昨日、第54回京都大学未来フォーラム「なぜエンターテインメントに残虐な表現が必要なのか」という講演に行ってきました。
「ここが京大か。北大よりかはこじんまりとした感じ」という印象を受けつつ、いや、北大が異常なだけかもしれませんが、氏のすぐ後ろに陣取って聞いてきました。
文筆業などをやっている人なら知っている人も多いと思いますが、都条例にも触れつつ、話されておりましたよ。
本当は講演聞きに行くときはしっかり下調べしなきゃいけないのだろうけれど、そんな金銭もなく、というか、買う本も選ばないと食料がなくなる状態なので活動そのものはしょぼいっす。
質問もしたかったけど他人の話し声が聞こえる中ではうまくまとまらず、悔しい思いをしながら帰ってきました。
私も規制に対してはよく考えることがありましたが、例えば「犯人がそれを持っていたから」という理由では規制する根拠や論拠にはならず、専門的な議論をするには反証もしなければいけないものを、それがまったくないまま話は進んでいます。
これは実害の方ではなく、非実在における推定被害の方です。
つまりは表現のほう。
反証というのは「なぜその他の人間は同一の物品を所持しながらも犯行に及ばないのか」ということを踏まえなければならないということです。
規制派の理屈から捉えると、おそらく「想像なくして行動なし。想像の根源となるものを排除すべし」「規制による推定抑止効果」というのが最も根底にある意識であると思うのですが、人間の信じる根底の中には類感呪術(○○をすれば~になる:遠隔型)と感染呪術(お札など身につけることで効力がある:接触型)があると言っていました。
確かについったーなんて見てるとそういうのすごく多いし、いつの間にかうわさが真実のように扱われていたりする。
そのうわさが一種の暴力装置として働くこともあるというのが現代の特色です。
心理的にも安直に因果関係を結べるものは叩きやすいし、例えば昨今の政治家におけるスキャンダルだってそう。
どんな性癖があったって、政治手腕に影響するわけではないのにSM好きだったら次の選挙で落ちるとかね、たぶん仕事とは関係ないところで仕事そのものまで見られたりするのも同じことだと思います。
実はその裏には大衆の不満や鬱憤が溜まっていたりする。
そんな風に「表現規制はスケープゴートにも利用されている側面があるのではないか」と指摘しておられました。
それで、どうして残虐な表現が必要かというところなのですが、読者にとって緊張感が伝わる手法として主人公たちを100%追い詰めてようやく1%伝わっていくということや、死を見つめることによって、ようやく生の境界線が現れるということや、そもそもの現代社会の仕組みの中に暴力があり、暴力は抑制であり、抑制は秩序であることをあげられていました。
その「暴力」とはなんぞやを作品によって疑似体験させることによって、所謂作品そのものが「ワクチン」の効果を持つということです。
都条例のこともそうですが、大阪も確か規制に乗り出していたと記憶しております。
私も氏と同じ懸念をしていたのですが、いかに担当者が質問者に対し「いやいや、そのケースはいいんです」と言ったとしても、条文が残っている限り、場合によっては「いや、条文に照らし合わせるとアウトです」と突然翻される可能性だってある。
これは氏の言葉では「検閲が厳しくなると時代における為政者によって都合のいいものが規制される」という状態になります。
つまり「表現の自由が侵される」というのは、ここにあるんですね。
最近の御伽噺は読んでいなかったのですが、子供用に因果応報の話を改変しているのだそう。
いきなり改心して善人になるケースが多いのですか?
だとしたらグリムなんて読ませられませんね。
親の立場として「自分の小説は子供には読んで欲しくない」と冗談を言っておりましたが、悪に対する想像力が養われないと突然過剰反応したり魂が傷つけられたりと、取り返しのつかないことが起こるということを言っておられました。
そこで重要な言葉がありました。
「魂の傷を教えるのと与えるのとは違う」
この言葉は非常に難しい。
現代人は「不愉快なもの」に対して過剰反応する性質があるので、「不愉快なもの=尊厳を傷つけられた=魂を傷つけられた」という論法に摩り替わっていくのです。
ロジックの飛躍なのですが、この手の飛躍は「日常茶飯事」になってきています。
他者への配慮よりも個人の利益優先で成り立っておりますから、「魂の傷を教える」というのはいかなることなのか、これは作者側の葛藤ですが、やはり作り手としては悩むところだと思います。
そして作品を受け取った側にとっても「魂の傷とは何か」を考えて欲しいところなのですが、これは各々の感想や感受性に任せるしかありません。
現実の世界は世の人々が言う美談とはかけ離れていて、結構魑魅魍魎の世界。
権力とかお金とか関わってきて、大きくなればなるほど、もう酷いものです。
裏切りや奪い合いや巧妙で狡猾なやり取りなど当たり前。
他人への思慮分別など策謀に巡らされるわけです。
私も「臭いものに蓋をし続ける」ことが、いずれ大きな社会的な損失として表出してくるのではないかと考えています。
海越えたら日本の理屈なんて存在しなくなるのだから、人間のありのままの姿をいかに議論できる状態にするか、議論をしあえる自由な空気を作れるかが、成熟した教養を持ち合わせた社会へと発展する鍵だと思うし、しっかりした大人を育てる社会的な度量だと思います。
蛇足なんですが、京大には約7000円コースディナーを出すレストランがあって、ちょっとびっくり。
洒落てるね。
無料で講演開いているみたいなのでちょくちょく顔出したいな。
追記:
講演が始まる前に『悪の教典』の映画の予告編を流しておりました。
講演ポスターにも単行本が。
そしてこの講演のタイトルに絡めて話したという流れなのですが、「ぜひ買ってね!」ということですね。
わかりました。買います。
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