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あさかぜさんは見た

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06/21

Sat

2025

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08/01

Mon

2011

前にも書いたかもしれないけれど、ここに日記をずっと書いている理由は、思ったことを書き留めるためである。
どうして思ったことを書き留めるかというと、漠然と思っていたことを整理する理由もあるし、その時しか感じていないことを封じ込めておくという理由もある。
感情は生ものであって、一ヶ月前の自分がその時何を感じていたかを詳細に思い出せる人間はまずいない。
普通の人間はそうやって忘れて、日々生活していくうえで役に立つものしかブラッシュアップして残さない。
私は自分の愚かさを否定しないし、無様な自分を書き残して、それを公開し「ああ、こいつは馬鹿だとか」「信用できない」「どうしようもないやつ」とか、そういう生の反応を見ていくことに、ひとつのリアリティを感じている。
「そういうの自分のノートに書き留めれば?」とあるが、前述のように生の感覚をさらけ出して生の反応を見る目的の他に、ずぼらなので、ノートなどに書くと必ずそのノートを紛失してしまうので、一人の人間の歩みとして残している。
例えば何かを知り、そして知らなかった頃の自分を忘れ、いずれは知らない何者かを「こいつダメだ」と見下すような日が来るかもしれない。
そんな自分もまた愚かであり、そしてそんな自分は失ってしまったものに「価値」を見出さなくなってしまったのかもしれない。
もし書き留めておけば、周囲の反応も含めて、それが正しかったのか、間違いだったのか、充分分かる。
自分が正しいと思っていたことは本当に正しいのか。
自分の中で間違いがあったとしたら、それは何なのか。
周囲にその間違いを的確に指摘するような人がいたのか。
そんなもろもろのことがわかってくる。
世の中には、自分をよく見せるために、他人を勇気付けるために、優しい嘘を積み重ねていく人たちがいる。
私は人間が美化できないことも、逆に蔑むことができないことも、両方少しずつ理解してきている。
それはよい意味で泥臭い人間が、本当に人間臭くて、私は大人の嘘があまり好きではなく、いつも「二の句」を継げたそうな目に脅えていて、そんな嘘まみれな心を見るたびに、人が必ず持っている狡猾さや、世の中にあふれている「希望」という名の虚飾や、真実を告げないことで嘘も希望になるという現実や、多くの人間がその「希望」や「夢」や「友情」や「誠意」や「正義」を独自解釈して他者に押し付けていくという状態に、面白みと悲しみと失望と興味を抱きながら、人間が各々の関係の中で善悪の心理の表裏を状況によりひっくり返しながら影響しあっていることを少しずつ理解しているということだ。
自分のやり方が、決して理解を得られるようなものではないということはわかっている。
どす黒い感情をさらけ出す人間や、少し世間ずれしたような感覚の人間を、通常は信用するに値しないと見なす。
それは、ごく普通の感覚だろうとは思う。
しかし、もし私が生身の感覚を否定したり、取り繕ったりするようになったら、小説家として終わると感じている。
多くの人間の存在や意見に惑わされ、自分が持っているものさえ見失いかけていた時があるだけに、ああいった、ただ意志も持たずに流され、結局何を成すにも他人の言葉が思い浮かび、時間を何年も消費するという、創造性の欠片もない死んだ自分を再度体験するのは、もう真っ平ごめんなのだ。
よく考えてみれば、20代の活発に動くべき時期を、ほとんど死んだように過ごしたということは、ある意味これからのことを考えるに、本当によかったのかもしれない。
これが逆だったら、もし30過ぎて体験していたら、自分の人生そのものが終わっていた可能性もある。
これから周囲の声はますます高まっていく。
あらゆる価値観が私に叩きつけられ、時として唾を吐かれ、罵倒されていくだろう。
倒錯した心理に出会い、昔の自分のような踏み込みの甘い考えを「よく考えている」と信じているような、未熟なものに数多く出会っていくだろう。
「必死に生きている」ということを自らの免罪符にし、他者をこき下ろしたり、知識の豊富さを背景に、教養のなさを冷めた目で見たり、体験していない視野の狭さを、まるで世界の真実かのように言ったり、他者との感覚の違いを理解できず、感覚が共有できないのはおかしいことだと怒り狂ったり、様々な人たちに出会っていくことだろう。
楽しみだね。
私の精神がどこまで持つかも見ものだけれど、世界にどれだけ通用するかも楽しみだ。
私はドアをノックし続ける。
私はドアを開こうと試み続ける。
日記を書くことは、私の愚かさの証明であっても、まったくかまわない。
私は自分を美化するつもりはない。

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07/29

Fri

2011

平野綾という声優のスキャンダル写真が流出したと騒いでいる人の反応が面白くずっと追っている。
私はこの人の声がいまいちピンと来ない・・・というか、最近見た最新アニメなんて映画を抜けばコードギアス以来ない。
そして私の世代なんて「聖闘士星矢」とか「北斗の拳」とか「ヤマト」とか「ガンダム」とか「マクロス」とか「ルパン三世」なので最近出てきた声優さんは「?」である。
ということでどこかで声聞けないかなと思ったらあった。

「涼宮ハルヒ」は角川がライトノベルの主戦力としていたので名前だけは知っていたが、あまりよく内容は知らない。
一緒に出ていた男の声優さんは「銀魂」の主役ということはわかった。
その「銀魂」の杉田智和と並ぶと、うーん・・・うーん。
声優としては今は彼女は上手い部類に入るのだろうか。
昔は力がはいっていて凄いものがあったけれど、今の声優さんはひょろひょろした感じがする。
声にね。

時折平野綾がタレント活動をしていることで、最近の声優さんは舞台もやるし歌も歌うし「マルチタレント」としての位置づけを目指そうとしている。
声優一本だけじゃなかなか食っていけない厳しい現実を反映している。
この流れは芸能事務所の財政状況・所属事務所の意向などを推測すると容易に理解できる流れではあるが、昔からの価値観やこれ一本でとかいう意識が強かったり、特にアニメなどのキャラが絡んでくると、本人の素行がそのままファンの「キャラを汚された」という意識に直結するため、昔の声優さんは顔を出すことを嫌った。

当然声優さんも「芸人」の世界と同じように名前も役もよくわからないような声優さんもいるし、そんな声優がゴロゴロしているにも関わらず、この世界を目指す新人がごまんといるのは、こちらの小説の世界とあまり変わらないだろうと思う。
つまり憧れや思いを塔のごとく積み上げては現実に打ち砕かれるという真実が待っていないこともないわけだ。

そういえば、子供の頃の自分はアニメのキャラだけを見ていて、そのアニメキャラの声を「声優」という存在がやっているなど微塵も考えなかった。
それだけ「キャラに近い演技」をしていたからだろうと今からみればわかるだろうが、子供はそんな「大人の事情」など考えないので、声優本人が出てきて喋っているのを見た時「うわあ、普通のおじさんだ」と少なからずショックを受けたことは覚えている。
しかしそんな思いもさすがに小学校低学年くらいまでだったが、その子供のような純真さを持ち続けているのがアニメファンなのかもしれないと思ったりするところがある。

正直に言って平野綾を見ていると、そこらへんにいる今時のお姉ちゃんと何ら変わらないところがあって、私などは驚きもしないのだけれど、アニメファンは子供のような純真さで声優を見ているので烈火のごとく怒るのだろう。
声優ではないのだが、昔付き合った女に手ひどい目にあい、素行を聞いているだけで吐き気をもよおし目がまわったことがある。
そう、そう言えばその時はまだ童貞で女性の体に触ったことはあっても、挿入はしたことがないという時でしたので、女性というものへの憧れが強いだけに現実の勝手気ままさに衝撃を受けたわけですな。
その時はさすがに殺意に近い憎しみすらも持ったものですが、ツイッターや掲示板をみていると今回の平野綾への熱心なファンたちの攻撃は当時の私の2乗3乗以上の憎しみでもって攻撃しているわけです。

それだけ積み上げてきた妄想の力が大きいだけに、裏切られた時の反動が凄いのですな。
さらによく考えてみると女性に対しての勝手な妄想を積み上げていた時は確かに童貞の頃が強くて、女性経験をしてしまうと、現実感が出てきて勝手な妄想はなかなかできなくなるわけです。
ある意味「何も経験していないからこそ突拍子もない現実離れした夢を大事にできる」ということで童貞力は強いわけです。
確かに創作の場面においても「そこに行っていない人・体験していない人」が名作を作った例はたくさんあるし、行っていないからこそ、強い憧れを膨らませることができ、豊かな感性を無限に膨らませることができるという側面もあります。
そして意外にも現地に行くと膨らませていた幻想が見事に打ち砕かれるという例はないわけじゃない。
これぞ、妄想の素晴らしさでもあり怖いところでもあります。

人間はこうして妄想することで自分の望んだものを積み上げて、自らの価値観に沿って美化していく性質を持っているのですな。
そして現実感を根底に置かないものは常に「浮世離れ」していくわけです。
「浮世」とはよく言ったもので「憂き世」とも書きます。
この「憂き世」とは「辛いこの世界」とか「無常の世の中」という考え方にも通じていくわけですが、まさに妄想の力とは、ある意味「辛い現世を一時でも忘れ去ろうとする癒しを求める力」と置き換えることもできないわけじゃない。
「憂き世離れした世界」の住人に求められがちなことは「辛い現実を忘れさせてくれる理想的な人・世界」だったりするわけです。
しかし何も「童貞」そのものが悪いわけじゃない。
別に童貞であろうとなかろうと、現実世界では自分の価値観ばかりを押し付ける人は子供の世界だろうと大人の世界だろうと嫌われるわけです。
正しい「童貞力」とは「孤高の力」でもあるわけですから、彼らと対等になるには同じくらいの「孤高の力」が求められるのかな、と思ったしだい。

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07/26

Tue

2011

いえね、かゆくはなかったのですけど、足の皮がむけてくることがここ2,3年くらいあり、治りそうもないので足以外の皮膚の事も気になり行ってきましたのですよ。
皮膚科に。
足は左足のみなんですけどね。
それで前に友達にも言ったら「それって水虫だよ。移るよ。家族全員に迷惑かかるよ」とあたかもバイキンマンのように言うのでなんだか心配になり、色々話していたらその人もかつて水虫にかかったことがあり足に酢を浸して1時間くらいやって3ヶ月続ければ治った、というので今日やってみたのです。
黒酢で。
そしたらね、足から酢の臭いがする。
心なしか待合室で待っているときにも酢の臭いがする。
つけたのは左足だけなので、左足だけから。
皮膚科は平日なのに人多く席も全部埋まっている。
しかし周囲の人は「この人左足から酸っぱい臭いがしている」だなんて誰も思わない。
もう男の体から酸っぱい臭いがするっていうのは、もう「オヤジ臭」なわけですよ。
横に座っていた女性の方、席から4分の1ほどずれて遠ざかる。
これは臭っているんじゃないかと自らに疑いをかけたくなる。
「いやいや、まだそこまで俺の体臭はきつくないんだ、左足から酢の臭いがしているだけなんだ。酢に朝つけたから」
なんて言おうものなら、足の強烈な臭いを必死に誤魔化すためにまくし立てているようにしか見えないので、ひたすら黙っていました。
そして先生に見てもらう時、皮を採取して顕微鏡で見ますとのことでピンセット持って足に先生近づくわけですが、何もこちらから言ってないのに「酢使いました?」と突っ込まれ、「え、あ、はい。今日の朝使いました」と苦笑いしながら言うと「酢で水虫治るというのは俗説」とはっきりとおっしゃいましたよ。
えー!?
騙された?
俺友達に騙されたの?
え?じゃあ友達って水虫別の理由で治った?
と自分の事よりも人の事が気になっておりましたが、皮膚片を見てもらった結果「水虫です」と言われました。
左足だけ。
薬もらって「薬あげますから毎日一回塗ってください。2,3ヶ月で治りますから。酢使わなくていいですから」と先生ニヤリとする。
そっか、水虫って簡単に治せるんだね。
頑張ります。
というか、かつでその俗説を信じ何人ものつわものが酢の臭いを足からぷんぷんさせながら病院に来たんじゃないのか、とも思った。
今日は札幌も暑く、左足から酢の臭いを風に散らしながら颯爽と帰りましたよ。
夏だけに酢のさわやかな臭いが・・・ないない。
ということで、今日は左足から酢の臭いが一日中しています。
決してこれは「足の臭い」ではなくて「足につけた酢の臭い」ですから。

ちなみに同じ石鹸で水虫は移るかと聞いたら移りませんとのこと。
マットとかがダメなんだね。
菌が繁殖しやすいところ。

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07/25

Mon

2011

ファッション感覚で入れる人が最近いるようで、私の知っている友達も何人か入れている。
だけど刺青は消しても痕が残ることから「一生もの」である。
それで、だいたい安易に入れる人は「一生もの」っていうのが、どれくらいのことかわかっていない人が多いようだ。

というのも例えば20代、25ぐらいに入れたとして、20年ぐらいたち50近くになってきた時も、本当にそれが必要かと問われれば、どうやら揺らぐ人が結構いるらしく、結局は入れなければよかったなと後悔するらしい。
そりゃそうだろうな、とは思う。
若い時は肌が張っていて、見栄えもよいけれど、年をとってくればよほどの手入れをしていないと皮がたるんでくる。
見るに耐えないし、銭湯や温泉で50ぐらいの人が刺青入れて入っていくという将来の自分を少しでも想像したことがあるのかなと思ったりする。
自分が生きてきた2倍もの時間をさらに生きて、価値観が変わらないのだとしたらよっぽどの人だろうし、老人になっても残ってもよいだなんて若い頃は考えられないのだろうが、「一生もの」というのは簡単に考えているほど軽くはない。

昔は刺青はヤクザ者というイメージがあったが、「タトゥー」というカジュアル表現になり、デザインも綺麗なものが出てきただけに若気の至りで入れる人がいて、やっぱりその時は「アクセサリーを身につける」感覚でしかなく、万が一にも特定の何かを指し示すタトゥーなんて入れてしまい、一生それを背負えるかと言ったら、ほとんどNOの場合が多い。
その時は熱を入れて「一生~を大事にする」という誓いを天地天命にかけたりするが、一生っていうのは文字通り人生のすべてをかける、死ぬまでかける、ということなのだ。

50にもなって子供っぽいものを見せ付けられるのは、あまりいい気分ではないし、50にもなって大人になりきれていないとしたら、むしろ見ているほうが虚しさを感じる。
人間は長い時間生きていれば価値観は変わるものです。
人間は学ぶ生き物だから。

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07/25

Mon

2011

「キモイ」「ウザイ」「ウケル」の世代

今までそういう言葉をバシバシ言う人たちに出会ったことがあまりなかっただけに、認識を改めなければならないと感じた。
今まで少なくとも私の知っている後輩ぐらい、つまり二年ぐらいの下の間の知り合いはそんな軽々しい言葉を他人に扱うことはあまりなかったが、もう1980年生まれからは、環境によってはしっかり身についていたのですね。

たとえば「キモイ」「ウザイ」「シネ」は暴力表現に他ならないけれど、彼らにとっては挨拶のごとくカジュアルな表現だ。
だから「何お前、ホントウザイし、死んで欲しい」なんて言っても、言った本人にとってはそれほど重い言葉ではない。
言語表現の重みがなくなってしまったのはどうしてだろうという疑問は浮かぶけれど、事実軽々しく放たれ、そして言った本人は言ったことすら覚えていないほどなのだから、会話の中に自然と暴力表現が入っていく環境で既に育っていたのだと思うしかない。

これは育ってくる環境によって言葉遣いも大きく変わってくるし、言葉遣いが変われば言葉一つ一つに対する重みもまったく違ってくる。
「ウケル」も自分とは違ったところで使われたりするので驚く。
全然笑えないところでも「ウケル」と言って笑っている。
感覚が違うのだろう。
こういう言語感覚の認識の違いは少なくとも1985年生まれあたりからだろうと思っていただけに、少々ショックだ。
良いか悪いかと言われれば、当然このような、あまり品が良くなく、無闇に人を傷つけるような表現は重く受け止めて発して欲しいとは思うが、それは個人的な考えであって彼らにとってはまさに「ウザイ」考えでしか過ぎない。
というか自分もブログでやっていたのだから、うーむ、どこで認識が変わったのだろうと振り返ってみると、やっぱり自分という立場を少し見直して相手から見た自分を意識してからだろうか。
少しずつ気がつくようになった。
なぜそれを意識するようになったかと言うと、自分は文章を書いているし、こうして日記に誰でも見れるような状態で書いているから、自然とこれを見た人がどういうことを考えるかを自然と予測して書いていくようになったのですね。
心に余裕ができてからだと思う。
でも通常生活していれば、そんなことは微塵も考えないだろうし、周囲の環境が自分と同じもので取り囲まれているのだから内省する必要性にも迫られない。
つまりはそのままで充分通じる世界がすぐそこにあって、それこそ「日常」なのだ。

これから小説家として、彼らの言語感覚を理解しないと、現実を捉えることなど到底不可能だし、否定ばかりしていてもますます現実から乖離するだけだ。
それだけにもう数年違えば「ニュージェネレーション」なのだと考えを改めて、そしてそのことを徹底して頭に叩き込まなければ「自分はこうして気がついてきたから、こいつもこの年ぐらいならこうなるだろう」だなんて希望的観測で捉えたり、逆に希望的観測との差異に驚いて衝撃を受けたり見下したりすることになるだろう。
少々面食らったけれど、しょうがないことでもある。
言って聞かせたところで直るようなものではないようにも思う。
なぜなら、彼らは同じ世代で固まり、同じ意見の者と固まり、そして「何故変えなければいけないのか」という疑問を当然持ち、「変えたほうが逆に不自然じゃん」という結論に達するであろうからだ。
これが古代から脈々と受け継がれてきた「最近の若い者は~」というやつなのだ。
理想を言えばきりはないし、諦めで言うわけでもない。
尊敬すべき大人があまりいなくなったせいなのではないかと推測はあとを絶たない。
しょうがないことなのだと、これもひとつの時代の流れなのかもと、感じた現実に対して素直に受け止めるしかないように思いながらも、「ああきっと、自分が感じている違和感は1960年生まれの人たちは同じように自分の世代に感じているのだろうな」と思うわけであり、ある意味子供はしっかり育てないといくらでも将来が危うくなることも同時に感じたわけであります。
その危うさとは暴力表現がカジュアルになったり、逆にまったくそうではないものが暴力表現となったり、言葉を勝手に押し付けられる状態になるからだ。

自分たちの愛したものは変質していく。
しかし軸がなくなってしまっては、いずれは帰るところもなくなってしまうのではないかなと考えたりする。
今を生きることは大事だ。
命を燃焼させて今を作っていく。
しかし、その今の後に残っていく過去というものを、彼らは考えることがあるのだろうか、それとも今だけなのか、と小説家として解決するべき問題は山積している。

最近は自分より若い人たちに教えてもらうことがたくさんあって、いささか自分の器の小ささをとことん感じているところである。

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
45
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みますが光野(こうや)とか朝風(=はやぶさ)でもよろしゅうございます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。自分でも困るほどの「皮肉屋」で「天邪鬼」。つまり「曲者」です。

2011年より声劇ギルド「ZeroKelvin」主催しております。
声でのドラマを通して様々な表現方法を模索しています。
生放送などもニコニコ動画でしておりますので、ご興味のある方はぜひこちらへ。
http://com.nicovideo.jp/community/co2011708

自己プロファイリング:
かに座の性質を大きく受け継いでいるせいか基本は「防御型」人間。自己犠牲型。他人の役に立つことに最も生きがいを覚える。進む時は必ず後退時条件、及び補給線を確保する。ゆえに博打を打つことはまずない。占星術では2つの星の影響を強く受けている。芸術、特に文筆系分野に関する影響が強い。冗談か本気かわからない発言多し。気弱ゆえに大言壮語多し。不安の裏返し。広言して自らを追い詰めてやるタイプ。

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