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あさかぜさんは見た

日記

03/10

Sun

2013

言葉のやり取りはキャッチボール?

先日、「会話はキャッチボールだから」と言っていた人がいた。
私はここまで生きてきて、本当にそうなのかなと思う部分がある。
少なくとも「キャッチボール」だと思っていたら社会に出て本当に痛い目に合う。
目をつけられ嫌がらせをされたり、こんこんと説教をされたり、ねちねちとやりこめられるということだってあった。
それは「配慮」というものが相手にとってまったく感じられず、こいつは吊るし上げなきゃいかん、という気持ちにさせたのが原因だ。
そう考えると、とても言葉のやり取りは「キャッチボール」ではない。
ストレートを投げたらいきなり怒る人だっているんだから。
そんな極端な例だってある。
いつも他の人で通じていたものがその人には通じないというのはよくあることだ。
特に心が絡んでくる場合「それ質問したらいけないんじゃないの?」という事情は、自分が投げかけよう、自分が知ろう、という意識では絶対に把握できない。
しかし相手のことを知るには黙っていてはどうにもならない。
言葉を投げかけなければいけないが、それはしつこく繰り返すが「キャッチボール」ではない。
相手からうまく言葉を引き出すには「共感」や「安心感」という作用を相手に与えなければいけない。
この「共感」「安心感」は「価値観」に関わってくるため、自分だけの立場ではまず会話がだんだんと尻すぼみになってくる。
言葉で説明するととても難しく感じるが、ようは経験上体感していること、苦労していること、そんな相手の事情を軽んじたり無視したりすると、機嫌をまず損ねられるということだ。
自分が投げるのではなく、気持ちよく投げてもらうために、受け取ってもらうために推し量りながら会話を進めないといけない。
じゃなければ大抵は敬遠されてしまうのだから。
どうしても中には大きな価値観の違いがあって合わなさ過ぎるという事例だってある。
それはしょうがない。
だって合わない人は当然いて、私たちはその人に心を砕くよりも、やらなければいけないことがたくさんあるのだから。
実は会話って、会話をしながら自分を確認しているんじゃないかと思うことがよくある。
その言葉は相手のことを考えているのではなく、そう見せかけて自分のことを確認していることだってかなりあるはずだ。
だから少なくとも私たちは会話をし始めた時点では「交換」をしている。
私はこれを持っています。あなたは何を持っていますか?
その繰り返しの中で繊細な事情には踏み込まずにいようというのは難しい。
踏み込みすぎは当然いけないし、そこはどれだけ親しいかに関わってくる。
基本人の心は見えないから言葉を交わしているわけであって、無礼になることを100%回避することはエスパーになって読心術を身に着けるしかない。
だから傷つけあうことも時にはしょうがないことなんだと考えている。
ようは傷つけあってしまったらどうするのか。
そこで自分が相手を許せる気持ちを持てるのか。
深い絆になるかどうかは、いつだって共に落ち込んでしまった後に存在する。
私たちの使う言葉は同じ言葉でも重みがそれぞれ違う。
何故違うのか、どうして違ってくるのか、本当の言葉の難しさはこの点に絞られてくる。
その「言葉の難しさ」は「心の難しさ」と完全にイコールでもある。
どんなに親しくなろうと私たちは他人同士。
日々変化しながら進んでいっている。
私たちの言葉は「交換」され、ようやくわかってくる。
自らの言葉は「体験」され、ようやくわかってくる。
一日経てば私たちの言葉の意味は大きく変わる事だってある。
伝えること、伝えられるようにすること、これがとても人との間には重要な事になる。
だから会話をするとき「キャッチボール」をしてはいけませんよ、謙虚な気持ちで「交換し合いましょう」と私は考えている。
と、言っても人間は感情の生き物。
怒る時は怒ってしまうのだけれどね。
日々、反省。

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02/05

Tue

2013

日本国の若者に求められているもの

年始のNHKの番組でこれからの日本のことを若者を交えて討論する番組があった。
だが私にはとても違和感があり、三十分ほど見たところで消してしまった。
ゲストコメンテーターでさえ自分のことを話すばかりで先行きが見えそうもなかった。
ああ、優れている若い世代のリーダーとは、まだこの程度のものか、と己の分際の考えずがっかりしたものだ。
今の若い者が考えることは、自らに利益のあることは何か、いや、既に上の世代が利害そのもので動いているせいか、自分が得するにはどう生きたらいいのか、という観点でしか質問をぶつけていないことにげんなりしてすぐにテレビを消してしまった。

今の年になって気がついたことなのだが、実は個人の能力を最大限に生かすためにはどうしても集団の機能を借りるしかない。
逆に言えば今の既存の集団が個人に対して個性を生かすどころかその個性を死に絶えさせて集団の為に機能性を強いている、いわばチャップリンのモダンタイムスのような世界になっているところに理解できない鬱憤を溜め込んでいるのだろう。
今の若者が憤っているのは時代に伴う世代間意識格差といえばそれまでだが、もっと突っ込んで言えば今の自分の能力が生かしきれずに死に絶えてしまい、このまま上の命令に従うまま希望も意志も吸い取られて生きるしかばねのように過ごしていくしか手段はないのではないか、もっと自分の能力や個性を生かしていきいきして生きていく術がもしかしてあるのではないか、しかし出来ない現状があるという憤りから来るものであるとは私は理解しているものの、彼らの観点は追い込まれているせいか、自分の利益になるものは何かという渇望、飢えしか感じない。
このままでは国などよくなるはずがない。
と、決め付けてしまうのも早いが、きっと苦しい時間を過ごした東北の人たちの中に偉人が必ず出てくるだろうと待って彼らの活躍に希望を寄せるのも間違っている。
今生きている、二十歳よりも一回り上の世代は一体何を目的にして動くべきなのか。
三十二歳以上ともなれば結婚もして子供も出来て、家庭のことを考え、収入を考え、今の生活を壊さず子供を育て上げるにはという収入に対するプランも出来てきて、余計な出費、ましてや赤の他人の人生に対する投資や努力など馬鹿げたことだと思うような年になってくる。
だがそれを繰り返していてはこの国などよくはならないのだ。

貨幣を主体とする国は当然利害関係が重んじられる。
その国で生きる人間も得があるか損があるかで付き合う人間が決まる。
それが精神的なものではなく、お金の関係性によって成り立つことすらある。
治安が成り立っていない、もしくは暴力的な手段がまかり通るなら力関係によって成り立つだろう。
今や現代社会は歪んだ正義感で成り立つものによって傲慢さを増しているが、我々が本来「幸福」とすべきものは共産主義的な平等でもなく、もっとも崇高な精神的な尊厳と尊敬の意識を保ち続けるところにあった。
しかし歴史を知らない私でも人類はシンプルな感情に立ち返り争いを続けていると知っている。
そして正義あるところに利害関係を見つけ悪がはびこることも避けられない定めであろう。
だが私は訴えたい。
もし君を助けるたった一人の他人でもあったのだとしたら、君はその人のことを忘れず、恩返しはすべてできないにしろ、欠片でも返していけと。
それが次の世代へ自分が生きてきた証を示す大きな墓標になるのだということを、やがては死ぬことを考えられない世代へ送りたい。
それが次の世代へ不幸を強いることがないのであれば、私は正義とは言わず、自らが考える他者の幸福の為に尽くしなさいと言いたい。

それを訴える理由を今から書く。
先ほども書いた通り、個人の才能や個性を最大限に生かすのは集団の機能である。
これは個人が個人の為に集団を利用しようとしては成り立たず、個人が集団の為に尽くし、集団の幸福の為に行動してこそ彼らも個人の為に何とかしようと動く精神作用を言っている。
これが逆だと、あいつもこうしているのだから、俺らも別にいいじゃんという足の引っ張り合いになる。
当然全を最大限行っていると思っていてもそれを利用しようとする悪も後を絶たないだろう。
だがそれを追随してしまってはいけない。
そういう他者を利用しようとする人間が損をするのだという行動例を自分で作っていけばいいのだ。
責めるのではなく、実力でねじ伏せる。
いつだって歴史は強者によって塗り替えられてきた。
その手段は様々だが、我らは利害によって成り立ってはいけない。
それは悪は悪を追随するという構図を社会上に作ってしまうからだ。
善と悪の概念は当然社会構図によって変わるだろう。
幸福の概念さえねじ伏せられ、捻じ曲げられられる。
私たちは「吸い取るもの」と「与えるもの」を厳密に考えていかなくてはいけない。
私も恐怖のあまり保守的な考えに浸り、厳しい評価を与える人々に対抗する術を持たぬシステムの中で悩む人間の気持ちは、ほんの少しだけ考えを及ばすことが出来る。
経済もまた、哲学であるといっていい。
だが実際には数字が支配する世界において、彼らの信じているものは数字であって、その奥にある複雑な構成をしている人間たちの精神作用ではない。
正直言って、私も偉いことを言えた身分ではない。
沢山の人間から恨みを買っている。
だからそれを負い目に感じているし、いつか返したいと思い行動している。
だが我々は個人の為ではなく集団の機能性を考えて行動しなければいけない。
自分の為に利用する集団ではなく、個々人のために機能する集団の為に尽くしていくのだ。
この方法でしか、新しい価値概念を形成する未来の集団を作ることが出来ない。

私たちは既存の価値観の中から利用できるものを選び取って自分の利益とするような考え方を止めなければ、また上の世代の考え方を引き継いだ新たな権力者が同じ苦痛を強いて国を形成するだろう。
個人との決着を付けるのは自分自身である。
その後は、他社の為に尽くさねば、永遠に君を生かす人間は現れはしない。
自らを生かすために集団の機能性へ尽くせ。

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02/04

Mon

2013

バカの極み

夢を見るのは大変な勇気が必要で、維持させるための精神力がどれほどのものになるかなど、なかなか想像がつかないものです。
さて、一ヶ月あたり4時間ぐらいのバイトを25日程度入ったとして自給850円でも8万6千円が手に入ります。
現在の私の文字での収入は、安定しているわけでもなく平均的にそこまでにははるかに至らない金額で、「自分はやれる」という信心ひとつで続けているわけです。
普通に社会生活を送りそこに浸っている人間にとって、この実質上の数字の圧倒的な差と、いつ芽が出るかわからない不安定な状況には当然何かしらの勘定、天秤がけが入り、稼げもしないのに続けることはおかしいし、極めてバカらしい行為を送っているのだと思うことでしょう。
私もふとそう思うことがあります。
何度も止めようと思いました。
芸の世界というのは何百万もの死体の上に立てる本当に優れた人間のみが食っていけるような世界といったほうが解りやすいし、簡単に言えば完全出来高実力主義の場所でありますから、食えない人間は何かしら欠点があります。
このご時勢、総合的な力が必要になりますし、例えばいくら文章が凄くても売り込む力がなければ気づかれもしないのです。
しかし凄くなくとも愚直に続ける人もいます。
それを支えているのがわずかな希望なのだと思います。
まだできる。まだやりたい。
そんな気持ち一つで続けていて、お金の勘定などは二の次なんだと思います。
例えば役者なんかで役作りの為に歯を抜く人がいますが、普通の人から考えれば「何考えてるの。たった一本の役作りの為に永久歯なくすなんて」などと考えるでしょう。
私だって人生一つ賭けている。
この場に来て、はいすいません、もう止めますじゃ示しがつかない。
のたれ死ぬかすんでのところで這いつくばっています。
その続ける理由は何なのかなと思うことがあります。
バイトで稼げる金すらも稼げない自分は一体何者なのだろう、と。
比較をしだして自分を見ると眩暈がしそうです。
世の中に出ると常に何かと比較されて見られます。
一番大事なのは比較せずに自らの長所をどんどん伸ばしていくことだと様々なところで聞かされながらも、他人を見るときは何かを基準にして見ているわけです。
極めていやらしいですよね。
でもそういうもんです。
なのでやるからには、ある一定の基準をクリアする必要はある。
その上でさらにプラスアルファがないといけなくなる。
まるで永遠の自分探しです。
それなのに貴重な人生の時間を浪費しているかのような愚行を止めない。
そう。役作りの為に人体改造すらする役者よりもバカで自分の財産を守らず投げ打ってでも全てを曝け出してでもやり続けるのが小説家なのかもしれないなと、いや、少なくとも何も持っていない自分はそうしなきゃいけないのではないかと思うわけです。

先日壬生寺で狂言を見ていたとき、生まれて初めて流れ星を見たんです。
近くの神社で願い事をして、その後偶然視界の片隅に入った流れ星。
小説頑張りますのでどうかよろしくお願いします応援してくださいと言ってきた後に流れたものですから、これは幸先がよいとバカ正直に自分の幸運と実力を信じているわけです。
幸福堂のきんつばに、お多福豆。
つい買って食べました。
ここ京都は本当に縁起を担ぐものが多くことあるごとに願掛けをしています。
札幌にいた頃は願を掛けることも少なかったのですが、格段に多くなりました。
もちろんそれだけではいけないのですが、少なくとも気持ちは向きやすくはなっています。
「ああ、あいつはバカだね」
言われ続けてきたことです。
この年までろくに働きもせずに小説書いているなんてね、なんて目で見られるのが痛いほどわかるものなのです。
でも、止めない。
やると決めたからには、ここに骨を埋めないといけない。
何も成せぬまま止めるのだとしたら、それはきっと死ぬときでしょう。
簡単に死ぬと口に出すのはおこがましいことではありますが、そのくらいの覚悟はあります。

バカの極み。

自分はバカだと思いますが、まだもう少し足りない。
もう少しバカになる必要があるのだと感じました。
成りきれてないから、勢いがないのだと。
専門業を極めていくということは、バカの極みにまで達しないといけないのですよ。

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01/30

Wed

2013

親知らず、最後の一本を抜く

まあ、たいしたことでもないのかもしれませんが、去年11月ごろに右下の親知らずを抜きまして、先日ようやく左下の親知らずを抜きました。
下の親知らずは両方とも横に生えておりまして、抜歯ではなく摘出という形で歯を6つほどに分割いたしまして少しずつ取り出すという具合であります。
前回同様抜いた歯もおみやげとしていただきまして、ただいま少し具合が悪いです。
なにせ口があまり開けられず、噛み方も工夫しないと傷口が傷むので、食事にも当然気を使わなければならず、若干むくんだ顔で過ごしながら人生最後の恐怖に耐えた喜びもあまり出てこず、経過は良好ですと言われほっとしているところであります。

なにかと集中力が散漫で小説もまったく手がつかずにいたのですが、進まないと、という意識だけが空回りし、お金をいかに稼ごうかという焦りに追い回され、明日の数百円が結構生活の分かれ目という具合で、仕事になどもちょこちょこ出ておるのですが、例えば疲れてきたり慣れてきたりすると場所へ移動し、そして帰宅というサイクルを繰り返す、いわば「点と線」の生活になってくることにふと気がつきまして、京都に住む人間が京都の文化に興味をあまり持ちづらいのはこのせいなのかなと考えてみたりもしておりました。
そこで、売れもしない、あまり読まれもしない純文学のネタなどが思い浮かんでしまい、「電子書籍で京都のことを書かないか」と誘われたものの、そっちで売れる自信が皆無に等しく、これは素直に文学賞に投稿し、落ちたら年末近くに無料で公開するという段取りのほうがいいような気がしておるのです。

前にも書いたような気がしますが、ふと恐怖を感じるのは、お金に追われだすと文化もクソもないわけですな。
そういうのは心に余裕があって初めて感受性というものが生まれてくる。
明日生活どうしようとか、病気したら治療費出さなきゃいけないとか、ストレスを軽減させるための娯楽への羨みとか、私などは本などに割くお金が必要なのですが、その分の捻出とかなかなかうまくはいかないものだなと、以前よりも結構なペースでウィスキーの瓶を空にさせているわけです。
まあ、理屈ではわかりつつも理屈道理に行かないのが人の心でして、そういう簡単な理屈すらも通せない心情を素直に述べると「言い訳」という具合で余計にのしかかってくるわけです。
こうして人は「制限」を数多く感じたり、何かをしようにも出来ないことが数多くあったりすると、やがて自分は「不幸」だと感じてくるわけですね。
まあ、私、今そんな不幸だと思ってないんですけどね。
しかし「頭を使うのが億劫になってくる」という感覚がなんとなく掴めそうで、そうなると「感情的に物事を考えて、そこから理屈付けたほうが、自分としては納得がいく」となるような気がしてきて、この世の中が「直情的劇場」と「理論的劇場」の2つによって成り立っているのではないかとも思えてきて、はてさて、日々の生活に追われるものは知識を得るのも大変で、世に関心を持つ時間などはなく、関心を持っていたとしても「情報」として処理するしかない有様。
それが一体なんの役に立つのか、明日の生活などほとんど変わらないじゃないか、しかも悪くなる一方。
なんと国民の4割が投票に行かないという有様。
多くて1割が何かの事情で行けないとしても、3割もの人が政治をまったく身近なものとして受け止めていないのではないかとも思えます。
うん。
だって、声を上げても無視されるのなら、もういいやって気持ちにもなりますものね、少なくとも私はそう。
特に毎日が精一杯だったり、今の私のように心身が必ずしも良好ではない場合なんて声をあげるのさえ億劫。
「どうせまた同じだよ」の連続が、やがて絶望になる気が致します。

ところで「親知らず」ってwikiさんによると、「赤ん坊の歯の生え始めと違い、多くの場合親元を離れてから生え始めるため、親が歯の生え始めを知ることはない。そのため親知らずという名が付いた。」ということらしいです。
「親の心子知らず」なんて言葉も思い出したのですが、よく「親元を離れれば親のありがたみがわかる」と親戚の方々などに言われ続けてきたものです。
何もしないで面倒見てくれるのは親ぐらいしかいない、そのありがたみがよくわかるだろう、ということなのだろうと理解しているのですが、こっちに来てから面倒は見てくれなくとも結構知り合った人たちに温情受けていたりして、なるほど人も捨てたもんじゃないよなぁとしみじみ「ご縁」というありがたみを感じています。
「親孝行」という言葉はなかなか難しく、それぞれ解釈や親への気持ちの返し方は違うのでしょうが、私自身はきちんと活躍すれば、それで恩を返したことになるんじゃないかと勝手に考えています。

と、まあ、親知らずを抜き、ぐだぐだと親と子と生活のことなど考えてみましたが、実は次の小説のアイディアだったりするのですな。
3月末までには書き上げたいものです。

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01/12

Sat

2013

2012年度版トータルリコールを見て

映画の話をしても良いのだけど、ちょっと今回はメモ程度に。
二十年ほど前にシュワちゃんが主役をやった同名の映画のリメイクバージョンを見ました。
今回はコリン・ファレルが主人公なんですけど、シュワちゃんには適わないものの、どちらも筋肉ムキムキです。
リメイクバージョンは前回のと若干設定が違うものの、シュワルツネガーバージョンを見た方は「ああー、そういえばあったあった」と昔を懐かしみつつも比較しながら映画を見ることが出来ます。
それで一番見ていて思ったのは、そもそもの原作はフィリップ・キンドレド・ディックというSF作家が1966年に発表した短編作品を基にしている。
この方、映画が多少好きな方なら『ブレードランナー』の原作者でもありますと言ったなら「ああー」と思うかもしれない。
死んでからも愛される作家というのは本当に素晴らしい。
今でもSFファンに愛される作家として読まれ続けているのでしょうね。

さて、どんどん電子書籍化が進んできて、WEBで出来ることもたくさん出来てきて、あらゆる人間が気軽に自分の作品を発表できて、若い人たちは別に雑誌などを買わなくても気軽に時間をつぶせて楽しめて、そしてどんどん歴史ある雑誌などが廃刊となっている。
WEBで出来るものは段々とWEBに置き換えられている。
その上でいかに生き残っていくべきかをぼんやりと考えていました。
「みんなが主役になれる時代」は「いかに自らが主役に躍り出るかの時代」でもあります。
昔みたいに控えめが美徳とされる時代も十年以上前に終わりました。
これからはいかに自らが人をひきつける人間になるかが生き残る必須条件のような気がしてきました。
しかしいつの時代も小手先の技だけでは飽きられるのも早い。
今の時代は「飽きられる」プラス「忘れ去られる」というセットで来るのですから、よほどじゃないといけないのです。
当然鑑賞者も目が肥えてくるので、それなりのものを維持しないといけない。
自分が何をしたいのか、何を伝えたいのか、明確に単純に大胆に。

せっかく京都にいるのだから札幌よりきっと同士が見つかるだろうともふと思ったわけです。
私は文士のコミュニティーの外にあるわけで、ある小説家が去年賞を受賞してコミュニティーに入りみるみるうちに活躍しだしている様子を日記で読むと、圧倒的な人脈の広がりの差に驚きつつも、集団の力の必要性を感じたわけです。

ということで、まとめると、
1、凄いもの書けよ。
2、伊達者じゃなきゃ残れない。
3、集団を作ろう。

とまあ、こんな風に今年の抱負にもなりそうなことを思っていたので、うん、今年の抱負にしようかな。

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
46
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。

気が付いたら他人からとても褒められる娘ができまして、人生が大きく変わりました。
この小さな可能性と向き合うため頑張って生きております。

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