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あさかぜさんは見た

日記

03/21

Wed

2012

ゲームでも同じ競走の社会

競争という言葉から思い浮かぶのは、よく「走る」ことが思い浮かぶ。
でも社会はあらゆる場所で競争しているといっていいし、知らぬ間に飲み込まれて世の中はまわっている。
それはゲームの社会でも同じだ。
単純に自負心や利己心や射幸心を満たすために動いていてわかりやすい。
その中で余裕のある分だけ他人へ施しをしようとしたり、余裕のある分商売をしようとして、自分が儲けようとする。
思えばゲームは人間が決めたルールにのっとってやるものだが、ルールにのっとってやるプレイ自体には制限がない。
何をしてもいい。
だからたかがゲームといえども露骨に性格が出る。
例えばランキングにのる人間の100位と101位の違い。
トップ3などになると、次元が違ったりするが、少々競争原理が働いていて、かつ100位までは、ある資格が与えられ、それ以下は与えられない、という条件の場合、この100位と101位の人間の違いはなんだろう。

思えば自分は競争や誰かに比べられるのが大嫌いで、そのプレッシャーであたふたする状態からなるべく解放されたいと思ってきた。
実際、田舎暮らしのような、のんびりした生活の方が体質に合っているのかもしれない。
ただ自分は芸の道を選んでいるわけだし、当然「他人と自分は違う」と主張したところで、比較されながら価値が決まっていくのは言うまでもない。
トップの競争集団から振り落とされる人間はどんな心理でいるのか。
少なくとも自分は「これで大丈夫だろう」という勝手な安心をして、自分へ妥協を与えていた。
上に行けば行くほど、犠牲にしなければいけないものが多くなり、脱落すれば資格を失うのだから、実力の世界は厳しい。

人生は妥協が損を与える。
完璧などというものは存在しないし、完璧という幻影に怯える必要もないが、「妥協の技」は本当に百戦錬磨の老練ができることで、つまり場数を踏んで修羅場をくぐり、自分が入り込んでいる領域の原則を知り尽くし、そして自分の能力を遺憾なく発揮できる人間にだけ、初めて力の程よく抜けた行動ができるわけであって、若いうちから、体力のあるうちから「これでいいや」だなんて力を入れないでいると、逆に力をいれるべきところも見失うということだ。
だから古人は「かわいい子には旅をさせろ」と言った。
冒険させてやらなきゃ、世の中の渡り方だってわからないじゃないか。
どこで力を入れて、どこで休まなきゃいけないのか、その術がわからないじゃないか。
きっと、こんな意味で言葉を残したのだろうと思う。

中途半端に力を入れて頑張ると、損をするものだけが大きくなる。
だからこそ負けつづけ、負け癖がつき、行動が消極的になる。
一度この癖がつくと這い上がるのは難しい。
100位以上は価値があり、自分が109位だったら、どれだけ100位に近くても価値は認められない。
本の少しの差。
水泳だって指一本の差、競馬なら鼻差など、本の少しの差でも「実力の差」となり「トップ」と「トップではないもの」に振り分けられる。
残酷な話だ。

芸をやるからには、そういう残酷さの中にいる。
人の世を渡るには不条理さの中で栄光を掴み取らなければいけない。
2位では価値はとことん薄れ、もしかしたら2位への妥協が見事に人生の転落を呼び込むかもしれない。
価値をとことん薄めさせるかもしれない。
自分のベストを更新しつづけ、自己記録を塗り替える。
誰も評価してくれなくとも見逃せない前身をつかまえつづけなければいけない。
たとえ無価値だと言われようと、しがみつくべき客観を大事にしなければ自分を見失う。

ひとつ面白い言葉を覚えている。
「博打って自分で決めたルールを曲げ出すと、とことん負け出すんですよ。だから、最初に決めたルールをどれだけ貫き通すかが大事です。そのルールの中で転落したり上がったりする」
ご存知の方もいらっしゃると思うが「アカギ」や「カイジ」の作者福本信行氏だ。
「人生なんて不条理なのに、いつまでも不条理さを受け入れようとしない。だからダメになる」
うろ覚えだが、インタビューでこんなことを言っていた。

どうしても自分の場合、自分のペースが崩れ出すとミスが多くなる。
これは性質として避けられなくて、今までほとんどこれで失敗してきた。

自分のペースをどれだけ安定的に保てるのか。
ルールの中で、どう実力を発揮するのか。
きっと、その力の入れ方を、私はまだまったく知らない。
いや、その前に原理を理解していないのだな。

わかってますわかってます。
負け癖がにじみ出ている文章だってことも。
だから書いて認識しているのです。

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03/11

Sun

2012

去年の今ごろ

確かバスの中にいた。
温泉地に向かう途中で、久しぶりの温泉を楽しみにしていた。
震災を知ったのは、夜につけたテレビだったように思う。
携帯電話のメール機能などがほとんど使えず、辛うじて電話が通じた。
北海道内だが心配になった母親が電話をしてきた。
無事であることを伝えると安心したようだった。

テレビをずっと見ていて何かができるわけではなかった。
ひとまずは温泉地に来たのだからゆっくりとリラックスして楽しもうと思った。
できることをする。
楽しみにしていたのだから、楽しむべきだと考えた。
もし身内がいたら、友達がいたら心境は少し違っていたのかもしれないけれど、それでも人には各々の日常と囲まれている環境がある。
地球規模で見ると人間には不条理さがつきまとう。

一年経って何か進めたかというと、どうにも居心地が悪い。
誰かのために何かしなければならない前に、自分のことをしなければいけない。
その自分のことすらまともになっていない。
動けやしない。
そして自分のことができたら、今度は支援してくれた人にお返ししなければいけない。
順番があり、その最初のやつさえこなしていない。

進まなければ、という思いが随分空回りしているようにも感じるけれど、それでも苛立ったり焦ったりしてはいけない。
そうして、進んでいかなければいけない。
思いだけ、ぽかんと浮かんでいるような気持ちだ。

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03/06

Tue

2012

テストが怖い

いいアイディアが浮かんで、また懲りずに送ろうと思うのだけれどね、新人賞。
でも今回のは「意味を解体した小説」なので、文章というよりも詩の羅列。
それが小説になるのか、という疑問はあるけれど、試してみるのも悪くないと思っている。
ただ、審査員のハイコンテクストなコメントを見ると、反吐が出てきそうなほど気持ち悪くなる。
どうして作家とは、人に対する具体的なコメントを示さなければならないところで、他人に非常にわかりにくい表現を使うのだろうかと、いつも疑問に思う。
だから私は理路整然とした文芸評論家が審査員になるのならまだしも、オタクを極めた「作家」なる存在が審査員の半数以上を占めて他人の審査をするのは、本当に愚かなことだと思っているし、実際半分近くの作家のコメントが非常に分かりにくく、一般人に理解しがたく、独善的で、お前の文章の発表の場でもないのに厚顔無恥な「論評」をツラツラと書き連ね、他人を煙にまくような幕引きで終わらせる、あの滑稽さとくだらなさが大嫌いなのである。
ああいうハイコンテクストで否定されても、やたら自分の心の中が散らかされた感がするだけで、何の足しにもならんといつも感じるのである。

思えば、こういうのは答えのないテストのようなもので、そういえば、私はテストが大嫌いだった。
元々、メンタル攻撃に対するバリアはもう使い尽くしたようなところがあり、諸肌さらしているようなものなので、やわらか戦車なのである。
豆腐の角に頭ぶつけて負傷するレベルなのです。
そして、否定されることが、死ぬほど恐ろしいということに、改めて気がついた。
私の心の底には「認めてほしい」という気持ちが強く、つまりは自尊心が否定されてきた分、それをどこかで強烈に補おうと飢えているのだと思う。
だから、頑張ったものを否定される衝撃を味わうよりも、最初から頑張らないことで、あえて「悲惨な結果になって当たり前。言われた通りの人間だ」と自分を納得させる方が安心できた。
このような心理作用を「ゴーレム効果」と言うらしい。
反発心を持って、何クソと頑張れる人も中にはいるが、私は「お前はダメなやつだ」と言われれば、なんとなくそんなような気がしてきて「ああ、お前の言う通りになってやるよ」と意固地になってダメなところに走るようなタイプだった、というか今もそうなのかもしれない。

それで、そんな状態でどんどん追い込まれて、逃げ場のようなものがなくなってくると、今度はもう進むしかないなと開き直り、今は少しずつ精神的な安定も取り戻して一歩ずつ踏み出しているところだ。
きっと将来この手の日記を見れば「ああ、こいつなんてくだらないことを書いているのだろう」と思うのだろうが、その気持ちこそ大事であって、やっぱりもしそう思ってしまうなら、この日記も文章も今しか書けないものとして記録しておこうと思うのだ。

淡々と何事もなく人生を過ごせている人にとってコンプレックスを強烈に抱えている人の気持ちはわからない。
それこそ白髪が増えるぐらい具合が悪くなるくらい悩んでいるものなのである。
そうしたコンプレックスが私には強くあり、何かと比べられて卑下されるのが、もうトラウマレベルで嫌なのだ。
もし大きなものをつかもうとしたとき、当然この手のコンプレックスは克服していかなければいけない。
昨日までダメだったのなら、今日少しでもよくならなければならない。
そうしなければ同じ器の中、同じ部屋の中でぐるぐる回っているのと同じことだ。
人間が人間らしくあるのは考える葦、現代風に言うなら常にアップデートされるソフトウェアだからだ。
昨日の自分よりも少しだけよくなっていく。
そんな風にして人生は自分を克服していくものだ。

さて、3月にやることは決まったけれど、動悸が止まらない。
コンプレックスってこういう自分が意識してない勝手な作用が体に出てくるので怖い。
しかし克服しなければならないものなのだ。
頑張るかな。

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03/05

Mon

2012

絶望と希望

ずっと家に引きこもりの生活をしていて、自分の思考回路の中であれこれぐるぐる考えていると、自分の直前の思考を拾い、さらに広げていくため、私の場合はどんどんネガティブになる。
まあ、そういう癖がついているのでしょうけれど。

そういう自分の癖がわかってくると、酒に逃げる。
ダッシュで酒飲む。
思考回路を散らす、ということを昔からやってました。

なにせ、何度も書いている通り、基本的には鬱屈したものが心の根底にあり、まだそれを浄化しきっていないので、人に対し、物事に対し、なかなか寛大になれないわけです。
そんな中、色々あれこれ物事が思い通りにならないと子供みたいにストレスがたまってくる。
それで塞ぎ込んでくる。

しかしちょっと待てよと。
昔は心理的な束縛があり、その束縛から逃れることができず、とにかく病んでおり、命すらも軽視するような考えをしていましたが、今は少しだけ前向きな考え方ができるようになっております。
例えばうまくいかないこと、物事を思い通りに飲み込めないこと、そんな自他への動きに消極的な気持ちを抱き、すぐにもうダメだ、なんて思いがちでしたが、今は「健康でやれることがあるうちは幸福なのではないか」と思うようになっています。
これが誰かの圧力を受けている。
身近な何者かに心理的な迫害を受けている。
社会情勢政治的に行動が制限されている。
勉学しようにもその環境がない。
食料水衣服など生活に最低限のものが揃わない不安がある。
などという状況があれば、とても不幸な気持ちを覚えますが、少なくとも何か挑戦できるような気持ちがあり、環境があるのなら、それはとても幸福なことなのではないかと思うわけです。

今の私には色々目標があり、死ぬまでにはノーベル文学賞をとってやろうか、という気持ちがあります。
この年数は約40年以内を目指しているわけですが、日記を書いている時点ではまだ32歳です。
成人してから12年と半年は過ぎてしまい、今ようやく心理的抑圧状態、苛立ちやストレスで半日以上も思考回路を使うという日々を過ごす状態からほとんど解放されつつあります。
色んなことを勉強したり、将来英語で小説を書けるように、その前に話せるようになろう、世界を見ようなどなど目標がたくさんできてきて、ようやく少しだけわくわくできるようになりました。
こう考えると今の自分にはやれることがたくさんあって、それに向かえるわけだから、とても幸せなはずなのです。

昔だとちょっとしたことでネガティブ回路がフル回転して、もうどうにもならなかったわけです。
今友達が塞ぎ込んでいて一年以上も部屋の中でいて死にたいと毎日思っているようですが、そういう心理状態は凄くよくわかるだけに、自分が今興福だと思っているからと言って、こうせよとは言えないのですが、少なくとも誰かに連絡ができるということは、まだまだ救いの可能性は残っているわけです。
完全に絶望的な状況ではない。

発想を変えても、思考がついていかないことがあります。
心理的な病の場合は、どうしても脳のシグナルの異常も含まれるので治療が必要ですが、まだそこまでいっていない人は「できないこと」よりも「やれそうなこと」に目を向けてみるとよいです。
そこで大事なのは完璧主義にならないこと。
周囲の野次に絶対耳を傾けないこと。
それが大事だと思いますよ。

世間の皆様は普通大学を出て就職して三十半ばときたら役職などついてくるわけですよ。
それを30過ぎてようやく歩み出している自分など世間様から見れば屑同然。
そういう自分が周囲から見ればアホのようなことを書いている。
それでも私自身は希望にあふれているわけですよ。
そして自分にはできるだろうなと薄々感じている。
あとはその努力をするだけなのです。

たまたま調子がよかったので書いてみましたよ。

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02/27

Mon

2012

人生の時間は限られている

若さってやっぱり財産なのだよな、と若い人と話しているとよく思う。
といっても、10年ぐらいの差なのだが、自分は10年間はまるまる出遅れているという気持ちが強いので、辛くとも悩みながら、それでも目標に向かっている姿を見ると、ああ、なんと素晴らしいことだろうと感慨にふけってしまう。

人間は理屈の上でわかっていることは何も分かっていない。
分かってくるのは実感として染み付いてきたときに、ようやく「こんなものなのかな」と深く感じ出す。
結局上っ面を撫でているようなものには、まだ中身はわかっていない。
情報だけ理解し、現象も理解しているようで、本当の仕組みにまでは理解が及んでいないということは情報がありふれているからこそ陥る錯覚だと思っている。
自分もまた、間違いを犯さないよりも、あえて当たって砕けろを心がけているのだけれど、理解などという言葉にはものすごく遠いところにいる。

そろそろ、死ぬまでの道筋を考え始めている。
人生の時間は限られているとは言うけれど、実際にそれを意識できている人は少ない。
私ぐらいの年だったら、まだまだ人生は続くだろうと考えているだろう。
私は自分のやっていることが失敗すれば、死あるのみなので、後がない。
たとえ食えていけたとしても、命尽きるまでにできることといったら限られてくる。
その「命尽きるまでに残していくもの」を少しずつ考えている。

例えばミュージシャンでも、30年も活動できる人は、一握りしかいない。
しかも30年といったら随分長いような気がするが、世代を越えて、ということを考えるとどうもそうではない。
あまりにも短い。
私が携わっているのは文学だが、はたして100年残っていくような作品がひとつでも残せるだろうかと考える。
一体何のために色々なものに頼りながら、意固地にここにかじりついているのだろうと、時折自問自答する。
将来成し得ることまでは断定できないし、そこに希望を抱くか絶望するかは本人の心構え次第だ。

先日NHKで人類とお金の関係を放送していた。
お金とは単純に生活していくための道具だと漠然と認識していて、お金を得るために働かなければならないと現代日本人は誰しも認識できている。
今現在、まともに生活できるほどお金を稼げない、結果を残せない自分は世間から見れば価値がない。
結果がないのだから値段がつかない。
「自由」とは何でもしていいが、すべての結果の責任は自分が負わなければいけない。
フリーランスやノマドなどといったら聞こえだけはよいが、正直言って食い合い。
いや、そもそも「個人事業主」みたいなものがなくとも、芸術家、芸に携わるものは自然と「実力の世界」に巻き込まれている。
これが微塵も理解できないのなら携わる資格がない。
そしてそもそもこれらの「芸」は「値段のないもの」であって、そこをうまく現代資本主義のシステムに乗せて金を得ている。
今お金のことを考えると今の自分には価値がないのだから、たちまち首でもくくりたい気分になるのだが、何かそんなことばかり考えていると、すっと言葉が頭の中から砂のようにこぼれ落ちて、何も組み立てられない日々が続いてしまう。

お金がないということは、ものすごい焦りがある。
自分の評価が低いという実感も持ってしまう。
悲しいまでの実力のなさというものを突きつけられているようで辛くなる。
希望を持ちつづけるには精神力が必要で、それは恐ろしいほど莫大な、まるで恋でもしているかのようなモチベーションがなければ、すぐに尽きてしまう。
やはりどこかで「見返り」がないと、萎えてしまう。

ここ最近はこんなことの繰り返しで少しずつ進んでいるのだが、言葉の世界や目の前の事実だけにこだわってしまうと未来を作っていけなくなる。
言葉の世界に携わっているだけに、その呪術めいた作用や、暗示的な作用が働いてくるのはよくわかってくる。
しかし言葉だけでは本心を覆すことはできない。
どんなに綺麗事を言おうと現実は変わらない。
汚いことを言おうと現実は変わらない。
やるべきことはわかっているのだからやればいいのにね、精神力が追いつかないのですよ。
小説書くのが楽しいと言っている人が羨ましいね。
どうしてあんなに自分のすべてをひっくり返してくるような作業が楽しいのだか。

さて、人生の時間は限られているという題名でこんなに長々と愚痴めいた日記を書くのはそもそも間違っている。
今やるべきことはXHTMLとHTML5の勉強なのですよ。
文章のことではなくウェブ構築のノウハウを得るという、随分と遠回りなのですがしょうがないもんね、やりたいことを表現するのに必要なのだから。
英語の勉強もして将来英語で小説書けないと生き残れないだろうなとも考えているし、こういうことざっとあげただけでも5年は費やしそう。
それで詩のことも、またやり直さないといけないし、書くといっぱい出てくるんだよな。
四書五経、キリストイスラムの宗教世界のこと、量子力学、心理学、脳のこととか、あーもう、ありすぎる。
三国志も改めて「陣形」のこととか学びたいし、水滸伝だってまだ読んでないし、金瓶梅、紅楼夢、西遊記とか、うおい、童話もあるし、グリム、アンデルセン、マザーグース、イソップ、シャルル・ペロー、日本の近代文学だってまだ読み尽くしているわけじゃないし、ね、やることいっぱい。

ということで、目標なんて与えられるものじゃなくて自分で見つけてこなしていかないといけないわけですわ。
死ぬまでの時間のこと考えても不思議じゃないでしょ、今あるだけでもこれだけあるのだから。
最低限のベースとして備えておかなければならないことなんですよ、これでも。

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
46
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。

気が付いたら他人からとても褒められる娘ができまして、人生が大きく変わりました。
この小さな可能性と向き合うため頑張って生きております。

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