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あさかぜさんは見た

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06/21

Sat

2025

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10/24

Mon

2011

世界の最高指導者のリンチや断末魔まで映像で見れるようになった。
インターネットと情報、社会情勢と情報、覇権と暴力、高度に洗練された洗脳戦。
これから起こることとは何だろう。
恐らく端末の制御ではないだろうか。
決められた端末からのアクセス。
これによって最初から情報が制御できる。

文学はこれからどうなっていくだろう。
より高度な心理戦と生贄の多さで世界は動くかもしれない中、現実から目を背けることが文学になりえるのか。
きっとこれから真面目に文学やろうと思っても採算は取れないだろう。
本当に文学をやろうとしたら作るコストと回収が釣り合わない。
エンターテイメントばかり流して無知な人間を量産するような国家に未来はないし、ひと時の安らぎといえようともそれは有意義なものでなければならないと思う自分はきっと周囲の流れと逆行していくに違いない。

一国を支配してきた人間の哀れな末路が平気で映像で流れる時代。
そのニュースが日本国内で流れる時には、かなり生の情報とはかけ離れている。
今原発事故の問題と闘っている最中、国内のニュースでさえ何がなんだかわからない。
中国の食品や国家情報をバカにしていた日本人がそれ以下の状態にある。

そして、電子書籍産業は縮小の一途を辿る、その理由はまさに日本人が読書をせずバカ書籍ばかりが売れて活字なんて読みもしない、想像力は減少するばかり、滅びるしかない、という記事を読み思うことがある。
国家を破壊するのは他者でもなんでもない。
自らを「無知」であると悟れる「教養」なのだ。
学ぼうとする意識の低い人間が、あらゆるものを食いつぶしていく。
いや、国家でなくともよい。
もっと身近なレベルで集団とか個人とか、そういう尊厳を破壊していくのは無知そのものだ。
その無知さが他者を攻撃し、破壊していく。
何かを狂信的に信じることも、それに繋がるかもしれない。

私たちはあらゆる壁を持っている。
自分を守る壁でもあるが、他者を圧迫する壁でもある。

これからの文学は何をすべきだろうかと問われた時、この日本のみを眺めた場合、児童文学作りかなと思ったりする。
読みやすさ、ジャンルごとのカテゴリーわけされた編集術が必要になる。
これからは「何歳向け」なんていうことはできない。
このぐらいの読書レベルの人向け、じゃないとダメだと思っている。
そして文学は常に人の想像性を刺激しなければいけない。
それが活字の役割だ。
最初はそこから。
そしてゆくゆくは、この世界の欺瞞と暴力性を暴き立てなければ、本当の作家とは言えない。
そんな気がしている。
きっとその内容は一級のエンターテイメントとして捉えられるだろう。
もしそうなった時、心底悲しい思いで他人を見ることになるのだろうな。

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10/19

Wed

2011

少ない労力でなるべく大きな獲物を獲ようと考えるタイプで、たいしたこともないのに大きなものが得られ、きっと自分は躍進していけるのだと信じていた部分があった。
しかしそれは夢であり願望であり妄想だった。
打ちのめされ、痛烈に後頭部を打たれ、さらに惨めな気分も味わった。

色々過去の作品に固執して、自分が作ったものはいいものに違いないと信じてきた。
だがそれもどうでもよくなってきた。
作った後、そこに命を吹き込んでいくのは作品に触れていった人たちなのだと気がついた。
いつまでも一人で作品に固執してはいけない。
必要な時、必要なものを出せるという用意をしていかなくてはいけない。
多種多様な球を投げられて、いかにバッターの弱いコースで討ち取っていくか。
それは一種や二種の球筋ではいけない。
相手を翻弄しながら、最後には「やられたな」と思わせるような球を投げなければならないピッチャーの役割が作者なのだ。

だから今までの自分のものは放出していくことにした。
まだいくつか過去に書いたやつを持っていて、それがいつか役に立たないかと手元に置いて、放っておいたが、やはり待てどもよいアイディアが浮かんでくるわけではないし、望んだ環境が手に入ったわけでもなかった。
何もかも足りなくて、まだ10分の1も達成してなくて、以前環境は厳しいままだ。
そのような状況下にある作品たち、評価もされていない作品たちを手元にとどめておいたって、誰かの家の中にある日記帳ぐらい他人にとって価値のないものだ。
いくら持っていても役に立たないものは立たない。
いくらいいと思っていてもそれが誰かの心に届かないうちはもともとの作品のポテンシャルが低いのだ。
ポテンシャルの低い作品はいくら並べ立ててよいものですと声高に叫んでも他人はいいものですねだなんて言ってくれない。
そんなこと言ってくれるのは身内や親しい人だけ。
作品と読者はパズルのように組み合わさっていくもの。
合わない人は合わないし合う人は合う。
こればっかりは強制できないし作った本人にも「これはあなたにぴったりなんじゃないか」なんてなかなか言えない。
オーダーメイドで作ってすら微妙なところなのに、ましてや最初から特定の一人を目指していない、「漠然とした不特定多数のあるひとくくりの部分」を狙っているのだから余計に相手に合うかどうかは運任せと言っていい。
しかしその運の部分を押し上げることはできる。
作品をとにかく晒し続けるということだ。
もし空気に触れて劣化し朽ちてしまうものならば、それは本当はたいしたことがないのだろうと思う。

私は本当にたいしたことのないところにいたと思う。
そしてたいしたことのない作品に固執し続け、未来を作るということを忘れていた。
作品を作るのはとても大変なことで精神力を使う。
微妙なところで揺れ動いて、別のイメージや感情に惑わされ、日を無駄に費やすこともあるだけに、新しくよいものができるかどうか不安だった。
だが心配し不安になるあまり、逆にあれこれと「こうしたらいいのではないか、うけるのではないか」と考えすぎて壁を作り、ダメな方へダメな方へと墓穴を掘り続けていた。
練習でもなんでもいい、とにかく階段を作るのだ。
塵となってもよい。
次の作品の大きな手がかりになるヒントを見つけていくのだ。
そのためには量を書かなければいけない。
いきなりポンと質で勝負できるような天才ではないのだ。
だからこそ道を作っていかなければいけない。

今少しだけ「離」という状態になれそうな気がしている。

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10/17

Mon

2011

人は自分が狭い世界に生きているということを意識できない。
人は自分が狭い視野で物事を見ているということを自ら見破ることはできない。
なぜならばこれらのことは比較と内省によって培われる相対的な価値観だからである。
人は自分が安全圏から事を行う癖がある。
参加しているようでエキストラの立場から参加している権利を行使しようとする。
意識というのは一言で言えば思い込みに等しい。

打ちのめされて、何か色々わかりそう。
何もかもが狭い世界で物を見ていたに過ぎなくて、きっとどこにも参加してなかった。

「勝負をする」ということも「命を使う」ということも、わかってなかった。

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10/15

Sat

2011

少し、落ち着く。

ほんの少しだけ落ち着くが、物凄い底へ落ちていく精神的感覚が抜けない。
ふとしたことで下がる。
もともとコンプレックスの固まりなだけに、ネガティブ思考が強く、まずい時はまずい。
生きててもどうしようもない状態、死んだほうがましなのではないかとか、この劣等感が余計に心を歪めはしないだろうか、とか。
もうこれ以上歪んだら、本当に生きていけなくなる。
メンタルが弱い、いや、女々しいのかもしれないが、こういう弱点を抱えていると、もう豆腐が崩れないように鍋をかき回しているような気持ちで、崩れたら崩れたで立ち直れず、かといって安定している状態でもなく、結局この「何もしなければ豆腐は崩れない」という発想から「じっとしていればいい」になり、そこから徐々に状況は悪化し、最後には「何もできなかった」になり、行き着くところは「生きててもしょうがない」になる。

その手の心理はよくわかっていたはずだけれど、今回は、遊園地などにたまにある宇宙船やトロッコに乗って目の前のスクリーンと乗り物の傾斜で落下しているように錯覚しているあの感覚に似ていて、ビルとか崖とかから急に飛び降りて落下するようなものとはまったく違う。
人生は緩く落ちている時、その劣等感、墜落感をバネにしてのし上がれる人とそうでない人間がいて、特に精神力がなくなってしまった時、他のもので補い続けるのは非常に難しいことで、そして人は静かな闇の淵でようやく様々なことを内省しだす。
その内省が破滅に向かうこともあれば、改善に向かうこともあり、自分はどこか裏目に出ているのではないかという自らへの疑心暗鬼にかられている。

これを「挫折感」というのだろうか。
でも「悔しい」という気持ちがまったくない。
「こんなものなのかな」という気持ちのほうが強く、これが元の自分なのだろう、何ももっていないのだろう、もっと言えば自分の魂の底に沈んでいたものが再認識されたということなのだろう。

たった一度のゴールをするまでに、なんと長い道のりか。

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10/08

Sat

2011

もう何を書いていいかわからないや、という状態でも、ほんの少しだけ光明があって、すべて焼け野原になってしまったと思っても、その灰が土を潤す肥料となり、新しい芽を育てていったり、その状態を「すべての終わり」だと思わなければ、続けていくことができるのだと、そういうことなのですね。

いやあ、しかし今回のはちょっと衝撃が大きくて、「絶対これで大丈夫」だと思っても平気でかすりもしないというのは、実力なのかそうでないのかわからなくなり、むしろいちいち一つ一つの勝敗を分析すること自体が、現時点では悪いのかとあれこれ考えたり、考えすぎるのがよくないのだと思ったり。

ここ2,3日は相当落ち込んでいたけれど、また進みださなければいけないし、今更他の道歩もうとか考えても、せっかくここまで積み重ねてきたものを捨て去るのももったいないし、何よりも自分がきちんと自分の信じている事柄を証明するのだと息巻いているのだから、進まなければいけない。

でもここにきて、本当に傲慢さや欲望とは、さようならをしなければいけないのだということがしみじみ体感できてきた。
衝撃を受けたということは、何かに決別したのだろう。
真面目にやってきたつもりだったけれど、まだ足りないみたいだ。
遠い、本当に遠い。

結局、すべて消してしまおうかとも考えた。
過去の日記はもっとひどいものがあって、見るに耐えなく、また不遜で傲慢だ。
どうしてだろうな、どうしてこういう性格の子が育ったのだろうと我ながら思う。
臆病で、気が小さいのに、誰かを見下していて、棘がある。
誰にも相手にもされなくて、腐っていて、人を憎んでいて、信用していない。

今日はよい天気だ。
日光を浴びながら思う。
まだこちら側でやり残したことはあるのだろうか。
だとしたらそれは何だろう。
とにかく、今は立ち止まらないことこそ一番大事なのだろう。

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
45
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みますが光野(こうや)とか朝風(=はやぶさ)でもよろしゅうございます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。自分でも困るほどの「皮肉屋」で「天邪鬼」。つまり「曲者」です。

2011年より声劇ギルド「ZeroKelvin」主催しております。
声でのドラマを通して様々な表現方法を模索しています。
生放送などもニコニコ動画でしておりますので、ご興味のある方はぜひこちらへ。
http://com.nicovideo.jp/community/co2011708

自己プロファイリング:
かに座の性質を大きく受け継いでいるせいか基本は「防御型」人間。自己犠牲型。他人の役に立つことに最も生きがいを覚える。進む時は必ず後退時条件、及び補給線を確保する。ゆえに博打を打つことはまずない。占星術では2つの星の影響を強く受けている。芸術、特に文筆系分野に関する影響が強い。冗談か本気かわからない発言多し。気弱ゆえに大言壮語多し。不安の裏返し。広言して自らを追い詰めてやるタイプ。

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