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あさかぜさんは見た

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11/24

Sun

2024

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08/07

Sun

2011

既に半世紀の未来は3月11日に決定した。
後は今脱原発なの原発推進なの、様々な角度から検証しようと結局10年20年先には脱原発になる。
それはもう歴史が証明したことだし、たとえば一世代まるまる賠償し続ける膨大な予算もつけられなくなりベラルーシは補助金を打ち切っている。
結局しわ寄せは最後に国民に来る。
それまでにいかに「経済」というやつを活発化させて「金を確保しておくか」を考えるのだろうが、今までの経済の価値感覚で社会を創造していくと当然矛盾を抱える。
つまり今までの通り何かを犠牲にしてその歪を必死に隠しながら社会を推し進めるか、今までの社会の犠牲者を捨てて新しい社会へとシフトするか、ということになり、経済市場主義では社会転換できず、社会転換しても過去の犠牲者を守ることができない、ということになるのですな。
これからは、今年起こってようやく未来に出てきた「被害」を目の当たりにして人間の感情として「もうこれ以上はこういう人たちは絶対に出さない」という意識に傾くのは当然で、その意識は半世紀は続くだろうけれど、そこから先はわからない。
新しい技術次第だけれど、その「新技術」に対しての金がどれだけ割かれるかに未来の行く末はかかっているような気がする。
当然こんな風に社会(都市の利便性を追求し、個人の欲望を節操なく追求する社会)を作り上げていったら、都市化の中で個々人が分断されコミュニティーも細分化されていくのだから、よほど地域で気をつけて「ふれあいの関係」を熱心に創造していかないと、一世紀後には元に戻る可能性だってある。
しかし飽食・強欲の時代なんて長くは続かなかったし、日本人の人口は少なくなっても世界の人口は増えるから食糧難となり、自前で食糧自給をしていく必要性に迫られることから、やはり「自然」に反する技術は特化したモデル都市で行われる、ということも考えられる。
逆に数字に固執ばかりしていたら移民を入れるなの、労働力を外国からとか、おかしなことを考え始めるだろうけれど。
科学だって、これからは生活にもっと密着していかなければならないだろうし、国民だって新しい技術の情報をたくさん経て、どこにお金を投資しようかと考える社会が必然的になるのではないかなと想像する。
もし今のまま社会体制がシビリアンコントロールを目的とし、搾取社会、統制的な社会を維持しようとし、国民が新聞では報道されない重要な法案に気がつかず、中央の巨大帝国ネットワークを崩すことができなければ、日本という国家は技術革新とともに徐々に顕著な統制社会となっていくに違いないと考えている。
国民はどうするべきかというと、自立が必要になってくる。
この「自立」というのは「経済的に」という意味合いではなく「精神的に」となる。
精神的に自立するということは、よく考え、よく聴き、よく尊重しあう、という理念が必要になる。
よく考えることは、他人の言葉を鵜呑みにせずに自主的に賢くなることであり、よく聴くということは、他人の言葉にむやみやたらに自らの主張を押し付けないということであり、よく尊重しあうということは、誰かを大事に思い助け合うということに繋がっていく。
これらのことは決して不可能な話ではない。
人を育てるのは「土」である、という古来の考え方に戻るということだ。
その上で歴史も再考されるのではないかなとも思っている。
自分で意志を持つということは、なかなか辛いことだし、賢くなるというのも簡単にはできない。
本来「痛み」というのは前進・一時停滞にのみされるべきであり、後退に痛みを伴ってはいけない。
各々の価値基準の中に厳密に当てはめ「それは後退だ」「これは前進だ」と喧々囂々と議論していくだろうが、どの範囲で物事を主張し、どの範囲を括っていないのかを厳密に見極めないと、社会はいつでも道を誤るだろうと考えている。
その「範囲の見極め」ができるようにならないと、いわゆる「偉い存在」にいつまでたっても騙されるだけだ。
将来原発に代わる別の危険なエネルギーだって出現する可能性があるのだからね。

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08/03

Wed

2011

とある芸術家の末路

「末路」と呼ぶには難があるかもしれない。
ただ、ネット上で少し知り合った程度で、その人の消息を知る術がもうなくなってしまったというだけの話かもしれない。

とある漫画家がいた。
文章も独特。
古風で弁当箱にぎっしりと定番のおかずとご飯が詰め込まれているような窮屈な文章。
海外で賞を取っているらしく、絵も一風劇画のようで、色使いが艶やかで斬新。
イラストそのものは時折、少々難いところもある不思議な感じだった。
下手なのかうまいのか、私には判別しかねた。
岩波新書のとある本の中にイラストも描いたということだから、出版社とも繋がりがなかったわけではないのだろう。
最近ふと名前だけ思い出し検索するとブログが去年で途切れていた。
年は生きていたら50を過ぎている。
鍼灸師の仕事もできるそうだから、手に職がついているはずだった。
しかし最後になるにつれて生活は極貧、家でネットができる環境がないのか他の場所からアクセス、売る本がなくなった、仕事もない、もう何もない、もうすぐ死ぬだろう、誰か助けてくれ、と英語で書かれていた。
途中には紙の出版は「売れない」ということから取り合ってくれないと書いてあった。
鍼灸の仕事は体力が続かず人と話すのも神経的に磨り減るらしく辞めていた。
漫画に没頭しても売れない。
海外の人から声をかけられても日本人のほとんどはこの人を知らない。

私はこの人の様子をブログで読みながら、多くの芸術家が辿るであろう末路を見ていた。
芸一本で食っていく。
その難しさ。
年をとるごとに感性が磨かれていくという保証はどこにもない。
花が咲いたとしても、永遠に咲き乱れる花はなく、咲いた限りはどこかで散り、そして散った限りは、新しく咲かせなければいけない。
同じ植物から咲いた花でも、それはもう同じ花ではない。
芸術家の宿命とは、例え咲いたとしても、咲かせた花は散っていくということ。
この分野に携わる人間は、このことを覚悟しておかなければいけない。
仕事もなく、ホームレスとなり、無一文で最後は外か、部屋かで孤独死。
ありえない状況ではまったくない。
その年にたとえミリオンセラーを飛ばしたとしても、次の年にはどうなるかわからない。
華のある職業は、それだけリスクが高いということだ。
とてもじゃないが、まともな神経ではやっていられないだろう。
好きでなくちゃいけない。
飽きずにできる行動力、興味を尽かさず持ち続けなければならない。
ちょっとやそっと罵倒されても続けられるような根気がなくてはいけない。
「実力」を磨いていき、常に時間の進み具合とともに己の技術を更新し続けなければいけない。
立ち止まることは許されない。
さもなければたちまち他人をダシに使うようになる。
そうなったらチンピラよりたちが悪い。
人間としてはクズに成り下がる。
そうなったら転落は早くどこまでも落ちていく。
恥も外聞もなく、生き延びるためにどんなことでもやるようになるだろう。
生活に困窮すれば、人間の心理なんぞどう変化するかわからないものなのだ。

芸の分野に携わる人間は常に危うい。
文字通り人生そのものを博打のように賭けていかなければ、到底成せるものではない。
だからまともな考えの人は「保険」をつける。
二足のわらじで、最低限生きていけるよう仕事をして、片手間で余裕を作っては芸に打ち込んでいく。
孤独死をしてもいいか、誰にも認められなくとも続けていける自信があるか、それを捨てたら人生の楽しみの半分以上を失われ生気がなくなるか。
最低の事ばかり考えてもしょうがないが、一度でも考えて、自分に問うて、そして覚悟しなければいけない。
「大丈夫」なんて言っているのは自分だけで周囲は何一つ補償してくれない。
時代は常に進む。
先見性がないと時代に取り残され、追うだけで精一杯になる。
華のある世界は、それだけ危うい。
芸の世界に入れば何者かから保証されることはない。
自分が自らの実力を補償し続けなければいけない。

それが「芸」の世界だ。
だからこそ、自分にも他人にも言える。
「夢を追う者よ。命の重みを背負えるか」と。

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08/01

Mon

2011

前にも書いたかもしれないけれど、ここに日記をずっと書いている理由は、思ったことを書き留めるためである。
どうして思ったことを書き留めるかというと、漠然と思っていたことを整理する理由もあるし、その時しか感じていないことを封じ込めておくという理由もある。
感情は生ものであって、一ヶ月前の自分がその時何を感じていたかを詳細に思い出せる人間はまずいない。
普通の人間はそうやって忘れて、日々生活していくうえで役に立つものしかブラッシュアップして残さない。
私は自分の愚かさを否定しないし、無様な自分を書き残して、それを公開し「ああ、こいつは馬鹿だとか」「信用できない」「どうしようもないやつ」とか、そういう生の反応を見ていくことに、ひとつのリアリティを感じている。
「そういうの自分のノートに書き留めれば?」とあるが、前述のように生の感覚をさらけ出して生の反応を見る目的の他に、ずぼらなので、ノートなどに書くと必ずそのノートを紛失してしまうので、一人の人間の歩みとして残している。
例えば何かを知り、そして知らなかった頃の自分を忘れ、いずれは知らない何者かを「こいつダメだ」と見下すような日が来るかもしれない。
そんな自分もまた愚かであり、そしてそんな自分は失ってしまったものに「価値」を見出さなくなってしまったのかもしれない。
もし書き留めておけば、周囲の反応も含めて、それが正しかったのか、間違いだったのか、充分分かる。
自分が正しいと思っていたことは本当に正しいのか。
自分の中で間違いがあったとしたら、それは何なのか。
周囲にその間違いを的確に指摘するような人がいたのか。
そんなもろもろのことがわかってくる。
世の中には、自分をよく見せるために、他人を勇気付けるために、優しい嘘を積み重ねていく人たちがいる。
私は人間が美化できないことも、逆に蔑むことができないことも、両方少しずつ理解してきている。
それはよい意味で泥臭い人間が、本当に人間臭くて、私は大人の嘘があまり好きではなく、いつも「二の句」を継げたそうな目に脅えていて、そんな嘘まみれな心を見るたびに、人が必ず持っている狡猾さや、世の中にあふれている「希望」という名の虚飾や、真実を告げないことで嘘も希望になるという現実や、多くの人間がその「希望」や「夢」や「友情」や「誠意」や「正義」を独自解釈して他者に押し付けていくという状態に、面白みと悲しみと失望と興味を抱きながら、人間が各々の関係の中で善悪の心理の表裏を状況によりひっくり返しながら影響しあっていることを少しずつ理解しているということだ。
自分のやり方が、決して理解を得られるようなものではないということはわかっている。
どす黒い感情をさらけ出す人間や、少し世間ずれしたような感覚の人間を、通常は信用するに値しないと見なす。
それは、ごく普通の感覚だろうとは思う。
しかし、もし私が生身の感覚を否定したり、取り繕ったりするようになったら、小説家として終わると感じている。
多くの人間の存在や意見に惑わされ、自分が持っているものさえ見失いかけていた時があるだけに、ああいった、ただ意志も持たずに流され、結局何を成すにも他人の言葉が思い浮かび、時間を何年も消費するという、創造性の欠片もない死んだ自分を再度体験するのは、もう真っ平ごめんなのだ。
よく考えてみれば、20代の活発に動くべき時期を、ほとんど死んだように過ごしたということは、ある意味これからのことを考えるに、本当によかったのかもしれない。
これが逆だったら、もし30過ぎて体験していたら、自分の人生そのものが終わっていた可能性もある。
これから周囲の声はますます高まっていく。
あらゆる価値観が私に叩きつけられ、時として唾を吐かれ、罵倒されていくだろう。
倒錯した心理に出会い、昔の自分のような踏み込みの甘い考えを「よく考えている」と信じているような、未熟なものに数多く出会っていくだろう。
「必死に生きている」ということを自らの免罪符にし、他者をこき下ろしたり、知識の豊富さを背景に、教養のなさを冷めた目で見たり、体験していない視野の狭さを、まるで世界の真実かのように言ったり、他者との感覚の違いを理解できず、感覚が共有できないのはおかしいことだと怒り狂ったり、様々な人たちに出会っていくことだろう。
楽しみだね。
私の精神がどこまで持つかも見ものだけれど、世界にどれだけ通用するかも楽しみだ。
私はドアをノックし続ける。
私はドアを開こうと試み続ける。
日記を書くことは、私の愚かさの証明であっても、まったくかまわない。
私は自分を美化するつもりはない。

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07/29

Fri

2011

平野綾という声優のスキャンダル写真が流出したと騒いでいる人の反応が面白くずっと追っている。
私はこの人の声がいまいちピンと来ない・・・というか、最近見た最新アニメなんて映画を抜けばコードギアス以来ない。
そして私の世代なんて「聖闘士星矢」とか「北斗の拳」とか「ヤマト」とか「ガンダム」とか「マクロス」とか「ルパン三世」なので最近出てきた声優さんは「?」である。
ということでどこかで声聞けないかなと思ったらあった。

「涼宮ハルヒ」は角川がライトノベルの主戦力としていたので名前だけは知っていたが、あまりよく内容は知らない。
一緒に出ていた男の声優さんは「銀魂」の主役ということはわかった。
その「銀魂」の杉田智和と並ぶと、うーん・・・うーん。
声優としては今は彼女は上手い部類に入るのだろうか。
昔は力がはいっていて凄いものがあったけれど、今の声優さんはひょろひょろした感じがする。
声にね。

時折平野綾がタレント活動をしていることで、最近の声優さんは舞台もやるし歌も歌うし「マルチタレント」としての位置づけを目指そうとしている。
声優一本だけじゃなかなか食っていけない厳しい現実を反映している。
この流れは芸能事務所の財政状況・所属事務所の意向などを推測すると容易に理解できる流れではあるが、昔からの価値観やこれ一本でとかいう意識が強かったり、特にアニメなどのキャラが絡んでくると、本人の素行がそのままファンの「キャラを汚された」という意識に直結するため、昔の声優さんは顔を出すことを嫌った。

当然声優さんも「芸人」の世界と同じように名前も役もよくわからないような声優さんもいるし、そんな声優がゴロゴロしているにも関わらず、この世界を目指す新人がごまんといるのは、こちらの小説の世界とあまり変わらないだろうと思う。
つまり憧れや思いを塔のごとく積み上げては現実に打ち砕かれるという真実が待っていないこともないわけだ。

そういえば、子供の頃の自分はアニメのキャラだけを見ていて、そのアニメキャラの声を「声優」という存在がやっているなど微塵も考えなかった。
それだけ「キャラに近い演技」をしていたからだろうと今からみればわかるだろうが、子供はそんな「大人の事情」など考えないので、声優本人が出てきて喋っているのを見た時「うわあ、普通のおじさんだ」と少なからずショックを受けたことは覚えている。
しかしそんな思いもさすがに小学校低学年くらいまでだったが、その子供のような純真さを持ち続けているのがアニメファンなのかもしれないと思ったりするところがある。

正直に言って平野綾を見ていると、そこらへんにいる今時のお姉ちゃんと何ら変わらないところがあって、私などは驚きもしないのだけれど、アニメファンは子供のような純真さで声優を見ているので烈火のごとく怒るのだろう。
声優ではないのだが、昔付き合った女に手ひどい目にあい、素行を聞いているだけで吐き気をもよおし目がまわったことがある。
そう、そう言えばその時はまだ童貞で女性の体に触ったことはあっても、挿入はしたことがないという時でしたので、女性というものへの憧れが強いだけに現実の勝手気ままさに衝撃を受けたわけですな。
その時はさすがに殺意に近い憎しみすらも持ったものですが、ツイッターや掲示板をみていると今回の平野綾への熱心なファンたちの攻撃は当時の私の2乗3乗以上の憎しみでもって攻撃しているわけです。

それだけ積み上げてきた妄想の力が大きいだけに、裏切られた時の反動が凄いのですな。
さらによく考えてみると女性に対しての勝手な妄想を積み上げていた時は確かに童貞の頃が強くて、女性経験をしてしまうと、現実感が出てきて勝手な妄想はなかなかできなくなるわけです。
ある意味「何も経験していないからこそ突拍子もない現実離れした夢を大事にできる」ということで童貞力は強いわけです。
確かに創作の場面においても「そこに行っていない人・体験していない人」が名作を作った例はたくさんあるし、行っていないからこそ、強い憧れを膨らませることができ、豊かな感性を無限に膨らませることができるという側面もあります。
そして意外にも現地に行くと膨らませていた幻想が見事に打ち砕かれるという例はないわけじゃない。
これぞ、妄想の素晴らしさでもあり怖いところでもあります。

人間はこうして妄想することで自分の望んだものを積み上げて、自らの価値観に沿って美化していく性質を持っているのですな。
そして現実感を根底に置かないものは常に「浮世離れ」していくわけです。
「浮世」とはよく言ったもので「憂き世」とも書きます。
この「憂き世」とは「辛いこの世界」とか「無常の世の中」という考え方にも通じていくわけですが、まさに妄想の力とは、ある意味「辛い現世を一時でも忘れ去ろうとする癒しを求める力」と置き換えることもできないわけじゃない。
「憂き世離れした世界」の住人に求められがちなことは「辛い現実を忘れさせてくれる理想的な人・世界」だったりするわけです。
しかし何も「童貞」そのものが悪いわけじゃない。
別に童貞であろうとなかろうと、現実世界では自分の価値観ばかりを押し付ける人は子供の世界だろうと大人の世界だろうと嫌われるわけです。
正しい「童貞力」とは「孤高の力」でもあるわけですから、彼らと対等になるには同じくらいの「孤高の力」が求められるのかな、と思ったしだい。

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07/26

Tue

2011

いえね、かゆくはなかったのですけど、足の皮がむけてくることがここ2,3年くらいあり、治りそうもないので足以外の皮膚の事も気になり行ってきましたのですよ。
皮膚科に。
足は左足のみなんですけどね。
それで前に友達にも言ったら「それって水虫だよ。移るよ。家族全員に迷惑かかるよ」とあたかもバイキンマンのように言うのでなんだか心配になり、色々話していたらその人もかつて水虫にかかったことがあり足に酢を浸して1時間くらいやって3ヶ月続ければ治った、というので今日やってみたのです。
黒酢で。
そしたらね、足から酢の臭いがする。
心なしか待合室で待っているときにも酢の臭いがする。
つけたのは左足だけなので、左足だけから。
皮膚科は平日なのに人多く席も全部埋まっている。
しかし周囲の人は「この人左足から酸っぱい臭いがしている」だなんて誰も思わない。
もう男の体から酸っぱい臭いがするっていうのは、もう「オヤジ臭」なわけですよ。
横に座っていた女性の方、席から4分の1ほどずれて遠ざかる。
これは臭っているんじゃないかと自らに疑いをかけたくなる。
「いやいや、まだそこまで俺の体臭はきつくないんだ、左足から酢の臭いがしているだけなんだ。酢に朝つけたから」
なんて言おうものなら、足の強烈な臭いを必死に誤魔化すためにまくし立てているようにしか見えないので、ひたすら黙っていました。
そして先生に見てもらう時、皮を採取して顕微鏡で見ますとのことでピンセット持って足に先生近づくわけですが、何もこちらから言ってないのに「酢使いました?」と突っ込まれ、「え、あ、はい。今日の朝使いました」と苦笑いしながら言うと「酢で水虫治るというのは俗説」とはっきりとおっしゃいましたよ。
えー!?
騙された?
俺友達に騙されたの?
え?じゃあ友達って水虫別の理由で治った?
と自分の事よりも人の事が気になっておりましたが、皮膚片を見てもらった結果「水虫です」と言われました。
左足だけ。
薬もらって「薬あげますから毎日一回塗ってください。2,3ヶ月で治りますから。酢使わなくていいですから」と先生ニヤリとする。
そっか、水虫って簡単に治せるんだね。
頑張ります。
というか、かつでその俗説を信じ何人ものつわものが酢の臭いを足からぷんぷんさせながら病院に来たんじゃないのか、とも思った。
今日は札幌も暑く、左足から酢の臭いを風に散らしながら颯爽と帰りましたよ。
夏だけに酢のさわやかな臭いが・・・ないない。
ということで、今日は左足から酢の臭いが一日中しています。
決してこれは「足の臭い」ではなくて「足につけた酢の臭い」ですから。

ちなみに同じ石鹸で水虫は移るかと聞いたら移りませんとのこと。
マットとかがダメなんだね。
菌が繁殖しやすいところ。

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
45
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みますが光野(こうや)とか朝風(=はやぶさ)でもよろしゅうございます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。自分でも困るほどの「皮肉屋」で「天邪鬼」。つまり「曲者」です。

2011年より声劇ギルド「ZeroKelvin」主催しております。
声でのドラマを通して様々な表現方法を模索しています。
生放送などもニコニコ動画でしておりますので、ご興味のある方はぜひこちらへ。
http://com.nicovideo.jp/community/co2011708

自己プロファイリング:
かに座の性質を大きく受け継いでいるせいか基本は「防御型」人間。自己犠牲型。他人の役に立つことに最も生きがいを覚える。進む時は必ず後退時条件、及び補給線を確保する。ゆえに博打を打つことはまずない。占星術では2つの星の影響を強く受けている。芸術、特に文筆系分野に関する影響が強い。冗談か本気かわからない発言多し。気弱ゆえに大言壮語多し。不安の裏返し。広言して自らを追い詰めてやるタイプ。

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