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あさかぜさんは見た

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11/24

Sun

2024

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10/15

Sat

2011

少し、落ち着く。

ほんの少しだけ落ち着くが、物凄い底へ落ちていく精神的感覚が抜けない。
ふとしたことで下がる。
もともとコンプレックスの固まりなだけに、ネガティブ思考が強く、まずい時はまずい。
生きててもどうしようもない状態、死んだほうがましなのではないかとか、この劣等感が余計に心を歪めはしないだろうか、とか。
もうこれ以上歪んだら、本当に生きていけなくなる。
メンタルが弱い、いや、女々しいのかもしれないが、こういう弱点を抱えていると、もう豆腐が崩れないように鍋をかき回しているような気持ちで、崩れたら崩れたで立ち直れず、かといって安定している状態でもなく、結局この「何もしなければ豆腐は崩れない」という発想から「じっとしていればいい」になり、そこから徐々に状況は悪化し、最後には「何もできなかった」になり、行き着くところは「生きててもしょうがない」になる。

その手の心理はよくわかっていたはずだけれど、今回は、遊園地などにたまにある宇宙船やトロッコに乗って目の前のスクリーンと乗り物の傾斜で落下しているように錯覚しているあの感覚に似ていて、ビルとか崖とかから急に飛び降りて落下するようなものとはまったく違う。
人生は緩く落ちている時、その劣等感、墜落感をバネにしてのし上がれる人とそうでない人間がいて、特に精神力がなくなってしまった時、他のもので補い続けるのは非常に難しいことで、そして人は静かな闇の淵でようやく様々なことを内省しだす。
その内省が破滅に向かうこともあれば、改善に向かうこともあり、自分はどこか裏目に出ているのではないかという自らへの疑心暗鬼にかられている。

これを「挫折感」というのだろうか。
でも「悔しい」という気持ちがまったくない。
「こんなものなのかな」という気持ちのほうが強く、これが元の自分なのだろう、何ももっていないのだろう、もっと言えば自分の魂の底に沈んでいたものが再認識されたということなのだろう。

たった一度のゴールをするまでに、なんと長い道のりか。

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10/08

Sat

2011

もう何を書いていいかわからないや、という状態でも、ほんの少しだけ光明があって、すべて焼け野原になってしまったと思っても、その灰が土を潤す肥料となり、新しい芽を育てていったり、その状態を「すべての終わり」だと思わなければ、続けていくことができるのだと、そういうことなのですね。

いやあ、しかし今回のはちょっと衝撃が大きくて、「絶対これで大丈夫」だと思っても平気でかすりもしないというのは、実力なのかそうでないのかわからなくなり、むしろいちいち一つ一つの勝敗を分析すること自体が、現時点では悪いのかとあれこれ考えたり、考えすぎるのがよくないのだと思ったり。

ここ2,3日は相当落ち込んでいたけれど、また進みださなければいけないし、今更他の道歩もうとか考えても、せっかくここまで積み重ねてきたものを捨て去るのももったいないし、何よりも自分がきちんと自分の信じている事柄を証明するのだと息巻いているのだから、進まなければいけない。

でもここにきて、本当に傲慢さや欲望とは、さようならをしなければいけないのだということがしみじみ体感できてきた。
衝撃を受けたということは、何かに決別したのだろう。
真面目にやってきたつもりだったけれど、まだ足りないみたいだ。
遠い、本当に遠い。

結局、すべて消してしまおうかとも考えた。
過去の日記はもっとひどいものがあって、見るに耐えなく、また不遜で傲慢だ。
どうしてだろうな、どうしてこういう性格の子が育ったのだろうと我ながら思う。
臆病で、気が小さいのに、誰かを見下していて、棘がある。
誰にも相手にもされなくて、腐っていて、人を憎んでいて、信用していない。

今日はよい天気だ。
日光を浴びながら思う。
まだこちら側でやり残したことはあるのだろうか。
だとしたらそれは何だろう。
とにかく、今は立ち止まらないことこそ一番大事なのだろう。

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10/06

Thu

2011

スティーブ・ジョブズ



私も今になって少しずつわかってきていることがある。
愛があれば、自然と向上心が出てきて、自ら進んで行こうという気持ちが不思議と沸き起こるということだ。
人生における最上の幸福とは、愛せるものを持つということなのかもしれない。

時代の象徴たる人が亡くなりました。
ご冥福をお祈りするとともに、よい財産となる言葉をありがとう。

Stay hungry, Stay foolish.

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10/03

Mon

2011

多くの人にとって「幸せ」の感覚は「充足感」にあると思う。
そして「充足感」とは「欲望」と非常に結びつきやすいので、自己の欲望・願望を満たされている状態を「幸せ」と考える人が多いのではないかと思ったりする。

母親に「笑ったらえくぼあるんだね」と言われた。
私はないと思っているけれど、「初めて見た」と言われた。
30年以上もいて、私も初めて言われた。
私はその時つい言ってしまった。
「それだけ笑いあわない家族だったんだよ」と笑いながら。

その後、幸せとは何かを考えた。
どんなに満たされていようと、笑えなくなったら不幸なのではないかなと思った。
どんなに物質的に満たされていても、他人から恵まれていると言われようとも、乾いた笑い、蔑む笑い、人を馬鹿にした笑い、などなど、どこか「犠牲」を伴う笑い、難しいが、とにかく笑った後に孤独感を得たり、何か他のもので補わなければならない笑いなど、本当は不幸でしかなくて、ただ幸せなのだと思い込みたいだけではないのだろうか。
その意味では「ストレスを発散させるためだけに笑う」というのも負の側面を持ちやすい。

幸せに笑いあうこと。
これはどういうことなのか、時折振り返って考えることがある。

最近気がついたことがあって、渇望しあっているものは互いに奪い合うということがわかった。
これは充足感がないから与えるものが既に見せ掛けで、与えるよりも奪うことに重点を置いているから、隙あらば、いや、通常の状態でさえ、何かを奪い合って、黙っていればいずれ枯渇してしまうという状態を招く。
豊かではないから、足りないものを奪い合うしかなくなってしまう。
物質的に恵まれていても「貧困」があるのだとしたら、この「心の貧困」から来る「物質の奪い合い」だろう。
だから金を奪い合ったり、システムの中で搾取を行ったりしても、平気でいられる神経が出来上がったりするのではないだろうか。
いやいや、こういうことに答えを出すにはまだ浅はか過ぎる。

少なくとも家族において、小さな集団において、幸せとは何かと問われれば、心底笑いあえるということなのではないだろうか。
先日、マンションの住人が創作物を持ち寄って個展を開いた。
1階のスペースを使ったのだが、ほとんどが60~80の人たち。
打ち上げに参加したが自分だけが若くてほとんどはその世代。
隣人を知り合うことは防災にも繋がるというコンセプトでやったことだったらしいのだが、打ち上げで酒を飲みくだらない話で笑いあっている姿を見ると、ああ自分の苦労などこの人たちから比べれば本当にちっぽけなものなのだろうな、と感じた。
それだけ心から笑いあって楽しんでいて、晩年をやりたいように過ごしているという印象を受けた。
よい、年のとり方を見たような気がした。

自分は誰かを幸せに笑わせられるだろうかと考える。
世の中は別の理屈で動いているかもしれない。
だけれど集団や世界の理屈よりも、個人がいかに笑え、その幸福を個人が分け与えることができるのか。
これが豊かな集団を作るために最低限担保しなければいけないことのように思ったのだ。

あなたは誰かの心から笑った姿を、見たことがありますか?
そう問いかけたくなる気持ちすらももった。
私たちは、たった一ヶ月でさえ、誰かを蔑まずに過ごすということができないのではないだろうか。
いや、少なくとも私はよくよく反省したい。

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09/26

Mon

2011

久しぶりに歌を歌った。
思いのほか喉が多少よく、3曲くらい歌ってもぎりぎり喉が持った。
というより、ちょっとしたハプニングでバーで飲んでいたお客さんに「一緒に歌いませんか」と誘われて歌ったわけだが、歌には想い出がたくさん詰まっている。

その日ではなかったが、「この曲知らないだろうな」と70前後くらいの人たちの集まりで曲をかけられ「思い出の曲なんですか?」と聞くと「我々の青春時代の曲」と言われた。
音楽には時代を彩るものや、想い出を彩るものがある。
昨日のお客さんだって「この曲ね、死んだ友達が歌ってた曲なの」と目頭を熱くさせていた。
歌を一緒に歌って、時間を共有する。
言葉と音楽を共有する。
珍しいことではないかもしれないが、今の私にとってはとてもうらやましいことだと思った。
というのは、小説は一人で感性を巡らせて色々と妄想して読んでいく。
どうしても一人の作業になってしまう。
例えばこれが読書の感想を言い合うにしろ「私こう思った」と言い合うには多少のずれが出てくる。
本当はこういうずれを楽しむべきなのだろうが、日本人はそういうのがとても苦手。
「同じ空気」を作ろうとし「空気にあわせようとする」のがマナーだと思っている。
当然小説は感性の統一、見解の一致を目的とするのではなく、多様な解釈と多様な感性を育てることを目的としているので、音楽を聴きながら漠然と感じている雰囲気を共有する歌とはだいぶ違う。
じゃあ音楽みたいに共有できるものは何なのか。
ずっと作者が共有できるものを読者に対して問い続け、橋をかけていく作業を小説だと思っていたが、もう少し考え直してみる必要があるかもしれない。

小説を懸命に書いている人というのは、やはり読んでくれた人の心の中に一石を投じたいという願いを込めて書いているものだと思っている。
そしてその思いは誰かと共有できることがあるのだろうか。
たとえば誰かと誰かをつなぎ合わせることができるだろうか。
逆もきっとあるかもしれないが、ひとつ、ヒットソングのように誰かと共有できる作品ができたら、また一歩大きく前進できるだろうと感じた。

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
45
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みますが光野(こうや)とか朝風(=はやぶさ)でもよろしゅうございます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。自分でも困るほどの「皮肉屋」で「天邪鬼」。つまり「曲者」です。

2011年より声劇ギルド「ZeroKelvin」主催しております。
声でのドラマを通して様々な表現方法を模索しています。
生放送などもニコニコ動画でしておりますので、ご興味のある方はぜひこちらへ。
http://com.nicovideo.jp/community/co2011708

自己プロファイリング:
かに座の性質を大きく受け継いでいるせいか基本は「防御型」人間。自己犠牲型。他人の役に立つことに最も生きがいを覚える。進む時は必ず後退時条件、及び補給線を確保する。ゆえに博打を打つことはまずない。占星術では2つの星の影響を強く受けている。芸術、特に文筆系分野に関する影響が強い。冗談か本気かわからない発言多し。気弱ゆえに大言壮語多し。不安の裏返し。広言して自らを追い詰めてやるタイプ。

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