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あさかぜさんは見た

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03/16

Sat

2013

自己矛盾って辛いよね

若いころは物事の整理の仕方がわからない。
特に思考にいたっては、分別というものを身に着けるまで結構苦労をする。
いい年の大人でさえ過ちを犯すときがあるのだから、考えるとは本当に大変な事だ。
しかも考えなければどうにもならない時がたくさんあるのだから生きるとは苦労の連続だ。

自分の価値観が強すぎると、「その社会や集団における慣習」、「個人がどういう立場で物事を判別しているか」を、自らの「我」によって判別しがちだ。
相手のそれはそれ、自分のこれはこれ、それとこれが混じった時は「郷に入れば郷に従え」という考えにはならなかったりする。
その「郷」の存在すらわからなかったり。
自分がうっかり相手のテリトリーを踏みにじっているのにも関わらず気がつかないなんてことはよくある。
相手が平然と自分のテリトリーを踏みつけて、こちらは怒っているのに「あんたは何怒ってるの。本当にわけがわからない」と言われてしまったり。

たとえば壁にぶつかって、あれこれ悩む。
その悩みの中には無数の矛盾が絡まりあっていて、解けない状態である。
相反する数々の価値観があって、自分は本当はこうしたいのに、出来ない、でもした時はこちらが絡んできて、かといって捨てても難がある。
あれこれと時間を費やして言葉に表わしてみると、酷い矛盾した文章が出来上がる。
冷静になって見直してみると混乱っぷりが手に取るようにわかるのだが、書いている時はそれが気持ちのすべてだったりする。
そこで矛盾を指摘されても逆に噴火してしまうことだってある。
常日頃整理をしていないと、自暴自棄になってしまうほど解けないものが出来上がっていたりする。

矛盾は思考するゆえに発生することもある。
例えば憧れの姿がある。
理想の形がある。
実はその「夢のようなもの」は想像の世界で成り立っているから、そこに対する苦労がわからなかったり、掴み取るのにどれほど血反吐を吐かなきゃいけないかなんて想像すらできないだろう。
それで実際に掴み取ってみれば全然きらびやかではなく、大変で維持すらできなかったりしてきて、弱音を吐き、ついには捨ててしまったり。
これは矛盾ではなく現実との乖離かもしれませんね。
空を飛ぶ鳥に憧れるような気持ちかな。
楽をしたいと願っているのに鳥の現実は人間よりも厳しいっていう。

後は心の癖が勝手に引き起こす矛盾もある。
実は幸福を望んでいるはずなのに、ネガティブな思考の癖が直らず、幸福に対して辛さを覚え捨ててしまうというのも、実はよくある話。

実は矛盾というのは、結構この「心理的な癖」が引き起こしていることだったりもする。
それは「思考の癖」も入るのだけど、新しい価値観を受け入れられない、あちら側からどうしても考えられず自分だけの立場であれこれ悩んでいるから詰まってしまったり。
結構、あ、ひらめいた、すっきりしたっていう時は、だいたいの「見通しがついた」時であって、それは不明だった知らなかったものがハッキリと見えてこそ「すっきり」が生まれてくるのだから、受け入れられないものでさえも知ろうとする努力は絶対に必要になってくる。
悩んでいる時、考えてみてください。
悩みの種になっている対象側のこと、だいたい説明できますか?
できないから悩んでいるのでしょう。見えないからまたよくわからなくなるのでしょう。自分の考えの中でぐるぐる回ったりして。
特に相手側に問題があるのではなく自分に嘘をついていることで作り出している矛盾はさらに辛いと思います。

考え事がどうしても苦手な人はバラバラの単語でもいいので思いつく限り書いてください。
そして単語を線で繋げて、単語と単語を繋ぎ合わせているものは何かを線の上とかに書いていくと、どれだけ自分がごちゃごちゃ複雑な事で悩んでいたかが可視化できるようになります。

自己矛盾って辛いですよね。
そういうのがある人って、問題は必ず自分側に多くあるものですが、自分と向き合うのが嫌だから一生懸命外に向かって理由を探していたりするものです。
自分視点止めてみると、わかることもあったりしますよ。
もし言葉にするのが苦手な人は、今日の行動を単純に日記にするのもお勧めです。
それなら記憶力さえしっかりしていればできることですから。何故を考えるのを後回しにして、単純に自分のしたことを書いていくのです。
人生迷いばかりですから、結構大事な事なんですよ。

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03/12

Tue

2013

限界点が見えたら超えるだけ

京都では様々な限界を味わった。
度量の限界。
気持ちの限界。
経済力の限界。
目的意識の限界。
実力の限界。
知識の限界。
地位の限界。
会話力の問題。
対応力の限界。
知恵の限界。
勇気の限界。
まだあるだろうけれど、とにかく精一杯やった、というところまでやった。
これ以上は自分が変わらないといけない。
変えていかないといけない。

限界が見えると不思議と軽やかな気持ちになる。
今まで色々考えていたのがすっと余分な肉がそぎ落とされて、思考が簡略化される。
これは私に最初から目標というものがあって、そこへ到達するには、ということのみを考えると、無駄な思考が省かれるためだ。
これからはもっと研ぎ澄ませて、鋭いものにしていく。
これからはもっと強くなって、たくさんのものを守れるようにする。
意気込みだけではダメだった。
いかに対応しようと気持ちの限界はあった。
お金が足りなければまともに生活すらできなくなる。
気持ちが追い込まれだんだんとぎすぎすし出し、関係ない人に当たるようになる。
こんなことではいけない。
こんなことでは未来はよくならない。
こんなことでは自分の首すら絞めているも同然だ。
大事なものを犠牲にして生活するのは、私はもうごめんだ。

だから私は変わろうと思う。
変わるための努力をしようと思う。
必ず変わるために気持ちを改めようと思う。

京都ではたくさんのものをいただきました。
本当にありがとうございます。
また戻る日まで、皆様どうかお元気で。


追記:今回これだけの限界が見えたのは、明確に目標があったからです。
場所が変わったからではなく、目標に向かって使える手段はほとんど使い果たしました。
その上ではっきりと壁が見えたわけです。
これで目標がなければ、ただ行って帰ってきておしまいだったでしょう。
本当にいい思いをしました。
辛かったり、泣いたりしたこともありましたが、充実していた半年間でした。
本当に本当に充実していました。
嬉しいほどに。
こんな貴重な体験をしたのですから、きっとまた一回り大きくなって帰れるものと信じています。

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03/10

Sun

2013

言葉のやり取りはキャッチボール?

先日、「会話はキャッチボールだから」と言っていた人がいた。
私はここまで生きてきて、本当にそうなのかなと思う部分がある。
少なくとも「キャッチボール」だと思っていたら社会に出て本当に痛い目に合う。
目をつけられ嫌がらせをされたり、こんこんと説教をされたり、ねちねちとやりこめられるということだってあった。
それは「配慮」というものが相手にとってまったく感じられず、こいつは吊るし上げなきゃいかん、という気持ちにさせたのが原因だ。
そう考えると、とても言葉のやり取りは「キャッチボール」ではない。
ストレートを投げたらいきなり怒る人だっているんだから。
そんな極端な例だってある。
いつも他の人で通じていたものがその人には通じないというのはよくあることだ。
特に心が絡んでくる場合「それ質問したらいけないんじゃないの?」という事情は、自分が投げかけよう、自分が知ろう、という意識では絶対に把握できない。
しかし相手のことを知るには黙っていてはどうにもならない。
言葉を投げかけなければいけないが、それはしつこく繰り返すが「キャッチボール」ではない。
相手からうまく言葉を引き出すには「共感」や「安心感」という作用を相手に与えなければいけない。
この「共感」「安心感」は「価値観」に関わってくるため、自分だけの立場ではまず会話がだんだんと尻すぼみになってくる。
言葉で説明するととても難しく感じるが、ようは経験上体感していること、苦労していること、そんな相手の事情を軽んじたり無視したりすると、機嫌をまず損ねられるということだ。
自分が投げるのではなく、気持ちよく投げてもらうために、受け取ってもらうために推し量りながら会話を進めないといけない。
じゃなければ大抵は敬遠されてしまうのだから。
どうしても中には大きな価値観の違いがあって合わなさ過ぎるという事例だってある。
それはしょうがない。
だって合わない人は当然いて、私たちはその人に心を砕くよりも、やらなければいけないことがたくさんあるのだから。
実は会話って、会話をしながら自分を確認しているんじゃないかと思うことがよくある。
その言葉は相手のことを考えているのではなく、そう見せかけて自分のことを確認していることだってかなりあるはずだ。
だから少なくとも私たちは会話をし始めた時点では「交換」をしている。
私はこれを持っています。あなたは何を持っていますか?
その繰り返しの中で繊細な事情には踏み込まずにいようというのは難しい。
踏み込みすぎは当然いけないし、そこはどれだけ親しいかに関わってくる。
基本人の心は見えないから言葉を交わしているわけであって、無礼になることを100%回避することはエスパーになって読心術を身に着けるしかない。
だから傷つけあうことも時にはしょうがないことなんだと考えている。
ようは傷つけあってしまったらどうするのか。
そこで自分が相手を許せる気持ちを持てるのか。
深い絆になるかどうかは、いつだって共に落ち込んでしまった後に存在する。
私たちの使う言葉は同じ言葉でも重みがそれぞれ違う。
何故違うのか、どうして違ってくるのか、本当の言葉の難しさはこの点に絞られてくる。
その「言葉の難しさ」は「心の難しさ」と完全にイコールでもある。
どんなに親しくなろうと私たちは他人同士。
日々変化しながら進んでいっている。
私たちの言葉は「交換」され、ようやくわかってくる。
自らの言葉は「体験」され、ようやくわかってくる。
一日経てば私たちの言葉の意味は大きく変わる事だってある。
伝えること、伝えられるようにすること、これがとても人との間には重要な事になる。
だから会話をするとき「キャッチボール」をしてはいけませんよ、謙虚な気持ちで「交換し合いましょう」と私は考えている。
と、言っても人間は感情の生き物。
怒る時は怒ってしまうのだけれどね。
日々、反省。

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02/05

Tue

2013

日本国の若者に求められているもの

年始のNHKの番組でこれからの日本のことを若者を交えて討論する番組があった。
だが私にはとても違和感があり、三十分ほど見たところで消してしまった。
ゲストコメンテーターでさえ自分のことを話すばかりで先行きが見えそうもなかった。
ああ、優れている若い世代のリーダーとは、まだこの程度のものか、と己の分際の考えずがっかりしたものだ。
今の若い者が考えることは、自らに利益のあることは何か、いや、既に上の世代が利害そのもので動いているせいか、自分が得するにはどう生きたらいいのか、という観点でしか質問をぶつけていないことにげんなりしてすぐにテレビを消してしまった。

今の年になって気がついたことなのだが、実は個人の能力を最大限に生かすためにはどうしても集団の機能を借りるしかない。
逆に言えば今の既存の集団が個人に対して個性を生かすどころかその個性を死に絶えさせて集団の為に機能性を強いている、いわばチャップリンのモダンタイムスのような世界になっているところに理解できない鬱憤を溜め込んでいるのだろう。
今の若者が憤っているのは時代に伴う世代間意識格差といえばそれまでだが、もっと突っ込んで言えば今の自分の能力が生かしきれずに死に絶えてしまい、このまま上の命令に従うまま希望も意志も吸い取られて生きるしかばねのように過ごしていくしか手段はないのではないか、もっと自分の能力や個性を生かしていきいきして生きていく術がもしかしてあるのではないか、しかし出来ない現状があるという憤りから来るものであるとは私は理解しているものの、彼らの観点は追い込まれているせいか、自分の利益になるものは何かという渇望、飢えしか感じない。
このままでは国などよくなるはずがない。
と、決め付けてしまうのも早いが、きっと苦しい時間を過ごした東北の人たちの中に偉人が必ず出てくるだろうと待って彼らの活躍に希望を寄せるのも間違っている。
今生きている、二十歳よりも一回り上の世代は一体何を目的にして動くべきなのか。
三十二歳以上ともなれば結婚もして子供も出来て、家庭のことを考え、収入を考え、今の生活を壊さず子供を育て上げるにはという収入に対するプランも出来てきて、余計な出費、ましてや赤の他人の人生に対する投資や努力など馬鹿げたことだと思うような年になってくる。
だがそれを繰り返していてはこの国などよくはならないのだ。

貨幣を主体とする国は当然利害関係が重んじられる。
その国で生きる人間も得があるか損があるかで付き合う人間が決まる。
それが精神的なものではなく、お金の関係性によって成り立つことすらある。
治安が成り立っていない、もしくは暴力的な手段がまかり通るなら力関係によって成り立つだろう。
今や現代社会は歪んだ正義感で成り立つものによって傲慢さを増しているが、我々が本来「幸福」とすべきものは共産主義的な平等でもなく、もっとも崇高な精神的な尊厳と尊敬の意識を保ち続けるところにあった。
しかし歴史を知らない私でも人類はシンプルな感情に立ち返り争いを続けていると知っている。
そして正義あるところに利害関係を見つけ悪がはびこることも避けられない定めであろう。
だが私は訴えたい。
もし君を助けるたった一人の他人でもあったのだとしたら、君はその人のことを忘れず、恩返しはすべてできないにしろ、欠片でも返していけと。
それが次の世代へ自分が生きてきた証を示す大きな墓標になるのだということを、やがては死ぬことを考えられない世代へ送りたい。
それが次の世代へ不幸を強いることがないのであれば、私は正義とは言わず、自らが考える他者の幸福の為に尽くしなさいと言いたい。

それを訴える理由を今から書く。
先ほども書いた通り、個人の才能や個性を最大限に生かすのは集団の機能である。
これは個人が個人の為に集団を利用しようとしては成り立たず、個人が集団の為に尽くし、集団の幸福の為に行動してこそ彼らも個人の為に何とかしようと動く精神作用を言っている。
これが逆だと、あいつもこうしているのだから、俺らも別にいいじゃんという足の引っ張り合いになる。
当然全を最大限行っていると思っていてもそれを利用しようとする悪も後を絶たないだろう。
だがそれを追随してしまってはいけない。
そういう他者を利用しようとする人間が損をするのだという行動例を自分で作っていけばいいのだ。
責めるのではなく、実力でねじ伏せる。
いつだって歴史は強者によって塗り替えられてきた。
その手段は様々だが、我らは利害によって成り立ってはいけない。
それは悪は悪を追随するという構図を社会上に作ってしまうからだ。
善と悪の概念は当然社会構図によって変わるだろう。
幸福の概念さえねじ伏せられ、捻じ曲げられられる。
私たちは「吸い取るもの」と「与えるもの」を厳密に考えていかなくてはいけない。
私も恐怖のあまり保守的な考えに浸り、厳しい評価を与える人々に対抗する術を持たぬシステムの中で悩む人間の気持ちは、ほんの少しだけ考えを及ばすことが出来る。
経済もまた、哲学であるといっていい。
だが実際には数字が支配する世界において、彼らの信じているものは数字であって、その奥にある複雑な構成をしている人間たちの精神作用ではない。
正直言って、私も偉いことを言えた身分ではない。
沢山の人間から恨みを買っている。
だからそれを負い目に感じているし、いつか返したいと思い行動している。
だが我々は個人の為ではなく集団の機能性を考えて行動しなければいけない。
自分の為に利用する集団ではなく、個々人のために機能する集団の為に尽くしていくのだ。
この方法でしか、新しい価値概念を形成する未来の集団を作ることが出来ない。

私たちは既存の価値観の中から利用できるものを選び取って自分の利益とするような考え方を止めなければ、また上の世代の考え方を引き継いだ新たな権力者が同じ苦痛を強いて国を形成するだろう。
個人との決着を付けるのは自分自身である。
その後は、他社の為に尽くさねば、永遠に君を生かす人間は現れはしない。
自らを生かすために集団の機能性へ尽くせ。

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02/04

Mon

2013

バカの極み

夢を見るのは大変な勇気が必要で、維持させるための精神力がどれほどのものになるかなど、なかなか想像がつかないものです。
さて、一ヶ月あたり4時間ぐらいのバイトを25日程度入ったとして自給850円でも8万6千円が手に入ります。
現在の私の文字での収入は、安定しているわけでもなく平均的にそこまでにははるかに至らない金額で、「自分はやれる」という信心ひとつで続けているわけです。
普通に社会生活を送りそこに浸っている人間にとって、この実質上の数字の圧倒的な差と、いつ芽が出るかわからない不安定な状況には当然何かしらの勘定、天秤がけが入り、稼げもしないのに続けることはおかしいし、極めてバカらしい行為を送っているのだと思うことでしょう。
私もふとそう思うことがあります。
何度も止めようと思いました。
芸の世界というのは何百万もの死体の上に立てる本当に優れた人間のみが食っていけるような世界といったほうが解りやすいし、簡単に言えば完全出来高実力主義の場所でありますから、食えない人間は何かしら欠点があります。
このご時勢、総合的な力が必要になりますし、例えばいくら文章が凄くても売り込む力がなければ気づかれもしないのです。
しかし凄くなくとも愚直に続ける人もいます。
それを支えているのがわずかな希望なのだと思います。
まだできる。まだやりたい。
そんな気持ち一つで続けていて、お金の勘定などは二の次なんだと思います。
例えば役者なんかで役作りの為に歯を抜く人がいますが、普通の人から考えれば「何考えてるの。たった一本の役作りの為に永久歯なくすなんて」などと考えるでしょう。
私だって人生一つ賭けている。
この場に来て、はいすいません、もう止めますじゃ示しがつかない。
のたれ死ぬかすんでのところで這いつくばっています。
その続ける理由は何なのかなと思うことがあります。
バイトで稼げる金すらも稼げない自分は一体何者なのだろう、と。
比較をしだして自分を見ると眩暈がしそうです。
世の中に出ると常に何かと比較されて見られます。
一番大事なのは比較せずに自らの長所をどんどん伸ばしていくことだと様々なところで聞かされながらも、他人を見るときは何かを基準にして見ているわけです。
極めていやらしいですよね。
でもそういうもんです。
なのでやるからには、ある一定の基準をクリアする必要はある。
その上でさらにプラスアルファがないといけなくなる。
まるで永遠の自分探しです。
それなのに貴重な人生の時間を浪費しているかのような愚行を止めない。
そう。役作りの為に人体改造すらする役者よりもバカで自分の財産を守らず投げ打ってでも全てを曝け出してでもやり続けるのが小説家なのかもしれないなと、いや、少なくとも何も持っていない自分はそうしなきゃいけないのではないかと思うわけです。

先日壬生寺で狂言を見ていたとき、生まれて初めて流れ星を見たんです。
近くの神社で願い事をして、その後偶然視界の片隅に入った流れ星。
小説頑張りますのでどうかよろしくお願いします応援してくださいと言ってきた後に流れたものですから、これは幸先がよいとバカ正直に自分の幸運と実力を信じているわけです。
幸福堂のきんつばに、お多福豆。
つい買って食べました。
ここ京都は本当に縁起を担ぐものが多くことあるごとに願掛けをしています。
札幌にいた頃は願を掛けることも少なかったのですが、格段に多くなりました。
もちろんそれだけではいけないのですが、少なくとも気持ちは向きやすくはなっています。
「ああ、あいつはバカだね」
言われ続けてきたことです。
この年までろくに働きもせずに小説書いているなんてね、なんて目で見られるのが痛いほどわかるものなのです。
でも、止めない。
やると決めたからには、ここに骨を埋めないといけない。
何も成せぬまま止めるのだとしたら、それはきっと死ぬときでしょう。
簡単に死ぬと口に出すのはおこがましいことではありますが、そのくらいの覚悟はあります。

バカの極み。

自分はバカだと思いますが、まだもう少し足りない。
もう少しバカになる必要があるのだと感じました。
成りきれてないから、勢いがないのだと。
専門業を極めていくということは、バカの極みにまで達しないといけないのですよ。

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
45
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みますが光野(こうや)とか朝風(=はやぶさ)でもよろしゅうございます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。自分でも困るほどの「皮肉屋」で「天邪鬼」。つまり「曲者」です。

2011年より声劇ギルド「ZeroKelvin」主催しております。
声でのドラマを通して様々な表現方法を模索しています。
生放送などもニコニコ動画でしておりますので、ご興味のある方はぜひこちらへ。
http://com.nicovideo.jp/community/co2011708

自己プロファイリング:
かに座の性質を大きく受け継いでいるせいか基本は「防御型」人間。自己犠牲型。他人の役に立つことに最も生きがいを覚える。進む時は必ず後退時条件、及び補給線を確保する。ゆえに博打を打つことはまずない。占星術では2つの星の影響を強く受けている。芸術、特に文筆系分野に関する影響が強い。冗談か本気かわからない発言多し。気弱ゆえに大言壮語多し。不安の裏返し。広言して自らを追い詰めてやるタイプ。

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