを了承することとする」
という考え方だ。

人間関係は契約関係で維持されるものではない。
人間が表現するものも人間が存在することも契約によって維持されるものではない。
しかし現代人はどうもそう考えてはいないらしい。
いつの間にか「契約関係」に近い考え方をするようになっている。
だからこそ「契約を破ったあんたが悪いんだ。私じゃないでしょ」という勢いで怒りをたたえて来るのだ。
だからこそ「不愉快指数」も高く、烈火のごとくストレスを燃やし、相手を傷つけていく。

私は大きな問題だと思っているのは、その人間が破壊したものが当初の思っていたものとは大きくかけ離れ、まったく罪のないところまで破壊してしまっているのではないかという点だ。
人間自分が怒っている時は、だいたい自分が正しいと思っているので、うっかり他のものまで壊しても気がつかない。
精神的なものならなおさらだ。

過度なストレスは様々なものを破壊する。
本当に大事なものを破壊してしまうことがある。
そして一度精神が破壊されれば再生まで長い時間と労力を必要とする。
私はそれで10年以上も時間を費やした。

まず気に入らないものが出てきた時、相手(もしくは相手側の領域に携わる人たち)が納得するような客観的な証拠を提示できるかよく考えてほしい。
便利だからこそ、利便性の高い現代社会だからこそ、あらゆるところへ容易に悪意をぶつけられる。
人は負い目を多く背負って生きられるほど強くはない。
理不尽とそうでないものの境目は主観と客観にあるが、それを冷静に考えて発言する人間が情報化がなされるごとに抑圧されていくのは、とても嘆かわしいことであると考えている。
そしてもうひとつ言えることは、あらゆる権力は他者を抑圧するためにあるのではなく、常に生かし育てるための装置であることを考えない人がいるということにも、社会の未成熟さを感じざるを得ないわけだ。

人間のエゴが際限なく肥大すれば、ストレスもまた際限なく肥大するという現実を、自ら戒める人間は少ない。

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06/05

Sun

2011

「ターミネーター2」を見たのはいつだろうと調べてみたら1991年だった。
その時ジョン・コナー役で出ていたエドワード・ファーロングを最後に見たのは「アメリカンヒストリーX」だった。
これが1998年。
この時はいい存在感だったんだけどなあ。
それでwiki見たらびっくりした。
どうしたの?あの時の美少年がやばいくらい、いかにもって風貌に。
スラムとかによくいそうな雰囲気を醸し出している。
よく読んだら、なんとヤク中とな。
何があったの?
ハリウッドでは成功したものの、その「成功」のせいで破滅に至る俳優さんは結構多い。
ぱっと浮かんだのは「ホーム・アローン1,2」で出ていた主役の子供のマコーレ・カルキンも稼いだ莫大な金が原因で両親が争い酒と薬に走っている。

しかしヤク中から悟りを開いたようにきっぱりと薬を絶ったロバート・ダウニー・Jr(「アイアンマン」「シャーロック・ホームズ」)はなぜ止められたのだろう。
「2003年に「きっぱりと止める時がきた」と直感。所持していた麻薬を全て海に投げ捨て、それ以後ドラッグには手を出していないとのことである。」(wikiより)
何が起こったのだ。

実は華やかそうに見える世界は、それほど幸福ではないのかもしれないなと思ったりもする。
というより、やはり常人よりも多感なものがあるからこそ人の心に迫れる演技ができるわけであって、多感だからこそ孤独や人の邪気を過敏に吸い込み、心をどうしようもできなくなるのではないのかなと思ったりする。
いやー、自分もアメリカに住んでたらマリファナぐらいはバンバンやってたかもしれないね。
日本でよかった。

私はストレスが溜まると暴飲暴食にはしって吐くまでやってしまい、次の日も胃酸が出るくらい吐いて体が動かなくなるくらいグラグラしている状態になってようやく平静を得るのだから、こういう薬に溺れる可能性はあったわけだ。
もう精神的に安定しているからやってないし、やりたくもないけれど。

幸せって何なんでしょうね。
多くの人はお金を持って、それを自由に使えて自由に行動できてってことを思い浮かべるけれど、本当の幸せは人とのあたたかみ、そのあたたかみをやりとりできる親友の存在なのかもしれないなと思ったりする。
つまりよい意味での理解者が一人でもいれば人間生きていけるような気がするのですよ。
特殊な事情を持っている人、心中複雑な人、華やかな舞台にいる人は通常の人からは、まず理解されづらいよね。
なぜなら皆色めがねで見るから。

人と人との間で「心の語り合い」ができることは本当に時間がかかるし稀ではあるけれど、不可能なわけじゃない。
日本は合成麻薬の問題があり、今は子供たちが危険にさらされている。
人々が心の豊かさを失い、人を責めるようになると子供たちは荒んでくる。
心も人も逃げ道がなくなると破滅的な方法を取り出す。
そうはならないように人と接したいものですな。

ちなみに「ターミネーター2」は今見ても面白いですよ。
「アメリカンヒストリーX」はエドワード・ノートンが豹変する人種差別を扱ったテーマ性の高い作品。
ちょっとこっちは強烈。



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06/03

Fri

2011

・システムを人間が運用できず振り回されているのなら、システムもそこに携わる人もいらない。作り替えて再度やり直せばいい。それができるのは徹底的に破壊してから。結局同じ人間がシステムに携わると発送の枠組みが同じだから元の木阿弥になる。

・人間「金」のことになると途端に臆病になったり尊大になったりする。
「金」を使っているのではなく「金」に振り回されている。浅ましい。

・人間実は一番信用できないのが「言葉」です。
一番信用できるのが行動から心理を炙り出すこと。

・論理にはまって役に立たない言葉を組み上げ「正義」を錯覚する人間がいる。
かわいそうだが救いようがない。放っておくのが一番労力を消費しなくてよい。

・実は文化は突然降って湧いて出てくるものではなく、流れがある。
その流れを無視して堂々とオリジナルを語れない。
残念なのは売れないからといって過去の名作が失われて断絶してしまうこと。

・文化を守るためには割に合わないような対価が必要になる。
採算度外視になるので次々とコストの面から捨てられる。
今は電子書籍という手段でデジタル上に保存するしか手はないが、いずれはオンデマンドでも自由に手に入るのが望ましい。

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05/29

Sun

2011

どうやら、考えているようで考えていない人間の顕著な例は「問題を鵜呑みにする人間は思考停止」と思い込んでいて、それを回避しようとしながらも、自分の慣れ親しんでいる最も身近な例に置き換えて物事を限りなく悪い方向へと持っていくということだとわかった。
実は一個人を潰しにかかるのは結構簡単なことだと気がついた。
その個人が潰れるかどうかは別として潰そうと行動することは簡単だ、ということだ。
その逆として、生かすのは難しい。
例えば力をあまり持っていない子供を大人が殺すのは簡単だ。
しかし育て上げようとしたら大変な時間と労力がかかる。
人間は成長するために莫大な労力と時間を費やすのだ。
そして、当然現代社会で生きていく限りは金が必要になる。

「考えられない」というのは、いかなることだろう。
私は「解は数学のように導き出される」とでも言わんとばかりの「~しなければ~にならない」という考え方であると思う。
それをどこかで「これはひとつの考え方で」というのではなくて、その途中の計算式が間違っているから「正解=解」が導かれないのだ、と堂々と言ってのける人間は視野が狭いとも言い換えられるだろうが、完全に思考が停止している。
もしくは望んでいる解がないので、それは間違いだとか。

解が導き出しづらくなることは広い範囲をくくればくくるほど言えることだ。
たとえば狭い範囲ならば、ある程度のことは言える。
解が既に決まっていて、その解までの道筋のパターンを辿らなければ、解までたどり着けない場合においては「~にならなかったのは~しなかったせいだ」と言える。
こういうことは「技術論」のようなものにおいては充分通じることなのだ。
しかし世の中のことや人そのものについては「解」はない。
だから「神が死に絶えない」のだ。
つまり、人によってあらゆる「正解」が乱立し、その「正解」への信奉がいかに強いかで「正解」が決まる。

この日本という国は「機械化」を進めてきた。
労働者は会社のために尽くし、社会はシステム化・合理化され、システムから外れることは社会的な死というリスクを賭けないとダメなほどシビアで、一度脱落すると這い上がることは難しい。
それだけに思考はよりシステムに準じ、複雑化しているようで簡略化され、新しいシステムに対しては思考がアップデートされないまま処理落ち、最悪の場合フリーズしてしまうという具合だ。
その裏でせっせと人を殺していっている。
「誰かの金」のために。

この10年間の間に統計だけでも働き盛りの人間が単純計算して15万人以上自殺している。
よく「経済の低迷」のせいだという。
「雇用がないからだ」と。
学問的な裏づけや研究から様々なことを言い立てる学者の論説に「経済が悪いせいだ」と思い込む。
本当にそうだろうか。

ある人が「小泉から自己責任論が~」と言っていた。
その時やはり「本当にそうだろうか」と直感的に思った。
少なくとも私が育ってきた中で「小泉首相」が誕生するはるか前から「自己責任論」のような考え方はあったし、ひしひしと感じて育ってきた。
周囲から責められもしたし、人格否定もされた。
「一人前」という考え方に言葉を置き換えただけではないだろうか。

根拠や論拠を並べ立てて、さもそうであるかのように言う。
偉い先生たちが、社会的に地位の高い人たちが、こういう理由ですと示してくれる。
そこで「本当にそうなんですか?」と疑問を差し挟むと無知で愚かのように見られる。
学もない地位もない人間が何を馬鹿なことを、と見下される。
そして相手にもされない。

日本はもうだいぶ昔から、学のある地位のある誰かが「こうですよ」と言う前から物事はある程度決まっていた。
人を大事にせず、発想を大事にせず、理念を大事にせず、数字で見える「富」というものを大事にした。
そしてその「富」を独占しようと欲が膨らみ、分配する方法すらも考えず「金を使えば社会は裕福になる」という単純明快な理屈で欲望を増大させてきた。
人も資源も理念も消費し、そしてあらゆるものを消費し続ける体質の裏で何が育っていたかを今回の地震で垣間見た。
自分さえよければ一番いいからこそ「自己責任」なのではないだろうかと勘ぐってしまう。

昔レストランで働いていた頃のことを思い出した。
食後の紅茶の種類がたくさんあり、紅茶によって淹れ方がまったく違う。
私はその時入りたてで茶葉もよくわからず間違ってしまうとホールチーフが来て説教を始めた。
その説教は10分以上にも及び、食事を終えた家族連れのお客が紅茶が来ないのでそわそわしだしていた。
それなのに失敗の原因を責め、紅茶の淹れ方がいかになってないかを言い続け、そしてそれが終わってからようやく紅茶を持っていった。
待たされたお客がどのような反応をしていたかは見えなかったけれど、説教途中でだいぶそわそわして厨房の方をちらちら見ていたので、あまり気分はよくなかったと思う。
そのレストランはフランチャイズのようなファミリーレストランとは違って、きちんとしたコースで出すレストランだった。
それだけにホールチーフの行動には驚いてしまった。
そこは上下関係が絶対で逆らえない雰囲気が強く、結局違和感を持っても言えず仕舞いだった。
今までの日本は、こんな状況に似ていたのではないだろうか。
表では立派に装っていても、裏ではちぐはぐなことをやっている。

もっともらしさの裏で、失っているものは大きかった。
たとえば「この世界の理屈は間違っている。日本はグローバルスタンダードよりも大事なものを持つべきなのだ」と反逆する人間がいたとしても面白いだろうに。
人のやることには「過ち」はあっても、「絶対正しいこと」などない。
だからこそ自然と同じように種をまかなければ枯れ果てて豊かな森は失われてしまう。
あらゆるものを育む自然がなくなってしまう。
自分が育つことばかりを考えては、自然の中のように、結局は自分が育っていく環境を阻害することになる。
会社のために家族まで犠牲にしなければならない労働は幸福だろうか。
稼いだ後、芽吹こうとしているものを育てない富は豊かだろうか。
物事の成否が学や地位によって揺さぶられることは理念を生むだろうか。

思考停止の罠は、いつでもすぐそこにある。

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05/28

Sat

2011

電子書籍で写真をつけて視を表現するには、表現方法としてはまだ改良が必要だねと指摘された。
写真撮るのも時間がかかって大変。
腕が足りないというのもあるだろうし、写真の撮り方が一辺倒というのもあるだろうし、いずれにせよ二つの方法がある。
写真の腕前を上げてとことん自然派にするか、もしくはデザインを入れて加工技術の腕前を高めるか。
どちらにせよ、まだまだ時間はかかるな。
途方もない時間をかけなければ身についていかない。

また長い道のりなのか、と気力が激しく上下している。
詩の腕をあげなければならないのはもちろんのことだけれど。
参ったな。

詩は精神力を使う割には軽く見られがちで、個人がぐだぐだと書きなぐっているレベルと同一に見られることが多い。
それだけにこれから詩作における表現方法も大きく変えていかなければいけないと考えている。
道は長い、長すぎるぞ。

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
46
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。

気が付いたら他人からとても褒められる娘ができまして、人生が大きく変わりました。
この小さな可能性と向き合うため頑張って生きております。

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