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あさかぜさんは見た

日記

02/23

Thu

2012

無教養さからくる差別

二十歳の知り合いがいるのだけれど、その子は短大生。
今度卒業で保育士を目指していたという。
保育士の資格を取得するには実習が必要で、二回目ぐらいの実習の時は東北の震災が起こった後だったらしい。
そこで実習を決める担当官から「あなた震災起こったとき、きちんと全員の子供の命を守るために体張って動ける?」という類のことを言われたらしい。
いや、もう少し意地の悪い質問で、私もはっきりと「できます」とは言えないような質問だった。
つまり「口では言えても実効段階になったときに100%できるとは保証できない内容」の質問。

その子は日常生活にはまったく支障がないほどの軽度の障害があるのだが、その質問に答えられず実習は弾かれたらしい。
他の先生からは「訴えてもいい」と言われたらしく、私も「完全な差別だね」と言ったのだけど、その子は別の方法で挑戦するみたい。

日本人は頑張る人間、障害を乗り越えたとか、時には障害者そのものを美談で飾るくせに、こうした意地の悪いことが行われている。
風当たりが健常者とは同じではないことは、ところどころから聞いていたけれど、実際知っている人がこのような差別的な扱いを受けると苛立ちを隠せない。
その子は十以上年上の私よりもよく考えていて頭の回転もよい。
すぐ説教したくなってべらべら余計なことを言ってしまうが「そんなことはわかっている」と言う。
たまにこちらが子供のような気持ちになって面食らう。

その子とはまったく事例が違うが、

保育士採用試験:全盲女性「受験させて」大阪市が門前払い

リンク先の記事のように全盲の保育士の例もあるし人類はヘレン・ケラーという偉大な実例も持っている。
しかしそれらのことは結局「美談」として語られるだけで、隅々にまで浸透し一般化しているわけではない。

話がちょっと変わるが、例えば健常者でも宗教観の問題は職場で対応できる姿勢があるのか。
イスラム教信者とキリスト教信者の職場での扱いは同じでよいのか。
こういうことすらも日本人は知らない。
今回のこの子の問題も、日本人のこういった無教養さからくる差別だと言っていい。
なにせ軽度の障害など、ほとんど健常者と変わらないのだから。
例えばこれが片腕片足がなくとも同じことだと思う。
きちんと試験に合格できる頭と能力と強い想いがある。
健常者と比べて「あれはできないだろう、これは支障が出るに違いない」とか、どれだけ見下せばよいのか。

ヘレン・ケラーのwikiに以下の文があった。

その一方で、彼女を快く思わない者も少なくなく、日本の重光葵の手記『巣鴨日記』(『文藝春秋』1952年8月号掲載)によると、巣鴨プリズンに収監されている元将官たちの中には、彼女のニュースが耳に入ってきた際、彼女のことを「あれは盲目を売り物にして居るんだよ!」とこき下ろしている者もいた。このことに関して重光は「彼等こそ憐れむべき心の盲者、何たる暴言ぞや。日本人為めに悲しむべし」と彼らを痛烈に批判すると同時に、見解の偏狭さを嘆いている。


差別は言葉から来るものではないと私は考えている。
「比較と哀れみから湧き上がる微かな優越感」から来るものだと考える。
自分や自分と類似したものが作り出す集団だけが世界や社会の基準ではないのだということを、その性根に叩き込むのが「教養」というやつではないのか。
外国人ホワイトカラーから見れば日本の職場は「ブラック」ばかりらしい。
わかるような気がする。
家族のことを優先できない、違法なサービス残業がある、会議が簡潔に終わらない、意思決定のプロセスが複雑、有休はお飾り、独自の職場ルールがあり法律より優先されるなどなど、守られるべきものが人によって崩されている職場など優秀な人ならば嫌がるだろう。
まだまだ「差別大国日本」なのだ。

余計なお世話なのだろうが、その子には頑張ってほしいし、私も久しぶりに連絡が来て少し励まされた。
ここは見てはいないのだが、ひとつの祈りを込めて。

その青春の全力こそ、次世代の糧になる。

応援しております。

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02/21

Tue

2012

自分で自分を褒めたいと思います

「より速く適切に学べる人」:その理由(WIRED.jp)

いわゆる「褒めれば伸びる」の具体的な研究結果として、何を褒めたらよいのかが示されています。
「賢いね」と褒めれば「賢さ」が褒められて脳が刺激され、その「賢さ」を維持させようとするので、失敗を恐れるようになるというのはなんとなくわかる。
努力を褒めることは「チャレンジすること」を褒めているのだから、チャレンジ精神が維持される。

私の場合は結構抑圧的な精神が強くて、どうやったかというと誰も褒めてくれないから自分で自分を褒めるというやり方をやっていました。
比較せずたとえ他人が一日で一キロ進もうが、自分は今日一センチ進めた、それでいいのだ。
自分としては前進した。よくやった。
と、他人から見ればくだらないことかもしれませんが、これでほんの少しずつ進んできたのです。

今までやることなすこと嫌で成果がでなくて、やろうとしたことはけなされ、あまりよい目で見られてはこなかったので、ほとんど人生に対する前身力を失っていたところから始めましたので、自分にとってはこの方法が最適ではありました。

ところで、この研究結果、いわゆる「成果主義」にも言える側面があり、今ここまで社会の風潮として萎縮してしまっているのは失敗や「金にならないかもしれない挑戦」に対してひどく厳しくなってきているからなのだとは思います。
やはり誰かのせいではなく、今日独り言でもテレビの前で、新聞読みながら、週刊誌を見て吐いた呪いの一言が、メディアが流し続けている、会社組織がトップダウンで労働者を締め付ける考え方などが、世の中の人たちからチャレンジ精神を奪いつづけているのではないかと思うことがあります。

このことは今回は蛇足として、重要な下記の部分。

固定的な姿勢をもつ人は、間違いを「ぶざまな失敗」とみなし、与えられた課題に対して自分に十分な能力がない証拠だと考える。一方、成長志向の姿勢をもつ人は、間違いを、知識を得るために必要な前段階、学びの原動力ととらえる。


企業はお金という体力の問題があるので、厳しい事情はたくさんあり、社会的なことは今回は述べませんが、少なくとも個人でできることは他人の挑戦・行動をやたらと批判することは社会的にとっての癌化を促進する可能性を高める、ということが言えると思うのです。
少なくとも私は十数年病んでましたよ。
そして批判する側にも回ることがありますが、不必要な批判、これを越えて中傷までいって心が痛まないというのは、ちょっと根が腐り始めているといってもいい。
じとっとした嫌な気分を味わうことなく「スッキリ」したというのなら、これは少し考え直した方がよいと思うのです。

大事な未来の可能性を締め付けて結局さまざまな意味で豊かさを失うのは自分であると常に覚悟するべきなのです。
自画自賛のコツは「努力と挑戦」に対して、ということですね。
モチベーションを高めるには挑戦すべきものを見つけて攻略していくことにあり、です。

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02/17

Fri

2012

そういえばバレンタインデーは歯医者だった

先週の火曜日に行ったとき「来週火曜日から空いてますけど」と言われ、「じゃあ火曜日でお願いします」と予約を取って普通に行ったら、なんとその日はバレンタインデーじゃないですか。

別に狙って行ったわけでもなく、かわいい歯科助手さんに導かれるまま「はい、火曜日でぜひ」と内心ウキウキしながら行ったわけです。
なんで「そういえば」と思い出したのか。
その日に気がついたのですよ。
チョコなんてものに縁がないからその日に気がついたんですよ!
そして縁がなかったから今更思いだしたんですよ!

やっぱり知り合いは、それとなく探りを入れてくるわけです。
「こいつはチョコなんてもらってないだろうが、一応念のため聞いておくか」という非モテ偵察を行ってくるのですよ。
「チョコ、もらいましたか?」
うるせいやい、と心の中では夕日に照らされながら河原で石ころを蹴っているわけですが、紳士なわたくしは「ええ! 歯医者で奥の仮の詰め歯ならもらいましてね! いやあ、ずいぶんと削り取られ、美女の歯科助手には歯石がたまっていますねと告白されましてね! よいバレンタインデーでしたよ! HAHAHA!」と充実した一日であったことを暴露してやると、さすがのわたくしの過密偉業スケジュールっぷりに「ああ、そうですか」と苦笑いを見せながらも恐れおののき、そそくさと目の前から退散していく姿を晒すのです。
まさに虎を前にしたウサギのように逃げ出すという具合でありまして、私は勝ち誇ったように笑みを浮かべるわけであります。
ああ、勝利し続ける男というのは罪だなと。

いつもながら歯医者にいくと死ぬほど緊張していて、水を飲む手が震えるというぐらいガチガチになっている。
「こ、このわしが、奮えておるわ……」
と心の中だけは余裕っぷりを示しているのです。
そしてその余裕っぷりは歯科助手の「奥歯の詰めものは取れやすいのでガムとかお餅とか、そういうくっつきやすいのは食べないでくださいね」という説明の時も相手をおののかせるほどに出ておりました。

「チョコは?」
「え?」
その質問を投げかけた時一瞬マスクの下の歯科助手の顔が歪むのを見逃さない。
(こいつがチョコ? もらえるのは義理か、その程度だろ、ふっ)
「チョコレートは食べていいんですか?」
なおも食い下がり必死の応戦。
弾幕の薄さに怯まず残り弾を敵前で打ち尽くします。
「え? ええ。キャラメルとか、そういうくっつきやすいものじゃなければ大丈夫ですよ」
そういう質問をしてしまったのも、歯科助手の後ろに見えるカレンダーの「14」の文字。
チョコなんてもらっていないのに。
せいぜい自分で買うぐらいなのに。
今日という日が憎けれど、決して同士を募るなどというマネはしたくなく、つい見せかけだけでも「ちょっとモテてます感」を出したかった……

ああ、その日は歯医者から出たとき世界が潤んでいたよパトラッシュ……

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02/07

Tue

2012

ぱっといつもの癖で変換して確認しないで打とうとして「配車と駐車」という題名にしてしまいそうになりました。
いいえ、違います。
歯医者と注射で正しいのです。

そもそも、わたくしは一億年と二千年前からしつこいほど申し上げて、今回の記事で百万回くらいは記事で書いたと思うのですけれど、歯医者と注射が嫌いなのです。
そして歯医者は注射もするから余計に嫌いなのです。

そういえば前回いつ歯医者行ったんだろうと思ったら、2003年でした。
いつの時代でしょう。
きっと日本が戦争を追えて、ようやく立ち直ろうとした時だったような、そんな昔まで、うん、いかないね。

ということで、前歯の歯と歯の間のところに何か穴のようなものが見えはじめ、歯がしくしくとしてきたので、もう観念して行って参りました。
雪祭り会場を通ってきたのですけど、周囲の景色がとってもブルーに見えたよ。
限りなく透明に近いブルー。
あ、雪のせいか。

会場の楽しい雰囲気、世界各国の料理が屋台として出ていて実においしそうな匂いが立ちこめておりましたが、ああ、ぼくちんはどうして虫歯などになったのであろうと、色々思い返しておりました。
あ、歯をきちんと磨いてなかったからだ。
そういえば酒飲んで、そのまま寝ちゃったことも。
すいません、チョコレートとか和菓子洋菓子結構食べていたような気がします。
その後すぐ歯は磨いてなかっ、うわぁ! ダメじゃん!

かくしてなるべくして虫歯になったのです。

唯一の救いは歯医者さんは中年の方なのですが、その他のスタッフは皆かわいい女子。
心の救い。
地獄での天女。
絶望へと射し込む光。

そしてそんな女子たちを前に、いい男っぷりをアピールすることもできず、そもそも自分にはそんなアピールポイントがないことに気がつき、そんなことよりも歯医者でそんなアピールをしたら、あの麗しき天使達の目によって場が急速冷凍されることは目に見えており、大人しくスゴスゴと治療台の上に乗りました。

やっぱり緊張しますよね。
いい大人がソワソワ落ち着かず、まるで檻に入れられたばかりの小動物のように、あちらこちらと見てしまいます。
そして9年ぶりぐらいに再会した先生。
いや、同じ先生だったのですよ。
お互い生きててよかった! と感動の再会をするために熱い抱擁をしようと待ち構え大人しく座っていた私に大人の会釈。
職人は余計な口は聞かず、仕事で語るという硬派なスタイルを貫いていらっしゃる。

いざ歯を見てもらい、すぐさま麻酔。
なんかチクッともするのですが、ぐいっと押し込まれているようなしびれが来ます。
死ぬ。きっと死ぬ。このまま意識朦朧、疲労困憊、肥満間食、遺憾千万。
水がかからないための白いタオルをかぶせられて、いざ治療。
でも時折タオル効果ないし!
私口小さくて指三本縦に入れるのが精一杯。顎外れる。
そのくらい小さくて、大きく開けられないのです。
そいで時折漏れた水が鼻の中とか来て、むせそうになる。
そして漏れた水は左目に流れ出してくる。
ぎゃー! 必死に目をつむる。
麻酔の時から「楽にしてくださいね」なんて言われながら、強火で煮込みすぎたチャーシューみたいにガチガチに固まっているぼくちん。
まな板の上の鯉みたいに騒ぎ出したら、もう出入り禁止になるのではないかと、祈るような気持ちで黙っておりました。
偉い! 頑張ったね、私。
誰も褒めてなんてくれないので、幼稚と罵られようが、臆病と言われようが、小さいと言われようが、自分で自分のこと褒めてやらぁ!
しかし、最近の虫歯治療は早いのですね。
前歯の詰めも含め、ものの20分くらいで終わってしまいました。

治療が済んで、目にかかった水を拭こうと、眼鏡をとってハンカチで目頭を抑える。
ん? ちょっと待てよ?
部屋には歯科助手のかわいい子がまだいる。
後ろからハンカチで目を拭いているのを見ている。
これって、なんか大の大人が歯の治療されて泣いたみたく見えるんじゃないの!?
な、泣いてなんかないんだからね!?
治療の時に水が目に流れ込んで来ただけなんだからね!?
目から水が出たんじゃないんだからね!?
しかも鼻に少し入った水が残っているような、麻酔のしびれでよくわからないような感じで、帰り際に鼻の下押さえながら帰るというマネをしてしまい、かなりの歯科助手さんたちに見られたのですけど、泣きながら帰っているわけじゃないんだからね!?

ああ、歯医者で歯を削られても平然としている、クールな男でモテ男作戦が見事に瓦解したわけです。
はい。歯医者にそんな目的で行くなというよい教訓でした。

外に出ると昨日よりも暖かな風が吹き、景色が潤んで、いないってばっ!
また来週勇気を出して行ってきます。

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02/04

Sat

2012

占い 前世のカルマ

2、3年前くらいに、占星術か何かで知り合いが占ってくれたことがある。
その時随分と思い当たることが多かった。
まず前世からのカルマとして家族との間の大きな溝というのがあった。
十数年悩んでいたことだった。
どこかでずっと改善したいと思いつつもできなかった。
それよりも改善までいかなくとも、家族と関係を切りたいと思っていた。
もうこの家族とは一生関わらない。
そして自分も家族は一生持たない。
どのような事情になろうと子供は持たない。
自分で終わりにしよう。
同じ目に合わせることはない。
30になろうとしているのに、ろくに生きていけない、偏屈で鬱屈した精神を持つ人間を育てることはないのだと考えていた。
きっと自分は子供に当たる。自分のコピーを作る。立派に育てる、という名目で精神的な虐待をする。
子供な親は子供を育てることなどできないし、きっと子供の欠点を見つけて責め立てるような醜い気持ちを持った親になるだろうことは理解していた。
だからもう自分で終わらせる。
ずっとそう思っていた。
だから自分の命を軽視していたし、家族のことも軽視していた。
自分自身に価値を置けないと、他人のことを虫けらのように、何の価値も見出せなくなるのですよ。
精神が荒むというのは、これだけ酷い状態になる。
正しいことが恐ろしく、敵視する。
そんな気持ちは絶対に理解されない。
精神科医である親戚がいるが、話しても通じない。欠片すらも理解されない。
そりゃそうだろう。
余計に疎外感と人に対する憎しみは募った。
突然殺してやろうかと思うこともあった。
私の精神の奥には拭いきれない憎しみのようなものが沈んでいる。
約10年間、2時間頑張ればぐったりして一日中休みたくなるような精神力しか持ち合わせていなかった。
私は弱い人間の精神構造がわかる。
鬱屈した精神を持っている精神メカニズムが見える。
同族嫌悪とでもいうのだろうか。
見えるからこそ関わりたくないと思う。
いや、ストレスに耐えきれないので、底に沈んでいる泥をすくい上げられると一気に心が濁るのだ。
今でも「強者の理論」というやつが心底嫌いだ。
ずっと持っていたものの名残りは続いている。

私は長い時間をかけて、まず私が生きている間には覆らないかもしれなかったカルマの因果を覆した。
家族と少しずつ歩み寄れるようになったのは強い呪縛の鎖を解けるというよい兆候だ。
作家「光野朝風」の誕生にはいくつかの条件をクリアしなければいけなかった。
まず、家族とのカルマの支配権を握ること。
母親の生存。
父親の価値観の変革。
家族以外の「愛」を与えてくれる存在。
自らの立脚点の構築。

私は人より10年間も出遅れている。
それもまた、思い返せば宿命だったのかもしれない。
すべてが必要なことだった、などとふざけた言葉で片付けられるような内容ではないが、私が歩んできた「落ちこぼれ人生」は、自分がどこにいたかを忘れるなよ、という戒めなのかもしれない。
できない人間だったから、本当に多くの人間を傷つけたし苦しめてきた。
そのくらい、よくわかっているんだよ。言われなくたって。

10年出遅れたからといって、もっと早ければなどとは思わない。
人は過去に対して色々後悔を持ち、あの時ああすればよかった、とよく思うが、私はそれを思うとぞっとする。
あと5年早く動けていたら、私は最も大事なものを失い、一生罪悪感で苛まされたことだろう。
それは作品にも大きな影を落とし、作家としては完全に終わった形となり、自分の人生も大きく鬱屈したものになっただろう。

人生を評価することそのものが愚かなのかもしれない。
人には人の気持ちがあり、価値観があり、人生がある。
そういうものは、よくできた人間ではないと慮ってくれない。
ひとつの物差しで世界や人間を評価するようなことはできないのだ。

今日、なんとなく記したくなった。
改めて、どこを通ってきたのか確認したくなった。
いつの日か、私が死んだときにでも「こいつはどこを歩いてきたのか」という資料として、素直に記しておきたいと思った。
まだ饒舌に詳細に語る勇気がないのは、まだ私が這い上がる途中にいるからだ。

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
46
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。

気が付いたら他人からとても褒められる娘ができまして、人生が大きく変わりました。
この小さな可能性と向き合うため頑張って生きております。

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