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あさかぜさんは見た

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11/24

Sun

2024

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04/23

Mon

2012

「まるくなったね」 オンラインRPGでのこと

2年ほど前になるが、半年少しオンラインRPGをやっていたことがある。
だいたいのオンラインRPGには「ギルド」なる団体があり、数十人あたりで構成されている。
ネットゲームと言っても組織運営はマスターの裁量次第となるわけだが、そこで90名規模の人数のギルドマスターをしていた。
最大同時接続人数は40人は越えている時があったので、もうチャットは喧騒状態で3秒目を離したら話が追えないという具合まで賑わっていた。
しかしそれも長くは続かなかった。

たくさんの人数を集めるということは、人数の分だけ希望があり、希望に沿わなければ不満が生まれる。
また実年齢関わらずメンタリティが幼い人間によく出会うのも特徴で、人間関係のトラブルにはかなり巻き込まれた。
ほとんどのオンラインRPGでは某掲示板に「晒し板」なるものがあり、気に入らない行動をするユーザーの名前を晒して、集団で暴言を吐きまくるというネチネチとした陰湿的なものがあるのも特徴ではある。

ギルドは最初はどんどん大きくなっていったが、組織の中でさらに負担や役割を細分化する作業に失敗して、自分が潰れて結局は分散していった。
ネットゲームは手軽に出きるので「俺でもマスターできるんじゃね?」と気楽な気持ちでギルドを立ち上げる人も多く、だいたいは以前のギルドへの不満から新しいギルドを立ち上げるが、実際に集めた人数を何らかの形で束ねるというのは、結構な技術が必要になる。
そうして結成と分裂を繰り返すのも、このオンラインRPGギルドの特徴でもある。
そしてそのゲームは「カップル」がシステム上重要な位置にあって、男女関係のトラブルもたくさんあった。
最初は「ゲームだから」と距離を置くことができたが、そのうち精神が疲労してくると一気に崩れてしまった。

今だからこそ、あの時は組織構成力と自分の至らなさが起こした崩壊分裂だったのだなとわかるし、たかがゲームといえど人数を集めて、不満は多少あっても皆がうまくいくようにする、という至難の技を多少体験した。
それだけの人たちと関わることで得るものもたくさんあった。
自分が、他人に従うよりも、自分で最初から何かを作りたがる体質なのもよくわかった。

人間関係のトラブルの多くはネットに関わらず、「自分の行動言動が他人にどう思われているかまったく理解できない」というところから始まる。
それぞれの思想もあるだろうが、ほとんどは伝わらず、他人の価値観で判断される。
「あの人ってわがままだよね」
「あの人押し付けがましい」
「あの人にひどいことされた」
色々あるが、だいたい当人はあまりそう思っていないことが多い。
酷い場合をのぞき、結構良かれと思ってやっていることもあるので、指摘して初めて面食らったりすることもある。
未成年ばかりのことだろうと思うだろうが実はそうではなく二十を越えた立派な社会人がそうだったりするから困るのだ。
中には30代や、たまに40代もいる。
そんなこんなで、自分も自分でイメージしている自分と他者がイメージしている自分のズレがあった。

少し気になることがあって最後の確認をしに1年に一回ほど入っていたが先日また1年ぶりに入った。
ギルドの名前は残してあったが人数はほとんど散ってしまっていた。
まだやっている人もいて、入るなり話しかけられ少し話したが数人から「丸くなったね」と言われた。
色々聞いてみたが前は少し怖かったらしい。
そんなつもりはなかったが、他人はそう感じていた。
2年間何かしてきたのかな、思うほど何もしていないのではないかとも感じるが、とにかく自分に打ちのめされる2年だった。
去年は自信のあった作品は弾かれて実力のなさを痛感したし、日記にも素直に色々書いているように明らかにどうしようもない人生を歩んでいたりするので、とにかく自分の小ささ、くだらなさ、滑稽さを学んでいるのです。
それで削れてきたのが、欲望というか、自己妄想的な意識というか、実戦を経験し実践を重ねることで浮いていた考えが叩き伏せられようやく地に足がつき、今度は腰を沈めるところにきているというか、思い当たることはたくさんあります。

こうして年月をはさんでみると楽しいなと思うことがあって、あの時何をしていたのか、というのがうっすら分かってくるわけです。
ダイレクトに何か効果が出てくるというのは人との間ではまずなく、長い年月を経て変化がうっすら見えてくる。
前々から人の可能性、変化への期待や祈りのようなものを心に秘めながら、ネットでも人と接してきたのですが、ある程度の大きな力を注がないと効果がないということと、ある程度の年月が経たないとその力の効果は見えてこないということがよくわかりました。

システム上でのルールにのっとった「ゲーム」の中での話ですが、簡易組織の変化のあり方を見ました。
今はもう莫大な時間を割くことは、時間管理が下手なのでできなくなっているし、書き物もアイディアだけ浮かんで膨大な量書けず仕舞いになっているのでできませんが、仕事の効率が今の5倍くらいになって年間1億ぐらい稼げるようになったら、また若い連中を集めて遊んでみるのもいいかもしれないなとチラと思ったりもしました。

そんな実りのなさそうなゲームの話ですが、現実でも自分が稼げるようになれば組織を作っていくのも死ぬほど辛そうだけど楽しいだろうなと、思った次第。
前々から思い描いていることがあるので、40までには実現できる能力を身につけていきたいなとも思っていたり。
さて、どうなることやら。
中小企業診断士くらいの能力は持ってないといけませんな。
英語で小説を書くことも一つの目標だし、何を選択していくのか、どの程度自分で抱え込めるのか、そのキャパシティが増えれば、きっともっと楽しくなるなと思いましたよ。
「人」というものをクリエーションするのが一番の「創造」だと思っています。

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03/26

Mon

2012

目が覚めてきた

なんだろう。
このもやもや感。

http://togetter.com/li/21583
エロゲが8800円もする理由

この中に、さらにある二つの別の話。
どうして儲けが出ないかとか、どうして量産されるかとか。

業界がまったく違うけれど、何かものすごい重なってくるような部分があって、なんか、もやもやしている。

現実。
突然私の話になるけれど、文学のこと。
たとえば露出を増やしたところで販売に響くわけではないけれど、色んな意味で目立たなければいけない。
知名度を作り上げるまでの途方もない労力、いや、これって「センス」だってわかっています。
この知名度も目立つけれど、何よりも「面白い!」と伝わっていかないと意味がない。この「面白い!」が一番目立つ。
しかし「売れるものを作る」ということは、結局は前にも述べた「みんなで話題を共有できてわいわいできる場作り」みたいなのがコンテンツには大事で、さらに「購入前のわくわく感」みたいなのがないと、そりゃー買うはずもなくて、一体夢見てたのはどこのどいつだってことになってきまして、今エブリスタという小説投稿サイトでいっちょやってやるかと構えているけれど、そこは現在185万タイトルがあり、その中から月間賞取ろうとしているのですよ。
改めてその数の多さと、どういう風に手を打っていくかを考えながら、3ヶ月で長編3本分の分量仕上げないと、当初に決めた3ヶ月で月間賞狙うという荒業はやってのけられない。
だって185万もタイトルあったら、ちょっとやそっとの露出じゃどうしようもないくらい埋もれまくるわけですからね。

まあ、その皆さんの苦労と労力を思うと、自分もまた馬鹿なことやっている、つまり文学やお話書こうとする人間は、なんて見返りのない、生産性や建設性もないようなところで頑張っているのだろうと、改めて自分のことも考えて、少しあほらしく感じたわけです。
そもそも文学なんてそういう「あほらしい」ってところがあるので、今更なのですが、なんだかようやく霧のようなものが晴れてきて「あほらしいよな。最初からそれを知っていたはずだけど、まだ理解してなかったな」と感じ、その上で「やってやろう」という気持ちになっているのだからおかしなもの。

そう、なんて馬鹿なんだろうなあー、と不思議とスッキリしてくる。

なんでまたここで月間賞取ろうかと考えたかというと、自分の作品増えるし、かつ8月あたりまでにお金を用意して次の予定に備えなければいけないという使命がありまして、というか目標がありまして、とにかくあの月間賞の30万がほしいわけです。

ついでに月間賞を取るまでの過程がものすごくためになるんじゃないかと。
まあ、そんな感じでやろうかなと。

そいで、その更新の様子は横のツイッターに流しますので、グダグダな酷いツイートの中から見つけてください。
自分で言うのもなんですが、ええお話ですよ。
ついでに、アニメ化も狙うぜよ。

どうして懲りないんだろうね。
書くことを止めないんだろうね。
夢があるからさ、という範疇はもうとっくに超えていて、自分の現実は、この「あほらしさ」の中にあるからだと改めてわかったからですよ。
自分じゃなくなっちゃうんだよね。


追記:
月間賞だけど、計画変更する可能性もあるかも。
随時原稿募集しているところもあるのね。
そこと併用する。

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03/25

Sun

2012

「流されちゃいけないよ」

自分で意識しているものの、言われると改めて思う部分があり、自分でルールを決めるということは、なんと眉唾なものであろうと気持ちのぶれを、弱さを思うのである。
人から言われると「ああそうだ。その通り」と自分の精神を補強するあたり、本当に弱いものだなとつくづく感じるのである。

こうありたい。
自分で理想の自分を思い描き、その通りになろうとする。
しかし酒の力で、気持ちの弱さで、いくらでも考えが、行動が、ふにゃふにゃと曲がりくねり、最後には自分がほとんど望まなかったところまで来て、なぜか周囲に合わせて、これでよかれと思っていたつもりが、自分が一番我慢して鬱憤をためていたという、ひどく目も当てられない状況があったりする。

「何度このようなことを繰り返せばよいのか」
自分は日記を書いて、このように記録しているので、何度同じことでこいつは愚痴を書いているのだろう、ああやれやれと、見るも無残な記録がこんこんと綴られているのだが、なんとも人間の精神の強さや人間力は、いやいや、人間などという大それたくくりではなく、己れはなんとも牛歩で、かつ何度も叩き直さなければ、どうしようもなく成長しない人間なのだなと感じるのである。

結局曲げたところで、損をしなければいけないのは自分で、不満を抱いているのだから、それは自分に対して正しいことをしていないということだ。

「流されちゃいけないよ」

よく考えてみると非常に難しい言葉で、自分が何に流されているのか把握しなければ見えてこないし、当然進むべきものと、流されているものの見極めをきちんとできなければ、まったく意味をなさない言葉になってくる。

自分の気持ちを大事にする。
自分のやりたいことを血眼になってやる。
やるべきことをきちんとしているつもりでも、どこかに流されているところがあれば、それはダメになる。
自分は何に影響されて生きているのか。
それをきちんと自分で見つめられる人間はほとんどいない。
その必要性すら感じていない人がほとんどだ。

流されているのか、掴みとろうとしているのか、この境目をきちんと把握できずに流されているのに掴み取ろうと錯覚している人間は多い。
もしかしたら、人類の活動そのものが、こんな境目のない錯角の勢いでどうにかなっているのかもしれない。
ただ、そうだとしても、個人の問題として、やはり流されるということに、自分の弱さをいちいち垣間見るという嫌な感触を抱くのである。

もし、40年後、これを読んだら、自分はどう思うのかな。
できることなら今すぐ教えてほしいくらいだ。

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03/23

Fri

2012

思考がめちゃくちゃ

先日ツイッターで日本の労働環境はおかしい。
家族よりも会社を優先させなきゃいけない風潮は既に体質として狂ってる。
そういう話を読んで、思い出したことがあった。

何年か前にじいちゃんの死に目にあったのだが、その時派遣でコールセンターに勤めていた。
シフトはしっかりと組み込まれていて、一度決められると誰かに代わってもらうことでしか融通がきかない。
そういう事情はわかっていながらも、医師の「ご臨終です」の言葉を病室で聞いて、すぐに電話。
その時「祖父の葬式で明日休ませてください」と伝えると「代わりの人いますか?」と開口一番言われた。
「お悔やみ申し上げます」の一言すらも、その電話では出てこなかった。
世間知らずの自分でさえ驚いた。
普通は言われないものなのか、身内の死亡すら「通常の休暇願いと同じ扱い」なのか。

そのツイッターの中でも「よく役者とか身内が死んでも舞台をやるけど、褒められたものじゃない」と言っていた。
そりゃそうだよね。
身内の死は一度きり。
ましてやきちんと葬儀にすら出ないとか、通常の神経じゃないし人間性が欠如している。
そんな「お客様中心主義」のために人間性を犠牲にしなければいけないのは、つくづく間違っている。

でもそんな強迫観念を与えているのも「消費者」だったりする。
もちろん「数字」を厳密に計算して求める経営者などにも言える。
どんな生産者であろうとも消費者にまわるものだけれど、一度消費者の立場にまわると、「払ったお金以上の対価を得ようとする人」が多い。
つまり通常意識はしていないが、その分「相手から利益を奪っている」ということに気がつかない。
そのことが巡り巡って自分たちの生活に響いてくる。
その時には「自分の行動が積み重なって今の状態になっている」とは思いも寄らないものだ。

最近どうにも苛立っている。
思考がめちゃくちゃで定まらない。
久しぶりに昔のことを思い出して、酔った勢いでメチャクチャにぶちまけてきて、支離滅裂な話を繰り替えした。
思考力がぶつぶつと切れて、何を話そうとしたのかも忘れる。
本当にひどい状態だった。
そういう状態で人と話そうとすることもひどいし、話しながら「まだ自分の中では完全に消化しきっていないものがたくさんあるのだな」と感じた。
何を見つめていけばいいのかもわからなくなりそうだ。
とにかく自己嫌悪。
今日は心の中で必死に謝っている。

そうやってぶちまけて、ようやく落ち着いてくる。
ムラムラと苛立ちが湧き上がってくる中で、落ち着かせようとする。
何か変というか、抜けきらない膿のようなものがあるのだな。
自分が一度でも突き抜けられれば、決着がつくような数々の問題。
愚痴っている場合じゃないのはわかっているけれど、人は気持ちにどこまでも揺さぶられる。
いや、自分が脆弱な精神を持っているだけの話なのかもしれない。

追記:
そうだ。
「自分は苦労しているから」という話を持ち出して、人に対して「こうしろ」というのは、いくらなんでも横暴な話で、そういうことをしてはいけないし、きちんと相手に配慮していくというのは、押し付けることではなく、うながすことなのだ。
つい自分の価値観から、「〜しなければならない」という論調で相手と話をしていた。
そういう癖は直さないといけないし、逆に「〜しないから、こいつはこう」なんて見方も止めなければいけない。
そうじゃなければ押し付けがましすぎるし、当然そのような押し付けがましい話に他人は価値を感じないのだ。
こういうのは普通の対話のみならず話作りの時にも大事になってくる。

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03/21

Wed

2012

ゲームでも同じ競走の社会

競争という言葉から思い浮かぶのは、よく「走る」ことが思い浮かぶ。
でも社会はあらゆる場所で競争しているといっていいし、知らぬ間に飲み込まれて世の中はまわっている。
それはゲームの社会でも同じだ。
単純に自負心や利己心や射幸心を満たすために動いていてわかりやすい。
その中で余裕のある分だけ他人へ施しをしようとしたり、余裕のある分商売をしようとして、自分が儲けようとする。
思えばゲームは人間が決めたルールにのっとってやるものだが、ルールにのっとってやるプレイ自体には制限がない。
何をしてもいい。
だからたかがゲームといえども露骨に性格が出る。
例えばランキングにのる人間の100位と101位の違い。
トップ3などになると、次元が違ったりするが、少々競争原理が働いていて、かつ100位までは、ある資格が与えられ、それ以下は与えられない、という条件の場合、この100位と101位の人間の違いはなんだろう。

思えば自分は競争や誰かに比べられるのが大嫌いで、そのプレッシャーであたふたする状態からなるべく解放されたいと思ってきた。
実際、田舎暮らしのような、のんびりした生活の方が体質に合っているのかもしれない。
ただ自分は芸の道を選んでいるわけだし、当然「他人と自分は違う」と主張したところで、比較されながら価値が決まっていくのは言うまでもない。
トップの競争集団から振り落とされる人間はどんな心理でいるのか。
少なくとも自分は「これで大丈夫だろう」という勝手な安心をして、自分へ妥協を与えていた。
上に行けば行くほど、犠牲にしなければいけないものが多くなり、脱落すれば資格を失うのだから、実力の世界は厳しい。

人生は妥協が損を与える。
完璧などというものは存在しないし、完璧という幻影に怯える必要もないが、「妥協の技」は本当に百戦錬磨の老練ができることで、つまり場数を踏んで修羅場をくぐり、自分が入り込んでいる領域の原則を知り尽くし、そして自分の能力を遺憾なく発揮できる人間にだけ、初めて力の程よく抜けた行動ができるわけであって、若いうちから、体力のあるうちから「これでいいや」だなんて力を入れないでいると、逆に力をいれるべきところも見失うということだ。
だから古人は「かわいい子には旅をさせろ」と言った。
冒険させてやらなきゃ、世の中の渡り方だってわからないじゃないか。
どこで力を入れて、どこで休まなきゃいけないのか、その術がわからないじゃないか。
きっと、こんな意味で言葉を残したのだろうと思う。

中途半端に力を入れて頑張ると、損をするものだけが大きくなる。
だからこそ負けつづけ、負け癖がつき、行動が消極的になる。
一度この癖がつくと這い上がるのは難しい。
100位以上は価値があり、自分が109位だったら、どれだけ100位に近くても価値は認められない。
本の少しの差。
水泳だって指一本の差、競馬なら鼻差など、本の少しの差でも「実力の差」となり「トップ」と「トップではないもの」に振り分けられる。
残酷な話だ。

芸をやるからには、そういう残酷さの中にいる。
人の世を渡るには不条理さの中で栄光を掴み取らなければいけない。
2位では価値はとことん薄れ、もしかしたら2位への妥協が見事に人生の転落を呼び込むかもしれない。
価値をとことん薄めさせるかもしれない。
自分のベストを更新しつづけ、自己記録を塗り替える。
誰も評価してくれなくとも見逃せない前身をつかまえつづけなければいけない。
たとえ無価値だと言われようと、しがみつくべき客観を大事にしなければ自分を見失う。

ひとつ面白い言葉を覚えている。
「博打って自分で決めたルールを曲げ出すと、とことん負け出すんですよ。だから、最初に決めたルールをどれだけ貫き通すかが大事です。そのルールの中で転落したり上がったりする」
ご存知の方もいらっしゃると思うが「アカギ」や「カイジ」の作者福本信行氏だ。
「人生なんて不条理なのに、いつまでも不条理さを受け入れようとしない。だからダメになる」
うろ覚えだが、インタビューでこんなことを言っていた。

どうしても自分の場合、自分のペースが崩れ出すとミスが多くなる。
これは性質として避けられなくて、今までほとんどこれで失敗してきた。

自分のペースをどれだけ安定的に保てるのか。
ルールの中で、どう実力を発揮するのか。
きっと、その力の入れ方を、私はまだまったく知らない。
いや、その前に原理を理解していないのだな。

わかってますわかってます。
負け癖がにじみ出ている文章だってことも。
だから書いて認識しているのです。

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
45
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みますが光野(こうや)とか朝風(=はやぶさ)でもよろしゅうございます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。自分でも困るほどの「皮肉屋」で「天邪鬼」。つまり「曲者」です。

2011年より声劇ギルド「ZeroKelvin」主催しております。
声でのドラマを通して様々な表現方法を模索しています。
生放送などもニコニコ動画でしておりますので、ご興味のある方はぜひこちらへ。
http://com.nicovideo.jp/community/co2011708

自己プロファイリング:
かに座の性質を大きく受け継いでいるせいか基本は「防御型」人間。自己犠牲型。他人の役に立つことに最も生きがいを覚える。進む時は必ず後退時条件、及び補給線を確保する。ゆえに博打を打つことはまずない。占星術では2つの星の影響を強く受けている。芸術、特に文筆系分野に関する影響が強い。冗談か本気かわからない発言多し。気弱ゆえに大言壮語多し。不安の裏返し。広言して自らを追い詰めてやるタイプ。

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