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あさかぜさんは見た

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07/02

Mon

2012

運命は数奇

小説ってことについて日記を書いたはずが書かれていなかった。
ブログの投稿ボタンをクリックし忘れたのだろう。

いつもの通りどうでもいいような内容なのだけど、結局純文学で儲けられるような時代はとうの昔に終わっていて、今更それをやろうものなら「飢え死に覚悟でどうぞ」ということだ。
そしてネットのQ&Aにもあったけれど

「純文学というのは、自分が純文学というものを書いているので高尚だと思い上がり、マイナールールをこしらえてそれを守らない人間を虚仮にしていい気になる、閉鎖的で発展性がなくそれでいてそれを高度で無能な輩が理解できないと得意げになり、文学そのものを衰退させている害虫の巣窟です」

文学とは小説とは何か。
時折考えることだし、確かにこの人の言うことは否定できないところがあり、結局閉鎖的な環境にいると、一人作業なものだから自らが自らの思考の迷路の中に入り壁に囲まれていくのに気がつかないという状態が起こる。
上に行くと批判する人間も少なくなるので当然錯覚する。
批判ばかりがよいわけでもないし、応援してくれる人が周囲に残るのは自然な事だけれど、ひとつ環境が違えば作家などとるに足らない愚者に成り果てるのに、それを理解しないで思い上がるのは喜劇にも道化師にもなりえないということなのです。

以前にもこんな内容で書いたような気はするけれど、これからリアリティある文学、純文学系で勝負するには莫大な時間と資金が必要になる。
なぜならエンターテイメントで慣らされた人たちや、環境時代の違う人たちが来るのだ。
今までとは考え方も感覚もまったく違う世代が来る。
その世代を、きちんとした文学に面白みを感じるように育てなければいけないのだから、時間とお金がかかるに決まっている。
売り上げを気にして純文学系を書くのは矛盾しすぎている。

あえて純文学という言葉を使ったけれど、私もあまり心地のいい言葉としては受け取っていないのです。
上の答えにあったようなものもそうなのだけれど「他者の裁量により、文学という定義が曖昧かつ独善的に語られ、まったく本人以外、または親しいお身内以外には通じない、あたかも自らの定義が高尚なような、虚飾の言葉で語られ選ばれた小説」のことを「純文学」というのだなと私も理解しています。

それが前回の日記の内容だったのだけれど、今回は「ああ、運命は数奇」と思うのでちらっと書き残しておこうと思ったのです。
作家としての天性の素質って何だろうと考えるのですけど、才能全般ですが素質って、いつも「非凡」なところにあると思うのです。
生まれつき文章がうまいという人もいますが、私はそういうタイプじゃなくて「小学生の作文」から我流でやってきました。
今は我流の限界を感じ、そろそろプロの人に見てもらって文章ちゃんとして欲しいなとは思っているものの、なかなかチャンスは訪れずにいるわけです。

さて、「非凡さ」というのは別に生まれ持った感性・技術のことではなくともいいと思うのです。
何かそれをやり続けたいと思わせる、やり続けなければいけないと思い込ませる出来事に見舞われるということも「非凡」であると思います。
つまり自らが「引き寄せる体質なのかどうか」はとても重要な要素であり、それがなければ何も起こらないわけであり、何かを起こしてもやっぱり何も起こらないわけです。
待てば何か起こるわけではなく、引き寄せるための、あらゆる努力や手段を尽くしてようやく引き寄せるわけですが、その努力の部分も含めて引き寄せられる体質になれるかどうかなのです。

その数奇さは、やはり「非凡」なのです。
よく作家にはドラマがつきものなのも、そのせいかと思います。
そしてこの日記を書くからには私にもそれなりのドラマが付きまとっています。
通常では考えられないような道を辿っているので、私には自称でも作家を続けなければいけないと思うし、今更「普通」には戻れないのです。
きっと社会生活を健全に営んでいる人から見れば、完全に道から外れまくっているアウトローの仲間というか、その端くれなわけですが、ますます本格的に「異次元の人」になりそうです。
しかし腰を落ち着けて、私らしい視点を持って、膝を突きながら人を眺めていきたいと思うのです。
私には「偉すぎる人」の人生を描くには、少々違和感があり、やっぱり「落ちこぼれ」や「マイノリティ」な人たちが好きなようです。

これも人生。
今まで辿ってきた道があって初めて開けている道なのですから、今更普通に戻って矯正していくのも逆に変な話なのです。
もし妙な青春時代がなければ、この場にはいなかった。
それだけは断言できる。
落ちこぼれの気持ちが理解できるのも、あらゆる人たちのおかげです。
皮肉ではなく、ありがとうと伝えたい。
といっても、皮肉を完全に取り去れるほど、出来上がっている人間でもないのですがね。

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06/26

Tue

2012

結びつきとすれ違い

人と人とは色々なタイミングがあったり、それぞれの性格があったり、目的があったり、環境があったり、事情があったりする。
お互いの気持ちや提示している条件が合致しているにも関わらず、状況がそれを許さないことがある。

人と人とが結びつくことは、そういう意味では奇跡とも言える素晴らしいことなのかもしれない。

「人の幸福を願う」
これはとても難しいことで、ともすれば「軽口」にもなりかねない。
誰にでも言えるけれど、誰にでもできることではない。
なので、言葉はあふれていても、している人は少ない。

言葉や想いを持っていてもすれ違ってしまう。
いつだって人と人との距離を埋めるには、たくさんのことが必要だ。
たくさんの犠牲を払っていて、それを軽く言われてしまったり、たいしたことではないのに多くを見せかけたり、些細な一言の奥に、信じられないほどの深い事情があったり。
私たちはすれ違うように出来ている。
分かり合えるようには出来てない。

人には性質がある。
人には充実感を得る事象が、それぞれある。
自分の利益を貪欲に確保することに生きがいを得る人。そのためには他人を蹴落としてでも、自らを優先させる。
逆もいる。
名誉欲、物欲、金銭欲、性欲など、欲望は人間を脆くさせる。
「君の幸せを願っているよ」
そう言いながら他人の秘密を聞き出し蹴落とし出世したら。
そう言いながら他人から搾取しながら自分のものにしていたとしたら。
そう言いながら厳しい労働条件で働かせ自らの利益を得ていたとしたら。
そう言いながら異性を騙し、際限なく次々と肉体だけをむさぼっていたとしたら。
一瞬にして言葉の意味は歪められる。

世の中では、この「歪み」が数多く利用され、そして社会的な攻撃方法として使われている。
2者間でだって、「ああ、この人の言葉はもう信用できないな」と思うような情報を得てしまうと、自分の強烈な思いに引きずられたりする。
真実を探る前に、印象に引きずられてしまう生き物なのだから、人との「絆」なんてものは表面上では脆い。

だからこそ「してくれたこと」が一番印象に残る。
あの時何をしてくれたのか。
ただそれだけが残っていく。
しかもだいたいの人間は見えないものは、実感として蓄えられない。見抜けない。考えない。
悲しいことではなく、これが当然なのだ。
だから思いだけでは通じない。
どうしても行動していく必要がある。
そしてようやく結びつこうとする機会が与えられる。

それでもすれ違ってしまうことがある。
タイミングや条件や、状況や能力や、ほんの些細な事が合致しなくて、すれ違ってしまうこともある。

「あなたの幸福を願います」
きっとそれだけでは足りない。
祈りたいのなら、魂を乗せなければ届かない。
もっとしたいのなら、行動することだ。

すれ違ったとしても、最善を尽くしたという事実さえあれば、その解釈はよいものになる日が来るかもしれないのだから。

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06/17

Sun

2012

「愛してる」

生涯愛されることなど、一度でもあったら幸運だ。
そして愛されるということは、こちらも限りなく愛情か、それに代わる何かを与え続けていることが多い。

普通、人は自分の不利益になることは避けるし、辛いことも積極的に買って出たりしない。
だから「好き」はいつでも簡単に崩れ去って、次の「好き」になれるものを探し、相手も「好き」でいてくれたら、互いの「好き」が成り立っている範囲で付き合いだす。
この段階までは、まだ「取引」に似たようなやり取りがなされる。
「好き」と「嫌い」を天秤にかけて、「好き」の比重が多いうちは付き合うという具合だ。

よく言われる。
「愛する」とはなんだろう、と。
忍耐であったり、強さであったり、欲望を捨て去った悟りの境地のようなものであったり。
とにかく、あれほど簡単に崩れ去る「好き」に比べ、「愛情」は「嫌い」が多分に含まれていようと、そう簡単になくなったりはしない。
この段階まで来ると天秤の「嫌い」が大きく比重を占めようと、たいした問題ではなくなる。

見ていて、「愛情」と「好意」の明確な違いがある。
それは「自分の立ち位置を変えるかどうか」だ。
心に通った一筋の誠実さやポリシーのようなものは愛情を持つ上で大事だけれど、それ以上に「立ち位置」というのは、極端に言えば「自分の人生捨て去ってでも相手のためを想い、懸命に尽くすことができるのか」「今ある環境を、自分の持っている大事なものを犠牲にしてでも、相手を想ったり行動したりすることができるのか」という点において、「好き」とはまったく違うように感じる。
これが「好き」だと何かあった時「自分を守る」ため、相手の領域にまで身ひとつで立ち入らない。
自分の守ってきた領域からは出ずに、言葉や思いを投げかける。
本人は必死に相手のことを想っているのだろうが、そしてその想いから「私はこれほど考えているのに相手は何もしてくれない」と思いがちになるが、だいたいは「賭けているもの」が小さい。
何かがあっても破滅することはないし、その人がいなくなっても、ただ自分の人生は元通りで進む。

世の中には愛情を利用して搾取し続けるような人間もいる。
愛を求めるだけで愛することができない人もたくさんいる。
そして各々が考えている「愛情」の定義も大きさも違う。
だから愛情と見せかけた「好き同士の取引」がたくさんなされている。

愛しているつもりが、ただ自分の利益を守るだけに立ち振る舞っていることだって多々ある。
献身的に愛そうとして、ただ搾取されるだけで、愛することをやめた人だっていることだろう。

色々書いたが、最初は「取引」でよいと思う。
自分が愛情を注ぐにふさわしいのか。
自分の未来がなくとも、この人だけは幸せになって欲しいと思えるのか。
人の本質は言葉に左右されたり、持っている価値観に左右されたりはしない。
最初から持っていている。
どんなことを言われても、自分はこの人のために何かができるのか、与えられるのか。

「愛」は、語られるほど多くはないし、生涯で出会えるかどうかの貴重なものだ。
だからこそ、「愛情」から語り始める人間は、ほとんどが「愛情」を持ち合わせていないことが多い。

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06/14

Thu

2012

自転車に乗っていると交差点で左右の信号が青になるのを、目の前が青信号になると思い込み発進していた車がいた。
強烈な勘違いだ。
そして自転車を走らせていくと、今度は右折してくる車にかなり横断歩道の白線まで割り込まれた。
歩行者などはいないと思い込んでの進入。

ふっと、そこで「他人の思い込み」というやつに気がついたのだが、こちらだって「思い込んで」注意しなければ誰かと接触したり車に引かれたりすることだってある。
もし事故が起これば当然「うっかり」ではすまなくなる。

だからこそ「思い込み」に対して注意を払う。

だけれど普通、価値観とか、慣習とか、そんな類のものには、長年安定して続けられるような条件がそこにあって、それも一種の「思い込み」によって成り立っているのではないかと、ふと考えた。
例えば、ある種の考え方に嫌悪感を抱く人、ある種の性格の人たちに攻撃的になる人、これらの人たちは「思い込み」で結構断定してくる。
「ちゃんと見てますから」というレベルでも、結構分母が少なく、別にその手の人たちに献身的に接しているわけでもなんでもない人が多い。

この「思い込み」は、どうして成り立つのか。
今のところこれは「条件反射」に近い反応で、この「条件」とは、長年親しんだ考え方・環境・知人友人関係含め、「自分がどの場所で安定してきたか」の基準でしかないように思えてきた。
「条件反射」は、同じ環境に居るものたちと、ある程度共有されてくるので、集団や組織の中で「価値観」となり、持続が長時間にわたればわたるほど「常識」となってくるのではないかと考えている。
そして「条件反射」の成り立つもうひとつの「条件」とは、必ず環境が外部からある程度隔絶される必要がある。
例外が数多く起こってしまっては「条件」が変化してしまうため、外部から強く影響を受けない環境下・影響下に置かれる必要があるわけだ。

普通自分がどの環境下に置かれ、どんな影響を受けて現在こう行動しているのか考えているのか、まず意識することはない。
どうして今の自分が成り立っているのかを客観的に、そして外部の目から見るには、今ある環境での考え方を捨てる必要があるからだ。
よほどの人間じゃないとそれができない。

でももし、「価値観」の根本に「条件反射」があるのだとしたら、色々と自分が納得できる部分が凄く多くなる。
相手の行動の「理由の根本」は何か。
意識下にある、本人でも意識できない領域に沈んでいる、長年刷り込まれてきた、刷り込んできたものは何か。
人の本質は、見えてくると、わりとシンプルだったりすることが多い。

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06/11

Mon

2012

好きなればこそ

「痛くても辛くても、それでも一緒にいたいって思うのが好きってことだと思うんだ」
そう言われて「ああ、そうだよな」としみじみ思った。

自分の場合は創作活動と重ね合わせて、「本当に好きなら受ける痛みよりも失う怖さのほうが大きい」という実感から考えてしまう。

しかし実際、そんなレベルまで気持ちを高めるのは本当に大変なことだし、それだけのものに出会えるのもなかなか少ない。

私自身「好き」という感情に酷く懐疑的なところがあり、その「好き」は「夢を見ている」程度のことでしかないのではないか、だからこそすぐ、ちょっとしたことで、自分の気に入らないことがすっと入っただけで、覚めてしまう程度のものなのではないかと、いつも思っている。
だからこそ、他人の「好き」を「ああ、やりたいところまでやれば」という冷めた目で見ているし、「やれるものならやってみろ」と熱っぽい目でも見つめている。

でも、口だけのことなんて信用できないし、それを裏付ける行動をしてこそ、この人の熱意は本物なのだと信じることが出来る。
みんな上辺だけで通じ合えて、そこから少しずつ深く接していくのだろうが、いつまでも上辺のままで済ませてしまう人もいる。
そういう人はいつまでも上辺だけで付き合っていればいいのだけれど、自分にはいらない。

本当に好きになるって、本当に辛いことだし、何かを犠牲にしなければいけないし、その犠牲さえも心地よいと思えるような心境だと思っている。
好きは真剣だから、真剣になれないようなのなら、ただの憧れなのだろうなとも思う。
なのにどうして「好き」だとか簡単に言ってしまうのだろうなとか、そういう軽さに付き合って「好き」とか言ってると、何か「遠さ」を感じてしまったり。
覚悟がないなら、いつまでも夢見るようなことはやめろとか、普通に考えてしまうけれど、それは人の人生だから口をつむいだり。

好きが普通の道を外れて、人生そのものが危うい状態になりかねない自分もいるし、その自分すら沸騰しつつあるぬるま湯に浸かっているカエルであったり、人は自分勝手であり、その典型的な人間であったり。
ようは「自分で納得できない苦しみ」でなければ、進むに進めない。
何かあって折れるなら、そこでやめてしまえ! と思うわけです。
だって、そう言ってあげるのが慈悲だと思うのです。
じりじりじわじわずるずるといつまでも夢を見させて浪費させるより、すっぱり傷つけてやって諦めさせたほうがずっといいのです。
新しい道を歩めることだしね。

ああ、酔っ払って脈絡もない文章を書いているわけですが、夢を語るなら、覚悟をしないといけないと思っているのです。
苦しみすらも、好きなればこそ、受け入れられるのだから。

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
45
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みますが光野(こうや)とか朝風(=はやぶさ)でもよろしゅうございます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。自分でも困るほどの「皮肉屋」で「天邪鬼」。つまり「曲者」です。

2011年より声劇ギルド「ZeroKelvin」主催しております。
声でのドラマを通して様々な表現方法を模索しています。
生放送などもニコニコ動画でしておりますので、ご興味のある方はぜひこちらへ。
http://com.nicovideo.jp/community/co2011708

自己プロファイリング:
かに座の性質を大きく受け継いでいるせいか基本は「防御型」人間。自己犠牲型。他人の役に立つことに最も生きがいを覚える。進む時は必ず後退時条件、及び補給線を確保する。ゆえに博打を打つことはまずない。占星術では2つの星の影響を強く受けている。芸術、特に文筆系分野に関する影響が強い。冗談か本気かわからない発言多し。気弱ゆえに大言壮語多し。不安の裏返し。広言して自らを追い詰めてやるタイプ。

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