忍者ブログ

あさかぜさんは見た

日記

07/20

Wed

2011

虚飾の時代の終焉

「~離れ」という言葉が随分放たれている。
それを言えるのはいわゆる「バブル」の時代に盛んだったものが廃れているということを遠まわしに表現しているだけで、離れているわけでもなんでもなく、時代が変わっていることを認識していないだけの話だ。
右肩上がりのときは「消費」をすることで豊かになった。
しかし今は逆だ。
「消費」の中で、本当に「消費」しているものがあり、その「消費」こそ「犠牲」そのものであったのだと少しずつ人々が認識しだしているように思う。
経済が悪いせいではない。
経済を維持させるために「消費」していたものは何なのか、ほんの少しずつだが考え出すようになってきている。
これからは嘘を操るものではなく、本物を操るものだけが生き残る。
夢というものがまるできらびやかなように見せられてきた時代。
そのきらびやかさの中で自由を感じてきた時代。
しかし古今東西の歴史が示しているように、飽食の時代は長くは続かず、必ずその後滅びの道をたどっている。
人は欲望を拡大するだけでは生き残ることができず、必ず熟しすぎた果実のように腐敗をし始める。
自ら招いた惨事に気がつかず、飽食の時代の夢を忘れられずに自滅していく。
今まではまるで夢が素晴らしいものだといわんとばかりだった。
夢を見せて夢という餌に食いつく輩をカモにする。
それがここ15年ほどの夢の世界の動きだったように感じる。
私はその時代の終焉の象徴がAKBのような気がしている。
私は10年ぐらい創ろうと意識して生きてきている。
そんな生活の中気がついたことがある。
気持ちだけではやっていけない。
実力がなければボロが出る。
いかにテレビで持ち上げようと宣伝しようと実力のないものは堕ちていく。
本当に堕落していく。
その堕落は金のために生活のために夢のために大事な何かを失いながら、大事な何かを切り売りしながら、自らを消費させていくという行為だ。
その「消費」は、次の何を生んだのか。
その時代を駆け抜ければ次の時代はよくなるのか。
いや、そうではない。
夢を追いかけるというのは、本当に泥臭いものだと思っている。
泥臭くて、無様だ。
格好のいいものなんてどこにもありはしないはずなのに、編集されて飾り立てられたものが、夢は素晴らしい、夢は感動を生むと連呼されたものが、無気力な人間の目の前の画面でチラチラとするだけだった。
夢の本質を知らないばかりに、夢を商売にする輩に食いつぶされ、結局は「夢を追うのは二十歳までにしておけ」だなんて、希望すらもない冷めきった大人を量産し、誰かの希望すら打ち砕く人間を育ててしまったことは、罪深きことであると思う。
人間一人の力は小さい。
そしてその小ささを心底わかっているのなら、自分が得た力をおすそ分けするような気持ちがあってもいいはずなのに、肥大した欲望のために集まった力を消費していく。
その消費は、その犠牲は、有意義なものであればいいが、そうではない。
犠牲のない選択はないからこそ、次に続く何かを作っていかなければ滅びてしまう。
滅びを防ぐものは愛情であり、愛情があればこそ、次に続くものを育てられる。
自分の好みのものだけを育てるのは「愛玩」であって、「愛情」ではない。
その証拠に、気に入らなければすぐに捨て去る。
「消費」という欲望概念の中にいるからだ。
2011年3月11日。
日本はあの日から変わった。
もう、夢を魅せる時代は終わった。
虚飾が通じる世界は終わろうとしている。
これからは実力のみで積み上げる次代が来る。
そしてその影で亡霊のように情報を操り嘘で制御しようとする輩が常に復活を試みようと息を潜めている。
これからの人は知識も知恵もつけなければいけない。
大変なことだが、頑張ってほしいと思う。
そうしなければ、いつだって悪がはびこる。

拍手[0回]

PR

07/17

Sun

2011

出版や本に携わる上で、私が理解していないことがある。
それは「本に興味のない人がいかにして興味を持つようになるのか」ということだ。

私は正直に言うと小説が読めなかった。
面白くないし、覚えられない。
数行読んだら前に読んだ数行を覚えられないので、国語の点数も当然悪かった。
話が覚えられないのだ。
それは「言葉」というものを懸命に覚えようとしていて、現在も言葉を覚えることがとても苦手で、どうやって本を読んでいるかというと「イメージ化」して読んでいる。
当然書くときも言葉が先に浮かんでくるのではなくてイメージを浮かべて、それを言葉に直す作業をしている。

だから映像にはとても興味があって見ていたけれど、小説や本などまったく読めない、興味も持てない、苦痛でしかない代物だった。
言葉が覚えられないのだからしょうがない。

そういう人間が小説を書いている。
それは「頭に浮かんだ映像」をどうにかして表現する方法で一番簡単だったのが「言葉にすること」だった。
だから常に言葉から話を書いているのではなくて、映像を起こしているため、言葉の技術不足を補っていくことができる。
最近、ようやく言葉もイメージ化することができるようになってきたので、小説も少しずつ読めるようになっている。

他の人はどのようにして本を読んでいるのだろうか。
言葉を楽しむ人よりも、これからは「イメージ化」をして楽しむ人のほうが多くなるように感じる。
それが携帯小説のような存在であり、お話として面白い、映像として面白い話が売れるということになるのではないだろうか。
端末で自由に映像を見ることができ、言葉はリアルタイム性のあるものがより楽しい。
誰かとやり取りするダイレクト性や常に変化していく状況。
それに比べ小説は非常に静的なものであり、とても孤独な作業だ。

たとえば掲示板などで仲間がわいわいやっている中、どうして自分は一人で本なんて読んでいなくてはいけないのだろうと思ってしまうかもしれない。
私の十代の頃だって本を読む人は根暗というイメージが強かった。
内気な性格であまり人とは活発に話さない、というような感じ。
現在の携帯小説は、読み物とコミュニケーションツールとしての両方を兼ね備え、さらにそこからコミュニティーを作っていけるという二次的作用がある。

若い人たちにとってのテキストはよりダイナミックな作用を求められていることが言える。
つまりこれって「自分たちの気持ちや実現したいことを代弁してくれるような作用」であるとも言える。
ちょっと前にやたらと「感動」が押し売りされていたのも最初から目的が決まっているのだよね。
むしろ決められたパターン、必然性、ダイレクト性を重視し、偶然性はあまり重要視されなくなってきている。
本もまた家電製品などのようにハズレがないように下調べをして買っていかれる。

これからの現代人にとっての本の作用とはいかなるものになるのだろう。
音楽と同じように本に興味を持たない人はまったく持たない。
このことは教育や業界のせいにするのは簡単だけれど、むしろ都市化の中で崩壊したコミュニティーの再生の中に「本を通して違った感性や知識を共有すること」が度外視され、いまだに「パッケージされたものを陳列する」ということから考えが離れないせいなのではないかと思っている。
音楽は自然と耳に入ってくるが、本には積極的な仕掛けを地域の中に作っていかなければコミュニティーはできない。
志茂田景樹が絵本読み聞かせ隊を作って文字通り朗読をしている。
札幌の本屋で絶版に近い状態でも店長が独自に仕入れて「店長のお勧めコーナー」を設置して本の面白みを伝えようとしている個人書店があるそうだ。

本というのは慣れ親しんでいないと、なかなか読めるものではない。
文章と会話文とはまったく違うし、専門的な言葉、熟語、難しい漢字などが入れば、また読みづらくなってくる。
最初から難易度の高いものを読んでも、本を投げ捨ててしまうだけで、後は読むのが苦痛になる。
だいたい本に慣れ親しんでない人が、きちんと難易度の高い小説が読めるまで道筋を立てることなんて不可能に近い。
知っている人が導いていかないといけない。
しかし、そんな本の導きを誰がしてくれるだろうか。
国語の先生はしてくれるだろうか。
身近な人が興味を見抜いて絵本から教養書まで幅広く道筋を立てて紹介してくれるだろうか。
もし、私の小さな頃、こんな風に道筋を立ててくれる人がいたなら、アニメと同じように本にも興味を持ったかもしれない。
そして本を消費するのではなく、横山光輝の三国志のように何度も読み返したかもしれない。
アナログに求められるのは、つっけんどんに分析をひけらかすことではなく、いかに親切心を伝えていくかではないだろうかと思ったのだった。

拍手[0回]

07/07

Thu

2011

児童ポルノの一斉摘発

前にHP運営していた時に掲示板を設置していて、そこに業者がここぞとばかりエッチな画像を貼り付けて出会い系サイトのURLを貼り付けていった。
もうそのHPも使っていなかったので放置してずっと見ていたけれど、結構しつこい。

児童ポルノを所持している人を検挙したみたいだけど、不思議なのはどうして所持している人を逮捕して、製造者を叩かないのだろう。
持っている人よりも作っている人のほうが確実に犯罪だと思うのだが。

例えば所持って掲示板に貼り付けられるとか、メールで送りつけられる。
そして画像保存、及びプログラムによる自動保存など、こういうのも「所持」になるのかな。
今回は公衆送信が対象みたいだけど、将来はどうなるかわからない。

ちょっと前の映画で「マイノリティ・リポート」という映画があった。
トム・クルーズが「犯罪予防局」のエリート職員。
この「犯罪予防局」はプリコグと呼ばれる「予知能力者」によって予知された未来の犯罪を未然に防ぐという目的がある。
それでプリコグは「ほとんど」予知を外さない。

ここで一番問題になるのは「実際にはまだ行われていないが、未来には確実に起こるであろう犯罪を取り締まる」というのが問題になった。
つまり「1%でも外れてたら冤罪じゃないのか」ということだ。
もっと言えば「実行されてない犯罪は刑罰の対象に成りえるか」ということ。
当然「実行」というのは「物理行使」のことを言う。

映画の世界では犯罪はほぼ撲滅され平和な世界が築かれていた。
しかしそこに捜査員のコリン・ファレルが調べに来る。
「システムは完璧だとしても、いつも間違うのは人だ」と。
常にシステムは運用者によって歪められていく。
これは絶対的な優位性を持つ限り避けられないことだ。
なぜなら、人間は欲望の生き物であって、自分のよかれと思うものが実現される状況にあれば際限なく行っていこうとするものだから。

ところで、いつから社会は人の精神にまで踏み込んで規制するようになったのだろう。
欲望の制御は非常に難しく、江戸時代にも春画の規制があったそうな。
でも庶民の間では相変わらず流行った。
規制をしても、結局は地下に潜るだけで、見た目上の対処ができるだけで事実上は何一つ変わらない。

私は常々思うことがある。
例えばナイフを持ったとしても殺意を持ったものが全員殺人を行うわけではない。
例えば児童ポルノを見た人が全員興味を持つわけではない。
むしろこれらのことは逆に嫌悪感を持つ人のほうが多い。
殺人を行う人は人の大事さを見失った人だし、児童ポルノを持つ人は精神的に幼さやもしくは青少年時代に戻りたい願望を強く持っているのかもしれない。
いくら規制しようと、これらの人はゼロになることはない。
殺人への快感を持った人を矯正するのは難しいし、やはり児童ポルノへの性的興奮を持った人を矯正するのは難しいと私は思う。
だからこそ、この手の規制を強化するよりも大事なのは、この手の人間を作らないための人間への寛容さなのではないかと思う。

小説を書いていてよく思う。
人間の自然な心理として、自分の行動や思いの邪魔をする壁は、できることなら排除したい。
やられる方は、その壁が狭まれば狭まるほどストレスは溜まり、最後にはなんらかの過剰な行動に出る。
何度となく繰り返され、歴史的データが溜まり検証作業へと入っていく。
データだけ見ていると、見失うものがたくさんある。
犯罪数は減っていても、犯罪を起こすような鬱憤を持った人は倍以上に増えているとかね。

頭の中だけで考えると、社会は真っ白になることができるのだ、これこそ理想の社会。
などと思い浮かべることが可能だが現実の人間は限りなくグレーだ。
真っ黒にもなれないし真っ白にもなれない。
真っ白になれる人は稀だし、当然真っ黒も稀だ。
世の中がマザー・テレサであふれ返ったことはないし、切り裂きジャックであふれ返ったこともない。
欲望にぐらんぐらんと揺さぶられ、どうしようもなく自分を制御できずに盲目的になることも珍しくない。
健全な社会とは、自他のグレーさを肝要に受け止め、「予防」という観点を、憎しみや怒りや欲望によってではなく、「教育」そのものに置くべきではないのかと思う。

私はこれから先、児童ポルノを好む人は増えると思うところがある。
というのは、詳しく見ているわけではないが、どうにも「大人の女性と対等に付き合えず、年下の制御しやすい子を特に好む」というのは少々精神的に幼いものがある。
精神的な幼さは人と人との多様性を知らないか学んでないか拒否しているところがある。
都市化が進むにつれて自分と関わる人間を制御できるようになってくるだろうから、おそらく精神が練磨されないまま大人になっていく。
なので、増えるのではないかなと思っている。

昔の話で校長先生にずっと世話になっていてお風呂に入ったりしてじっとしているだけでいいと体を洗われたり着替えをさせられたりと、肉体関係は一切無しで大事にされたという話を聞いたことがあるが、ここまでいくと性的嗜好よりも美術品扱いに近いものを感じる。
まあ、そういう人も世の中にはいるのですな。

憎しみを持っても殺さない。
児童ポルノを見ても別に興奮しない。
そういう大人を育てる社会が一番健全ですよ。

拍手[0回]

07/06

Wed

2011

神経が張っている

何かが起こる前触れなのか、恐ろしいほど目が冴えて眠れない。
今も3時間ぐらい寝て目覚めて、とりあえず朝ごはん食べたところ。
いつもは6時間ぐらい眠れる。

今言葉にできない感覚に襲われている。
というのも、来そうな予感がする。
それも早めに。
手紙でも送ってプッシュしとくかな。

松本大臣事件でツイッターであれやこれやとつぶやかれていたけれど、お金持っている上の人たちはもっと凄いのがいて、あのくらい序の口みたい。
私はトラウマがあって、あの手の言動は苦手。
私もこれからどこまでやれるのかわからないけれど、いずれはアメリカに渡って出版事情や能力をいかにして育て、またはスカウトしていくのかという事情などを学びたい。

最近量子論やタイムトラベラーのジョン・タイターが言った「世界線」という考え方をマーフィーの法則や、成功法則の理屈と絡めて薄々感じるようになっている。
私の突破口になったのは「世界線」という考え方。

通常小説ではタイムパラドックスといって、例えば私が過去に行って私の両親を殺した時、私は死なないのはおかしいと言う。
これは「世界は時間の一本軸の上に常に築かれている」というのが通常の人間の感性の捉え方で世界線の考え方はタイムパラドックスは常に起きず、変化を与えた瞬間から世界線が分岐するということらしい。
だから一本ではなく無数の束状になって世界は存在しているということにもなる。
これは量子論の考え方「シュレディンガーの猫」にも基づいてくるのだけれど、私はここに独自の考え方を入れて小説を書いた。
起こりえる可能性の範囲をひとつの板としてそれが時間という連続した板で繋がっているという考え方。
その板のずれが人間の運命であるのではないかと考えた。

そして世界線の考え方から言えば人間が行い得るすべての行動は他の世界線で行われているため、性善説も性悪説もないというのだ。
ではこの世界線や運命、潜在意識などと絡めてくると、人間は違う運命へ徐々に移行できるということでもある。
思い描いている自分自身の未来を実現させるための、世界へのアプローチの仕方は実感として掴んでいるわけではないけれど、何かを薄々感じている。
今まで背負ってきた運命とは確実に違うところに行こうとしている。
これは感じる。

そしてもうひとつ言える。
こっぴどいところからようやく出たー!・・・と根拠もなくうきうきしている。

私がその場に立つにはいくつかの条件をクリアする必要があった。
もう書いてしまおうと思う。
起こってもいないことだけどクリアした条件は書いておこう。

まず母親の生存、父親との和解、自らの憎しみとの和解、才能への絶対的自己信奉、ストレスコントロール。
最後にもう一つ達成しなければいけない。
才能への信用。
その後は才能での説得が可能になるため、だいぶ楽になる。

もし芥川賞まで行けたら、30年以内のノーベル文学賞受賞を宣言しようと思う。
30年。
還暦過ぎてます。
どんな老人になるのだろう。

こうしてわけのわからない膨大な文面も、将来の自分への手紙になると考えると楽しい。

体力つけて健康に過ごしてください。
いつまでも若々しく。
体が資本。
運動を心がけてお野菜とって水もいっぱい飲んでね。

と、還暦のパーティーでバカ騒ぎしている自分に言ってみる。

酒飲み過ぎるなよ!

拍手[0回]

07/05

Tue

2011

メモ書きのようなもの




いくつか条件をクリアしなければならない。
ある程度の条件は揃った。
あとは自分のネガティブな壁をぶち破るだけ。

そうすれば見える。
もうすぐそこに見えている。
手が届かない程度の距離に、自分の立ち位置が見える。

あの地点に確実に収束させるために、一片の疑いもなく信じぬくにはどうすればいい。
あと一つ、決定打が欲しい。
こういう雰囲気や眠れない緊張感や、不安かどうかもわからない切羽詰った状態が抜けないのも、ひとつの経験かもしれないな。

拍手[0回]

フリーエリア

ブログランキング・にほんブログ村へ

バーコード

プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
46
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。

気が付いたら他人からとても褒められる娘ができまして、人生が大きく変わりました。
この小さな可能性と向き合うため頑張って生きております。

最新コメント

(07/27)
(02/23)
(03/05)
(03/02)
(01/24)
(07/29)
(01/21)
(08/16)
(04/28)
(04/20)

ブログ内検索

カレンダー

09 2025/10 11
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31

忍者アド

Copyright © あさかぜさんは見た : All rights reserved

TemplateDesign by KARMA7

忍者ブログ [PR]