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あさかぜさんは見た

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04/16

Tue

2013

とある多重人格についての考察

通常多重人格にはマスター人格といわれる、人格が存在する。
普通の我々の感覚で言うのならば、既に私の人格は分裂していて、いくつかの人格があり、その中で分裂した人格を束ねるような強い人格がある。
つまり、「私」は既におらず、ABCDEといて、Aが他の人格の長のようになるということだ。
多くの分裂する理由としては、虐待があげられ、さらに虐待時期は小学校以下などの期間が多いという。
年を取ると、ある程度精神の耐性がつくためだろうか。
現在のご高名な精神科医の先生方の中でも、多重人格など存在しないという説を上げられる方がいるという。
正確には現在では多重人格とは言わず、解離性同一性障害という。
といっても、分裂していようと普通に生活できる場合も存在するので、分裂しているからと言ってすべてが悪いというわけではない。
ただ、私は今のところ何の因果か二名ほどと出会っているが、二人とも治さなければいけないだろうなと感じさせられるパターンだった。
特に上記のように多重人格など存在しないという精神科医もいるほどだから、専門のドクターを探すのは日本では非常に困難だといっていい。

当然分裂の原因は虐待等の大きなトラウマ経験なので、そのトラウマが根底に沈んでいることは容易に想像がつく。
分裂すると、どういうことになるかというと、いくつかの性格が生まれる。
それは本人とは性別が違う場合も存在するし、非常に攻撃的な人格が出てくる場合もある。
そして、重要なトラウマの記憶は「私」からは切り離され、分裂した人格へと移動される。
つまり「私」はトラウマを忘れるのだ。
一度分裂してしまったら二度と元に戻らないというわけではない。
当人としっかり向き合い、原因となっているトラウマを克服していけば統合ということもありうるが、なにせ「過去の経験」なので、変えられない事実への認識を変えることは非常に難しい。
一口に多重人格と言っても、様々なケースが上げられるので、本当にケースバイケースで対応しなければいけないし、特効薬なんてものも存在しない。
時間と人のあたたかさだけが、傷を癒す。

ここからは、ある人について考えていきたいと思う。
だから読んでいる人はちんぷんかんぷんだと思うので上記までが通常の日記です。
現在その人は既に分裂した後の人格で生きていて、元の人格よりも長い時間を生きているという。
私にとってよかったのは、その人が膨大な日記を残していたということだった。
それを読みながら、ふと気がついたことがある。
不思議なほどに同じことを繰り返している。
そしてつい最近も「それ半年前に言ったよね」ということを言い出し、同じシチュエーションを繰り返し再現しようとしている。
恐らく、今回も時限爆弾のように半年から一年後に自ら放棄するだろう。
その人にとって、苦労や体力的なことは、どちらも大きな負担をかけることになり、日常生活を送れるというレベルにまでは達していない。
問題は「何故同じことを繰り返すのか」という点に絞られる。
その中で、最も疑問となることが、「記憶」だ。
何故膨大な日記を残しているにもかかわらず、同じことを繰り返し行うことができるのか。
自分の行動の詳細や発言や、人間関係がどうなっていったか、などの反省や記憶はないのだろうか。
通常の「記憶」のキャパシティとは、まったく違う。
しかも「良い思い出」よりも「悪い思い出」を自ら選別して記憶に残している。
いくつか、気になる発言があった。
「食った」「きちんと自分のこと考えてあげないと自分が消えてしまう」「自分を生かすために」
「食った」というのは記憶か、人格か定かではないが、新しい環境に入るために以前の思い出、これから邪魔となる記憶を切り離す行為のことだと考えている。
その人は家族に対して非常に思い入れがあり、逆に家族がトラウマの原因となっている。
私が見たところ、母親も父親も、どちらも問題がある。
そしてその人は、まるで親の真似をするかのように無意識に行動している。
さらに意識は短期間に集中され、興味を失えば離れる。
同じことをし続けるということは、恐らくトラウマに対する無意識の大きな執着があることは間違いない。
しかし「食った」という発言が出るということは、記憶を切り離している。
例えていうならば箱状に存在している記憶の断片を、脳の外へ放り出すことが出来る。
先ほど分裂した人格は、それぞれ移動させた記憶を持っていると書いたが、その人は既に分裂後の人格のためなのか、既に頭の中が何かで占められているためなのか、必ず「自分は悪くない」という状況を作り上げている。
そして「悪い思い出」を残し、それを書き続けている。
何故だろう。

「自分が消えてしまう」ということは、その人格を維持させるための、いくつかの条件が存在している可能性が高い。
そして何度も同じシチュエーションを再現し、同じ精神状態を維持しなければ「自分が生きられない」とも考えている。
ここに、問題の核心が存在しているが、恐らく本人さえも気がついていないことなので、見つけ出すには当人の非常に苦しいものを掘り起こしていかなければならない可能性が高い。
そして「忘れた記憶はどこに」という問題もある。
本当に忘れ去っているのか、それとも、他の人格が今も持っているのか。
謎が多すぎて、今手元にある資料だけでは判別できないものばかり。

・何故今いる人格を守る人格が一つだけなのか。
(他にたくさんいるにも関わらず出てこなかった)
・元あった人格は記憶を分け与えているか、もしくは今も抱え続けて潜伏している可能性がある。
(通常記憶を切り離すと、分け与えた側は他の人格に軽んじられる傾向があるという。つまり普通の人間の感覚で言うところの、あんた耐えられないからそうなってるんでしょ、という雰囲気が出るという。その人の今の人格は元あった人格を守るために生み出されたもの。元の人格は居なくなったと考えていて、それならば自分の存在意義はあるのか、自分だけが生き残っている、という罪にも似た意識がある。だが原点に返るならば、元の人格は現実に出てこられると非常に苦しい記憶を持っているのか、もしくは逆から考えるならば出てこられては今の自分が崩壊してしまうから抑え付けているのか、いくつか推測は浮かぶが確信には至らない)
・トラウマを持っている人格は誰か。
(特にこの点は重要かつ、慎重にやらないと死すら招きかねない。現在トラウマの存在は3点ほどに絞られている)
・何故浅い考えで同じことを繰り返すのか。その人の頭は悪くはない。
(私の場合だが考え事をするとトラウマが掘り起こされ一日中苛立つなどのことがあった。そのためゲームで一日の時間の大半を潰すことをしていた。その人は恐らく苛立ちやストレスがトラウマを想起させるトリガーになっている。だからこそ「忘れるための行為」が必要になってくる。繰り返すのはそんな要因がひとつあるとは考えている)

まだこれだけ考えても足りない。
何か、ヒントがあるはず。
どこかにあるはず。
時間はまだかかりそうだ。

もし会えるのなら、今の人格を良く知っている人格に会ってみたい。

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04/15

Mon

2013

どんくさい

私、実はどこへ行っても「とろい」ということを言われまして、さらに物覚えが悪いものですから「一回言ったよね、それ」とお叱りを受けます。
さらに進むと「何回言えばいいんだよ」と呆れられるか怒られるかのどちらかになってきます。
それでも最近「辞めろ」と言われるまで「自分が辞めなければ、少しずつ上達していくはず」という気持ちのもと、様々な揶揄や皮肉を言われようと、そこに居続けるという粘り強さがついたようです。
と、言っても、精神・人格攻撃となってくると、それは完全な暴力となってくるので、そのような場合は粘り強いも何もなく、去ってしまうのですが。

生きていくことは大変です。
そして自分に合った仕事に生涯出会えるともわかりません。
私の場合などは「物書き」という表現方法を通して、どう世界にアプローチできるのかを考えて生きているので、どうにも「生活」というものの概念が欠落しております。
しかし、夢を追うならば人生での「安全的な保守思考」をぶっ壊す必要がありまして、どうしてもリスクに晒していく必要があります。
それは「他人には理解されない自分の我侭」として受け取られることがほとんどですし、世間に評価されるまであらゆる苦難を味わうことは目に見えているわけです。
ほとんどの人は「夢」を語るか、もしくは片手間にしながら本気で取り組むことのないまま時間を過ごしていきます。
ですから、自分にとって才能がどれほどあるのか実感できず「まだやれる」という妄想を残したまま、宙ぶらりんになるわけです。
そんな私も今年で34歳。
もう高校生から見たら立派なおっさんであり、彼らの年の二倍を生きていると思うと、先日ちょっと眩暈がいたしました。
何かできたのだろうか、その間、と虚空を見上げてしまいました。
人生においても、色々な意味で「とろい」ようです。

さて、そんな私が日の目を見るかどうかなど、わかりもしないことですが、どんくさい私がちゃんと生き残っていけるのかどうか、今年は様々な試みをしていこうと思います。
どうせ突っ立っていたって何も起こるわけじゃないし、自分でアクションを起こしていかないと何か変わることなどないのです。
私だって過去を引きずりながら、いつまでもここに居続けるのは本位ではありませんのでね。
やっぱり私は「落ち零れの王様」を名乗りたいな。
ダメな男でも、長所はある。
そう、もちろんあなたにも。

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04/01

Mon

2013

「無自覚な個性」

三月三十一日消印終了二時間前に中央郵便局へ行く。
第45回新潮新人賞応募作品「無自覚な個性」、原稿用紙231枚。
推敲の時間なしで、うすっぺらな文章にはなってしまった。
一日でも京都を出るのが遅かったら、間に合わなかったろう。
この作品が通るのか通らないのか、もうそんなことはどうでもいい。
落ちようが通ろうが、いずれにせよ作品は世に出る。
完全な私小説スタイルとして京都で過ごした半年間を必要な限り詰め込んだ。
書いてみて、これほど辛いものもなかったし、これほど楽しかったものもなかった。
今まで辛いとしか思ったことがないのに、初めて楽しいと思える時間があった。
精神のアップダウンが酷く、落ち着かせるために二週間でウィスキー四本を消費した。
昼間から飲んでいたので、これが数ヶ月続いていたらアル中になるところだった。
人生初のオリジナル私小説ということで、自らの脆さをほぼ曝け出しながら書いた形になる。
これを書くには、現実をすべて受け入れ、そして己を美化せず、そして人間をありのままに描かなければいけなかった。
それができたかどうか、なるべくいつもの調子で書いたつもりだけど、どう判断されることやら。

結果よりも、この小説を書き上げたということの方が、私にとっては凄く大きな意味を持つ。
人間を描くということがどういうことなのか学べたし、現実と向き合うということがどういうことなのか学べたし、自分の等身大の姿をいかに見つめるかということの辛さも学んだ。
ぐちゃぐちゃな頭の中をまとめるために、随分と相談相手になってもらった人もいた。
思えば、この半年は確実に私のために用意された舞台だった。
小説を書いていて思った。
起こっていたことが、完全にドラマだった。
もし私が中途半端な気持ちで京都生活をしていたのなら、この小説の存在はまずなかったし、書けたとしてもテーマ性に欠けただろう。
自分の今のレベルで可能な限り人間と向き合ってきた。
「無自覚な個性」
こんな作品のテーマをしっかり貫いたタイトルなど今まで思いついたことがない。
それだけ私タイトルをつけるのがへたくそでした。
完全にこのタイトルは作品の重要な部分を貫いている。
このタイトルを思いついた時には、この作品はきちんとしたものになるだろうと思った。
完成する前から大事な部分を見抜いていた。
これほどの密度で人間を描いたことはない。
そういう意味で「小説とは何か」を再認識できた。
そりゃー作り物は適わないわ。

これから面白いものが見れる。
人間に背を向けるものと、そうでないものの違い。
愛を背負おうとするものと、そうでないものの違い。
現実を見つめようとするものと、そうでないものの違い。
自らを見つめようとするものと、そうでないものの違い。
明暗はハッキリ分かれるだろう。

書き終わったことで完全に区切りがついた。
呪縛から解き放たれたかのように心が軽い。
私はようやく次の舞台へいける。
京都で知り合った皆様、本当にありがとうございます。
重ね重ね感謝申し上げます。

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03/27

Wed

2013

上から目線でごめんなさい

昔、よく「上から目線」だねと言われた。
今でもそうなのだろうが、昔は「?」だった。
自分の意見を言ったら上から目線なのだろうか。
考えたことを言ってはいけないのだろうか。
正直よく理解できなかった。
今は自分のツイッターなどを見て、自分で苦笑できる程度だから、変な話自覚は出来る状態にまで来ていると思う。

それで、ツイッターのような言論空間を眺めていると、やっぱりいますいます、上から目線の方が。
いい年の方から若い人まで。
特に不思議な事に、ちょっと勉学をかじった学生さんとか、知識をつけたいいおじさんとか、「こいつ何を知ってるんだろう」という勢いで結構言っていたりする。
この「上から」という雰囲気を持っていると、いくら丁寧な言葉を使っていたとしても、非常に「慇懃無礼」な雰囲気として感じ取ってしまう。
「何様?」発言のオンパレードである。
あー、自分もこうだったんだなー、と我が身を振り返りながら懐かしむ。
っていうか、ことあるごとに自覚しながらやっている。

結局、どうして自然と上から目線になっていたかというと、自分の場合は「自分に自信がなかった」からである。
他人に見下されることを無意識に恐怖に思っている。
酷いことに自覚できないから、症状は改善されないままなのである。
例えば、自分は部外者であるはずなのに関係者かのような発言をする。
自分は経験していないのに、経験者かのように言い出す。
自分の考えは自分の考えとしてしっかり持っている、という変な自負がある。
自分の価値観を中心にして様々な事を語りだす。
そのくせ否定されると、かなり傷つく、もしくは怒る。
そんなメンタル弱い子ちゃんだったので、成人してからも10年ほど悩み続けた。
今でさえ悩みは尽きない。
わかってる。小心者なのだ。

そのように「無意識に自信がないと思っている」「上から目線」状態である時、重大かつ厳しい現実から目を背けているか、全然体験していない、かのどちらかの場合が多い。
考えが浮いていることに客観的な考察を加えられない。
他人の品評というのは口だけで足りるので結構簡単なのだが本当にその人間のことや背景のことを理解するには結構時間が必要になる。
「結構時間がかかる」というのは「最低数ヶ月単位」だ。
見ていると、だいたいの人はそこまでやろうとしない。
重大な現実が目の前にあるのに表面上のことで終わる。
わからないことは無視する。
あげくの果てに見えるものが全てだと思っている。
そんなことやってたからこそ、自分はダメな男でした。

もし、小説を書こうなどと考えていなかったら、私はここまで考え込んだだろうかと思うところがある。
考えないよね。
だって自分には関係ないもん。
きっとそのくせ他人のことはいちいち気にする。
相手のことを知ろうとしないので、自分は決して悪くないという考えに落ち着く。
「何様?」ちゃんの誕生である。
そんな状態で40歳に突っ込んでいったら「救えない大人」として、いかにも気の毒そうな目で見つめられる。
私「なんだお前らは!」と反発する。
「最近のやつらは礼儀も知らん」と周囲に愚痴りまくり上から目線で過ごす。
50歳に突っ込んでいよいよ「だからお前は~なんだ」と嫌われる人間として君臨する。
60歳になり仕事もなくなり、引退を考えた時友達がいないことに気がつく。
なんて寂しい人生がしっかりと思い浮かんでしまいます。

上から目線で、ごめんなさい。
と、頭を下げようにも、どうにも軽い。
自分は実ってもいない稲穂であることがよくわかる。

コイツ生意気だなー。
何言っちゃってんだろうーとかお思いの方いらっしゃったらすいません。
ところどころで思い出しては反省しております。

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03/24

Sun

2013

昔、ツイッターでフォローしていた人で、随分と論理にこだわる人がいた。
矛盾点を見つけては指摘して、結構喧嘩を吹っかけていた印象がある。
それを何度も繰り返すので、「お前は何と戦ってるんだ」という気持ちすら持ち、フォローを外してしまった。
確か、司馬遼太郎が議論は名誉を奪うみたいなこと書いてたような、と探していたらあった。
「竜馬がゆく」の中で書いている。

「坂本竜馬は議論しない。議論などは、よほど重大なときでないかぎりしてはならぬといいきかせている。もし議論に勝ったところで相手の名誉を奪うだけのことである。通常、人間は議論に負けても自分の所論や生き方は変えぬ生きものだし、負けたあと持つのは負けた恨みだけである」

ここまで達観できればいいのだけれど、とてもじゃないけれど自分はその域までにはいかない。
ツイッターではくだらぬことを言い続けている。
自分の言葉がまだ力を持っていないのは、人間というものがわかってないからだと痛感する。

さて、余計なことを言ったが、そのフォローを外した論理思考の人、やっぱり人を怒らせていた。
私も凄く違和感を持って見ていたのだけれど、その人は人の気持ちを無視して「論理」というルールの中だけで議論を進めていた。
プログラマーらしいので、きっと「論理的欠陥」は「バグ」のようなものなのかなとも感じられた。

私は論理的思考をする人の中で、論理そのものの欠点を指摘する人を見たことがない。
その方法は言葉の意味や、思考としての結論を導き出すには有効な手段なのだが、人の気持ちを限定するには危なすぎる。
本人にはそのつもりはなくとも、やられているほうは気持ちが誘導されていると不愉快な気分になるのだ。
プログラマーの人は、その事象について結論を導き出したい。
やられている方は自分がそれを信じている根拠を導き出したい。
そんなのが多かった。
だから、やっぱりどこかずれるのだ。

通常、人の話を聞くときは、たくさんの情報を相手から仕入れる。
そして仮定をして意味を決定させ、次へとうつる。
でも、あまりにもガチガチに意味を限定してしまうと、「戻り」がきかなくなる。
ABCDと順番にブロックが重なっていったとして、次のBに移るとき、似たようなBがいっぱいあって、どれかを選び取らなければいけないとする。
その時ルールに従って、このBですと決めてしまったとき、次の選択できるCが相手が思っていないようなものしか揃ってない、なんてことはよくある。
つまり分岐点で一度間違えてしまうと、相手にとっては袋小路になってしまって、ついには切れるしかないという状況が生まれることはよくあります。
何故って例えばFまで進んでしまったとき、「あれ、おかしいな? 違うんだけどな、どうしてこうなっちゃった」なんて考えて「やっぱり違います」と言おうものなら、「じゃあどうしてAと言ったんだ」「どうしてBと言ったんだ」「どうしてCと・・・」となってしまったら「戻れない」ですよね。
論理は意味を限定して次へと進んでいく作業です。
しかも、「心」まで絡んでしまうと、慎重にやらなければいけないものを、ルールに従って進めてしまうのです。
だから論理にはどうしても人間そのものに対応できない欠点があるんですね。
やっぱり、人には心があって、言葉は道具でしか過ぎないから。

私も頭ではわかっているつもりですが、何分癖が酷くて抜けない。
ちょっとまって、それおかしいんじゃないの、ってことを突っつきたくなる。
自分だってやっているかもしれないし、人のことよく見てわかりますが、絶対自分もやってることを堂々と指摘できたりしてしまうんです。
論理で指摘するとたいそうな矛盾が浮かび上がります。

人は結構単純です。
やめて欲しいことをやられると怒るか傷つくかしてしまいます。
して欲しいことをされると、やっぱり嬉しいし気持ちがいいです。
そんなもんなんです。

特に恐ろしいのは思考を掘り下げていくことで、実は下だと思っている人たちに焦点を当てているうちに、どんどんその人たちの思考にはまり、結局自分も同じ穴のムジナになって批判を繰り返している、なんてこともありがちなのです。
これが一番怖い。
つまり、こうなってしまうと「類は友を呼ぶ」状態になり、次から次へと似たような人がご丁寧に力を溜めに溜めていらっしゃってくれます。
当人にとっては迷惑なお話でしょうが、「お友達」なのですからしょうがない。
もはや入れ食い状態。
自分が止めない限り出玉が止まらない大フィーバーになります。
本人はそれに気がつかないんですよね。不思議と。
だってテーブルの上に築き上げた自分の成果のようなものを、テーブルごとひっくり返すっていうのは、なかなかできることではないんです。
だからドツボにはまる。

私もこう書いていながら、ドツボにはまる一人です。
人の気持ちをうまく誘導して、いいところへ最終的には持っていきたいものの、ほとんど失敗ばかり。
道のりは長いようです。

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
45
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みますが光野(こうや)とか朝風(=はやぶさ)でもよろしゅうございます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。自分でも困るほどの「皮肉屋」で「天邪鬼」。つまり「曲者」です。

2011年より声劇ギルド「ZeroKelvin」主催しております。
声でのドラマを通して様々な表現方法を模索しています。
生放送などもニコニコ動画でしておりますので、ご興味のある方はぜひこちらへ。
http://com.nicovideo.jp/community/co2011708

自己プロファイリング:
かに座の性質を大きく受け継いでいるせいか基本は「防御型」人間。自己犠牲型。他人の役に立つことに最も生きがいを覚える。進む時は必ず後退時条件、及び補給線を確保する。ゆえに博打を打つことはまずない。占星術では2つの星の影響を強く受けている。芸術、特に文筆系分野に関する影響が強い。冗談か本気かわからない発言多し。気弱ゆえに大言壮語多し。不安の裏返し。広言して自らを追い詰めてやるタイプ。

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