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あさかぜさんは見た

日記

05/19

Mon

2014

「共感が大事」という恐ろしいフレーズ

「共感」という言葉ほど実践において難しいものはない。
そもそも「共感」って何だ。これほどわかっているようで漠然としている言葉もないだろう。
個々によって「共感」する場所は違うし、レベルも違うし、繋がり方も違う。
そもそも自分自身の「共感」を説明できるのだろうか。
例えば「集団においては共感が大事だと思うのです」と言われたとして、集団としての一体感や共感とはなんだ。
人に不快感を与えず、その人間をやる気にさせ、かつ能力を十二分に伸ばせるような環境づくりと、成果を分かち合えるようなシステム作り、と言ったところだろうか。
作品における「共感」とは「面白いものを作ってください」だし、個人における「共感」とは「不愉快な気分にさせないでください」ということだろう。
それは守らなければいけないことなのだろうか。
いや、守らなければならない、という周囲の期待感のようなものがある。
そして取りまとめるような立場になったり、注目を集めるような立場になったりしたら余計に「あなたはこうしなきゃいけません」というような声も増えるだろう。
だがそれは正しいことだろうか。
新しいことを生み出そうとしている時、人を傷つけてはいけないし心理的な不安感を与えてはいけないし挫折感もなるべく他人が与えず自覚的に覚えていったほうがいい。
逆にタイプによっては無理難題を並べ立てられて悪戦苦闘して出てくる場合もある。
関わる人が増えれば増えるほど「共感」の内容が違ってくる。
変容を常日頃感じているのは多くの人間に注目されている人間であって、周囲は自分のままでよいのだから「共感」の内容が変わるとしたら己の生活や経験によってが一番だろう。
そもそも、本気で何かを作って発信したことがあるなら、そして数字を厳密に見ているのなら、「共感」は過去にしか存在しないことがよくわかる。
新しいことをやり始めると「共感」という定義すら吹っ飛んで、ほとんど実験状態になる。
何度も何度も失敗を繰り返しながら、99%ぐらいの失敗の上、ようやく見つかったりするものが多い。
そこは本当に失敗を重ねないと嗅覚が働いてこない。
知識だけ得て、その知識をすっと出したところで、なんら具体策もアイディアも存在しない。
その組織にあったベターなやり方は何なのか。
人によって組織が変わり続ける限り、ベストなんて絶対に存在しない。
これは創作の現場においても同じことだ。
なんでそんなこと言うかって、自分がこの「共感」ってやつを考えすぎてぶっ壊れそうになったからですよ。
「じゃあ受けるやつを学んでそれを自分なりにアレンジして出せばいいのかよ」
自分の創作の方向性を捻じ曲げてそれをやることが一番の近道だとよくわかっていた。
特に数字や成果を求められると本当にこの「共感」って言葉が心を病んでしまうほど重荷になる。
だから今はこういう風に考えている。
自分の場合はある人との出会いや歌舞伎との出会いなどによって心が変えられた。
だから、「自分の作品で誰か一人の人生でも好転させて影響力を持ち続ける」ということだ。
「一生忘れないものを与える」
これが、自分の目標だ。
「共感」という漠然とした言葉を考え始めると、また長年立ち止まってしまうことになるだろう。
組織における「共感」は私の場合「学びと成長」であればいい。不愉快だろうとなんだろうといい。それを与えられる数々の機会さえ設けられればいい。
創作における「共感」は私の場合「人生観を変える」ものであればいい。千人に否定されようと、たった一人だけでもいい。
仕事における「共感」は私の場合「美味い酒が分かち合えるよう最高の充実感を達成」できればいい。それが少なかったとしてもそれを目指したい。
ところで、これをお読みのあなた。
曖昧な言葉で思考を停止させてはいないだろうか。

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05/11

Sun

2014

心の生産性

生産性って経済用語で、多くの人が知っている言葉だ。
私は結構会社という組織の中では使えない子で、どんくさく、物覚えも悪く、同じ失敗を何度もする。
人に言われてもできないし、最近じゃやろうとしたことも忘れてしまうっていうありさま。
色んなことやってみたけれど、たぶん超えられない壁がたくさんあって、自分でもハッキリと認識している。
だから、というわけでもないのだけれど、文章なんて書いて、自称作家を名乗っていて、ああきっと金が入ったとしても(自称)ってつけると思うし、こんなことやっているうちは社会の生産性とはまったくかけ離れたものであり続けるのだろうなと思う。
この分野では自分は本当に自由でいられる。
今は飲食店で働いていて、時給は800円もいかない。
社会上の身分は今は「フリーター」ってところだろう。
働いても色々な雑費や生活費で振り込まれたと同時に瞬時に飛んでいく。
とてもじゃないけど、生きていけるような感じじゃない。
社員さんを見ても12時間くらいは働いていても8時間でタイムカードを切ってる。
それで手取りで16万くらい。
12時間も拘束されていたら人生のほかのことをやる時間がない。
趣味はどうなんだろう。結婚生活はそれで成り立つ? 本は読めるのかな? 色々考えてしまう。
最近自分は眠気が酷くて必ず昼寝をしてしまう。
体力も落ちてきたから軽い運動も心がけるようにした。
こういうのってお金にならない。
苛立ってお酒を飲むことも、運動も、昼寝もそう。
私の生産性は限りなく低く、価値らしい価値もあまりない。
でも発想を変えると、とたんにわからなくなる。
心の生産性ってなに? 芸術における生産性とは?
もっと別の言い方にしてみようか。
人間としての生産性の本質はどこにあるのか。
仕事をして、会社に尽くして、毎日心に積み重なっていく大事なものはありますか?
別にこれは会社で働くことを批判的に言おうとしているわけではない。
私は日々の心のあり方に対して、ほんの少しだけ疑問に感じることがあって、自分らしい自分まで押し殺して、一体その先に何を見ているのだろうと。
身を粉にして働いて、築き上げているものは先進国でもトップレベルの自殺大国日本。
自分だけ稼いでも、立派になっても、自分と関わる人は幸せになれるのか。
お金はいくらでも欲しい。
物欲もたくさん掻き立てられる。
時間の使い方が悪くって、思い描いていることの10分の1ぐらいしか作業できてない。
そんな人間が人間同士のことや個人の心のあり方に対して何か言うのもおこがましいけれど、「豊か」であることのあり方が、非常に視覚的に数値化されたり、物理的に見えるもののみで考えられている風潮はよくわかる。
人を愛することは生産性からはかけ離れていることだろうか。
どうしてお金を稼ぐこととは関係ないことをするの?
私は一応芸術をやっているから、その答えはたくさん持っている。
でも、色んな人にどうして? と質問してみたい。
だってそれは日本の社会や経済を冷え込ませる行為なんじゃないの? 稼いで消費してお金を使い続けなきゃ、この国はダメになるんでしょ? その考え方を支持しているんだよね? と。
自分のことを考えるのはよいのだけれど、誰か一人からでも「あなたといてとても幸せです」と言われたことはあるのだろうか。
人は自己中心的な生き物だし、嫌なものは嫌だ。
好きなものだけ集めて生きていたいにきまってる。
それは、心の中に確かに積みあがるものがあって、そしてなおかつ人と分かち合えるものなのだろうか。
ああ、どこか苛々している自分がいる。
この国はとても息苦しく感じることがある。
目に見えない、嫌なプレッシャーがある。

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04/16

Wed

2014

悲惨な結末

ちょうど一年前、バイト先で40代の男の人がいて、随分とやり込められた。
こう見えてもだいぶどんくさく、人をイライラさせるほどのスローモーションらしい。
だからついていけないことがたくさんあるし、注意もたくさんされる。
自分を変えようと思って必死に動いていた時期。
精神的にやり込められる理不尽さにだいぶ体重も当時は落ちた。
40代の男性は気分屋で、中傷も入る注意をする。
だからこそバイト連中にも評判は悪かった。
「恨まれ役になるならそれでいい」
とは本人言っていた。
お店が閉店となって自分は辞める形を取ったが、偶然家の近くのバイト先が同じ会社がやっていたところだった。
おかげで社員さんの顔も何人か知っている。
半年前、まだまだだった人に仕事場で再会した。
随分と立派になっていた。
台湾系のオーストラリア人で日本人の奥さんと子供を持っている。
それなりにやってきたんだなということがわかった。
その人も自分と同じように、その男性にやり込められていて、自分の場合は途中で一緒に飲みにいってご機嫌取りをしたらコロっと態度が変わって好意的になったので過ごしやすくなったが、オーストラリア人にはどんどんエスカレートしていった。
最後には口だけではなく暴力をふるうなどの横暴さだった。
今のバイト先に入り、社員さんからも相当評判の悪い人だったのだということがわかった。
そして先日、オーストラリア人とその人ことで話題になり、その話を聞いていた社員さんが「ああ、この前電話来たよ」という話をしてくれた。

「なんかさ、最初公衆電話からかかってきて、なんだろ、嫌だなと思って出たらソイツだったの。携帯電話って電話料金高いでしょ。だから話している途中ですぐ切れて、またかけ直してきて、それが何度か続いてさ。働くのに、うちの会社で働いていたっていう証明だか必要で、書類が欲しいから会社の電話番号知りたいって。家賃も滞納しているって言ってたわ。いいやつだったら助けてやろうって気も起きるけどソイツは一切そういう気起きないもんな。乞食みたいなもんだよな。お金貸してくれって言われても絶対貸すんじゃないぞ」

因果応報。
自分のしたことは必ず自分に返ってくる。
自分の場合でもそうだし家族を見てもそう思ったことが、またここでハッキリと証明される形となった。
いや、この人の場合当然と言えばそうだ。
自分がなにに守られているのかわからない人間は、当然他人の嫌悪感の中で潰されていく。
酷い言い方をすれば寄生とか依存とか、そんな言葉で言い表せるのだろう。
ある人が私がその人の気分を害しているのはその人の人格をすでに自分から阻害しているからこそ嫌味なの何ナノを言われると指摘されたことがあるが、そもそも、人間的にあまり感心できないタイプであることは当時の自分でもわかっていた。
でも当時は自分のただの我侭なのかもしれないという気持ちもあったから判別がつかなかった。
でもハッキリわかった。
調子に乗る。思い上がる。傲慢になる。横暴になる。
自分の立場を勘違いするものに未来はない。
でもね、どうしてか、そういう弱い人を見ると何故そうなるのかということが凄く気になる。
でも、本当にどうでもいいことなのだろう。
自分の状態をきちんと分析できない。
自分の言葉は本当に自分ひとりの力で成り立ちえる言葉なのか。
そういうことをあまり考えない人間は、周囲のことになど気が付こうはずもない。

そして終わっていく。
人は裕福になればなるほど傲慢になり、自分ひとりで成り立っているような勘違いをする傾向があるそうだ。
自分の立場をとことん勘違いしていた。
だから、反省ができなかったのだろう。

まだ結末というには早いし、生活保護なり救済措置も国で用意されている。
生き残って、反省して、そして今度は自分のためじゃなく、人の為に生きられるようになれれば、その人にも未来はあるけれど、はたしてあの人の性格だからどうなることやら。

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03/25

Tue

2014

そのフラストレーションはとても暴力的で

誰かに対する嫉妬や不満や鬱憤が心の中で暴走する時、自分は酒に頼ったりするが、タバコ、暴飲暴食、最低の人は暴力的な事に頼る人がいる。
以前デスクの仕事で面接してくれた上司が2人とも見事に太い方で、きっとこの仕事、相当ストレスが多いに違いないと直感したものだ。
逆に体を動かす仕事で痩せすぎているのも危ない。
それは充分な栄養を取れず体を酷使しているということだろうから。

タバコを止めると太る、とよく言われる。
ストレスが溜まって食に走ったり、味がわかるからよく食べるようになったり。
私はタバコは吸わないのでよくわからないが、結構な割合で聞く。

どうしようもなく私は心が弱く、自分で自分の心を上手くコントロールできない。
物凄く小さなことにこだわり、そして世界観が狭くなり、やがて身動きが取れぬほどイライラしてきて、そして心の痛みから酒を煽る。
かれこれ10年近くそんなことをやっているような気がする。

先日台湾で学生たちがデモを起こした。
国を憂い、そして非暴力での解決を望もうとする姿勢に心打たれた。
最初は数百人規模、ということらしいが、それでもその活動を20ちょいの大学長が認め、医師など大人も続々と参加したというのだから、学生たちの浅はかな主張というわけでもないはずだ。
民主政治とは自分たちで自分たちの行く先を決めていく政治。
台湾の民主主義は1996年からだそうだから、まだ20年も経っていない。
それでも彼らは自分たちの政治体制と、そして祖国に対して誇りを持っている。
だからこその行動だ。
そんな彼らのことを思うと、なんて自分はちっぽけな事で苛立っているのだろうと自嘲気味に笑ってしまった。
そんな乾いた笑いが、自分の心の狭さを引っ叩くようだった。

私は心を上手くコントロールすることができない。
そしてそれは他人も一緒だ。
他人がたいしたことないということで腹を立てたり絶望感を抱いたり、苛立ってしょうがなくなったりする。
そして、その苛立ちは物理的ではない、大なり小なりの暴力的表現となって他者へと向けられることになる。

かつて私は人を救おうとして失敗した。
自分の弱い心に負けたんだ。
一区切り付いて無力さを知った。
その自分の無力さから、私はもっと大きな力を得ようと思った。
もっと自分に強くなろうと思った。
そうすることで、自分が望むことも実行できるようになるだろう、今は様々な壁がありすぎてとてもじゃないが理想を語っても何一つ実行できない。
大きな壁を眼前に見て、その壁を少しずつぶち破る、というよりも削って穴を開けようとしている。
壁が全て壊れなくてもいい、ここを通れる穴さえ開けばいい。
それぐらいの気持ちでせっせとやっている。

他者に対するフラストレーションならず、自分に対するものが最も大きいかもしれない。
理想には遠い。
近づいても近づいても遠くなっていくような感覚。
それでも一つずつ一つずつやろうとする。
10分の1さえも実効できていないし、日付だけが虚しく過ぎる現状に焦りと怒りさえも覚えてしまう。
何やってんだ。
怠惰すぎるだろ。
頭でやらなきゃいけないのにと理解しても、苛立ちが止まらなくなり、酒を飲んで時間を浪費する。
こんな繰り返しだ。
正直言って馬鹿すぎる。
そんな人間が偉そうなことを言うのだから失笑してしまう。

さて、ひとつ気が付いたことがある。
それは私がとんでもないエゴイストだってことだ。
小西湧之助の言葉にあった。
「何を書いてくれじゃなくて、書きたいもの書いてよっていう。自分の年で書けるもの書いてよっつったの。モノ書きっていうのは、みんなある意味じゃエゴイストだし、だってそうじゃなきゃモノは書けないでしょ。ナルシズムに近い自分に対する自己依存がなかったらモノは書けないでしょ」
これほど端的に物書きを表わした言葉には出くわしたことなかった。
それと同時に、私生活でもエゴイストだった。
気が付いたことで、何かが変わるわけでもないし、自分のダメな行動を正当化するつもりもない。
ただ、そのエゴイズム、ここに居続けるにはとても必要な事なんだ。
そして底に沈んでいる暴力性も、ここに居続けるにはとても大事な事。
表現上の中でとても優しい形で昇華されることもあるし、理不尽な形で出てくることもある。
出てきたものを組み立て上手く行った時は幸せだ。
こういう幸せは普通の人にはわかりづらい。

人には人の幸せがある。
不満を感じるように当然幸せだってある。
その千差万別な幸福感には他人には入ることはできない。
せめて共有できなければ、そっと微笑ましく見守るしかない。
そんな小さな幸せがあったりもする。

台湾の学生たちは、個々人の小さな幸せを守るために、大きなものに立ち向かっていった。
全世界に訴え、自分たちの正義を示した。
彼らは決して自分たちだけのことを考えたわけではない。
自分の幸せだけを守ろうとしたわけではない。
そんな素晴らしい人間があの国にいるのだと思うと、感動すら覚える。
心の暴力性を見事な正義感へと昇華したのだ。

敵は一体どこにいるのか。
幸福とはどうあるべきなのか。
個の幸せを考えるあまり、他人に対して嫌なやつになってるんじゃないか。
そう自分を思い返した。
もう少し自分を考えてみよう。
このエゴイズム、使い方を間違っている。

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03/23

Sun

2014

KAZUYA 世界一売れないミュージシャン 22日の上映会の日のこと

「前は営業をやってましてね。独立しようとも思っていましたが、まさか会社が潰れるとも思いませんでした」
そう話す営業をやっていたタクシー運転手は今の年収の4倍稼いでいたという。
そして今は2子に対し、生活するために今まで必要性もなかった嫁にも働いてもらっているという。
「これから子供が1人大学に入るので頑張らないと」
年は映画の主演KAZUYAさんとほとんど変わらぬ50代。
「夢を追う、そんな生活に対してどう思われますか?」
「今は人の生活に対して言えるような身分じゃないのでね。夢を追えるだけうらやましいと思いますよ。自分はもうそれはできないのでね」
「昔の自分に対して、今アドバイスできること、一言だけ言えるとしたらなんですか?」
「何もないです。それは、経験しないとわからないことだから、経験して今だから言えるけど、やっぱり経験しないとわからないことあるから」
そうやって去っていった。
夢破れるもの。
夢を追うもの。
夢の最中にいるもの。
人間模様がある。
映画を見た後、何かモヤモヤしたものを整理したく、さ迷っていた。
そんな私は何軒か飲み歩き、少ないお金で話を聞いて回った。

KAZUYA 世界一売れないミュージシャン

という題名のドキュメンタリー映画を見た後の放浪だった。
監督と主演と都築響一さんを交えた3人でのトークショーから始まり、映画の本編に入る。
典型的なダメ男、KZAUYAというミュージシャンを追った一年半のドキュメンタリー映像。
攻めもしない、守りもしない、ただ自分でいたい。
音楽を奏で歌っていたい。
月収よい時で5万。
子供のようにふてくされる。
CD売り出しても10枚も売れない。食えない。冴えない。
仕事の面接行くのも怖い。北海道の外に出るのも億劫。
長く音楽を止めずに続けている、という。
映画を見た後の感想で「もう少し頑張ってみよう」とかその他にもKAZUYAさんに好意的な意見もあった。
でもそういうのは自分としてはイライラした。
自分はKAZUYA側の人間だし、だいぶ失笑の目で見られ続けてきた。
定職にもつかず、ふらふらしていると思われているし、実際何度も言われた。
ある人には終わっているとも言われ、ある人には痛々しいとも言われた。
他人だから言えることってたくさんある。
他人だから許せる。
そういう距離感の感想。
実際にはKAZUYAさんのCDは売れていないし、伸びもない。
私自身がそれと同じことを体験しているだけに、苛立つ所があったのだ。
そして、酷い末路も辿った人もいただけに、「身内」としては心情複雑だ。
映画は真剣に監督もKAZUYAさんも本音で語っていたので、そのシリアスさが逆に面白いところがあった。
いいおっさん2人のぶつかり合いが、時折コントのような雰囲気すら醸し出す不思議さ。
KAZUYAさんの母親が、カメラを前にして息子が聞いているにも関わらず心情を吐露する。
こんなに真剣なら学校の一つでも通わせてやればよかった、だなんて言っていた姿がぐっときた。
父親が亡くなった時に考えた曲が冴えていた。想いがたくさんこもっていることは、音だけでわかる。
プロのミュージシャンとしての才能だと思った。

実は、KAZUYAさん本人には一度会って質問したことがある。
その時私もKAZUYAさんもだいぶ酔っ払っていたのだが、覚えている言葉がある。
「自分でも逃げ場所だってわかっているから」
「自分の中にある、ものを、純粋に追い求めたいって気持ちがあるね。まだ何かあるんだって」
実はCDをダウンロードして事前に聞いていた。
歌詞がダメだと当時のプロデューサーも言っていたし、映画の中でコピーライターとしてはいけると言っていたが同感だった。
「弱者に捧げる」というショートフィルムの中にある監督の言葉を「俺は強者よさようならの方がいいと思うんだよね」と言っていた。
確かに短いフレーズに時折光るものがある。
自分も言葉をやっているからこそわかる、歌詞のぬるさ。
集中力がなさ過ぎると正直思った。
インスピレーションの赴くままに歌詞を作っていく。
見ている場所はいいのに、我慢ができないのか突然世界の広がりの中に自分が出てくる。
フレーズごとの最初の出だしや、最後の言葉の〆が甘い。
もっとよく考えれば、そんな言葉じゃない別の言葉が存在するのに、もう一歩で本当にいい場所を捉えて放さないのに、思いつく感覚でパッと言葉を組み立ててしまうのかもしれない、と感じてしまった。
非常に惜しい。音は今でも光るものがあるのが素人でもわかる。
才能という名のインスピレーションが弾ける。
でも言葉はそれだけでは足りない。
惜しい。たった少しだけ欠けている大器の才能。
でも陶器の器でもいいが、ちょっとでも欠けたら価値は激減する。
本人のあり方もあるんだろうけど、もしかしたらたくさんのチャンスがあったんだろうなと思わせるような人。
ドキュメンタリー賞のトロフィーを持って、酔っ払いながら語っていた姿を思い返し、その言葉の端々に出る「外に広がりを持たない姿勢」は、例えるなら中学生や高校生が持っている感受性をそのまま大人になっても持っている人間だと言える。
そしてその純粋なものを変えられることに対し、大きな嫌悪感があるのだろうと思った。
自分の中にあるものを追い求める。
それは純粋性の追求なんじゃないかとも思う。
芸術家はどうしても色んな意味で純度100%を目標にしているところがあると私は思う。
そこまでいけたら、もう誰にも真似できない。自分だけの、自分による、自分ゆえの作品となる。
KAZUYAさんはきっと意固地とも言えるような姿勢で今の自分を突き進むだろう。
映画でもわかったが、本人はもっと面白い。
人を魅了する何かを持っている。

「海が怖い」
映画の中の言葉も映画を見た後の帰り道で思い出した。
広すぎて、飲み込まれ、自分が消えてしまうような恐怖があるんだろうなと思った。
その恐怖は世間という大きな波に飲まれて、自分の音楽も言葉も思いも歪められてしまう恐怖感ではないのかなとも感じた。
大人はもまれて変わっていって、成長していく。
だけど不思議なことにKAZUYAさんは逆行している。
最も純粋な子供になろうとしているのではないか。

映画が終わり3曲を披露してくれたKAZUYAさん。
真ん中の曲は忘れたけれど「レクイエム」と「なぶり書き」。
「レクイエム」は別れをテーマにした曲。
ギターの音がピンと体を貫き、声は心をバチンと打つ。
まるでスポットライトに当たっているようで最高にかっこよかった。
最後の「なぶり書き」で「俺はここにいる」というスタンスを空間全体に投げつける。
かっこ悪い大人のカッコイイ生き方。
映画よりも生身のKAZUYAさんはとっても魅力的だった。
でも映画を見ただけでは、本人を見ただけでは、まだ自分の中でピースが足りない感覚があった。

そしてKAZUYAさんの当時のプロデューサーがマスターのバーへ。
70年代だかのブルースを映像で流していた。
技術も音も雰囲気も一級品。
30分ぐらい見ていたが、「イカンイカン。映画が全部消えてしまう」と早々に退散した。
そして「歌詞」のことをマスターに告げ「それ本人に言ってやってよ」と言われたが、言えるわけがない。
純粋性を阻害してしまうのではないかとも思ってしまう。
マスターが思う彼の唯一の欠点。
「歌詞」
KAZUYAさんそのものを表わす結晶であり、反面、彼の活躍を阻んでいるもの。
うまくはいかないものだ。

以前KAZUYAさんと出会った時、プロデューサーとお客さん含めたおっさん3人が他人のフォークソングの音声をPCから流れてくるのを聞きながら「いいねぇ」と、うなだれていた。
自分にはわからないよさを知る人たち。
みんないぶし銀の大人だった。
その姿が頭のどこかにこびりついていた。

もう一軒、人がいなさそうなところを見つけて寄ったが、「50になって、色んなことが、いいんじゃないくらいの気持ちで片付けられるようになった」という男性店主と話し込んだ。
色々話し込んだけれど、偶然隣に座った女性客が面白く、店主と絡んで夢の話になった時「(旦那が)家には迷惑かけないで、自分で全部片付けられるんだったら、夢なりなんなりやっていい。店出したいみたいだからさ、失敗することも大事じゃない」という人だった。
理解があるというのだろうか、器が大きいというんだろうか、「男性って、どうしようもないガキだって部分があって、大人になってもそれを失わずに持っていることが多々ありますね」と私が話すと店主もうなづいていた。
店主もその場所にお店を出して、まだ数ヶ月。
おいしい料理を出すということを日々考えているという。
「いつもくだらない話ばっかりしていたから、今日は真面目に色々考えた。どうもありがとう」と言われお店を出て、帰り際に以前寄ったお店の店主に見つかり、「ああ、じゃあ一杯だけ」と飲んだけれど、20代の男性店主は「夢をやりたいから社員で頑張っている」と言った。
札幌にはYOSAKOIソーランという踊りのイベントがあるが、YOSAKOIで踊っていきたいのだという。
そこにいたもう1人の社員の女性も夢を持っていると言っていた。
帰り際に店主から「夢を追う男ってかっこいいですよね」と言われ「そうとも言えないよ」とニヤッと返答して店を出た。

凄いミュージシャンの映像があった。
人は凄いものを見て、売れているのを見て、純粋に感動したり尊敬したり、それで食えない人間には批判的になり、凄いものとそうでないものを対比して見たりする。
優れたものは誰だって好きに決まっている。

中年になってお店を持った人がいる。
理解のある器の大きい女性がいる。
純粋にそれをやり続けられるっていうのはカッコイイことなんじゃないですかね、と店主。
失敗することも大事でしょ。諦めがつくから、と女性客。

夢を追い求める若者がいる。
手に入れたい衝動。好きを求める心の強さ。今を必死に頑張るのは夢があるからだということがよくわかった。
そして帰りのタクシーの中で聞いた、夢が破れ去った運転手。
でも子供がいる。
絶望にまみれているわけではない。
色んな人間模様があった。

振り返ってみれば、人の中にはきちんと夢が詰まっているじゃないかと思った。
自分1人だけ夢を持っているかのような、ひっそりと頑張っているかのような感覚になりがちで、夢を追うことを「生活」という部分から批判する人もいるけれど、たくさん夢を持った人が生きていて、そしてそれを活力にして生きている。
小さいものから大きなものまで星のようにきらめいていて、自分の街にも素敵なものが本当にたくさんあるのだなと思った。

売れなくてもいい。
有名にならなくたっていい。
純粋に好きなものを追い求める。
そんな人を生き生きさせてくれるような夢を持っている人がたくさんいた。
現実の前でどうしようもなく挫折することもあるでしょう。
他人から心無い言葉を投げかけられることもあるでしょう。
諦めなければならない時もあるでしょう。
きっと今日もKAZUYAさんはどこかで音楽のことを考え続け、プロデューサーはお店の中でいい音楽に触れていて、中年店主は談笑しながら料理のことを考えていて、若者は夢を求めていて、タクシー運転手は家族のことを考えている。
そして私はこの日に体験したことの素晴らしさの2割も表現できていない歯がゆさに悶え転がりながら、次の小説や台本のことを考えている。
ダメでも輝いていける。
生活のダメさは人間的な魅力とイコールではない。
KAZUYAさんの歌っている姿がまぶたの裏にくっきり刻みつき、市井の人たちを見る目が断然変わったことに自分自身驚いている。

いいものが、たくさん見れたし、触れることもできた素晴らしい日になった。
映画は、そんな人の本当の面白さってやつを教えてくれる。





KAZUYA〜世界一売れないミュージシャン

人の夢は決して奪えやしない。
人は活きて生きたいのだから。

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
46
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。

気が付いたら他人からとても褒められる娘ができまして、人生が大きく変わりました。
この小さな可能性と向き合うため頑張って生きております。

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