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あさかぜさんは見た

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09/13

Tue

2011

アタック粉で魚の目が取れる?

もう十何年くらい前から花王のアタック粉洗剤には青い粒々が入っていたのですが、なぜか小さな頃この粉洗剤に少しだけ水を入れて洗剤に魚の目をつけると、何故か一ヵ月後ぐらいには取れてくるという現象を発見し最近またできたのでやってみたら、やっぱり取れました。
これは例えば踏み固められた皮とかに対しては効果がなく、肉のついていないイボとか魚の目とかには効くのです。
で、やっぱり気になるじゃないですか。
これって自分だけの現象なのか、それとも他の人の魚の目にも効果を発揮するのか。

ちなみに方法は粉洗剤に少しだけ水を入れて洗剤残っているような濃い状態のところに足を5分くらい突っ込んで、後は綺麗に洗っておく。
一週間後ぐらいかさぶたみたくなってきたら念のためもう一度やってあとは放置。
気がついたら取れてました。

ああ、そう、それで思い切って花王に質問してみました。
まあ、当たり前といえば当たり前なのですが、以下のような回答来ました。

/////////////////////////

光野 朝風 様

いつも花王製品をご愛用いただきましてありがとうございます。
また、このたびは「アタック 高活性バイオEX」につきまして、
お問合せをいただきありがとうございます。

せっかくお問合せをいただきましたが、「アタック 高活性
バイオEX」は衣類用洗剤のため、魚の目に対する知見は
あいにくございません。お力になれず誠に申し訳ございません。

なお、「アタック 高活性バイオEX」が長時間お肌に触れた
状態になると、肌荒れの原因となる場合があるので、『使用後は
よく手を洗う』『荒れ性の方や長時間使う場合、また洗剤を
ブラシにつけて洗う時は炊事用手袋を使う』表示をしております。
魚の目などをアタック溶液に直接浸すと、お肌への影響がとても
心配ですので、おやめいただきますようお願い申し上げます。

このたびは、弊社にお問合せをいただき、ありがとうございました。
今後とも花王製品のご愛用をお願い申し上げますとともに、
製品に関してのご意見・ご感想をお待ちしております。

/////////////////////////


つまり、やめてくれと。
変なうわさ流れてクレームきたらどないすんねんと。
わかりますわかります。
私は皮膚の異常は何もないのですけど基本はやめてください。
肌荒れとか起こしそうだものね。
でも誰か研究してくれないかな。
あの青い粒々が効くと思うんですけど、他の洗剤じゃ効果なかったんです。
花王のアタックの粉の青い粒々入っているやつしかダメだったんです。
商品化できたら魚の目取れる絆創膏とか作れるじゃないですか。
って、思ってるんですけどダメですか。

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09/08

Thu

2011

ルース・ベネディクトの「菊と刀」を読んだとき、非常にイライラして、様々な過去の出来事を思い出して一応はすべて読んだがひとつも覚えていない。
いわゆる「典型的な日本人像」というか、負の側面に私はずっとやられてきていて、約10年以上もそのことで苦しんだことから非常に強いアレルギー反応を持っているということがわかった。

このことは非常に強いコンプレックスを引き起こし、非常に強い偏見を引き起こし、非常に強い偏屈さを引き起こし、非常に強い攻撃性を引き起こしている。
そして、克服できない弱さが非常に強い幼稚さを引き出している。
極めつけには皮肉屋ときているから、嫌われ度満点だ。

私は自分自身のやつもそうだが、すぐ他人の感情に影響されやすい。
ふとフォーカスしてしまうと危ない時がある。
ふっと「死んだほうがいい」と思ったり、すべて捨てたくなったり、非常に不安定になったりする。
一瞬にして世界が変わる。
酒を飲んで忘れようとする。
切り替えをしないと何日でもその感情に浸り、感情の動き方を探っている。
つまりどっぷりと体験しているのだ。
これは綺麗な言葉を使ったからと言って改善されない。
完全に一度抜く必要がある。
より底辺に位置している感情だからだ。
そして美しいものは上位に位置していて、これは下地がしっかりしていないとなかなか感じられるものではない。
例を出せば憎しみや怒りは感じるが、絵画を理解するにはそれだけでは足りない、といったところだろうか。
何でもいい、優れた絵を見て深い情緒や思想や美を見ていくには、自分が負の感情に犯されていない必要がある。

私は時折思うことがある。
自分を友達としたいか。
いいや、どちらかというと嫌だろう。
非常に苦手意識が出る。一緒にいたくないなと。

偏見や思想は多少なりとも移っていく。
伝染していく。
たとえばすぐに他人を見下すような集団に長く属していれば自然と他人の粗を探すようになるし、ひたすらある一定の基準だけで物事の優劣を決める環境にいたら、自然とその上下で人を判断するようになる。
弱者は死ねという思想の中に5年以上いて、正常な感覚を養い続けるにはいささか難がある。

このように人は集団によって左右されるものだと私自身は考えている。
反発し、独立していく人間もいるが、残っていく人間は稀だろう。

私は長い間偏見の中にいた。
今よりも酷い偏屈さの中にいた。
正直吐き気がするほど歪んでいた。
もしここを読んで「こいつちょっと普通じゃないな」と思ったなら、その10倍は酷いと考えてもらっていい。
なぜそうなってしまったのかは、心当たりはあるがやめておくが、アレルギーというのは一度反応が出てしまうとほとんど一生ものとなる。
最近は徐々に体を慣らしていって、耐性を作るという方法もなきにしもあらずらしいのだが、心のアレルギー反応を取り去るには、非常に長い時間がかかる。
長い時間をかけて徐々に鳴らしていかないといけない。

この自分のコンプレックスとどう上手く付き合うのか、まったくわからないでいる。
対処法もなく、じりじりと腐るままにしておいている。
だから今の私には「大人になる」とか「大人の考え」とかがまったくわからない。
それが幼稚さをいまだに残している原因であり、成長できない自分の最も大きな欠点でもある。
それをうまく生かせないだろうかと小説を書いているが、10月末程度までに結果が出なければ一度書くことを凍結しようとも考えている。
いよいよ、ぎりぎりのところまで来た。
これ以上の事をするには、結果が出なければ継続できない。
そこまで来た。

死ぬのは簡単だが、少し生きていようと思う。
死んだ後人が悲しむのはどうでもいいことだが、困る人がいる。
それは私の能力を欲している人であり、理解してくれる人でもある。
変なことを考え出した時、その人たちの事を考える。

アレルギーやコンプレックスとどう付き合っていくか。
大きな課題になっている。

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09/03

Sat

2011

そういやいくつかバーで話していた内容を思い出しながら書こうかと思う。

「ラップとかやっている人がいて、それでそこそこのレベルなんだけど、結局俺には働くの似合わないし、みたいなこと言って、ラップやっている間は周囲の人からちやほさやされるから働いてもすぐやめたりとかして、いまだにフラフラしている友達とかいるんですよ」

という20代半ばの話を聞いていて、そういえば最近「才能」の話をしたなと思い出した。

才能っていうのは、ないものだと思えと。
自分は凡人だと思え。
自分は凡人で何も持っていないのだ。
その凡人が周囲から見られたら「あの人って才能あるよね」というレベルまで高めなければいけないのにどうしていかなければいけないのか。
テレビとか雑誌とか映画とかの影響で、ついつい「天才」を眺めて「俺もすぐに天才にまでいきつくことができる」という錯覚をしがちだが、そんなものなんてないんだと。
そういう凡人的自覚を常に持っていないといつか停滞する。
本当の力っていうのは、制御できないところまできて本物。
たとえば誰かに影響を与える。
影響を与えたやつは動き出す。
そいつがどうなるかなんてわからない。
そういうのが「力がある」っていう。
だから本当に力をつけると制御できなくなるものがたくさん出てくるんだ。
そういう力を、みんなは「才能」って呼んでるんじゃないのかな。
結局自分自身への客観的な視点を持って欠点や長所が見えてこないと補うべき部分も伸ばすべきものもわからない。
それって「好き」じゃないんだよ。
「嫌い」もあると思うの。
本当にやりこんだら自分の「好き」という範疇では収まらない複雑な感情が芽生えてくる。
「嫌い」の中にも「好き」が出てきて「好き」の中にも「嫌い」が芽生えてくる。
つまり影響力も自分を突き動かそうともしないのは進んでいるのではなく限りなく停滞しているのね。
停滞している力に依存しているにしかすぎないわけ。
そういうのは絶対自分で答えだせない。
環境の力に流されて、自分はこうなるはずではなかったと言うしかなくなる。
それってやっぱりそのことが「好き」じゃないんだ。
憧れているだけ。
憧れは「好き」ではないよ。
自分のものではないんだもの。

という話。

世の中には「凡人力」が足りないのじゃ。
うんうん。

自分は何も知らない。
何も持っていない。
そういう自覚があるからこそ誰かに対して長所を見出せるのではないかなと思う。
そして自分に持っていないものを学ぼうという気持ちが生まれる。
謙虚になれとか、そういう説教がましい話じゃないんだ。
きちんと物を見る目を養いましょう。
「好き」ができれば、「好き」が自分のものになったら、そこから世界は広がっていく。
そして新しい恩恵を受ける。
「嫌い」が多いと、それが壁になって結局得ることが難しくなってしまう。
「好き」は得する。
だから自分は何も持っていないという「凡人力」は「好き」を高めるのではないか、ということなのですよ。

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09/02

Fri

2011

「神聖かまってちゃん」っていうバンドがあるみたいで、NHKの特集を最近ようやく見たのですけど、その紹介されていたコメントで「何も響いてこないのはよっぽど幸せな人生歩んでいた人だよ」と書かれていたのを見て、響いてきた私は精神的には決して幸せばかりではなかったのだなと、いや別に不幸とか幸福とか関係なく作家になればすべてプラスになるので、だからこそ様々な感情を偽ることなく書き留めておくことが非常に大事なことになってくるのですが、結局私は彼と同じような作業をしていて、そして彼自身が充実してくることによって失われる、言葉を換えれば成長している部分もなんとなくわかって、しかも「どこまでいっても孤独」という部分にも頷いてしまうところが多く、何かと再発見がありました。

そこで重ね合わせながら思ったのは、自分に一番心配しているのは満たされることで変化してくるものが何なのか、というところです。
当然満たされないとできないものがあり、これから書こうと思っているテーマのほとんどはコンプレックスや欠乏、世への恨み、自分の非力さ、などを越えていかなければ到底書けるものではないので、なんとかしてのし上がって自分の本当に目指していたものをしっかりと残したい気持ちはあるのです。
それと同時に、出発点となっていて、かつ長年抱えてきた「幼稚で攻撃的で卑屈な感情群」が消えなければいいなとも思っているのです。
成長して人間的に成熟した作品というのは当然多くの人の共感を生むだろうし、それだけに売れる。
しかし私はほんの少数だけれど確かに存在している真実も無視してはいけないと考えているのです。
文学だからこそ、そういうニッチな作業もできるし、ほとんどの人には関係なくとも、その人にとっては救いを与えることになるかもしれないものだってできる。
私たちは生きるための希望、それも自分の人生にぴったりとフィットしてくるような希望が欲しいわけです。
明日を生きるための原動力が。
私はそういう原動力を与えるのは命を真正面から見つめようとする命のあたたかみだと思っています。

私は別に人間的に素晴らしい人間を目指したいわけでも何でもなく、もうこの「文学」という世界に本格的に入り込み、そして表現を通じて芸術というものを背負っていこう、人間の感情を背負っていこうと思っている身分なので、どう思われようといいわけです。
そういうものをひとつひとつ観察しながら自分の感情がどう揺れ動くのか知りたい。
きっと壊れてしまうかもしれないけれど、結局は背負った宿命なのかなとも思います。

最近書きおわったやつで題名が『ある「小説家」』というのができたのですが、面白いエピソードを入れておきました。
北日本文学賞に送ったのですがね、そのエピソードは扉なのですがくぐればくぐるほど扉がマトリョーシカのように小さくなり周囲の光が失われていくというものです。
後ろの光景はしっかりと見えるのに前方の光景だけは歪んで見える。
これは多くの人間が歩む道だと思っています。
そして最後までクリアに前方を見渡すためには、どうしていかなければいけないのかが、私が小説家として最後まで使命を全うするための課題だと思っています。

満たされる部分はあっても、飢えを残しておかなければいけない。
その「飢え」はコンプレックスであってはいけない。
解消されれば飢えが消え去るから。
じゃあそれにかわる「飢え」を見つけ、追い求めていかなければいけない。
私が見つめている世界が自分の価値観によって歪むようではいけない。
その歪みを矯正するために、日々どんなものでも吸収できる器を作っていかなければいけないなと、己の小ささを省みて思いました。

しかしまあ、先日も友達と話したのですが「俺汚い人間なんですよ。悪いとわかってて直せないんです」と言われたけど「俺も同じようなものだし」と苦笑しながら聞いていました。
私は短期的に負け続けても、最後には人生の勝利者になればいい、そのためには常に「克ち続けること」が大事なのだ、と思っています。
つまり自分を克服することなのですね。
そうやっていってこそ、新しい領域へとはいれるし、またその領域が大きな恩恵をもたらしてくれると信じています。

さて、今年よい結果が出せたらいいな。

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08/22

Mon

2011

トンボを見に行った

もうトンボが飛んでいるらしいとのことで、どれどれと近くの池のある公園まで行くと見当たらない。
少し慎重に周囲を見渡しながら行くと、アジサイの青い花の近くに飛んでいるのを偶然発見した。
今回はその一匹ぐらいしか見当たらなかった。
紅葉を始めている木も少しだけ見つけた。
風もお盆を過ぎてから少々冷たい。
もうそろそろ秋が来ているのだなと感じた。

ところで、その近くの公園は昔遊んだことのある場所だった。
今は違う場所に住んでいるのであまり頻繁に行くことはなくなってしまったが、ふと昔とよく比べてみると随分と柵が増えたなと感じた。
水路にも柵、池の周囲にもロープ、公園の入り口を出た車道の前にも鎖。「大変危険ですので渡らないでください」という内容。

前はそういうものは一切なかった。
この柵は水路に落ちるのを防いだり、池に落ちるのを防いだり、道路に出て車にひかれるのを防いだりする目的があるのはよくわかる。
つまり「リスク」というものを軽減させようと危険に対して未然にあらゆるものに対処しようということだろう。

ああ、人間って危険があると、こうして自らの環境を整理し、柵で囲い、境界線というものを増やしながら自分たちの生活に対して自縄自縛をするのかもしれないなと一瞬感じた。
そうやって柵をたくさん作り、中へ中へと小さな範囲に向かって整理していくような生き物なのかもしれない。
きっと黙っていたら、危険に対しての柔軟性がなければ、柵の外に出ることもできずに囲われてずっと生きていくのだ。

そんな、いや、きっと、未来の人間の日常は巧妙な柵に囲まれた都市の中に存在していくに違いない。

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
45
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みますが光野(こうや)とか朝風(=はやぶさ)でもよろしゅうございます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。自分でも困るほどの「皮肉屋」で「天邪鬼」。つまり「曲者」です。

2011年より声劇ギルド「ZeroKelvin」主催しております。
声でのドラマを通して様々な表現方法を模索しています。
生放送などもニコニコ動画でしておりますので、ご興味のある方はぜひこちらへ。
http://com.nicovideo.jp/community/co2011708

自己プロファイリング:
かに座の性質を大きく受け継いでいるせいか基本は「防御型」人間。自己犠牲型。他人の役に立つことに最も生きがいを覚える。進む時は必ず後退時条件、及び補給線を確保する。ゆえに博打を打つことはまずない。占星術では2つの星の影響を強く受けている。芸術、特に文筆系分野に関する影響が強い。冗談か本気かわからない発言多し。気弱ゆえに大言壮語多し。不安の裏返し。広言して自らを追い詰めてやるタイプ。

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