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あさかぜさんは見た

日記

05/20

Wed

2015

文章を書くということ

いいかい? 君たち。
難しく考える必要はないんだ。
上手い文章を書こうとか、人を感動させようとか、ちゃんと評価されようとか、とにかくまずは人のことなんて気にするんじゃない。
今目の前に映っているものは何か。
今見つめようとしているものは何か。
観察して、見えてくるものがある。
それが単語でもいい。
並べられるだけ並べてみなさい。
じゃあ、視点を動かさずに見えるものは、書いたものだけなのか。
色は? 匂いは? それは自分の持ち物? 他人のもの? 誰かが作ったもの?
どうしてそれはそこにある?
どうして自分はそこにいる?
何故それを見つめようとしたんだ?
その全てが世界への切り口となるんだ。
そして集め、集めたもので組み立てたものが、君の世界だ。
君の世界観だ。
君の人生の一時を彩るものだ。
これは別のものでも組み立てることができる。
君は君自身が集めてきたもので、いかようにも世界を組み立てることが出来る。
つまり、君の世界観は視点を変え、見つめるもの、集めてくるものがちょっと違えば、自分の中で組み立てるものも違ってくる。
自分の中で組み立てるものが違えば、自分の中の価値が変わってくる。世界が変わる。
同じものを集めたとしても組み立て方でまた違ってくる。
同じものを集めても、人が違えば組み立ての仕方が違ってくるから別物ができる。
だから各々は別々の世界を持って、そして集まれば別々の世界を持ち寄っている。
別々の世界を持ち寄っていながら、どこか僕らは共通の何かを見出そうとして、そして等価交換をしたがるのだ。
同じ価値のもので繋がりあえば、僕らはきっと安定するのだろうと、どこかで幻想を抱いている。
しかしそれは、ただの幻想であって、結局は本当の自分を隠しながら、妥協できる部分で演技を上手くして生きるということだ。
こうすれば非難はされずに済む文章を書ける、という、どこか脅迫めいた、監視でもされているかのような目に見えぬ圧力によって、心までも歪まされて矯正されていく。
これは本来の文章活動からはおおいにかけ離れるものだ。
何故なら、最初に訴えた通り、君自身の目に映ったものが君の世界を彩るからだ。
君がそこに立っている限り、君と同じ景色を見られるものはいない。
わかるかい? 立ち位置が既に他の人と違うし、たとえ君と同じ位置に立っても身長が違ったら見える高さが違う。
体重が違ったら感覚だって違うだろう。
君が立って感じたように、同じ風は吹いているのかい?
君が見たのと同じように、次の人は記憶を同じに出来る?
答えはNOだ。
君がいる分だけ誰かは他の感覚を得る。
君がそこにいる分だけ、誰かは君一人分の感覚を得る。
それが素直な言葉になっていくんだ。
だから誰かに受けようとか、よく見せようとか、そういうことを考えては本当の文章は書けないんだ。
君はどう頑張っても他人の感覚そっくりそのままにはなれないんだ。
だから無理に合わせようとすると、自分に対しても他人に対しても嘘ばかりつくようになって、本当の自分がわからなくなってしまう。
だからその前に自分で見えたもの感じたものを単語でもいいから書き並べる。
そこから本当の文章への第一歩が始まるんだ。
まずは何も考えずに、憧れも価値も捨てて、自分の体で得たものを書いてみるんだ。
どうなったって大丈夫。
君は死ぬことはない。
何も怖くはないさ。
君一人がそこに居るという時点で、言葉は、世界は、作られていっている。

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05/19

Tue

2015

身についているフリ

私の周囲の人は実際に行動を起こしている人ばかりだから、実体験と情報とを分ける。
つまりどこかで読んで聞いて知ったような内容は情報で、実践の内で学び得たものを体験とし、どちらも情報だけれど明確な線引きをする。
情報にはあまり興味を示さず、体験にのみ興味を示す人がほとんどだ。
ちょっとかじった程度で語りたがるような次元であれば、もう馬鹿にされてしょうがない。
黙れ、というレベルで嘲笑される。
当然私も少しはやっている方なので、やっていない人が語る言葉とやっていない人が語る言葉の区別はできるようになった。
この差がわからず、知ったつもり身についているつもりでしゃべっている人は、たぶん指摘されても何を指摘されているのかわからないだろうし、自分よりも程度の低い人を相手にするしか持っているものをひけらかせないので、だんだんと低いところへと走り、時には上の人には陰口しか叩くしか手段がなくなる。
そのようなことをやっていて高潔な精神が身につくはずもなく、かといって含蓄のある経験則が積みあがることもない。
つまり何年経っても成長しない。
不思議と環境に囲まれて人生そのものを諦める方がちらほらいる。
中にいるうちは気がつかないのだが、実は自分で毎日「そうであるべきだ」という内容の暗示をかけている。
かく言う自分もそうだった。
自分で強烈な現状肯定の暗示をかけていて、抜け出せることはまずない。
私の場合どこでちょっと意識を変えられたかっていうと、運よく愛してくれる人が現れたってことだった。
誰かを好きになるくらいでは、やっぱりあまり変わらない。
愛情を持つというのは、好きになることよりも、もっとエネルギーを使うし、しかも自然にエネルギーを使う。
世の中には愛だとか恋だとかの定義がバラバラすぎて、感情的な言葉は全て自分基準で語られるけれど、私を愛してくれた人は少なくとも家庭は犠牲にしてたし、中途半端な犠牲は捧げなかった。みんなそうだった。
それと、何でも気に入ることをしてあげることを愛情だと勘違いしている人もいるが、これも違う。
ダメなものをダメだと言える勇気がなければ、ただの馴れ合いだし、好いてもらうために媚びていることにもなるし、もしくは自分の欠点を指摘されたくないための倒錯した自己愛の投射であったりする。
私の場合愛してくれる人がいて、そしてようやく少しずつ這い上がってきたようにも思える。
色々なところで手を差し伸べてくれたし、喜んでくれた。時には厳しくしてくれた。馴れ合いはそこにはなかった。
環境に囲まれている人は無意識に自己暗示をかけている時が多い。
「~しなければならない」といった内容で毎日のように自己暗示をかけている。
頭でっかちの人や、考えているようで実体験の乏しい人は、何かを得てきても己の咀嚼力や懐疑的な客観性に乏しいため、自分で薄っぺらい結論を導き出してよしとする。
実際に目で見て感じられて、それが日常レベルで体に残っていなければ、まず意味を成さない情報となってくる。
なぜならば環境下の暗示が、一度や二度の情報で覆されるはずがない。
暗示のほうを肯定するために、様々な情報を集めてきて、「そらやっぱりみたことか」という行為を繰り返しているのだから当たり前のことなのだ。
じゃあどうすればいいのかっていうと、行動している人の傍にずっといるか、もしくは自分で習慣を作るしかない。
世の中には「頭で覚えていること=わかっていること=身についていること」とする人が多すぎて話の次元が合わない時が多々ある。
当然やっている人からも相手にされなくなる。
気がついたら自分より馬鹿な人間を相手にしてふんぞり返ったり、何一つディティールがわからないくせに別領域の人間や行動を知ったようなフリをして嘲笑したりと、ほぼ程度の低いところへと落ち着き、最後は腐り果てる。
そこまで行く人はなかなかおらず、なんらかの歯止めを自然とかけていく。
もしこの過程を辿りそうなら、愛するものを探したほうがいい。そう簡単ではないのは当たり前の話なのだ。もしかしたら今抱えている環境は全て捨てなければならないこともあるのだから。
勇気がもてないのなら、愛するものも持てないだろう。
それは自己愛とは程遠いのだから。


ってことで、自分「人を幸せにしたぶんだけ成功する」って言葉があまり身にしみてなく、落ちるだけ落ちていたので、また身にしみつけていこうと思っております。

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04/30

Thu

2015

どうしても人は生まれ持った環境に当初左右される。
 そしてそこで培われたものは一生を左右するほど大きなものになることが多い。
 自分の場合何かの拍子に苛立ちを覚え、そしてそれが過ぎ去るまで思考を停止させることが多い。
 それで一日過ぎてしまったりする。
 昔はもっと純真で人のことを信じていたように思うけれど、今はふとした時に憎しみが出そうになるし、何故こんなに苛立ったり人のことが許せなくなったりするのだろうと不思議に思うことがある。
 苛立ちの源泉は何なのだ。どうして批判癖が取れないのだろう。
 ここ数ヶ月考えていた。
 人は因果を背負う。
 沈んでいるものがある。
 どうしたらこの憎しみが消えるのか。
 結構、憎んでいるのだなとしみじみ感じたし・・・ダメだな。まとまらない。

 課題だ。
 ここに捉われていたら、広がりのある思考も全て矮小なものになっていく。
 正直気持ちが悪い。
 亡者に引き込まれているみたいな感覚。

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04/24

Fri

2015

プラグインが原因で転送されてました

どれかは判明しなかったのですが、プラグインの何かが改変されていてブログがそのままどこかへ(facebookcanというサイト)飛ばされる仕様になっておりました。
ようやく気がつき直しました。
ご迷惑おかけしました。

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04/19

Sun

2015

発想を変えろ

一日中ゲームをやっていたりして怠惰な私ですが、習慣と言うものは非常に強力で、既に「癖」となっているものはなかなか変えづらいものであります。
この「癖」を直すには相当気をつけて張り紙でも部屋につけて毎日実行して叩き直すことが必要ですが、この「癖」、当然「思考」にも適応されます。
私は思うだけで実行に移せず10年以上も浪費している愚か者ですが、皆さんはいかがでしょうか。
自分のことは自分でよく理解していると思い込んでしまうのが人ですが、「癖」は無意識で行っているため、常に理解の外側にあります。
例えば、色々な知識や教訓は手に入れられ、よく覚えはするが自分の悪い癖だけは度外視して他人にはよく弁が立つという人間がいます。
ちなみに私はもの覚えが悪いくせに、批判癖があり、自分のその癖に落ち込んでいるところです。
発想を変えることは、自分の物事への取り組みを変えるということです。
まず精神のあり方を変える。
食事のあり方を変える。
時間の使い方の中に、今までなかったものを取り入れる。
当たり前を当たり前だと思わずに見てみる。
体を動かすことを取り入れる。
など、順番がありますが、全ての土台になる「精神」部分の叩き直しは、相当時間がかかります。
そして、下準備となる「暗示」的なものも必要になります。
ただし、この「暗示」部分にはどうしても「行動」が必要で、言葉だけで何度も何度も言い聞かせたって精神そのものが受け入れられなければ、浸透してこないという事態になります。
自分のダメな部分、いい部分、ハッキリ分けられるでしょうか。
他人から批判をされたとして、そのまま受け入れたり全てを跳ね付けたりしているようなら、恐らく区別がついていないのだと思います。
つまり自分に必要なもの、必要ではないものを区別するためにも、きちんと自己分析する必要があるのですが、手っ取り早い方法は手描きの日記です。
必ず手描きです。
どうしても電子端末やパソコンだと頭の中にガッと印象付けることは難しいいのですな。
そしてここで大事なのは自分を美化しないことです。
人はどうしても誰も見ていなくとも、自己弁護をしたり格好をつけたりして自分を表現しがちです。
私が接してきた人間の中では、美化せず自分を恐ろしく客観視している人は、あまりいませんでした。
職人であったり、社長さんであったり、店構えていたりと、すべて自己責任で結果を負う人たちの中にはボチボチいました。
これらの人は、性格までいかなくとも色々と自己を含めた分析をしていかないと、改善点を見つけることができず次のステージに行けないからです。
さて、今の状態がどうあれ、過去がどんなものであったにせよ、未来までそうあり続けることはありえないのです。
つまり、5年、10年と、周囲のせいにしていたり、人にケチつけてばかりいたり、自分は不幸だと思っていたり、あるいは環境のせいだと思っていたり、言い換えるならば自分が楽しくないものを抱え続けているということは、巡り巡って自分が新しい場所へ踏み込むリスクや自分への挑戦をしてこなかった「選択の結果」としてあるのですから、ダメなものを、ダメだと思えずにきたということなんですね。
薄々ダメだなと思っていても、そう簡単に変えられるものじゃない。
そのほとんどの人が「頭でっかち」の人です。
自分の習慣に固執し、自己弁護を常に用意している。
どうして頭でっかちがこうなるかというと、知識だけは持っているからです。
そして自分に都合のいい知識を持ってきて、あたかもそれが正しい方法かのように練り直してしまうんですね。
何故このようなことが起こるかと言うと、行動が伴わないから経験が欠落しているし、かつ似たような仲間が沢山できるからに他ならないのです。
だいたい馴れ合いを始めるのですが、だっておかしな話だと思いませんか? 他人の人生なのに君は悪くないみたいに肯定しあうの。わかるわけがないのにわかったふりをするんですよ? これ自分の人生の何の得になるんですか?
自分に厳しすぎるのも大変生きていくのが辛くなりますが、自分の生活リズムの中に「楽しいと思えて一人で打ち込めるもの」がない人は、そこから探さなければいけませんから大変骨が折れますが、例えば小さな目標を作ってそれをこなすんです。
腕立て月に1000回とか、英単語を一週間に10個覚えるとか、それほど高くない目標をポンと置いて、それを点数制や擬似マネーにして、消費ポイントとしてストックし、そして達成した場合報酬を与えるという方法があります。
この場合、ポイントの有効期限を一年とし、半年かかってようやく達成できるような目標を難易度を変えて用意しておくのがいいです。
激ムズだとポイントが一番高いとかね。
というように、ここで得られるのが「達成感」なんです。
自分がそうなんですが、とにかく自己否定をしている、いいところが見つからない、他人の批判が忘れられず何かの拍子にすぐに思い出す、という方、本当にこの「達成感」を得るのが難しい。
だから「暗示」もほとんど効果を示さない。
この先人生がよくなるとか、お金をどんどん稼げるようになっていっているとか、人に助けられていってそれに純粋に感謝していけるとか、潜在意識に働きかける暗示のすべては、否定された経験や否定的な思い込みによって、ざるの中に水を流すかの状態になります。
まず自分を肯定するためには、現実的な証拠が必要になる。
だからこそこのような手が必要になるわけですが、ようは自分でちょこちょこ成長できているのをきちんと記録して、その前進を認めよ、ということなのです。
もし大を認めて小を認めない人間がいるのだとしたら、そいつは間違いなく自分で努力やリスクを負うことから逃げ続けているにもかかわらず、その手の人間に口を出すクズでしょうから、相手にしないほうがよろしいかと思います。
自分の成長は自分だけがわかる。
他人がわかる時は、その塵が積み重なって山となった時に、ようやく少しってところでしょう。
精神の土台を作るには、まず自己肯定から必要なのですが、間違った自分まで認めてしまうと、人生そのことでずっと責められることになります。当たり前ですが。
そうなると、やはり同じお仲間しかできなくなることになりますし、同じお仲間ができてしまうとなかなか自分を変えることも難しくなります。
そういう意味では、もし自分にダメな部分があるとしたら、自分へのこだわりを捨てて、自分の一部をバッサリと切り落とす強さが求められます。
もし肉体的に辛いことがあったら、精神的に辛いことに挑戦するのがいいですし、その逆もしかりです。
何故これをお勧めするのかと言ったら、自他を観察してきてみて、片方が真実で片方が偽りである場合、色々な形で歪んでいる人が多い。
そしてその歪みが大きければ大きいほど、つまり心身一致がない人ほど、自己認識がとても緩い。どこかに発散できない鬱憤を抱えている。そしてだいたい、バランスを取ろうとして何らかの攻撃的な行為を自他に向けている。これはストレスによる衝動的行為も含めます。
意識的にやっていればまだ気がつけるのですが、無意識でやっていて、気がついた後に意識的に肯定しているから厄介なんです。
だから行為中は無心でやっているという状態に近いので気がつかない。
繰り返すと習慣になり、板についてはがれなくなる。
悪いサイクルの出来上がり。
私なんぞは、これに加え「先延ばしの習慣」があるのですが、明日できるから明日でいいやの「明日」が全然来ないというパターンですね。
そして整理も出来ないので、いっぺんにあれこれ来ると、何も出来なくなるという悪循環。
忙しくてできない、疲れてできない、目標にはまったく届かない、嫌になる、放り出す、自堕落っていうパターンなんですが、それも例えば0.1でもできたらいいじゃないですか。
とにかく悪い週間が体から出て行くまでしがみ付く、達成するってのが大事で、世が認めずともとにかくやり続ける人間って10年とか、そういう単位で見たら凄い力になるんだから。
発想を変える。
これは習慣と思考回路を行為によって叩き直すことでもあります。

さて、私はどこから始めましょうかね。
せっかくなので、一緒に頑張りましょうか。
無意識の行為レベルまで上げられるまで。
そうなったら人生バラ色ですよ。
どんな状態になっても這い上がれるのですから。
より広い世界を見ましょう。
その部屋から出て。

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
46
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。

気が付いたら他人からとても褒められる娘ができまして、人生が大きく変わりました。
この小さな可能性と向き合うため頑張って生きております。

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