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あさかぜさんは見た

日記

08/12

Sun

2012

実は7月の半分以上京都で過ごしていた。
取材でいってきたのだけれど、人を知るのは本当に大変。
ほとんど生活に密着するような感じで、相手の感覚から理解していかないと表出している考え方や価値観に振り回されてしまう。
私たちは体の感覚ひとつ、体力精神力が皆別々で、自分の体力精神力を尺度にして他人を見る生き物だから、まったく違う人がいて、自分よりも劣っていると感じたとき、否定から入るのが普通だ。
それだけ人は弱い。
私は弱者を救う力のなき知恵なきものや、自らの力を弱者を抑圧するために使う人間は、皆「弱い人」と認識しているので、そう言う。

札幌から関西まで随分近くなったものだと感じた。
今なら安い時で片道一万円以内でいけるのだから、本当に距離は遠くとも近くなったものだと驚くばかりだ。
関空着陸間近、恐らく明石海峡大橋だと思うが大きな橋が見えた。
晴天で岸和田の街なみなのかな、よく見えた。
空から人間の街を見るときミニチュアのように見える。
「これが人間の作ったものか。人一人でビル一つ作ることさえ出来ないのに凄いものだ」
と人間の力の大きさを実感すると同時に、
「あれでさえ、土の上の積み木にしか過ぎないのだから自然の力は恐ろしい」
とも思った。
間近で見たら余計に人の力の偉大さを思うだろう。
しかしその「偉大さ」でさえ、地球から見えれば「蟻のような力」でしか過ぎない。
人は人の尺度で物事を見て、いつの間にか傲慢さに飲まれていく。
人の一生使ったってビル一つ建てられるかわからないのに、それでさえたいしたことはないのだ。

京都ではちょうど祇園祭をやっていた。
山車(だし)が出るのは中旬だが、ほぼ一ヶ月近くは祇園祭期間中ということで、河原町には提灯が出ていた。
昼間はほとんど取材で出歩くことが出来なかったので、夜に出歩くことが多かったが、京都と札幌を比較してよくわかることが「文化の違い」だ。
当たり前のことなのだが、歴史が深いと一つ一つに意味が込められている。
その意味が読み解けない。
神社仏閣一つとってもそうだし、祇園祭では屏風を披露するという風習があるのだが、屏風絵を見ても読み解けない。
それだけ知識がなく、まったく歯が立たず、ぬくぬくと「新しい街」でたたずんでいたのだなと実感させられた。

伏見稲荷大社でも本宮祭があり、途中まで登ってきた。
山頂近くには薬力社があり、健康ゆで卵が売っていて、一つ食べたがおいしかった。
そこに住んでいるおじさん曰く、何故「健康」なのかという理由で、
「卵はスーパーで売っているような赤玉やけど、そこの薬力社の湧き水を使ってゆでてる。薬力社には無病息災、健康長寿などのご利益があるので、健康卵なんですって言うと納得してくれはる」と言っていた。
山頂近くのスーパードライ瓶ビール700円も高級な味でした。
「飲料水200円とか高い言うけどな、途中業者用の専用道路があるけど、あとは人の手で持ってくるんだから、その労力考えれば全然高くない」
一度登ればわかるけれど、結構足腰に来る段差が多い。
それなりに急な場所もあり、上になれば背負って持ってくるのだから、言っていることはよくわかる。
昔は下から全部人の手で持ってきていたそうな。
そんな想像をすると、つくづく大変だなと思う。
そのおじさん昔からそこに住んでいて生活しているのだそう。
薬力社サイト
このサイトでちょうど左に移っている家です。

京都の街で過ごして考えさせられたのは「文化」についてよく考えていなかったなということだった。
新しいものがどんどん出来てきて古いものが淘汰されるのは自然の摂理ではあるけれど、自分たちのルーツまで絶ってしまうのは愚かであると考える。
例えば私たちの生活を滅茶苦茶にしてしまうような何かが起こったとき、戻るべきよりべとなるのは文化である。
それは芸事ではなく、衣食住に含まれたものであり、そしてようやく安定したところに祭事など芸事が含まれてくる。
自分たちのルーツを確認し、我々が何者であるのかを確認するような作業の集大成が文化なのだと私は思っているので、ぜひまた京都に戻ってじっくり考え事でもしたいと思っている。

P.S.
写真撮ってたけどめちゃくちゃで、手振れひどいわ、うまく撮れてないわ、カメラの使い方からレンズまで、まったくのど素人写真。
こりゃ参ったなと、自分の知識のなさに愕然。
カメラの勉強もしたいと思います。
ああ、へたっぴー。

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08/07

Tue

2012

否定の暗示が強いと、行動する前に既に諦めている。
色々思い出した。
そういえば自分もそうだった。
例えば馬鹿のような扱いを受けて、ダメなようなことを暗に示されると、また、お前はたいしたことないようなことを何年も刷り込まれると、本当にそうなんだと自分で思い込むし、やる前から自分で否定していて、やってもできないのではないか、また、成功して褒められることに違和感があったり、否定の状態が普通になると、肯定されることが焼かれるごとく違和感があった。
落ち着くためには否定の状態に戻るしかなく、肯定の違和感をかなぐり捨てて、どうにかして元の否定されている状態に体が戻ろうと行動を始める。
これは恐ろしいほどの心の暗示だと自分でも思う。
つまりこれは肯定の状態の暗示の逆パターンだ。
逆境に立ち向かえる人は、そう心の力が常に働いている。
それと反対に、落ち続ける人もいる。
心の底で自分を否定しているからだ。

これと同じような事が社会でも呪詛のように垂れ流されていて、その否定の呪詛は今や当たり前となっている。
だから呪詛に近いということにも気がつかず、出来ないやつが悪いと「責任」という言葉で片付けられているが、そもそも人間の成長など他者と比較することなどできはしないし、他者と比較したところで持っている能力を伸ばすことなど出来はしない。

「出来ません」
この言葉は私にとって今やどうでもいい言葉になっている。
人間やりたければやるだろうし、やりたくなければやらない。
どうしてもやりたいと望むのならば、出来るまで根気よく続けさせるだけだ。
例え壊れている状態を普通だと思い込んで、完成に近くなればなるほど破壊したくなって、事実ご破算にしたとしても、またやればいいとひたすらやらせる。
そして壊すことが実はとても非生産的な事で、まずは完成させることの大事さと経験こそが生産的で創造的な事なのだと体に叩き込むしかない。

心理的癖については他者から与えられることも多く、その大部分は思春期に接してきた「親」または、それに近い状態の人間からつけられることがある。
人は癖がつくと、そうちょっとやそっとで直るものではない。
本当に長い時間をかけて、ようやく一癖直っていくものだと思っている。
それぐらい人の癖はやっかいで、ましてや否定的なものを心の中に持っているとしたら、そこに変化を与えることは努力に努力を重ねなければいけない。

世の中は競争を常にしていて、他者を出し抜くために日々努力している。
スピードで動いていて、自然と比較され、出来ない者は退場していく。
それは「金」のために動いていて、「金」のための競争で、「金」のための社会維持だ。
しかし私たちはそんな社会を懸命に作ってきて、それ以外の選択肢を失っていってしまうというのは、あまりにも一方通行過ぎて可能性がない。
広がりがなく狭まっていってしまう社会は、そっくりそのまま可能性も同時に狭めているということだ。

否定のない社会などないけれど、例えば否定する時、それが何のための否定で、どのような意図と目的と結果を推測しての言葉か説明する人間は極めて稀だし、相手側の知識や技量や環境まで考慮しての発言を出来る人間がいたとしたら、まず幸運だし、その人間を友とするべきであろうほど貴重だ。
多くの人は言いっぱなし。
挙句の果てには自分が他者を否定したことすら覚えていないほど適当で、それゆえに罪深い。
ようは、ただの衝動とストレス発散的な目的で、口から出てしまった後は、知らないよ君次第だし君の責任だからね、というような適当な気持ちで言う人が多いってことだ。
その証拠に多くの人は一年前何を否定していたかほとんど覚えていない。

そんな適当さに心を痛め、自己を長年否定し続け、人生すらも歪ませてしまう人だっているのだ。
私は人に助けられたけれど、助けてくれる人が現れない人だっている。
諦め癖がつくと、足を一歩、いや、指一本動かすのでさえ怖くなる。
それだけ強力な否定癖が心の底に植えつけられているからだ。
人間が誰しも逆境に打ち克てるなんて嘘です。
弱い人間もいる。
そんな弱い人間に、後は君死ぬしかないねと思わせるような社会ではいけないと思う。

しかし悲しいかな。
人間の評価は心理の積み重ねではなく、あくまで表出させた行動の積み重ねでしか改善されない。

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08/06

Mon

2012

折り合いをつける

折り合い=
1 折り合うこと。譲り合って解決すること。
2 人と人との関係。仲。


そんな「折り合い」の話なのですが、先日酒に酔ってつまづき転んで左頬を擦りむくという失態を晒し、まったく酒との折り合いをつけることのできない私です。
何ヶ月かに一回こういうことやってますね。
おかげで傷だらけです。

人は大なり小なり欠点があり、やはり一所に生活をともにしていくと、嫌なところが見えてくるものですし、不本意な事も当然起きてきます。
それが当然なのですが、どうしても公の場所で接しているような感覚でプライベート空間を捉えてしまうと、それはもう我慢ならないことがたくさん出てくるでしょうし、生活スタイルや癖も違うのですから気に入らないものや気分を害することはたくさん出てきます。
子供の頃だと要求をつきつけ、それが叶えられないことに対し不満や愚痴や文句を言うものですが、大人になるとそうも言っていられず、「どうしたらこの状況が改善されるのか」ということへの積み重ねになってきます。
それを自ら実行できなければ、いくつになってもあれかよ、という目でだんだん見られがちになります。

大人になっていくというのは、折り合いをつけられるということだと思っていますが、よく言う「妥協していく」ということとは違うような気がいたします。
「妥協」の言葉の感覚とは、どうしても自分のやりたいことを諦めるようなイメージが付きまといます。
我や欲望を突き通そうとすると角が立ちますが、互いが互いのためにできることを熱心に探していくという立場だと、建設的なぶつかり合いができます。
かといって、これは両者の努力が必要ですから、片方だけがどうこう頑張っても、片方が相手を利用するような立場で甘んじていたら成り立ちようがありません。

昔は自分の「自己」というものが弱く、なかなか自分の意見を主張することができませんでした。
嫌われることや気分を損ねられることが怖くて、動悸が止まらないほどでしたから、もう条件反射的に人を警戒していたわけです。
そろそろ「若者」とは見られないような年になってきて、やりたいことも増えてくると自分の主張と信念がなければ、いくらでも他者にやりこまれてしまうわけです。
そうなってしまうと「創造性」すらも放棄することになってしまい「創造性」を放棄するということは自分に対する「人間的価値」の否定にも繋がることになると気がつきましたので、全力で何らかの手段を取るという反応が出来るようになりました。
といっても相手をやり込めるということとは違い、熱心に相手のことを知ろうとするという心構えが出来てきたというのも年を取ってきたなと思うところなのです。
以前ですと血の気が多く、プラスかマイナスか、どちらかにしかぶれることができず、怒りかもしくは悲しみかでしか人を見ることができませんでした。
無気力状態というのも長く経験しましたし、心の中の出来事ですから、誰もわからないわけですね。
皆さん、こんな風に心の中では色々ご苦労なさっていることかと思いますし、やはり「わかって欲しい」と少なからず願うものですから自分が懸命に努力したことは認めて欲しかったり、そこまでいかなくともさりげなくありがたく思って欲しいものです。
我欲が前面に出てしまうと折り合いをつけることも、なかなか難しくなりますが、出来ることはないかと探せるような知恵がついてくると少し面白くなってきます。
人と付き合うことは非常に面倒ではありますし、誰かや何かのために頭を使うことは大変です。
多くの場合「理由」を見つけるために、自分で納得するために、未来を勝手に推測などしたり、頭の中で理屈を様々こねくりまわして疲れ果ててしまったりするものですが、未来と確認していないことはすべて未定及び不確定であると考えると、わりと成すべきことがわかってきたりします。
中には、わからず聞くと「そんなこと聞くなよ」とつっけんどんに言ってくる人もいますが、基本聞かなければわからないし、一度でわかることなんて滅多にないし、接していなければ見失ってしまうのが人ですし、安心ですら未来への推測の部類に入りますから、不安はいくらでも想像により膨らんでくるものです。

様々な事に「折り合いをつけられる」ように成りたいと思うものですが、未熟なのが人間。
その未熟さに折り合いをつけられるようになると、より他人にも優しくなれるような気がいたします。
変化のないものなどありはしないのですから、変化を前提に気持ちを前向きに整えておくと今目の前にあるものに対しても多少なりとも好奇心をもてるような気がいたします。
いつまでたっても、私たち一人一人は不完全な個体であります。

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08/01

Wed

2012

いじめはなくならない

「あー、死んでせいせいしたわ。いなくなってよかったよね。ようやく死んでくれた」
そこまでハッキリと言う人間がいなかっただけに、この手の言葉を吐く人間が本当にいるのだという実感が持てなかった。
しかし、いざ聞くと反吐が出る。
しかも自殺に追い込んだ当事者ともなると、人間的な価値を感じない。
ゴミか何かを八つ裂きにするような気持ちで暴力的な手段に出てもいいとすら思う。

「いじめはなくならない。他者を蹴落とすことで自分が生存するための優越感や安心感を得るものはいつの時代にもいる」
そういう人がいた。
確かにそうだろう。

動物界の中には自然といじめに近い行動を起こすものがいる。
いや、生存し、遺伝子を残すための本能的な行動を起こすから動物なのであろう。
しかし同種では共食いではない限り相手が死ぬまではやり込めない。いるのかもしれないが、私は知らない。巣の中から卵を蹴落とす雛がいることを知っているくらいだ。

人はいつから物理的な暴力以外、つまり言葉でやり込めることは暴力に該当しないと考えるようになったのだろうか。
そして直接手を下していない事柄に関して、いかように評価してもよいと思うようになったのだろうか。
むしろ古今東西そうであったのか。
善が存在する限り、悪が滅びることはない。
悪は常に善の対極としてあるのだから、善の存在こそ悪を浮き立たせ、悪の存在こそ善を浮き立たせるという相互関係にある。
自然の中を見ても、動物たちは食うか食われるかのしのぎを削っている。
人間だけが例外であろうはずがない。
一体人間はどの範囲まで理屈を広げ、どの範囲まで狭めてはいけないのか。
人間とその暴力に関しては人類が永遠に抱えるテーマかもしれないとすら思う。
人間は生きるためにあらゆる植物動物を殺し、生きている。
人間は人間に食われ、生きている。
複雑だ。

社会は相互の関係によって成り立っていると考えるのは、頭の中の夢物語なのだろうか。
役に立たないのはゴミで、人間として生きていく希望は与えられず、早く死んだほうが社会のお荷物にならずに済み、人間として命を持つ意味や意義を成さないのだろうか。
実際には搾取の構造があり、下種が好き勝手言い、優しい人間が死んでいってしまうような社会で、どれほど努力し訴えようと馬耳東風であり、自分には関係ない面倒な話としか受け取られないのだろうか。

そうじゃない。
私が接してきた人は、たとえ裏側で文句や非難を口にしていようと人がよくて、快くしゃべってくれて、時としてさりげないおもてなしもしてくれて、それぞれの想いにあふれていた。
そういう人たちだっているんだ。
どうして人間をモノ扱いしてしまうんだ。
自己憐憫が強くて、自分のみを守ることに長けていて、それでいて人の自尊心を奪うようなことしかしゃべらない悪辣な性格の人間は確かにいる。
でもそういう人間の言葉や感覚に合わせてはいけないんだ。
なぜなら次の犠牲者は自分の大事なものだったりするから。
それがモノではなく友達だったら?
大好きな人だったら?
その人を失ってもいいの?
そういうこと考えられなくなっている人が怖いし、感覚がわからない。
ただ、楽しいと思うのだろうか。
ただ、ゲームで勝ち続けるような作業でしかないのか。
死んで喜ぶという神経はどんなものなのだろう。

いじめはなくなることはない。
それはわかっている。
でも、どんな風に、気持ちを整理してよいのかがわからなくなるのだ。
はらわたが煮えくり返るとはこのことなのだろう。
今猛烈に苛立っている。
下衆がいなくなることはない。
だったら、どうやっていじめをなくしていくのか。
人の輪を使ったネットワークと、自らが悪意への耐性を持つくらいしか今はアイディアが浮かばない。
人を殺すのも人だが、人を救うのもまた人だ。
私はそれを体験した。

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07/29

Sun

2012

否定する前に見ろ

昔「料理の鉄人」という番組があった。
最近料理をしたいなと色々レシピを眺めていて、ふと昔やっていた番組を思い出した。
Youtubeで探していると3代目の和食の鉄人、森本正治のものがあった。
略歴はWikiにあるが、その後どうなったのかなと見てみたら、今度は「カンブリア宮殿」の番組を見つけた。
料理の鉄人はアメリカのテレビ局に売られ、アメリカ版として放送されていたが、アメリカでも彼は鉄人として活躍し続けていた。
そして今や「予約の取れないレストラン」「10億投資しても回収できるレストランオーナー」として経営の手腕を発揮している。
平均して1店舗あたり7億以上の年商を誇る。10億円以上も稼ぎ出す店舗もある。
ある店舗はおまかせコースで1万円から。決して安くはない。
福島の原発事故があり、日本の食材が海外で警戒されている中、そんな懸念を吹き飛ばすほどに流行っている。
築地から空輸されてくる魚などを扱っているのに、なんのその。
一晩で400人ものお客をもてなすのだから凄いものです。

私にとっても非常に参考になる話ばかりで、例えば「味噌汁」に対してクレームがついたことがあったという。
味噌が沈んでいて、日本人ならかき混ぜることに気がつくが、上澄みだけ飲んで「なんだこれは!味がないじゃないか!」と怒られたという。
つまりニューヨークの人たちは「第一印象」ですべて決まってしまう。
ならば、現地の人たちに受け入れられる和食は何か。
生魚を食べない人たちの「入り口」となる料理は何か。
マグロの「刺身」ではなく「カルパッチョ」としたら受け入れられるとか、その「入り口」を通してちゃんとした和食をいずれは食べてもらいたいという考えがあるという。
しかし受け入れられるためには和食の概念を崩す必要がある。
和食をベースにした創作料理とも言える、まったく別次元の和食が出てくる。

森本は言う。
「おいしいものはないと思っている。環境や気分によって同じものを作っても違ってくる。ビジネスとしての料理は3割」と。
「僕らプロだから3割に命かけます」
そんな言葉の中には徹底した「現地戦略」がある。
つまりは「誰を相手にしているのか」だ。

創作者が合わせるべきはスポンサーでも身内でもなく、「受け取ってくれる人」だ。
その人たちは誰で、どういう人たちで、何を好んでいて、どんな知識があるのか。
そこまで読み込んで作っていく。

これは自分の立場に置き換えてもよくわかる話だ。
読んでもらうまでが大変。
つまりお金を払ってもらって実際に体験してもらうまでが大変なのだ。
既に買う段階に来ている時、何らかの「期待」、言い換えれば「予測された満足」がある。
それを上回れば、また手にとってもらえるし、下回れば二度と読んでもらえない。
読んでもらってこそ「作品」として完成する。
しかし傲慢になってはいけないのは、当然「これは自分が面白いと感じるから相手も面白いと感じるだろう」とか、「教えてやろう」とか、行動を押し付けるのではなく、あくまで相手から学びつつ手法を考える、ということだろう。

「優しさだったり、おおらかさだったり、そういう気持ちならうまくいく」

謙虚に学べる姿勢と、こだわりを押し付けない気持ちこそ、発想の柔軟さを得ることになるのだろう。
何故、それが受け入れられているのか。
この視点を磨くには否定が先にたってはいけない。
ちゃんと観察し、きちんと学ぶこと。
こだわって悩みぬくより「入り口」を作ろう。
大事なのは「相手が次もワクワクするような行動」だ。

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
46
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。

気が付いたら他人からとても褒められる娘ができまして、人生が大きく変わりました。
この小さな可能性と向き合うため頑張って生きております。

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