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あさかぜさんは見た

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06/20

Fri

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09/03

Mon

2012

「そんなのわかってるよ」

信じられない残暑。
9月になったというのに生まれて初めて「残暑」というものを経験しました。
しかしまー暑いっていうか、ちょっと沖縄より暑くなった日もあるんですから、もう北と南入れ替えられたような気分。
今年の雪祭り大丈夫かね。
初音ミクの首がもげるぐらいじゃすまなくなってしまいますぜ。

8月からちょこちょこと小説を書いていますが、何せ人にインタビューして思いを掘り起こしていくって本当に時間がかかるなと思うわけです。
それに相手の精神状態だって安定していないし、体調も崩しやすい人間相手となると、こちらのペースを押し付けるわけにも行かず、ただひたすら禅僧のように心穏やかに接していかなければいけないのですが、何が相手にとって最善のペースかわからないまま時は過ぎます。

「もしも~だったら」と考え出すとたちまち頭の中が危うくなるのですが、こればかりは経験が足りず、探り探りやるしかないところが実情です。
この時の流れもまた運命なのかなと思うばかりですが、これから他の小説を書くとき人に色々と質問をして相手の根っこを見ていくとき、質問力や接し方のスキルがどんどん問われてくるのだなと実感するものです。

やりたいことはたくさんあって、世界も見て回りたいけれど、一年また一年と経ち、今や30代も半ばにさしかかろうとし、このまま還暦迎えるんじゃないかと思うくらい。
頭ではわかっているつもりでも、現実を体験しないことには本当に人間理解しないものらしく、私も例外ではないのです。

最後のチャンス、最後のチャンスとズルズルやっていて、今更引き返すことは自分の人生そのものを否定することにも直結していくので止められないのですが、出世はいつになることやら。
現金になることをどんどん出来る人間に成長したいと思っております。

暑い。

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08/27

Mon

2012

ようやく『恋空』を読む

携帯小説を書くにあたり、何がよいかなと無料で読める『恋空』を参考にしているのだけれど、100ページぐらい読んだところで苛立ちが抑えきれなくなり、深呼吸する。
どうして流行ったのか少し理解できないというか、ヒロくんって最低な男なのに、それを許しているあたり倫理観がないというか、めでたくおさまればそれでいいのかなと思ったり。

結局思春期の子たちの善悪の判断は、個人的な感情の快・不快によって分かれていて、倫理的な善悪など関係ないのだなということに、周囲の大人たちとの関係性の断絶を感じさせる。
つまり、悪いことをすれば咎められるし、未成年とはいえペナルティーは存在する。
大人だって子供の身勝手な独断専行を許さないだろうし、たとえ関わらなかったとしても生活することを考えるなら嫌がおうにも社会と関わっていく。
大人が子供に積極的に関わらず無関心になったから、こんな小説が喜ばれるようになったのかなとも思ったり。

現代版おとぎ話として考えればいいのだろうけれど、もしヒロくん生きていたとしたら二人は厳しい環境にどんどん追い込まれていっただろうと推測される。
というのも、彼女のことだけ大事にして他を大事に出来ないなんて、ちょっと人間的にせこすぎるし、過剰な感情反応が周囲との摩擦を起こし、働いたとしても職場からも追い出される。
自分たちの正しさは周囲の正しさとは限らない。
子供たちの嫌がらせよりも、もっときつい社会的な合法手段で締め出される。
どうしてもこの年になってしまうと、この手のカップルが20代後半になって愚痴まみれになっているところをたくさん拝見してしまうと、よほど女のほうもしっかりしていないと、子供が不幸な道を辿る。
倫理観がしっかりしていない親が子供を育てても、子供は小さいうちは親の行動を正義と思うので、しっかりとした人への対応ができなくなる。
独善的な親の子供が、突然周囲への配慮を欠かさず礼儀もわきまえるなんてことは、あまりない。

お話だけに集中して、世代のことなど考えなければいいのだろうし、読んでいるほうも、そんなこと考えもしないから売れたのだろうけど、極めて個人主義的な小説が迎合されるとなると、これからの子たちって、ねえ、もう今から心配になるし、そんな人には個人的には関わりたくないよ本当に。
最後まで読めないというか、本当に苦痛。
子供の世界って感情の世界で、感情的に納得できるか出来ないかで関係が成り立つけれど、大人の社会って感情なんてほとんど無視されて、もっと現実的な実績で評価される。

その人を知りたければ、その友を見よ。
こんなことわざがあるけれど、周囲の友達もあまり頭のよい人たちではないみたい。
こういう輩を相手にすると、やたらと面倒なことに巻き込まれ、自分がトラブルメーカーだということをすっ飛ばして「悲劇の当事者」のように言い出すから本当に厄介なのです。
私、何度かこの手の人と関わって痛い目にあったので、そんな経験もあってか、読み進めることが苦痛になりました。

大人になってこの小説の男が、結構なダメ男で、小説を読んだ人の中にも、ヒロくんのような男に痛い目にあって目が覚めた人もいるかと思います。
口だけじゃダメだし、勢いだけの行動ではやっていけないし、いつまでも実現不能であれば、やっぱり女としても忍耐の限界が来ます。
むしろ私は数年経った今こそ、小説を読んで「感動した」という人の今の感想を聞きたいですね。

美しい思い出は記憶の中でこそ輝き、美しい憧れは妄想の中でこそ輝きます。
現実は塩辛いよ。

ああ、小説、ぼちぼち書き進んでいます。
自分にとって、最後のチャンスかなと思っているので気合入れています。
結局文体に迷いましたが、詩文調を意識して徹底して書いていきたいと思います。
10月までの完成を目指しますのでよろしくお願いします。
色々とすさまじい話ではありますが、それでも生きようとしている姿に心打たれましたよ。

朝凪は、鳴かない

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08/12

Sun

2012

実は7月の半分以上京都で過ごしていた。
取材でいってきたのだけれど、人を知るのは本当に大変。
ほとんど生活に密着するような感じで、相手の感覚から理解していかないと表出している考え方や価値観に振り回されてしまう。
私たちは体の感覚ひとつ、体力精神力が皆別々で、自分の体力精神力を尺度にして他人を見る生き物だから、まったく違う人がいて、自分よりも劣っていると感じたとき、否定から入るのが普通だ。
それだけ人は弱い。
私は弱者を救う力のなき知恵なきものや、自らの力を弱者を抑圧するために使う人間は、皆「弱い人」と認識しているので、そう言う。

札幌から関西まで随分近くなったものだと感じた。
今なら安い時で片道一万円以内でいけるのだから、本当に距離は遠くとも近くなったものだと驚くばかりだ。
関空着陸間近、恐らく明石海峡大橋だと思うが大きな橋が見えた。
晴天で岸和田の街なみなのかな、よく見えた。
空から人間の街を見るときミニチュアのように見える。
「これが人間の作ったものか。人一人でビル一つ作ることさえ出来ないのに凄いものだ」
と人間の力の大きさを実感すると同時に、
「あれでさえ、土の上の積み木にしか過ぎないのだから自然の力は恐ろしい」
とも思った。
間近で見たら余計に人の力の偉大さを思うだろう。
しかしその「偉大さ」でさえ、地球から見えれば「蟻のような力」でしか過ぎない。
人は人の尺度で物事を見て、いつの間にか傲慢さに飲まれていく。
人の一生使ったってビル一つ建てられるかわからないのに、それでさえたいしたことはないのだ。

京都ではちょうど祇園祭をやっていた。
山車(だし)が出るのは中旬だが、ほぼ一ヶ月近くは祇園祭期間中ということで、河原町には提灯が出ていた。
昼間はほとんど取材で出歩くことが出来なかったので、夜に出歩くことが多かったが、京都と札幌を比較してよくわかることが「文化の違い」だ。
当たり前のことなのだが、歴史が深いと一つ一つに意味が込められている。
その意味が読み解けない。
神社仏閣一つとってもそうだし、祇園祭では屏風を披露するという風習があるのだが、屏風絵を見ても読み解けない。
それだけ知識がなく、まったく歯が立たず、ぬくぬくと「新しい街」でたたずんでいたのだなと実感させられた。

伏見稲荷大社でも本宮祭があり、途中まで登ってきた。
山頂近くには薬力社があり、健康ゆで卵が売っていて、一つ食べたがおいしかった。
そこに住んでいるおじさん曰く、何故「健康」なのかという理由で、
「卵はスーパーで売っているような赤玉やけど、そこの薬力社の湧き水を使ってゆでてる。薬力社には無病息災、健康長寿などのご利益があるので、健康卵なんですって言うと納得してくれはる」と言っていた。
山頂近くのスーパードライ瓶ビール700円も高級な味でした。
「飲料水200円とか高い言うけどな、途中業者用の専用道路があるけど、あとは人の手で持ってくるんだから、その労力考えれば全然高くない」
一度登ればわかるけれど、結構足腰に来る段差が多い。
それなりに急な場所もあり、上になれば背負って持ってくるのだから、言っていることはよくわかる。
昔は下から全部人の手で持ってきていたそうな。
そんな想像をすると、つくづく大変だなと思う。
そのおじさん昔からそこに住んでいて生活しているのだそう。
薬力社サイト
このサイトでちょうど左に移っている家です。

京都の街で過ごして考えさせられたのは「文化」についてよく考えていなかったなということだった。
新しいものがどんどん出来てきて古いものが淘汰されるのは自然の摂理ではあるけれど、自分たちのルーツまで絶ってしまうのは愚かであると考える。
例えば私たちの生活を滅茶苦茶にしてしまうような何かが起こったとき、戻るべきよりべとなるのは文化である。
それは芸事ではなく、衣食住に含まれたものであり、そしてようやく安定したところに祭事など芸事が含まれてくる。
自分たちのルーツを確認し、我々が何者であるのかを確認するような作業の集大成が文化なのだと私は思っているので、ぜひまた京都に戻ってじっくり考え事でもしたいと思っている。

P.S.
写真撮ってたけどめちゃくちゃで、手振れひどいわ、うまく撮れてないわ、カメラの使い方からレンズまで、まったくのど素人写真。
こりゃ参ったなと、自分の知識のなさに愕然。
カメラの勉強もしたいと思います。
ああ、へたっぴー。

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08/07

Tue

2012

否定の暗示が強いと、行動する前に既に諦めている。
色々思い出した。
そういえば自分もそうだった。
例えば馬鹿のような扱いを受けて、ダメなようなことを暗に示されると、また、お前はたいしたことないようなことを何年も刷り込まれると、本当にそうなんだと自分で思い込むし、やる前から自分で否定していて、やってもできないのではないか、また、成功して褒められることに違和感があったり、否定の状態が普通になると、肯定されることが焼かれるごとく違和感があった。
落ち着くためには否定の状態に戻るしかなく、肯定の違和感をかなぐり捨てて、どうにかして元の否定されている状態に体が戻ろうと行動を始める。
これは恐ろしいほどの心の暗示だと自分でも思う。
つまりこれは肯定の状態の暗示の逆パターンだ。
逆境に立ち向かえる人は、そう心の力が常に働いている。
それと反対に、落ち続ける人もいる。
心の底で自分を否定しているからだ。

これと同じような事が社会でも呪詛のように垂れ流されていて、その否定の呪詛は今や当たり前となっている。
だから呪詛に近いということにも気がつかず、出来ないやつが悪いと「責任」という言葉で片付けられているが、そもそも人間の成長など他者と比較することなどできはしないし、他者と比較したところで持っている能力を伸ばすことなど出来はしない。

「出来ません」
この言葉は私にとって今やどうでもいい言葉になっている。
人間やりたければやるだろうし、やりたくなければやらない。
どうしてもやりたいと望むのならば、出来るまで根気よく続けさせるだけだ。
例え壊れている状態を普通だと思い込んで、完成に近くなればなるほど破壊したくなって、事実ご破算にしたとしても、またやればいいとひたすらやらせる。
そして壊すことが実はとても非生産的な事で、まずは完成させることの大事さと経験こそが生産的で創造的な事なのだと体に叩き込むしかない。

心理的癖については他者から与えられることも多く、その大部分は思春期に接してきた「親」または、それに近い状態の人間からつけられることがある。
人は癖がつくと、そうちょっとやそっとで直るものではない。
本当に長い時間をかけて、ようやく一癖直っていくものだと思っている。
それぐらい人の癖はやっかいで、ましてや否定的なものを心の中に持っているとしたら、そこに変化を与えることは努力に努力を重ねなければいけない。

世の中は競争を常にしていて、他者を出し抜くために日々努力している。
スピードで動いていて、自然と比較され、出来ない者は退場していく。
それは「金」のために動いていて、「金」のための競争で、「金」のための社会維持だ。
しかし私たちはそんな社会を懸命に作ってきて、それ以外の選択肢を失っていってしまうというのは、あまりにも一方通行過ぎて可能性がない。
広がりがなく狭まっていってしまう社会は、そっくりそのまま可能性も同時に狭めているということだ。

否定のない社会などないけれど、例えば否定する時、それが何のための否定で、どのような意図と目的と結果を推測しての言葉か説明する人間は極めて稀だし、相手側の知識や技量や環境まで考慮しての発言を出来る人間がいたとしたら、まず幸運だし、その人間を友とするべきであろうほど貴重だ。
多くの人は言いっぱなし。
挙句の果てには自分が他者を否定したことすら覚えていないほど適当で、それゆえに罪深い。
ようは、ただの衝動とストレス発散的な目的で、口から出てしまった後は、知らないよ君次第だし君の責任だからね、というような適当な気持ちで言う人が多いってことだ。
その証拠に多くの人は一年前何を否定していたかほとんど覚えていない。

そんな適当さに心を痛め、自己を長年否定し続け、人生すらも歪ませてしまう人だっているのだ。
私は人に助けられたけれど、助けてくれる人が現れない人だっている。
諦め癖がつくと、足を一歩、いや、指一本動かすのでさえ怖くなる。
それだけ強力な否定癖が心の底に植えつけられているからだ。
人間が誰しも逆境に打ち克てるなんて嘘です。
弱い人間もいる。
そんな弱い人間に、後は君死ぬしかないねと思わせるような社会ではいけないと思う。

しかし悲しいかな。
人間の評価は心理の積み重ねではなく、あくまで表出させた行動の積み重ねでしか改善されない。

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08/06

Mon

2012

折り合いをつける

折り合い=
1 折り合うこと。譲り合って解決すること。
2 人と人との関係。仲。


そんな「折り合い」の話なのですが、先日酒に酔ってつまづき転んで左頬を擦りむくという失態を晒し、まったく酒との折り合いをつけることのできない私です。
何ヶ月かに一回こういうことやってますね。
おかげで傷だらけです。

人は大なり小なり欠点があり、やはり一所に生活をともにしていくと、嫌なところが見えてくるものですし、不本意な事も当然起きてきます。
それが当然なのですが、どうしても公の場所で接しているような感覚でプライベート空間を捉えてしまうと、それはもう我慢ならないことがたくさん出てくるでしょうし、生活スタイルや癖も違うのですから気に入らないものや気分を害することはたくさん出てきます。
子供の頃だと要求をつきつけ、それが叶えられないことに対し不満や愚痴や文句を言うものですが、大人になるとそうも言っていられず、「どうしたらこの状況が改善されるのか」ということへの積み重ねになってきます。
それを自ら実行できなければ、いくつになってもあれかよ、という目でだんだん見られがちになります。

大人になっていくというのは、折り合いをつけられるということだと思っていますが、よく言う「妥協していく」ということとは違うような気がいたします。
「妥協」の言葉の感覚とは、どうしても自分のやりたいことを諦めるようなイメージが付きまといます。
我や欲望を突き通そうとすると角が立ちますが、互いが互いのためにできることを熱心に探していくという立場だと、建設的なぶつかり合いができます。
かといって、これは両者の努力が必要ですから、片方だけがどうこう頑張っても、片方が相手を利用するような立場で甘んじていたら成り立ちようがありません。

昔は自分の「自己」というものが弱く、なかなか自分の意見を主張することができませんでした。
嫌われることや気分を損ねられることが怖くて、動悸が止まらないほどでしたから、もう条件反射的に人を警戒していたわけです。
そろそろ「若者」とは見られないような年になってきて、やりたいことも増えてくると自分の主張と信念がなければ、いくらでも他者にやりこまれてしまうわけです。
そうなってしまうと「創造性」すらも放棄することになってしまい「創造性」を放棄するということは自分に対する「人間的価値」の否定にも繋がることになると気がつきましたので、全力で何らかの手段を取るという反応が出来るようになりました。
といっても相手をやり込めるということとは違い、熱心に相手のことを知ろうとするという心構えが出来てきたというのも年を取ってきたなと思うところなのです。
以前ですと血の気が多く、プラスかマイナスか、どちらかにしかぶれることができず、怒りかもしくは悲しみかでしか人を見ることができませんでした。
無気力状態というのも長く経験しましたし、心の中の出来事ですから、誰もわからないわけですね。
皆さん、こんな風に心の中では色々ご苦労なさっていることかと思いますし、やはり「わかって欲しい」と少なからず願うものですから自分が懸命に努力したことは認めて欲しかったり、そこまでいかなくともさりげなくありがたく思って欲しいものです。
我欲が前面に出てしまうと折り合いをつけることも、なかなか難しくなりますが、出来ることはないかと探せるような知恵がついてくると少し面白くなってきます。
人と付き合うことは非常に面倒ではありますし、誰かや何かのために頭を使うことは大変です。
多くの場合「理由」を見つけるために、自分で納得するために、未来を勝手に推測などしたり、頭の中で理屈を様々こねくりまわして疲れ果ててしまったりするものですが、未来と確認していないことはすべて未定及び不確定であると考えると、わりと成すべきことがわかってきたりします。
中には、わからず聞くと「そんなこと聞くなよ」とつっけんどんに言ってくる人もいますが、基本聞かなければわからないし、一度でわかることなんて滅多にないし、接していなければ見失ってしまうのが人ですし、安心ですら未来への推測の部類に入りますから、不安はいくらでも想像により膨らんでくるものです。

様々な事に「折り合いをつけられる」ように成りたいと思うものですが、未熟なのが人間。
その未熟さに折り合いをつけられるようになると、より他人にも優しくなれるような気がいたします。
変化のないものなどありはしないのですから、変化を前提に気持ちを前向きに整えておくと今目の前にあるものに対しても多少なりとも好奇心をもてるような気がいたします。
いつまでたっても、私たち一人一人は不完全な個体であります。

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
45
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みますが光野(こうや)とか朝風(=はやぶさ)でもよろしゅうございます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。自分でも困るほどの「皮肉屋」で「天邪鬼」。つまり「曲者」です。

2011年より声劇ギルド「ZeroKelvin」主催しております。
声でのドラマを通して様々な表現方法を模索しています。
生放送などもニコニコ動画でしておりますので、ご興味のある方はぜひこちらへ。
http://com.nicovideo.jp/community/co2011708

自己プロファイリング:
かに座の性質を大きく受け継いでいるせいか基本は「防御型」人間。自己犠牲型。他人の役に立つことに最も生きがいを覚える。進む時は必ず後退時条件、及び補給線を確保する。ゆえに博打を打つことはまずない。占星術では2つの星の影響を強く受けている。芸術、特に文筆系分野に関する影響が強い。冗談か本気かわからない発言多し。気弱ゆえに大言壮語多し。不安の裏返し。広言して自らを追い詰めてやるタイプ。

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