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あさかぜさんは見た

日記

11/12

Mon

2012

生きていくことは不安なことばかり

生き辛い。
生きていくことが不安。
こんな声に分析屋は閉塞した経済がとか、雇用のうんたらとか、政治がうんたらとか、色々あるでしょう。

確かに能力の無い人間の雇用は不安定で、いつお払い箱にされるかわからない立場に常に立たされるし、誰でもできそうな仕事の条件はきついが食えないから日銭を稼ぐためにたくさんの人が群がり雇う側は困らないし、お金がなければ友達関係など保ちようがないし、政治はあまりにも雲の上の出来事過ぎて社会への諦観が民主主義そのものへの諦観に摩り替わり、そんなものより日々の生活に追われて、社会で何が起きているのか充分把握できないような事態が起こる。
一日の食費が300円以内で遊びや他の活動することは金銭面から控えなければならなく、仕事場と部屋との往復の日々。時間にさえ追われて、満足に休息が取れず、ましてや余暇を楽しむことなどできない。
日々の反復の中で変化があるかといえば、そうではなくむしろ一年後にはきちんと仕事があるのかどうかという危うさのみが大きくなっていく。
そんな閉塞した日々と環境の中では、どんどん貧相で卑しい考え方になってきて、社会の中の裕福なものを憎み、自分より少しでもよい環境にいる者を標的にして鬱憤を晴らす。
この手の負の感情は、直接的に社会そのものを蝕んでいき、次の犠牲者を出していく。
精神的に負の感情を持っている人間が、豊かな人間を育てられるはずが無いのだから。

生きていくことは不安なことばかりです。
それは当然のことでしょう。
平等な社会などありえないし、使えないものは捨てられるだけ。
常に何らかの烙印を他者に押されるし、肯定よりも否定のほうが世の中に渦巻いている気さえしてきます。
積み上げても叩き壊されることがあるし、理不尽さの前に悔しさと怒りだけが積み重なり感情を制御できなくなることだってあるでしょう。
社会の否定がそのまま自己への否定につながり、社会上から抹殺されるほどに追い込まれてしまうほどの閉塞感にやがて思考をそがれ、奴隷のように従うことしか術を持たなくなり、いつの間にかそんな「常識感覚」の中で、さも偉そうに語るだけの存在に堕落していくというありさまにもなりかねない。

いったい私たちはどうすればよいのでしょう。
考えることは苦痛です。
行動することは危険を伴います。
恐れと不安の中でどんどん精神が、いえ、魂そのものが萎縮し、自らの可能性を除草剤を撒かれた後のように枯らしていく。
生きていくことは不安なことばかり。
言葉ひとつではどうにもならないことばかり。
気持ちひとつでは途方もないことばかり。
それでも人に尽くしなさい親切にしなさい礼を欠いてはいけませんなどと言われても、腹が立つばかりで、仕方なしにその場しのぎの「社交辞令」を身につけ嘘を重ねていくばかりで、生活を成り立たせることに必死になり、いつしか気持ちの余裕が何なのかさえも見失っていく。
私たちはそんな狂った世界に生きているのかもしれません。

戦う牙をそがれ、従順なペットのふりをして、外に出れば悪態をつく。
人間油断すれば心がどこまでも荒んで貧相なものになっていくものです。
いつの間にかじとじととした精神に浸っていて、もうそこが心地よくなっている。
他人を見下している間だけ快楽で、一瞬の快楽を追うために悪口を言うことが癖になってくる。
そんな人間に油断をすればすぐになってしまう。

きっと上の連中は理解はできないでしょう。
日々数十円のきり詰めをしてお財布の小銭を確認しながら買い物をして日々を重ねる人間が「子育て」などというお金のかかる一大イベントに踏み込むのが不安だということを。
月末に財布の残り数百円を見て、給料日前に何か起こったらもうダメだなと不安を覚え、焦燥と無力感ばかりが膨らんでいくことを。
貧困層がデモを起こしたとしても、シャンパンを片手に見物するような気持ちしか持っていないのに、あなたのために一生懸命頑張りますと言う権力者や金持ち。

どんな世でも生きていくことは大変であることにかわりはないでしょう。
この時代に生れ落ちてしまったのですから、この時代において生きていかなければならなくなりました。
生まれたときから環境や遺伝子という因果を背負い育っていかなければならない。
社会の枠の中で能力は常に評価され優劣をつけられ落ちたものは価値を失っていく。
まったくもって理路整然としているように見せかけているおかしな社会であります。
戦う気力さえもなくなりそうで、生活や苦痛を逃れる道具にばかり目がいき、まったく他者のため、社会の未来のために何かひとつでも変えていこうとする勇ましさを失い、座すばかりの時間を送りそうになってしまいますが、私たちはどのような世においても、戦っていかなければならぬ運命を背負っております。
どうしようもなく、欲深き生き物であるからこそ、邪な魂を持った輩をはびこらせることを眺めていてはいけないのです。
それを「正義」とは言わないかもしれない。
自らが誤っているかもしれない。
それでも生きていくことはその過ちすら噛み砕いて栄養としていかなければならない。
黙っていても命を食らって生きていくのが生物だから。

生きていくことは不安なことばかり。
しかしまだ命があるのなら、まだ希望は残っている。
常に残っている。

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10/20

Sat

2012

「芥川賞取ってよ」

「芥川賞取ってよ」
と言われ、
「あ、はい。わかりました」
と返事をしてしまった私。
タロットカードと「お話」ができる占い師気質の人に言われたものだから、やったらいいことあるかも、なーんて思っちゃった次第。
返事しちゃったからにはやらなきゃいけないもんね!

さて、今書いているもので芥川賞を取ってくれとオーダーが出てしまい、はてさて、芥川賞は公募形式ではなく、あちらさんが勝手に出版されたものの中から選び取っていく賞。
だから、ざっくり言っちゃえば「身内の賞」なわけです。
候補作品が選ばれるまでにどんなやり取りがあるのかもわからないしね。

今書いている作品の性格上何がよいのかなと、数日前に下の右親知らずを一本「摘出」いたしまして(抜歯じゃなくて摘出です、と言われ抜かれました。何針か縫ったのよ)、非常にグロッキーな状態で作品にぴったりな文学賞を探していたら、ありました。
「太宰治賞」
またここに挑戦するのかと妙な気持ちではありますが、来年の六月発表で七月発表の芥川賞選考には間に合うでありましょうから、これしかないわけです。
っていうか、その前に書かなきゃいけないものがあるので、缶詰しなきゃいけない。
取れるのかなー、いけんのかなー、太宰治賞で芥川賞というのも皮肉、というより太宰自身が芥川賞を渇望して取れなかったという因縁がありますから、もしこのダブル受賞など成し遂げたら、夢枕に彼が立って私など呪われてしまうかも。

なーんて、また取らぬ狸の皮算用では逃したときの私の精神的ダメージが大きいので、気楽にやろうと思います。
この賞なんせ相当しっかり文章書かないと及びもしない賞。

京都に来て色々祭りを見ながら気がついたことも記事にしたいし、調べたいものたくさん出てきたし、浮気心がたくさんあり集中できなくて大変です。
まずは完成させないとね。

P.S.
口が小さいのでいつも歯医者ではこじ開けられます。
なので今回も口の端が切れたまま四日ほどたっておりますが、殴られたみたいに切れていて食べるために口を開けるたびに口の端が切れるのでちょっと大変。
術後も特に異変なく過ごしております。

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10/07

Sun

2012

昨日壬生狂言を見てまいりました。
狂言は生まれて初めてで、能よりかはわかりやすいものの、身振り手振りのみで示すため、やはり下知識がないと何を示しているのか少しわからない部分もあり、パンフレットを買い、それを見ながら楽しんでまいりました。
壬生狂言は口頭伝承だそうで、今でもしっかり伝承され、そして楽しんでいる人たちを見ると、歴史というものを感じると共に、一番派手な演出のある「土蜘蛛」が終わったら結構な人が帰っていったところに、やはり現代はエンターテイメント性がないといかんのか、帰っていった人たち、とも思ったりなんかしたり。
「眠くなるなぁ」
と京都弁でしゃべっていた観客がいらっしゃりましたな。
3日にわたってあり、今日明日と連続で6演目やるようです。
私は用事が有るので1日だけ。

壬生寺、というと全国的に有名なのは狂言よりも、もしかしたら新撰組のほうかもしれないと思いましたが、壬生寺=新撰組ではなく、歴史はもっと深いようです。

壬生寺は正暦2年(991)、園城寺(三井寺)の快賢僧都によって創建され、古い名を地蔵院、宝幢三昧寺、などと号した。
壬生寺公式HP

とありますので、地元の人からしてみれば新撰組など勝手に居座ったような心地になりますでしょうな。
しかし今ではしっかり新撰組のお寺としてお寺側から積極的にアピールされてます。
この近くは新撰組ゆかりの建物も残されていてファンが巡礼するコースにもなっています。

さて、壬生狂言。
昨日の題目は賽の河原、土蜘蛛、大原女(おはらめ)、大沸供養、橋弁慶、棒振、と最後の棒振りは締めの演技なので、全6演目、なんと13時から17時半までずっとやり、800円で鑑賞できるというお得なものなのです。
一番の見所は「土蜘蛛」で、こちら土蜘蛛が手から紙のテープを幾筋にも放つという見た目にも派手だし、2階ほどの舞台から下へと飛び降りるシーンもあり、演出が一番驚きに満ちています。
最初の「賽の河原」も地獄の鬼が子供の舌を引っこ抜いたり、釜で煮たり、むしゃむしゃ食べたりと、恐ろしい姿が舞台上で展開されます。
大人は「わー」と釜の中から子供の代わりの人形が出てきたときなど驚いていましたが、想像力豊かな子供は夜眠れなくなりますね。
私昔小さな頃住んでいた家に、なんとトイレの扉の上のほうに鬼のお面があり、ちびりそうになりながらトイレに入っていっていた記憶があります。
壬生狂言は仮面の劇なので、それはもう鬼の仮面は恐ろしいわけです。
あの仮面も長年伝えられてきているものなのかもしれませんね。
「大原女」は立小便はするわ、腰布で洗った手は拭くわ、人のハンカチで鼻はかみまくるわ、そりゃーもうお下品な老婆が出てきまして、その品のなさが喜劇なのですが、男のスケベ心もまた笑いを誘うところです。
一番解説が必要なのが「大沸供養」で、敵討ちという部分は解説文を読まないとなかなか見えてこない。老婆との離別を名残惜しくしているシーンと敵方の懐に侵入しつつ掃除下手なシーンは緊張感があってよかったな。
「橋弁慶」は牛若役の小さい子がばったばったと現れる敵を切り倒していくというのが見ものというか、切られ役も小さな子などがいるので、たぶんお母様方とその関係者たちが見に来て「ああ、我が子も頑張っているわ」と自慢げに話すのが主の話でした。
っていうか、せっかくの子役の登場にもカメラで撮影禁止だから勇士を映せないんだよね。残念。
「棒振」は厄払いの役目があるんですって。
そのまま締めで「棒を振る」という感じです。
この時間になると暗くなってきて半袖では肌寒かった。

こちら側に来るとこういう民間伝承に近い形で地域の人たちぐるみで一生懸命伝えている物事って凄く多いのですね。
実際見聞きしながら感じることは伝承と発信の力。
意味を伝え、形を伝え、想像力を伝える。
年に3回ほどやっているらしいので時期が合えば1つだけでもご覧くださいませ。

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10/03

Wed

2012

イベントがありすぎる京都

ついついイベントが多くて出かけてしまいそうになるけれど、京都に来たのは仕事をするためでもあり、いつまでも報酬が金銭ではなく現物支給ではお金がなくなってしまうので、しっかり仕事をしたいと思います。
今年は我慢する。
来年こそはイベントに顔を出しながら色々回りたいと思います。

さて、いろいろ気になることが出てきているのですが、観光地といえど、祭りが多すぎるということに気がつきます。
ほとんど毎日のようにあり、イベントの無い日はないのではないかというくらい。
それだけ神社仏閣の力が強いということなのですね。

昨日、京都府立大学にて「京都力を探る」と題しまして今年から三年かけて公開講座をするみたいなのですけれど、「平安京の仏教ー最澄・空海とその後継者たち」という講演を聞きに行きました。
所謂京都における仏教の発展がいかにしてなったか、という内容だったのですが、私の中で印象に残ったのは「徳一が最澄に論争で負けてから仏教の流れが変わった」という点と、最後の質問の中であった答えなのですが「何故民間信仰があったにも関わらず仏教などが力を持つようになったか」という問いに対し「体系化がしっかりなされたからではないか」ということでした。

宗教が体系化するには「テキスト」が絶対必須であり、「テキスト」は「呪術」でもあります。
昔は山側に死体を捨てていた、という話も聞き、中央と周辺との違いが目に浮かぶようでした。
当然昔は今のように食糧事情や経済が安定していたわけではなく、天災飢饉火災などで街が壊滅的な状態にもなっただろうし、いつ崩れるかわからない生活に大きな恐怖や不安を持ち、何か大きな力に頼りたくなる気持ちもわかるような気がいたします。
栄枯盛衰の中には「憎しみ」も多分に含まれます。
栄耀栄華の裏には、その分「憎しみ」の力があるのではないかと私などは強く感じるわけです。
その民の「憎しみ」の力をいかになだめるかが政治の力であり、宗教の力であるか、を感じます。
そこに「テキスト」がいかなる役割を持ったのか、個人的には気になるところです。

人の心における「恐怖」というものは「憎しみ」を時として凌駕するものが多々ありますが、ふと先日の別の講演の中で出てきた「感染呪術」と「類感呪術」を思い出しまして、至る所に触れて作用するとされているものがあったり、お守りやその代わりとなるものがたくさんあり、京の街は「呪術の街」なのだなと祭りの多さなども見るとしみじみと感じ出すわけです。
漠然と感じているものを理論体系化し、組織化すると、それは大きな力を持ちますが、漠然としたままでは形にしたものよりはるかに弱い。
現代においても社会は「テキスト」に縛られております。
現代は「法」という「呪術」が機能しておりますね。
その「法」には漠然とした「恐怖」や「憎しみ」の力が働いて新しい法ができたりするのですから、現代は完全に理論体系化された「呪術の世界」と言えます。

さて、「祭りとは何ぞや」という疑問がぽっと浮かぶのですが、それを調べるのは来年になりそうです。
ひとまず昨日は三条通を歩き錦小路で鱧串と出汁巻き卵を食べまして、京の味を少しだけ楽しみました。
あと今月はぼちぼちと講演に出かけたりするくらいで、ほとんど引きこもり生活です。

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09/27

Thu

2012

貴志祐介氏の講演

昨日、第54回京都大学未来フォーラム「なぜエンターテインメントに残虐な表現が必要なのか」という講演に行ってきました。
「ここが京大か。北大よりかはこじんまりとした感じ」という印象を受けつつ、いや、北大が異常なだけかもしれませんが、氏のすぐ後ろに陣取って聞いてきました。

文筆業などをやっている人なら知っている人も多いと思いますが、都条例にも触れつつ、話されておりましたよ。
本当は講演聞きに行くときはしっかり下調べしなきゃいけないのだろうけれど、そんな金銭もなく、というか、買う本も選ばないと食料がなくなる状態なので活動そのものはしょぼいっす。
質問もしたかったけど他人の話し声が聞こえる中ではうまくまとまらず、悔しい思いをしながら帰ってきました。

私も規制に対してはよく考えることがありましたが、例えば「犯人がそれを持っていたから」という理由では規制する根拠や論拠にはならず、専門的な議論をするには反証もしなければいけないものを、それがまったくないまま話は進んでいます。
これは実害の方ではなく、非実在における推定被害の方です。
つまりは表現のほう。
反証というのは「なぜその他の人間は同一の物品を所持しながらも犯行に及ばないのか」ということを踏まえなければならないということです。
規制派の理屈から捉えると、おそらく「想像なくして行動なし。想像の根源となるものを排除すべし」「規制による推定抑止効果」というのが最も根底にある意識であると思うのですが、人間の信じる根底の中には類感呪術(○○をすれば~になる:遠隔型)と感染呪術(お札など身につけることで効力がある:接触型)があると言っていました。
確かについったーなんて見てるとそういうのすごく多いし、いつの間にかうわさが真実のように扱われていたりする。
そのうわさが一種の暴力装置として働くこともあるというのが現代の特色です。
心理的にも安直に因果関係を結べるものは叩きやすいし、例えば昨今の政治家におけるスキャンダルだってそう。
どんな性癖があったって、政治手腕に影響するわけではないのにSM好きだったら次の選挙で落ちるとかね、たぶん仕事とは関係ないところで仕事そのものまで見られたりするのも同じことだと思います。
実はその裏には大衆の不満や鬱憤が溜まっていたりする。
そんな風に「表現規制はスケープゴートにも利用されている側面があるのではないか」と指摘しておられました。

それで、どうして残虐な表現が必要かというところなのですが、読者にとって緊張感が伝わる手法として主人公たちを100%追い詰めてようやく1%伝わっていくということや、死を見つめることによって、ようやく生の境界線が現れるということや、そもそもの現代社会の仕組みの中に暴力があり、暴力は抑制であり、抑制は秩序であることをあげられていました。
その「暴力」とはなんぞやを作品によって疑似体験させることによって、所謂作品そのものが「ワクチン」の効果を持つということです。

都条例のこともそうですが、大阪も確か規制に乗り出していたと記憶しております。
私も氏と同じ懸念をしていたのですが、いかに担当者が質問者に対し「いやいや、そのケースはいいんです」と言ったとしても、条文が残っている限り、場合によっては「いや、条文に照らし合わせるとアウトです」と突然翻される可能性だってある。
これは氏の言葉では「検閲が厳しくなると時代における為政者によって都合のいいものが規制される」という状態になります。
つまり「表現の自由が侵される」というのは、ここにあるんですね。

最近の御伽噺は読んでいなかったのですが、子供用に因果応報の話を改変しているのだそう。
いきなり改心して善人になるケースが多いのですか?
だとしたらグリムなんて読ませられませんね。
親の立場として「自分の小説は子供には読んで欲しくない」と冗談を言っておりましたが、悪に対する想像力が養われないと突然過剰反応したり魂が傷つけられたりと、取り返しのつかないことが起こるということを言っておられました。
そこで重要な言葉がありました。
「魂の傷を教えるのと与えるのとは違う」
この言葉は非常に難しい。
現代人は「不愉快なもの」に対して過剰反応する性質があるので、「不愉快なもの=尊厳を傷つけられた=魂を傷つけられた」という論法に摩り替わっていくのです。
ロジックの飛躍なのですが、この手の飛躍は「日常茶飯事」になってきています。
他者への配慮よりも個人の利益優先で成り立っておりますから、「魂の傷を教える」というのはいかなることなのか、これは作者側の葛藤ですが、やはり作り手としては悩むところだと思います。
そして作品を受け取った側にとっても「魂の傷とは何か」を考えて欲しいところなのですが、これは各々の感想や感受性に任せるしかありません。

現実の世界は世の人々が言う美談とはかけ離れていて、結構魑魅魍魎の世界。
権力とかお金とか関わってきて、大きくなればなるほど、もう酷いものです。
裏切りや奪い合いや巧妙で狡猾なやり取りなど当たり前。
他人への思慮分別など策謀に巡らされるわけです。

私も「臭いものに蓋をし続ける」ことが、いずれ大きな社会的な損失として表出してくるのではないかと考えています。
海越えたら日本の理屈なんて存在しなくなるのだから、人間のありのままの姿をいかに議論できる状態にするか、議論をしあえる自由な空気を作れるかが、成熟した教養を持ち合わせた社会へと発展する鍵だと思うし、しっかりした大人を育てる社会的な度量だと思います。

蛇足なんですが、京大には約7000円コースディナーを出すレストランがあって、ちょっとびっくり。
洒落てるね。
無料で講演開いているみたいなのでちょくちょく顔出したいな。


追記:
講演が始まる前に『悪の教典』の映画の予告編を流しておりました。
講演ポスターにも単行本が。
そしてこの講演のタイトルに絡めて話したという流れなのですが、「ぜひ買ってね!」ということですね。
わかりました。買います。

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
46
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。

気が付いたら他人からとても褒められる娘ができまして、人生が大きく変わりました。
この小さな可能性と向き合うため頑張って生きております。

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