「千人だな。一人二人じゃしょうがない。千人ファンがつけば食っていける」
という話を札幌の焼き鳥屋のマスターが言っていた。
今京都に居るが大阪が近い。
そういえば、と思い出す。
そもそも、そこの焼き鳥屋のマスターには数年前に会っていたのだけれど、元々は娘さんがやっていた2号店のお店に出入りしていたのがきっかけだった。
そこには大阪から流れてきた元ホストも働いており、娘さんとの間に子供を一人もうけて結婚し、閉店後はしゃぶしゃぶ屋をやりながら暮らしていたが、ある日忽然と姿を消した。
朝起きたらいなかったらしい。
私も「驚くような話じゃない」とは感じたが、マスターも「いずれはそうなるかなと思っていた」と言っていた。
まあ、普通の親とはちょっと違った肝を持っている人だ。
そこの焼き鳥屋、北大の近くなので学生の客などが多く、また長くやっているので卒業生なども来る。
中には数年ぶりに現れてオヤジさんの顔を見に来るお客もいるのだそう。
元ホストの男の料理の腕は、それほど悪いものじゃなかった。
お店を出してやっていけるだけの腕はあり、しゃぶしゃぶ屋を始めたが閉店してしまった。
焼き鳥屋のマスターだって、最初は周囲にライバル店が多く、太刀打ちできるような状態ではなかったらしい。
それが今は新しい一軒家に店を構えるまでになっている。
この差はなんだろう。
忍耐力の差だろうか。
それとも、立地の差だろうか。
人間性の差だろうか。
焼き鳥屋はうまいにはうまい。
サービスだっていいし、ボリュームもある。
学生が大勢で来ても、思ったより高くつく値段設定ではないし、そもそも焼き鳥という食べ物はいつ来ても同じ味が楽しめる。
ある一種の安心感がある。
しゃぶしゃぶ屋は少し値段設定が高かった。
しゃぶしゃぶのセットを頼んでしまうと4000円は最低でも欲しい。
焼き鳥屋は手軽に2000円以内で十分楽しめる。
どちらの店もBSEの問題などにぶち当たっていて、牛を超えて肉そのものへの不信感が高まっている時期を越えている。
差はしゃぶしゃぶ屋は開店しばらくしてだったことぐらいだ。
人が納得する値段設定というのは難しい。
値段が高ければ質が高いだろうという思いは強く持つし、自分なりにお金を払ったことへの満足感、体験や時間をすごすことへの満足感が欲しい。
それが得られなければ、次はない。
その前に「お金を払いたいな」という気持ちがなければ店にすら入らない。
入る前に入りたいと思わせ、入った後に満足感があり、出た後にまた来ようと思う。
そんな3つの条件をクリアして初めてリピーターが成り立つ。
その場所を好んでくれる人が千人いれば十分成り立つという焼き鳥屋のマスターの話は納得できる。
そもそも、ネット上でも千人のファンがいれば、という話はある。
「千人の忠実なファン」というケヴィン・ケリーのコラムだ。
少し違和感を感じるのは「千人」という数字だけが勝手に一人歩きしているような気がする。
焼き鳥屋に置き換えたって、「焼き鳥のファン」は数多くいても「そこの焼き鳥屋のファン」は最初はゼロだったはずだ。
「ファンがゼロの状態ではどうすればいいのか」
という最も初歩的な問題を真剣に考えている人はなかなかいない。
当然、ジャンルによってやり方は違うだろうし、つかみから始まってコースのフィニッシュまで導くには、どこにだって手を抜いてはいけないのはわかる。
私は最近よく思うことがある。
それは「読者はどこにもいない」ということであって、本を読む人が「私の本を読む読者」にはならないということだ。
当たり前の話だが、どうしても同じジャンルでやると「これがうけてるんだから、俺のもいけるだろう」だなんて考えがちになる。
不思議だけど。
今は無料で小説がどんどん出ている。
ネットでは無料が当たり前。
お金を払わなくても面白い作品がある。
素人とかプロとか関係ない。
そういうのはもっと加速していくし、電子書籍となればインタラクティブな方向に向かっていくことは確実になる。
これはつまり「活字の値段」そのものが低下していくことを意味している。
じゃあもっと極端に考えて活字の値段がゼロになるのだとしたら、何でお金を取ったらいいのか。
ファンの何を満足させればいいのか。
その満足した千人のファンが求めるものを満たし続けるにはどうすればいいのか。
これが最終的な値段設定になるのだろうと考えている。
私は焼き鳥屋もしゃぶしゃぶ屋も他の店も、料理と人セットで行く。
人と話しながら飲み食いするのが楽しいから行くのだ。
私がお金を払う基準はそこにあるのだけれど、他の人はどうなのだろう。
私にとっては「千人」を考えるより、「目の前の一人」を考えていたほうがよっぽど現実的でしっくりと実感が持てる話だ。
その「目の前の一人」ならば満足させられる。
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