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あさかぜさんは見た

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07/29

Sun

2012

否定する前に見ろ

昔「料理の鉄人」という番組があった。
最近料理をしたいなと色々レシピを眺めていて、ふと昔やっていた番組を思い出した。
Youtubeで探していると3代目の和食の鉄人、森本正治のものがあった。
略歴はWikiにあるが、その後どうなったのかなと見てみたら、今度は「カンブリア宮殿」の番組を見つけた。
料理の鉄人はアメリカのテレビ局に売られ、アメリカ版として放送されていたが、アメリカでも彼は鉄人として活躍し続けていた。
そして今や「予約の取れないレストラン」「10億投資しても回収できるレストランオーナー」として経営の手腕を発揮している。
平均して1店舗あたり7億以上の年商を誇る。10億円以上も稼ぎ出す店舗もある。
ある店舗はおまかせコースで1万円から。決して安くはない。
福島の原発事故があり、日本の食材が海外で警戒されている中、そんな懸念を吹き飛ばすほどに流行っている。
築地から空輸されてくる魚などを扱っているのに、なんのその。
一晩で400人ものお客をもてなすのだから凄いものです。

私にとっても非常に参考になる話ばかりで、例えば「味噌汁」に対してクレームがついたことがあったという。
味噌が沈んでいて、日本人ならかき混ぜることに気がつくが、上澄みだけ飲んで「なんだこれは!味がないじゃないか!」と怒られたという。
つまりニューヨークの人たちは「第一印象」ですべて決まってしまう。
ならば、現地の人たちに受け入れられる和食は何か。
生魚を食べない人たちの「入り口」となる料理は何か。
マグロの「刺身」ではなく「カルパッチョ」としたら受け入れられるとか、その「入り口」を通してちゃんとした和食をいずれは食べてもらいたいという考えがあるという。
しかし受け入れられるためには和食の概念を崩す必要がある。
和食をベースにした創作料理とも言える、まったく別次元の和食が出てくる。

森本は言う。
「おいしいものはないと思っている。環境や気分によって同じものを作っても違ってくる。ビジネスとしての料理は3割」と。
「僕らプロだから3割に命かけます」
そんな言葉の中には徹底した「現地戦略」がある。
つまりは「誰を相手にしているのか」だ。

創作者が合わせるべきはスポンサーでも身内でもなく、「受け取ってくれる人」だ。
その人たちは誰で、どういう人たちで、何を好んでいて、どんな知識があるのか。
そこまで読み込んで作っていく。

これは自分の立場に置き換えてもよくわかる話だ。
読んでもらうまでが大変。
つまりお金を払ってもらって実際に体験してもらうまでが大変なのだ。
既に買う段階に来ている時、何らかの「期待」、言い換えれば「予測された満足」がある。
それを上回れば、また手にとってもらえるし、下回れば二度と読んでもらえない。
読んでもらってこそ「作品」として完成する。
しかし傲慢になってはいけないのは、当然「これは自分が面白いと感じるから相手も面白いと感じるだろう」とか、「教えてやろう」とか、行動を押し付けるのではなく、あくまで相手から学びつつ手法を考える、ということだろう。

「優しさだったり、おおらかさだったり、そういう気持ちならうまくいく」

謙虚に学べる姿勢と、こだわりを押し付けない気持ちこそ、発想の柔軟さを得ることになるのだろう。
何故、それが受け入れられているのか。
この視点を磨くには否定が先にたってはいけない。
ちゃんと観察し、きちんと学ぶこと。
こだわって悩みぬくより「入り口」を作ろう。
大事なのは「相手が次もワクワクするような行動」だ。

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07/26

Thu

2012

攻撃性が足りない

「大胆さが足りないのかもね」
それは写真を撮りながら言われたことだった。
写真に大事なのは「構図」だったりする。
レンズによって肉眼とは全く違う世界が開けている写真だが、レンズ越しに見える景色を、どう切り取っていくかがカメラの醍醐味だ。
構図の上手い人は、自然と写真も上手く撮れたりする。
自分でもあまり写真はうまくないことがわかっていたが、実際才能を目の前にすると自分の至らなさがよくわかってくる。

四条大橋で歌っていたギタリストがいた。
酔っ払いながら聞くと気だるそうな声とギターの静かなサウンドが心地いい。
最初聞いたとき、深夜に流れてくるB級映画のエンディングに流れるような曲だと感じた。
DoRED。
買ったCDにはそう書いていた。
素面で聞くと同じ曲調。
幅が無い。
歌詞もひねりがなく、まだ知性が足りない。
ああ、路上のギタリストか、もしくはバーの弾き語りで終わりそうな勢いだ、と思った。

残念ながら、と言えばいいのだろうか。
彼の歌を聞いて自分も思った。
芸術家は自分の欠陥を嫌がおうにも世界に向けて発信したがるのだ、と。
これはどういうことかというと、自らの「欠乏感」が逆に「吸収力」となって、自らの周囲に散らばる情報と事象を吸い込んでいく。
そして吸収したものを自らの中で積み木のように構築していき、世界や社会の自らの評価として取り込んでいく。
普通社会で生きていければ、社会の一般常識と適応しなければ普通に過ごしていけないから反発することも無いのだろうが、芸術家というのは所謂「エグザイル=そこに適応できず脱出しようと試みた漂流者」だ。
だからこそ一般社会、オフィスでは使い物にならないような奴らばかりだ。
自分もその使い物にならない奴に含まれる。

「大胆さが足りない」
この言葉は「漂流者」たる自分にとっては致命的な欠陥だった。
つまり、心の中でどっちつかずの気持ちがあって、誰かに嫌われたくないという気持ちが強いから、世界に対して自分の大胆さで何かを見つめようとするのではなくて、誰かの存在を他人を意識しすぎてしまうから、消極性が先に立ってしまって大胆さの欠如を招いているのだと直感させられた。
プロになれば、自分の好きな事ばかりは並べ立てられない。
それは当然のことなのだが、今まで素人がプロになり、素人の時に尖って鋭く研がれたナイフのような才能が、ものの見事に一般受けする模造刀になる姿を見てから、どこに一番バランスの取れる境目があるのかを見定められないで来ている。

芸術家にとって攻撃性がないのは致命的な欠陥だ。
それは勇気がなく、誰も守ろうとせず、保守的な錯覚からくる愚かな身構え方だ。
「漂流者」となったからには、あがく、あがく、あがき続けて見えるものを表現するしかないのだ。
それは万人にとって大事なものであるとは限らす、ある意味、部下も側近もいない裸の王様だ。

だが私は芸術家の存在意義は社会が一つの答えに集中しようとするとき、あえて天邪鬼な立場から「本当にそうなのかな?」と哲学的な問いを与えることなのではないのかなと思っている。
ああ、だから現金で懐に手に入らないのか。

才能というのは、言葉よりも前に心を打つ。
私の写真は「そこで何が起こっているのか」を説明しようとする写真だ。
大胆さがなく、消極的だ。
私の性格をよく現しているようだった。

いつだって悩んでいる。
「どうすればいいのかな」
売れたいし、お金だって得ていかないといけない。
売れるためには誰かに気に入られなければいけない。
そんな思いが消極性を招いているのがよくわかる。

芸術家としての攻撃性は何なのか。
傷つけていくほどの大胆さがないと、もしかしたら何も学べないのかもしれないと思い始めている。
ああ、この歳で、まだそんな考えかよ。
なんて、自分のことをあほらしくさえ思っているよ。

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07/20

Fri

2012

思春期の痛みの昇華

「自己」とは、どこで出来上がるのだろう。
「三つ子の魂百まで」ということわざもあるが、もっと人間的な「知性の癖」のようなものは「思春期」に育つものではないかと考えている。

今京都に居る。
時間が合わず、まともに観光は出来ていないが祇園祭は見た。
山車(だし)と呼ばれる神輿のようなものが置いてあり、ものによっては高々と山車から鉾が伸びている。
烏丸にいくつかあり、たくさんの人ごみの中それを見てきた。
後は知恩院、八坂神社など河原町散策。
観光の為に来ているわけではないので、一週間以上経ってもこの程度だ。

取材で京都に来ている。
そして同時に会いたい人にも会いに来ている。

「成人までの痛みの総量」

多くの親は気がつかないことが多く、子供の「自己責任」として擦り付けがちだが、子供は親から受けた痛みをかなりの長い間トラウマとして記憶している。
そしてその痛みは何かの形で昇華させようとする。
例えば他者への暴力となったり、内向きであるならば自らへの暴力となったりする。
つまり自傷行為へ走ったりする。
一種の暴力的な感情が芽生えるのは、暴力を与えられたからに他ならず、それは物理的手段のみ暴力だと認識している人間がよくやりがちな精神的な暴力も含まれる。
どうやら親も、その親から何らかの暴力行為、消極的暴力である無視などを受けていることが多く、かなりの大きな確率として世代間の暴力の伝達が行われている。
親の癖や考え方を子が受け継ぐという形になる。

私が暴力性の世襲に気がついたのは、ここ十年くらいのことで、今もその確信は変わっていない。
中学生の頃から自分の代でおしまいにしたい。もうこのようなことは止めよう。
そう思ってきた。
しかし消えないものがあり、内から湧き上がる破壊衝動は、まだこの歳になっても感じることが多々ある。
いきなり人を殴りつけてやろうとか、切り刻んでやろうとか、私が時折起こす若い犯罪者たちの心理がなんとなくわかるのも、自分の中にある「内なる暴力性」があるからだ。
例えて云うならば氷を持っている人間が太陽のような幸福を与えられても痛みを伴い、自らがおかしくなるような感覚になる。
自分が自分ではなくなってしまうような違和感を持つということだろうか。

しかしそこは人間。
氷の心を持っているからといって、いつまでもそうであるとは限らない。

私が人の内面を書いていて気がつくことは、多くの人間は心の内面を何らかの形で表現をしたがるということだ。
幸福ならば生産的なことに発揮され、暴力的ならば破壊的なことに発揮される。

よって内なる暴力性は何かの破壊活動へと行為が向いていく。
それは「承認欲求」の負の側面であるのかもしれない。
自分が感じている痛みを、誰かと共有する。
自分が感じている痛みを、誰かに知って欲しい。

現代では、この「承認欲求」は「評価」という言葉に置き換わりシステム化されている。
だから普段では気がつかない間に、うまく昇華されるようなシステムがあるが、人間関係のことに関してだけは「評価」とはまったく違う次元にある。
普段これは「ストレス」という形で私達が感じることである。
ストレス、もっといけばトラウマにもなることだが、トラウマの昇華は非常に難しい。
特に思春期の頃のトラウマとなると、至難の業になる。
というのも、この頃に受けた傷は親や身内などから受けた傷が多く、それが人間関係への価値観へとなって形成されているからだ。
何かの形で受けた傷がフラッシュバックする。
フラッシュバックした痛みを心の何処かで感じていて、何かの形で昇華しようとするが、根本が変化していないので、いつまでも消えることが無い。
氷の心があるのならば溶かして別のものになるまで温め続けなければいけない。
それは普通の人間には出来ないことだし、労力もかかりすぎる。
カウンセラーの領域でもあるが、カウンセラーとて人だから相性もある。
そして一番重要な事は他者はきっかけをつくることしかできないということで、最後は当人の行動次第になる。
最後の部分の「行動」だけすっぱ抜いて「自己責任」と言ってしまうほど私も愚かではない。
人はきっかけがないと動けないものだし、そのきっかけを常に与え続けることこそ大事なことであると考えている。
思春期の痛みへ影響を与えることは、その時の価値観を覆すほどの生産的であたたかなものを与え続けなければいけない。

人は気がつかない。
自分が与えたものが人間たちへ還元されていくことを。
自分が与えた暴力が、何かの形で目の前に表出してくることを。
暴力には暴力で、無関心には無関心で。
私の視点は、いつもこんな小さな人間の感情の中から社会を覗いている。

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07/09

Mon

2012

「世の中甘くない」

いつもイライラさせられる、意味を限定しない、曖昧な言葉として受け取っています。
特にこの手の言葉を他人様に吐く人間は、私の経験上、本当に性根が卑しいところがあって、心が心底貧しい。
太宰ではありませんが、「世の中ではなくて、あなたでしょう」と言いたくなる。
正直に「私が気に入らないから」と言えばよいのに。

それと大人になり気がついたことがあります。
この手の言葉、下衆の部類がしゃべる言葉であって、世の中をよくしようとか、人を幸せにしようとか努力奮闘している人間は決してしゃべらないのです。
つまり「世の中は甘くない」「世の中は厳しい」と言い、他者を幸福にする努力よりも自己と身内の幸福のみに固執し、他者を見下し、世界観を広げることなく、人の痛みなど、あまり意に介さない。

それに変な空気をいつも感じます。
「世の中は甘くない」
だから何なのでしょうか。
人に対して厳しくしなければいけない理由が発生するのでしょうかね。
つまり共有された妙な空気があって、共有された空気は履行されるべきだという意識を強く持っている。
変じゃありませんか?
ご自分が辛いから、その辛さを当てつけに他者へ擦り付けているだけなのではないでしょうか。
本当に他者のために戦っている人間は、世の中の厳しさというものを自分への教訓として生かし、なるべく他者へ何かを還元しようと努力いたします。
卑しい人間はその逆で、他者へ厳しさというものを教訓として叩き込み、なるべく他人から何かを奪おうとするのですよ。

正直何をしてもダメな人というか、向上心なく、配慮も育たず、進歩もせず、同じ過ちを繰り返し、同じ愚痴を繰り返し、行動はせず、注文だけが多くなり、独善的で他者感覚に乏しい人間というのはいます。
そういう人も受け取り消費するだけで創造をしないタイプの人間、つまり搾取を行います。
生産性とは物を作ることや貨幣(経済的な利益)を生み出すということに固執しなければ、色々な分野に広がってきます。
そこにいるだけで安らぐというのなら、それはそれで役に立っている。

実際世の中が厳しいのはいつになったって変わりはないのですが、世の中よりも実質的に人の気持ちが厳しくなっていっているのですよ。
貨幣というものに追い込まれ、生活そのものに苛立ち、政治が浮世離れし、選ぶ権利が情報操作によって剥奪されてくる。
役割分担をしていたはずが各々の持っている情報が不透明になり、騙しあいになり、いつの間にか「自分の身は自分で守れ」という状態になってしまう。
役に立たないやつは早く死ぬことが機能性の向上に繋がると考えるようになるだろうし、人の単位を「人一人」ではなく「数」で理解するようになる。

こういうのは本当に間違っていると感じるのですよ。
芸術家っていうのは、こういう世の中に対して一石投じないといけない気がするのです。
芸術家は人の感性の幅を広げるためにいるわけであって、世に迎合し金をむさぼるためにいるわけではないのですが、賢く考えるならば逆に媚びて金取り巻くって、そしてその金をよいもののために使うという手もある気がいたします。

「世の中甘くない」
そんなことわかってるんだよ。
だからと言って、「その空気のために他者の人間性にまで厳しくしなければならない」とはならんわけです。
それはその人間の狭量さを示すものであり、世の中の厳しさとは関係がない。
他者のため、なんて偽善的で理不尽で見返りがなく利用される恐れがあり損ばかりで失うものの方が多いようにも感じます。
だからこそ確実なのが自分のためのような感覚になりますし、世代のことを考えなければ自分さえ安泰に暮らせれば草木一本残らなくなって、自分が生きている間には困らないのだから関係ないという意識はおおいに育つでしょう。
その「無関心さ」が世の中を疲弊させているのに。
どうして世の中を疲弊させているかって?
じゃあ、今あなた、他人に対して献身的に優しくなれますか?
なれるのなら、今のあなたは心が裕福なのでしょう。
他者に与えられるものが心の中にあるのですから。

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07/02

Mon

2012

運命は数奇

小説ってことについて日記を書いたはずが書かれていなかった。
ブログの投稿ボタンをクリックし忘れたのだろう。

いつもの通りどうでもいいような内容なのだけど、結局純文学で儲けられるような時代はとうの昔に終わっていて、今更それをやろうものなら「飢え死に覚悟でどうぞ」ということだ。
そしてネットのQ&Aにもあったけれど

「純文学というのは、自分が純文学というものを書いているので高尚だと思い上がり、マイナールールをこしらえてそれを守らない人間を虚仮にしていい気になる、閉鎖的で発展性がなくそれでいてそれを高度で無能な輩が理解できないと得意げになり、文学そのものを衰退させている害虫の巣窟です」

文学とは小説とは何か。
時折考えることだし、確かにこの人の言うことは否定できないところがあり、結局閉鎖的な環境にいると、一人作業なものだから自らが自らの思考の迷路の中に入り壁に囲まれていくのに気がつかないという状態が起こる。
上に行くと批判する人間も少なくなるので当然錯覚する。
批判ばかりがよいわけでもないし、応援してくれる人が周囲に残るのは自然な事だけれど、ひとつ環境が違えば作家などとるに足らない愚者に成り果てるのに、それを理解しないで思い上がるのは喜劇にも道化師にもなりえないということなのです。

以前にもこんな内容で書いたような気はするけれど、これからリアリティある文学、純文学系で勝負するには莫大な時間と資金が必要になる。
なぜならエンターテイメントで慣らされた人たちや、環境時代の違う人たちが来るのだ。
今までとは考え方も感覚もまったく違う世代が来る。
その世代を、きちんとした文学に面白みを感じるように育てなければいけないのだから、時間とお金がかかるに決まっている。
売り上げを気にして純文学系を書くのは矛盾しすぎている。

あえて純文学という言葉を使ったけれど、私もあまり心地のいい言葉としては受け取っていないのです。
上の答えにあったようなものもそうなのだけれど「他者の裁量により、文学という定義が曖昧かつ独善的に語られ、まったく本人以外、または親しいお身内以外には通じない、あたかも自らの定義が高尚なような、虚飾の言葉で語られ選ばれた小説」のことを「純文学」というのだなと私も理解しています。

それが前回の日記の内容だったのだけれど、今回は「ああ、運命は数奇」と思うのでちらっと書き残しておこうと思ったのです。
作家としての天性の素質って何だろうと考えるのですけど、才能全般ですが素質って、いつも「非凡」なところにあると思うのです。
生まれつき文章がうまいという人もいますが、私はそういうタイプじゃなくて「小学生の作文」から我流でやってきました。
今は我流の限界を感じ、そろそろプロの人に見てもらって文章ちゃんとして欲しいなとは思っているものの、なかなかチャンスは訪れずにいるわけです。

さて、「非凡さ」というのは別に生まれ持った感性・技術のことではなくともいいと思うのです。
何かそれをやり続けたいと思わせる、やり続けなければいけないと思い込ませる出来事に見舞われるということも「非凡」であると思います。
つまり自らが「引き寄せる体質なのかどうか」はとても重要な要素であり、それがなければ何も起こらないわけであり、何かを起こしてもやっぱり何も起こらないわけです。
待てば何か起こるわけではなく、引き寄せるための、あらゆる努力や手段を尽くしてようやく引き寄せるわけですが、その努力の部分も含めて引き寄せられる体質になれるかどうかなのです。

その数奇さは、やはり「非凡」なのです。
よく作家にはドラマがつきものなのも、そのせいかと思います。
そしてこの日記を書くからには私にもそれなりのドラマが付きまとっています。
通常では考えられないような道を辿っているので、私には自称でも作家を続けなければいけないと思うし、今更「普通」には戻れないのです。
きっと社会生活を健全に営んでいる人から見れば、完全に道から外れまくっているアウトローの仲間というか、その端くれなわけですが、ますます本格的に「異次元の人」になりそうです。
しかし腰を落ち着けて、私らしい視点を持って、膝を突きながら人を眺めていきたいと思うのです。
私には「偉すぎる人」の人生を描くには、少々違和感があり、やっぱり「落ちこぼれ」や「マイノリティ」な人たちが好きなようです。

これも人生。
今まで辿ってきた道があって初めて開けている道なのですから、今更普通に戻って矯正していくのも逆に変な話なのです。
もし妙な青春時代がなければ、この場にはいなかった。
それだけは断言できる。
落ちこぼれの気持ちが理解できるのも、あらゆる人たちのおかげです。
皮肉ではなく、ありがとうと伝えたい。
といっても、皮肉を完全に取り去れるほど、出来上がっている人間でもないのですがね。

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
45
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みますが光野(こうや)とか朝風(=はやぶさ)でもよろしゅうございます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。自分でも困るほどの「皮肉屋」で「天邪鬼」。つまり「曲者」です。

2011年より声劇ギルド「ZeroKelvin」主催しております。
声でのドラマを通して様々な表現方法を模索しています。
生放送などもニコニコ動画でしておりますので、ご興味のある方はぜひこちらへ。
http://com.nicovideo.jp/community/co2011708

自己プロファイリング:
かに座の性質を大きく受け継いでいるせいか基本は「防御型」人間。自己犠牲型。他人の役に立つことに最も生きがいを覚える。進む時は必ず後退時条件、及び補給線を確保する。ゆえに博打を打つことはまずない。占星術では2つの星の影響を強く受けている。芸術、特に文筆系分野に関する影響が強い。冗談か本気かわからない発言多し。気弱ゆえに大言壮語多し。不安の裏返し。広言して自らを追い詰めてやるタイプ。

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