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あさかぜさんは見た

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11/24

Sun

2024

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06/14

Thu

2012

自転車に乗っていると交差点で左右の信号が青になるのを、目の前が青信号になると思い込み発進していた車がいた。
強烈な勘違いだ。
そして自転車を走らせていくと、今度は右折してくる車にかなり横断歩道の白線まで割り込まれた。
歩行者などはいないと思い込んでの進入。

ふっと、そこで「他人の思い込み」というやつに気がついたのだが、こちらだって「思い込んで」注意しなければ誰かと接触したり車に引かれたりすることだってある。
もし事故が起これば当然「うっかり」ではすまなくなる。

だからこそ「思い込み」に対して注意を払う。

だけれど普通、価値観とか、慣習とか、そんな類のものには、長年安定して続けられるような条件がそこにあって、それも一種の「思い込み」によって成り立っているのではないかと、ふと考えた。
例えば、ある種の考え方に嫌悪感を抱く人、ある種の性格の人たちに攻撃的になる人、これらの人たちは「思い込み」で結構断定してくる。
「ちゃんと見てますから」というレベルでも、結構分母が少なく、別にその手の人たちに献身的に接しているわけでもなんでもない人が多い。

この「思い込み」は、どうして成り立つのか。
今のところこれは「条件反射」に近い反応で、この「条件」とは、長年親しんだ考え方・環境・知人友人関係含め、「自分がどの場所で安定してきたか」の基準でしかないように思えてきた。
「条件反射」は、同じ環境に居るものたちと、ある程度共有されてくるので、集団や組織の中で「価値観」となり、持続が長時間にわたればわたるほど「常識」となってくるのではないかと考えている。
そして「条件反射」の成り立つもうひとつの「条件」とは、必ず環境が外部からある程度隔絶される必要がある。
例外が数多く起こってしまっては「条件」が変化してしまうため、外部から強く影響を受けない環境下・影響下に置かれる必要があるわけだ。

普通自分がどの環境下に置かれ、どんな影響を受けて現在こう行動しているのか考えているのか、まず意識することはない。
どうして今の自分が成り立っているのかを客観的に、そして外部の目から見るには、今ある環境での考え方を捨てる必要があるからだ。
よほどの人間じゃないとそれができない。

でももし、「価値観」の根本に「条件反射」があるのだとしたら、色々と自分が納得できる部分が凄く多くなる。
相手の行動の「理由の根本」は何か。
意識下にある、本人でも意識できない領域に沈んでいる、長年刷り込まれてきた、刷り込んできたものは何か。
人の本質は、見えてくると、わりとシンプルだったりすることが多い。

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06/11

Mon

2012

好きなればこそ

「痛くても辛くても、それでも一緒にいたいって思うのが好きってことだと思うんだ」
そう言われて「ああ、そうだよな」としみじみ思った。

自分の場合は創作活動と重ね合わせて、「本当に好きなら受ける痛みよりも失う怖さのほうが大きい」という実感から考えてしまう。

しかし実際、そんなレベルまで気持ちを高めるのは本当に大変なことだし、それだけのものに出会えるのもなかなか少ない。

私自身「好き」という感情に酷く懐疑的なところがあり、その「好き」は「夢を見ている」程度のことでしかないのではないか、だからこそすぐ、ちょっとしたことで、自分の気に入らないことがすっと入っただけで、覚めてしまう程度のものなのではないかと、いつも思っている。
だからこそ、他人の「好き」を「ああ、やりたいところまでやれば」という冷めた目で見ているし、「やれるものならやってみろ」と熱っぽい目でも見つめている。

でも、口だけのことなんて信用できないし、それを裏付ける行動をしてこそ、この人の熱意は本物なのだと信じることが出来る。
みんな上辺だけで通じ合えて、そこから少しずつ深く接していくのだろうが、いつまでも上辺のままで済ませてしまう人もいる。
そういう人はいつまでも上辺だけで付き合っていればいいのだけれど、自分にはいらない。

本当に好きになるって、本当に辛いことだし、何かを犠牲にしなければいけないし、その犠牲さえも心地よいと思えるような心境だと思っている。
好きは真剣だから、真剣になれないようなのなら、ただの憧れなのだろうなとも思う。
なのにどうして「好き」だとか簡単に言ってしまうのだろうなとか、そういう軽さに付き合って「好き」とか言ってると、何か「遠さ」を感じてしまったり。
覚悟がないなら、いつまでも夢見るようなことはやめろとか、普通に考えてしまうけれど、それは人の人生だから口をつむいだり。

好きが普通の道を外れて、人生そのものが危うい状態になりかねない自分もいるし、その自分すら沸騰しつつあるぬるま湯に浸かっているカエルであったり、人は自分勝手であり、その典型的な人間であったり。
ようは「自分で納得できない苦しみ」でなければ、進むに進めない。
何かあって折れるなら、そこでやめてしまえ! と思うわけです。
だって、そう言ってあげるのが慈悲だと思うのです。
じりじりじわじわずるずるといつまでも夢を見させて浪費させるより、すっぱり傷つけてやって諦めさせたほうがずっといいのです。
新しい道を歩めることだしね。

ああ、酔っ払って脈絡もない文章を書いているわけですが、夢を語るなら、覚悟をしないといけないと思っているのです。
苦しみすらも、好きなればこそ、受け入れられるのだから。

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06/03

Sun

2012

ストレスと暴力性

心理的に「社会から虐げられている」という気持ちの人間が少しだけ理解できる。
他人を殺したくなったり、暴力を振るいたくなったりする気持ちが少しだけ理解できる。

わかりやすく言えば承認欲求ではあるが、それ以上に自分の価値への空虚感、ある種の底なしの乾きのようなものを持っている。
当然それは「外部」からの圧力によって、影響によって、今自分はこうなっているのだという気持ちがわき起こるが、具体的に払拭するにはどう行動していいのかわからず、目の前にあるレールを眺めてはしぶしぶと皆と同じ道を歩みだしながら鬱憤をつのらせていく。

私もふと暴力的な考えが頭に浮かんでくることがあった。
自分の存在が軽視され、無価値であるかのような、足元から次の瞬間崩れてしまうような、生きていても虚しいような、そんな感覚の中、生きようとする気持ちや力が、その無気力さや感覚的に感じる脅迫感を排除したくて、結局憎しみや暴力に考えが流れていく。
生きようとすることは「停滞していた感情活動」を再起動させることでもあるので、心に沈めていたドロドロした感情が込みあがってくる、というわけだ。

脅迫観念は心の底に沈んでいて、直接言われなくとも過去に経験が重なれば四六時中心に浮かんでいて、酷い場合は一ヶ月とか半年とか前のことすら思い浮かべて心を病ませている。
なので、このどす黒いものに取り付かれてしまうと、まるでギトギトの油がついたように、なかなか落とすことができない。
人間の心の浄化能力は石鹸で洗う程度で、強力洗剤のようには洗えない。
なので、与えられた理不尽さや憎しみを別の大きなもので排除していけない限りは、たまりにたまった鬱憤が、どこかで爆発する。

不特定多数の人間を狙う人の気持ちが少しわかる。
彼らは漠然とした「シンボル」に対して怒りや憎しみを覚えているということだ。
例えば「社会が悪い」「人間は信用できない」など特定の個人というよりも、もっと漠然とした「象徴」のようなものを憎んでいたりする。
だから誰々さんを殺しにいくのではなく、「象徴」を破壊しに行く。
自分が感じている「空気」のようなものを破壊しようと足掻く。
だがそれでもストレスを発散しただけであって、物事の根本は変わらないのだから、理不尽さだけが残る。

漠然としたものを攻撃した後には、現実的な具体性のみが残るので、そこで初めて自分が抽象的なものを憎んでいたのだと気がつき、現実へ後悔をしだす。
こんな流れは多いと思う。

ほとんどの場合は、現実的な何かにしがみ付いて、凶行までの一歩を躊躇すると思う。
例えば、たった一人の親友のこと、仲間たちとの思い出、大好きな歌手の歌が聴けなくなる、おいしいもの、やりたいこと、などなど些細ではあるが、自分が感じている現実をどこかで思い浮かべ、やめる。
たいていは凶暴な考えが浮かぶ前に怒りとして出てくるだけで、具体的な凶行までの妄想までは至らないだろう。
それが普通だろうと思う。

暴力というものは、より弱気ものへと向かう性質がある。
強いものと戦うには非力だから負け続けているのだということを直感的に理解しているので、自分の力を誇示できる存在へ、力を向けて自尊心を得る。
男性の場合は上下にこだわり、女性の場合は集団への所属と支配にこだわる性質がある。
なので男性の場合は下部へと暴力が向かい、女性の場合は集団からの特定個人の排除(集団を取り込んだり、うわさを流したりする)に力が使われる。

暴力を振るう人間は、自分の優位性を確保する。
つまり、まがりなりしも自分が責められないような状況で相手を責め立てるため、だいたい相手の欠点や失態、自分の優れている能力や立場などを利用するのが特徴だ。
彼らの暴力性の底に沈んでいるものは比較における自身の劣等感なので、社会上自分より裕福であったり権力があったりする人間に常に向けられる。
彼らもまた「シンボル」を憎んでいる。
なので流される情報の裏を取らず、持論への反証の可能性を模索せず、ただ感じるままに自分の鬱憤と合致するようなものを探し出しては偽善的な義憤を燃え上がらせる。
そして彼らは直接的暴力のみが暴力であると思い込み、自分が物理的で直接的な暴力行為をしない限りは、暴力に該当しないと思い込んでいる。

人間の社会は法律に抵触しない暴力に満ち溢れている。
ストレスのみならず、欲望を優先させるよう、貪欲でなければ何者かに負けてしまうので、より強者であるよう、体に叩き込まれていく。
そうしなければ、まるで転落してしまうかのような気持ちにもなる。
だから皆止められない。
皆誰かを監視している。
出し抜かれないように、自分が攻撃されないように。

人の世が理不尽で不条理なのは、人に欲望がある限り、永久に続くのではないかとさえ思う。
弱者が滅んでいくのは自然の摂理かもしれないが、知恵のある人間が他の自然界の中の動物と同じであるような理屈を主張する人間は「獣並みの頭」しかないと私は思うようになってきた。
人間は機械ではない。
社会に適応できないからといって「欠陥品」でもなんでもないのだ。
ただ、居るべき環境を間違えているだけなのかもしれない。
周囲はそれにすら考えが及ばない。

いつだって浅慮な人間が理不尽な暴力を振るいだすのだ。

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06/01

Fri

2012

力を持つということ

一生懸命非力でもがいていた時とは違い、力を持つと小指の先一つ動かしただけで人を傷つけられるようになる。
そんな力を持っているにも関わらず、平気で力加減を知らず傷つける人間もいる。

人は言葉だけで人を殺せるのに、人を生かすには言葉だけでは足りない。

私は今命を握っている。
命を握って、ほんの少し力を入れただけで冗談ではなく人間一人殺せるほどのか弱い命を握っている。
それだけ力を持った。
だが私はもう殺さない。
人の命を育てるには言葉だけでは足りない。
自分でやってみて、心底わかってくる。
こちらも全力で向き合わなければ、中途半端なことだけを与え続けてしまう。

育てることに比べれば、あらゆることは眉唾だ。
まるで子供を育てるみたいに、一つの命を育てている。
そうして芽吹くものは、輝きに満ち溢れることがよくわかっていて、そして何よりも素晴らしいものだということが見えるから、全力を注げる。

人の心は赤子のようだ。
殺すには言葉だけで充分なのに、育てるには言葉だけでは足りない。
魂一つ、全力でぶつけていかなければ、育てられない。

こうしてみると、世の中のほとんどのことは甘い虚飾に満ちていて、嘘ばかりのおべんちゃらで、「礼儀」などとのたまっていることがわかる。
偏見に満ちていて、嘘ばかりで、人と向き合わず、厚い、それこそ分厚いというには足りないほどの仰々しい仮面で、人は「信用」というものを紡ぎあっているのだというのがわかる。

育てることは命を注ぐこと。
向き合うことは魂を腹の底に座らせて向き合うことだ。
そういうことができる人間は少ない。
皆自分の利益のために動いて、そして自分に少しでも損害を与えた人間を責め立てる。
人間の愛すべき、時として憎しみすらも生む小ささ。
小ささを罵り合って、育てることなどせず、ただ「俺はあいつよりも酷くない」と、どこかで安堵を覚えながら、「次は自分の番かもしれない」「次は俺が攻撃される番かもしれない」と不安を覚えながら他人の足を引っ張り、出し抜き、そして引き摺り下ろして安心する矮小な生き物だ。
私だって自分が有利な立場になれば凄く安心する。
「なんてここはいい場所なんだ。絶対にこの場所は譲らない」と、他人を蹴落とす気持ちが強くなるかもしれない。

だが、疲れた。
創作も含め、育てるということがどれほど大変なことかを知ると、壊せなくなる。
小さなものでさえ、どれほどの時間でこれを作り上げたのかと思ってしまうと、たとえ暴力的な気持ちが芽生えようと、できなくなる。
自分のために他人をサンドバッグにし、ボロボロになれば捨てるような、それで傷つけたことを露ほどにも気にかけず、ああすっきりしたなどと次の日から誰かに笑いかけることなど、そんな下劣な真似はできなくなった。

少しだけ母が何故強いのかわかったような気がした。
全身全霊を使って、子供と向き合わなければ育てられないからだ。
それができないから、向き合うことが何かがわからないから、ただ価値観を刷り込むことばかりが正しいことだと思ってしまうから、子供を育てられない親が増えたのかもしれないと思うところがある。

自分のやっていること。
コンテンツだってそうだ。
全身全霊を使って育てること。
それはどういうことなのか。
人と向き合うことだ。
数字とにらめっこをして、人と向き合えなくなったら、もうコンテンツはおしまいだろう。
そこに自分以外の人はいないのだから。

私は泣く、怒る、笑う、感じる、楽しむ。
心に素直になって、向き合い、ぶつけ合い、傷つけあい、喜び合い、分かち合う。
殺すには言葉だけで足りるのに、育てるとなったら全身全霊使わなければいけない。
世に破壊者は数多くいても、憎しみを抱え他人を利用し、利で動く人間が数多くいても、エゴイズムで動く人間がほとんどでも、小さな芽を育てられる人間は少ない。

私は力を持った。
昔よりもなお。
だから私は自分の昇華のために他人を利用するのはやめよう。
この手に握った命を、可能な限り大事に育て続けよう。
私の愛すべき数々のことを。

人は育つ。
手のかけようで、とても美しく立派に。
指先のほんの少しの力で宝石の原石に施されたブリリアントカットがずれてしまうほど繊細なのに、歪ながらも戦い続ける、この「闘争」という「希望」そのものが素晴らしいのだ。
愛すべきものたち。
美しく生きるものたち。

それを見つめられる力を持ち、条件次第では育てられる力を持ったのだ。

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05/29

Tue

2012

覚める夢なら覚めた方がいい

よく考えることがある。
好きってなんだろう、と。
人を好きになる、何かを好きになる。
なんでもよいけれど、自分の場合は文章をやっているので、人を好きになることと重ね合わせて考えたりする。

何度もやめようと思ったし、何度も迷って、何度も嫌な思いをした。
でも自分の中からすっぽりと取ってしまったら、本当に生きがいを失ってしまうほど、生きることが味気なく感じて、自分の生命の価値すらどうでもよいものに成り下がるような気持ちがした。
目標を失い、生きがいを失い、残されたものは、とても寂しい気持ちだけのような気がした。
それだけ文章は自分にとって大事なものなのだと、やめかけて気がついた。

例えば恋。
いつか夢から覚めたように、消えてしまうような感じがしている。
愛されたことはあって、今でもその愛が続いていることは信じられても、恋が長続きすることは信じられない。
それだけ「恋」という名の「偏見」に自他共に悩まされてきた。

芸の分野でも似たようなものが「憧れ」だ。
最初は憧れが強くて懸命にしがみ付くけれど、やがて現実が見えてきて、挫折し、苦労に耐えられなくてやめていく。
自分の場合「恋」にも、この過程を重ね合わせている。
憧れも恋も、いつかは夢から覚めたようになくなってしまい、別のものへと置き換えられる。
それは「現実」の中で作り出され、新しい光として輝きだす。
しかし、その光を浴びる前に、恋や憧れがなくなった段階でやめていってしまう人がほとんどだ。
そんなことで去ってしまうほどの気持ちなのならば、最初から好きではなかったのだと私は見てしまう。
ならば、早く覚めた方がいい。
夢を見ているのなら、早く目を覚まして、きちんと現実の中で生きていったほうがいい。
そう考える。

人の人生は、色々な要素で変化していく。
しかし忍耐の使いどころと、積極性の出し惜しみをすると、どうにも変な方向へ向かってしまうのではないのか、と考えるところがある。
人を愛するには、物事を愛するには、忍耐強さを使うべきところで使い、積極性を出して自ら傷つき学びを得る必要がある。
そんな、言わば「愛の戦場」ともいうべきところで、百戦錬磨されていくのだと思っている。

覚めるものなら覚めたほうがいい。
よりよく現実を見つめ、そして考えていくために、夢など早く覚めたほうがいいのだ。
そして生活や人生をしっかり見つめていく傍らで、大事に続けていくのが現実的なのだ。
夢を見ながら人生を組み立てることは、夢が大きな分だけ代償が大きい。
現実とのギャップの中で苦しむ。
現実とのギャップの埋め合わせを、たくさんのもので補わなければいけない。
それがわかっていないと、本当にどこまでもどこまでも犠牲を差し出しながらも自分の夢をいつまでも語ってしまう、憧れから抜け出せない、夢を見ている愚か者になってしまう。

憧れているうちは夢には近づけない。
いや、たとえ近づいたとしても、続けていけない。
続けていくためには、それぞれの「現場」で「戦う」必要がある。
その戦いを放棄しているうちは、見誤っているうちは、何も得ることはない。
夢を見ているだけだ。

覚める夢ならば、早く覚めて、現実的に前へ歩き出したほうがいい。

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
45
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みますが光野(こうや)とか朝風(=はやぶさ)でもよろしゅうございます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。自分でも困るほどの「皮肉屋」で「天邪鬼」。つまり「曲者」です。

2011年より声劇ギルド「ZeroKelvin」主催しております。
声でのドラマを通して様々な表現方法を模索しています。
生放送などもニコニコ動画でしておりますので、ご興味のある方はぜひこちらへ。
http://com.nicovideo.jp/community/co2011708

自己プロファイリング:
かに座の性質を大きく受け継いでいるせいか基本は「防御型」人間。自己犠牲型。他人の役に立つことに最も生きがいを覚える。進む時は必ず後退時条件、及び補給線を確保する。ゆえに博打を打つことはまずない。占星術では2つの星の影響を強く受けている。芸術、特に文筆系分野に関する影響が強い。冗談か本気かわからない発言多し。気弱ゆえに大言壮語多し。不安の裏返し。広言して自らを追い詰めてやるタイプ。

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