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あさかぜさんは見た

日記

10/18

Fri

2013

人との繋がり

私らというか、まあ私も含めて下々の者は、日々くだらない情報をネットを通じて流し合い、さも知ったかのような感じになって、別になんの実にもならない行為を繰り返していて、それをコミュニケーションと言う言葉の馴れ合いによって自分の中の何かを誤魔化しながら生きております。
現実で生きていても離れる人は離れるし、当然他人の人生は他人のものだし、拘束できようはずも決め付けようはずもない。
しかし別にそんなに話し合っていなくとも、何ヶ月かに一回久しぶりに会うような人でも、やっぱりこの人とは気が合うのだなと感じたりする。
そうしたらお互い「積もる話」がたくさんあるわけだ。
だいたい十の位が年が変化すると、内容も軽いようで重苦しくなるし、お互い話さない言葉の間や、その面構えから、なんとなく何かが読み取れてきたりする。
そういうのが「付き合い」なのだろうなと感じたりすることが多々ある。
久しぶりに出会って「この人いい面構えになったなぁ」とか思うと、苦労の片鱗が別に話してもらわなくともわかるわけだから、時間を過ごして年をとったという充実感を得られるわけです。
その上で出てくるのが「立ち振る舞い」ってやつで、ここらへんには人生で得てきた色々なものがにじみ出てきます。
とはいっても、本当に色々な繋がり方があるわけで、結構私の人との繋がり方は偏屈だったりするので、ここに書いてある内容もくだらないといえばくだらないのですが、自分はあまりやりたくないくせに、馬鹿騒ぎが気軽に出来る仲間がいるのは羨ましいなと思ったりします。
そんな雰囲気を見ているだけでいい、参加はしたくないと思っているのに、ああ、あんな不思議な結束力は羨ましいなと思いつつ、家庭を持っていない今しかあのようなことはできないなとも思いつつ、それでも落ち着いたらまた一年ごととか数年後とかに再会して同じような調子で騒げるのだろうなと思ったり。
子供の頃にはとても思いもつかず、思いもよらないことが起こってくるのが「大人になる」ってことで、それをいつまでも拒否していては自分は結構主張しているつもりでも、その主張自体が無様になってきます。
生きていれば、それ相応の苦労があるわけで、それ相応の付き合いが広がり、それ相応の立場に落ち着きます。
そうして、周囲の人脈が形作られ、人脈により環境が整ってきます。
環境があるから人脈があるかといったらそうではなく、環境は意識によって無視することも改革することもできるので、わりと意識が「環境」そのものに捉われていると、様々な事が縛られているかのように出来なくなります。
環境をぶち破ることは原理的にはとても簡単な事で、客観性と好奇心があれば外へ外へと広がっていきます。
初めて会う人にも積極的に声をかけたりとかね、一週間あっただけでも結構広がるきっかけは持てるんです。
ちょっとした勇気があるだけで、一ヶ月で相当変化します。
新しい人と出会い、新しい感性を理解しようと努めると、今度は半年で以前とは考えられなかったペースで何かが舞い込んでくるようになります。
とはいっても、きちんと失礼のないように信義を尽くすってのが前提になるわけですが。
人が人を生かすんです。
自分が生きているわけじゃない。
漢字で書くと「自分だけでは生きられないし、活きられない」というところでしょうか。
特に上に行こうすればするほど、人をよく活かさなければ活かされることもない。
だからこそ、人を殺してしまう人は、必ず見えない壁にぶつかり狭まってくる。
傷つくことも傷つけられることもたくさんある。
清廉潔白で大人になることは難しいし、たとえ自分が潔白だと思い込んでいても、人間同士合わなければやっぱり傷つくんです。
道理がわかっていないとかね、よく「幼い人」だと「それ、あんたが言うことじゃないよ」ということを臆面もなく言われたり言ったり。
他人は容赦ないしね。
我慢できずにぶちまけちゃったりとかね。
そんなこんなで欠点を持ちながら人と繋がっていくわけですね。
「百戦錬磨」って言葉があるんですけどね、これ、「百戦百勝」の意味で捉える人がたまにいるんですけどまったく違うんです。
勝負の中で磨かれていくってことなんです。
実践、つまり行動の中で磨かれていくことを言うんです。
もし、人と付き合うと傷つくこともあるからと消極的になりそうな時、この言葉を思い出すとよいでしょうね。
石は磨かれて珠になります。
人との繋がりの中で、宝石のような人間になることを目指せばよろしいかと思います。

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10/11

Fri

2013

~がないから。

よく聞く言葉だ。
「~がないから~できない」という。
なんとなく、本当にそうなのだろうか、と考える。
つまり、確かに慣習上や今までのパターンから言えばそうかもしれないが、そのセリフの中にアイディアや努力などは含まれているのだろうか。
自分もよく人に対して断定的に言うことがある。
しかしもしその言葉通りになるのなら、言った時点からは何も成長していないということを意味してる。
正直、私はそういう人間と付き合うのが嫌だ。
昔、数年前と何一つ変わらず、しかも状況が悪化している人と出会い、変な錯覚を起こした。
「自分は過去に戻ったんじゃないだろうか」と。
人は何かしら大なり小なり挑戦していれば成長していくものだ。
その場限りの何かでしのぐより、年相応の積み重ね方ができる。
すべてのことが足りなくて私たちは生まれて、そしていつの間にか大きくなって、年齢によってこなせることが出来ていないと責められてしまう。
何もなくて生まれてきたのだから、いつだって足るように成長していかなければいけない。
それがいつの間にか周囲の環境や過去に慣れ親しんでしまって「~だから」と自他共に言い始める。
そんな夢のない言い方があるだろうか。
創造力のない言い方があるだろうか。
ただ、やっちゃいけないのは、人に対して著しく不誠実な行為をすることだ。
清廉潔白で人生を終えることはできない。
だが、義理や相手の信条の通し方ぐらいはきちんと学んでいこうと思わないと、いったい何を得られるというのだろう。
私たちの人生は妥協の連続。
忍耐力の豊かさを学ぶのが「経験」というのかもしれないと最近思っている。
決め付けるのを少しだけやめることで、人を幸福にするための能力を考えることで、私たちはもがくことができる。
そのもがきのなかで、這いずり回った十センチの中で、私たちは大きな発見を得る。
そうやって成長していく。
だから「~がないから」などと言って、いつまでも行動しないのは、他者を責めるよりも前に自分の臆病さを敵としたほうがよいのだ。
私だってろくな人間じゃないが、それでも、一人でも幸せな気分に浸らせたいよ。
そういうものを見られたのなら、きっと酒がおいしくなるに決まっているからね。

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09/24

Tue

2013

使わなきゃ衰える

年を取ればなおさら。
若ければあまり気づきにくいが、若かったとしても、ものの一年ほどで衰える。
これは体力的な事に限らず、能力や技能、体に備わる様々なことに言えること。

使わなければ衰える。

今、ボイスドラマのことをやっているけれど、例えば歌。
高校生の頃は喉を開ききってのびのびと歌っていたのに、今は喉を絞りきって歌っているため、すぐに喉が痛くなる。
腹で歌わなくなったので伸びがまったくなくなったし、何よりも張りがなくなった。
今も喉が硬いまま声を出し続けているため、すぐに声がかすれてくる。

そういえば、シナリオも書くようになったけれど、思ってみれば昔の方がインスピレーションは高かった。
もっと自由に様々なことを発想できたし、もっと突拍子もないことを考え付いていた。
今はというと、「~しなければいけない」「~であるべき」「~は~だ」という考え方が染み付いていて、そんなガチガチの思考がインスピレーションをことごとく奪い去っている。
その原因には「ストレス」もあったし、自分の経験、物事が思い通りに行かないという妙な焦りや、消極的かつ否定的な考え方もあったし、とにかくイライライライライライラして、ちょっとしたことでも収まりがつかなくなったりと大変だった。

今ほんの少しずつ若かりし頃の自由な状態というのを取り戻すきっかけのようなものが見え始めている。
しかしまったく若かりし頃と逆なのは、いわゆる努力とか苦労とか、簡単な言葉で言い表わせれるけど途方もない積み重ねをしてこその「自由」なのだということが日々身に染みてきている。
それは「大人の自由」ってやつなのだと思う。
ただ、私は運がいいし、人生にとって重要な事を引き寄せられる強烈な力を持っていると信じているので、私の環境は私の大事をこなす上では幸運な環境なのかもしれない。

しかし、何かを生かしてやれる能力さえ身につけていけば、そして努めて他者のためにその能力を発揮できれば、トータルで必ずプラスになる。
たとえ批判する人がいても、傷つけてしまう人がいたとしても、その分はいつかは取り返せる。
自分の中で世界を狭めてしまうことが一番人生のリスクを高くする。

日常の中に溺れきってしまうと、自分の何が衰えているのかなんて気がつきやしない。
一生懸命仕事して、クタクタに疲れきっていて、「遊び」の自由も忘れ、ちょっと走ったらすぐに息切れ、あれ? 自分こんなんだったっけ? こんなに疲れやすかったっけ? なんて過去を思い返したり。
そんな瞬間はふとした時にやってくる。
年を取れば衰えてくるものもあるけれど、それ以上に積み重ねられるものがある。
使えば使うほど積み重なる物だって、大人だからこそある。
逆にいえば使っていないものは、まったく伸びない。
人は自分の持ち得ないことや知りえないことを様々に想像して勝手な事を言ってくる。
その時自分に問えることは「いずれ自らの行為は他人に誇れることか」だと今は思う。

真剣にやってこそ見えてくるものがある。
真剣にやって、ようやく気がつくことがある。
そんな自分にとっての新しい発見が、自らの心を豊かにしていくし、人生に潤いを与える。
だからこそ、限界だと思うもう少し先を目指して、自らを使ってみるといい。

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09/19

Thu

2013

今回初めて長編ボイスドラマを製作しているのですが、特に自分がシナリオ書いたものだとよくわかってくることがあります。
今回指示したのはキャラクターの性格よりも、場面の説明でした。

今みんなで映像見てます。
流れる映像の指摘をしているのでセリフは早めに。
仕事の部分のセリフとそうじゃない部分のセリフのメリハリがないです。
ここ、もっと茶化すような言い方の方がいいですね。
このセリフ、声張り上げてしまったら相手になすりつけることになりませんか?
みんな沈んでいるので、その空気を感じて欲しい。

なんて指示していると、ふと気がつくことがありました。
小説もそうなのですが、何を一生懸命やっているかって、相手の気持ちを懸命に考えること、だったんですね。
そして誰かに伝える「伝達」の部分で初めて「技術」が必要になる。
その前の「心の中の作業」というものがしっかりできていないと、つまりイメージングがハッキリ出来ていないといくらでもぶれてくる。
迷って結局ダメになっていく。
どこか、今まで「自分がやる」という意識が強かった。
自分がやっているんだ、とか、自分の技術がうんぬん、とか、自分が作ったものがうんぬん、とか。
でも、今回人に指示をしたことによって自分で得るものが大きかった。
「自分がやる」というのは心の中の段階をきちんとしてからじゃないといけない。
誰かの気持ちを懸命に考えて、それを自分の中に落とし込んで技術で伝達するのも芸事の一種。
で、この「人の気持ち」がわからなければぶれるに決まってる。
よく考えれば仕事の基本って、だいたいこの「人の気持ち」ってやつに集約されていて、「よい仕事」ってだいたい「人の心を捉える」ことだったりする。
自分がこのレベルで物事を再現したいからって、それが通ることはまずないし、その前にそれができるなら自らが一級品じゃないといけない。
自分が一級品だからと言って、相手のレベルがそこまでかといったらそうじゃないし、感性だって考え方だって、経験だって違う。
その「差」というものをきちんと見つめながら、一緒に作り上げていくという楽しさと、互いに足りないもの、長所を持ち寄り、短所を指摘しあいながら、徐々にレベルアップしていくという楽しさを学びました。
今まで意識しなかった「創作」における、「他者の意識」が混じった時に出てくる、新しい領域を体験しましたよ。
それは自分だけの意識じゃない混ざり合いで生まれてくる、「総合力における創作」でした。
自分の意思を通すのは簡単。
自分の想像通りにやっていくのもある程度できる。
でも、自分が思ってもみなかったところで、面白くしていくのは、自分自分しているよりも、他人の気持ちや考え方に寄り添いながら、進めていくことが必要なのだなと感じました。

自分も弱い。
意志がすぐ曲がる。
精神もすぐヘナヘナになる。
でも、これは本当に楽しい。
苦しんででもやるべき場所なのだなと、ようやく人を巻き込んだ創作の領域で、苦しみと同じような楽しさを見つけることが出来ましたよ。

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08/06

Tue

2013

勝てない心

心理学の用語の中にはピグマリオン効果、ゴーレム効果という言葉がある。
前者は相手に期待し、大いに褒めたり君はできると葉っぱをかけていくことによって、その通りの効果を徐々に得られ、後者はまったく逆で蔑みなどを加えていくことによって、その言葉の通りの人間になっていくという意味だ。
例えば後者の場合、長年何者かの暗示や周囲の否定的な言葉、自身の日常的な思い込み、深層心理などにより、メンタルブロックが強固になっていく。
メンタルブロックというのは、行動を起こす時ムクムクと湧き上がるネガティブな心理の壁のことで、これは表層上の意識や言葉に関わらず無意識が大きく関わる。
例えばそれは「勝つ」という場面において如実に関わってくる。
「勝つ」と言う言葉ではわかり辛いが、勝負所とか、優劣がつく場面において、必ず「劣」側に入ってしまうということ。
でも、負けてどこかほっとしたり当然だと思ったり、やりもしないのに大きな妄想をしたり、疑いの心もここに含まれたり、トラウマもある。
やらなければいけない場面で、何かと理由をつけてできずじまいだったり、一歩踏み出さなければいけない場面において臆病になったり、失敗するイメージや失敗したらどうしようということばかり考えてしまったり。

人間とにかくいろいろな事があるから、いいところはどんどん伸ばしていかないといけない。
怒られたり否定されるばかりじゃ何をしてよいか、まったくわからなくなってしまうもの。
しかも残念なことにほとんどの場合、悪い印象だけが強く残って、どうして怒られたのかとか、何故否定されるのかとか、そこまで考えはいかない。
否定ばかりされていると失敗のイメージばかり浮かんだり、失敗したら怒られるという萎縮した気持ちしか出てこず、のびのびと何かをすることは出来なくなる。
心理が硬直化すれば体も硬直化し、行動は限定されてくる。
そしてグチグチと他人のせいにばかりして、自分で積極的に行動を起こして何かを学び取ることが乏しくなる。

先日二回目の仕事先の人たちで麻雀を打った。
私はネット麻雀しかしていないなかった。
初回はタイミングを逃し役を考えるので手牌ばかり見て、捨て牌をあまり見ることができず、余っている牌さえもよくわからなかった。
一回目は大負け。
「負けないために勉強することも大事」
仕事先の上司に言われ、多少は役を学びなおしたが、先日の二回目二連続トップの後、頭がぼんやりしてきて三連続ビリだった。
なにせ徹夜麻雀なので、朦朧とした中でやり続けるといった具合だった。
麻雀のわからない人にはさっぱりだが、ようはそこも「勝負の場」だ。
如実に性格が出る。
心理が出る。
若い人が一人いたが、やっぱり勝てないと苛々していたが、慣れている人だから、最後には勝ち進んでいた。
一方私は運が相当向いていたにも関わらず、運を生かす技術が乏しかった。
慣れない勝ちに震えた。胃が痛くなってしまった。
正直そんな自分に腹が立った。情けないことだと思った。
負けが身に染み付いていて、それでいいのだと、どこかで思っていたに違いない。

学校に通っていると、すべてはテスト形式で、決まった物事をこなせれば優れていると判断されるが、年を取って大人になるにつれて徐々にそういうテスト形式の決まった物事からは大きくそれて、「どれだけ知恵があるか」で能力は判断される。
社会はほとんどが決まった物事で出来上がっているので、そこをきちんと守りつつ、というのがだいたいの前提になるのだが。

決まった物事であろうと、そうではなかろうと、メンタルブロックは大きく関わってくる。
前者は自分にとって困難であればあるほど働くし、後者はリスクが高ければ高いほど働く。
どれだけ頭がよくても「責任を負わない」人間は相手にされないし、そういう意味で卑怯な立場から人に物事を言う人間にはよい仲間など出来ない。
せいぜい「卑怯な仲間内」しかできない。
そしてその「仲間内」同士で「メンタルブロックの呪縛」を掛け合う。
癒しあっているようで、相互に慰めあいつつ、見せ掛けの優しさで傷の舐めあいをし、あまり突拍子もない高みにいかないように、相互監視をしあう。
もしくは誰かがいい思いをしたらぶら下がろうと思ったり、自分の不幸をやたら自慢して、人から慰みを貰おうとする。
自分で自分の人生をなんとかしようとしないうちは、学び取ることも物凄く少ない。
わかりやすく言えば、人はリスク中で物事を学ぶのだ。
そこで勝つことを学ぶのではなく、きっと、負けないための技術を学ぶのだ。
どうやったって運が悪い時、巡り会わせで何かと厳しい立場に立たされたりすることもある。
そういう時に被害を最小限に食い止める方法をリスクから学び取らなければいけない。
そして最後に重要なのは「自分は勝つべくして勝つのだ」と自信を持っていなければいけない。
それが「棚から牡丹餅」の心理ではなく、しっかりとした裏づけがあってこその自信でなければいけない。

自分ひとりで物事が成り立つことなど皆無だ。
人などに頼っていないと思い込めるのは、現在の社会システムが個人にそう思わせているに過ぎない。
だからと言って、人に甘えすぎると大変な事になる。
何故なら、その「過ぎた甘え」もイコール「搾取」と同じ構造になるからだ。
それを回避するには与えていかなければいけない。
もらった分くらいは返さないと、どこかで利子をつけて返さなければいけなくなる。
しかもそれが人生のほぼ人生の最終局面だったら最悪の老後を迎えてしまうのだから。

「虎穴にはいらずんば虎子を得ず」
このことわざは、誰もが知っていながら、誰もがその意味を考えようとしない典型的なものだ。
局所的な勝敗で人生に優劣をつけてはいけないにしろ、せめて他人に何かを与えられる人間に育てるようになれれば、その恩恵はきっとくる。


追記:
「深夜から早朝まで麻雀やって疲れました」とある人に言うと、「もうそんなことやめな。その時間他の事に回したほうが、もっと有意義だよ」と言われた。
今時お姉ちゃんのいるお店に入ったとしても、高いだけで、あちらさんの話を聞かされるだけ。
なんと無意味な時間か。
消費をしているだけで何も生産しない。
それこそ「無為」なのだな、と感じた。
時間を湯水のごとく流しているだけだ、と。

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
46
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。

気が付いたら他人からとても褒められる娘ができまして、人生が大きく変わりました。
この小さな可能性と向き合うため頑張って生きております。

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