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あさかぜさんは見た

日記

08/20

Thu

2015

怒りと憎しみの後に残るもの

以前私は人を憎んでいると書いた。
私は世に生きるクズの一人で、私は精神の正常さがどこにあるのかわからないまま生きてきた。
一日一回以上は他人からの皮肉や嫌味や罵倒を受けて15年以上も過ごして来た。
特に成人してからやられれば多少の防御策は講じられただろうが、思春期の浅い時期からやられてきたから、だいぶ歪んだ精神を持って生きてきた。
「当て付け」という矛盾と理不尽の中で過ごして来た。
そして今も歪んでいる。
歪んでいる人間には「小説」というフィールドはとても都合のいいものなのかもしれない。
たぶん私は酒がないと生きられない。
数々の負の感情、それを呼び起こさせるものを思い出してしまうと、もう止まらない。
酒のようなもので止めるしかない。
一度思い出すとほとんど寝るまで怒りや憎しみの感情に捉われてしまうから、特に昼間に運悪く思い出してしまったらやばい。
昼間でも酒を飲むか、ただぼんやりゲームをするかのどちらか思考を麻痺させる方法を取る。
普通の人間はどう生きているのかわからない。
狂うというほどでもないけれど、負の感情に捉われると自分が無価値な人間に思えてくる。
そうなると他者の価値など、どうでもよくなる。
私は他者を当て付けに殺す人間の気持ちがなんとなくわかるような気がする。
ただ、そのような人間は「心に完全合致する理解者」がいないと助けられないから、わかると言っても助けられないのだが。
そういう時は人を遠ざけたい。
誰かに心底かまって欲しい気持ちと、関われば傷つけてしまうし傷つけられるという二重の意味で後悔することが多いから葛藤する。
安易にアドバイスなど受けようものなら過去がぶり返してくる。
「ホームラン打って来い」と同意の言葉を人にもっともらしい言葉で投げかける人間がいるが、そういう言葉は人を傷つけるだけなのだ。
それが簡単に出来たら人類は絶対に苦しまない。悩まない。憎しみすら持たない。
認め合い、平和な世界が訪れている。人と人とは愛し合えるはずだ。
それなのに、何故こうもすれ違いわかりあえず、踏みにじったり踏みにじられたりしなければいけないのか、そのもっともらしい理由から聞きたいものだといつも思う。
だが負の感情の後にいつも残るものは灰。
虚しさだけだ。
この途方もない虚しさを引きずるくらいなら、最初からなるべく負の感情は捨て去った方がいい。
可能な限り、できるだけ少しでも。
何のためにもならない。誰のためにもならない。
恐ろしいほどに自己中心的な事情のためだけに存在し続ける感情だから。
ただ、負の感情はある意味創作のエネルギーにもなっている。
そして誰かを言葉少なめに理解する大きな強みにもなっている。
このことがある意味私の人生を大きく決定付けているし、これからもそうだろう。
生かすも殺すも、自分次第なのだ。

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08/11

Tue

2015

お盆前の朝

空気の抜けたバスケットボールでドリブルしているようなランニングだった。
 足が折れてから五ヶ月は経ったが、急激な圧を足裏にかけると妙な違和感が走り、足取りが止まってしまうことが多々あっただけに、ほとんど歩きに近い速度で走っていた。
 というのも、酒太りが酷くお腹もまた空気の抜けたボールのようになっているため、さすがにまずいと感じ運動し始めているのだが、さすがクズの精神では、ことあるごとにストレスの発散を酒に頼り、挙句の果てには食うという始末で、せっかく痩せた体重を引き戻すということを繰り返していた。
 今年に入ってからというもの、三月頭に足を折り、その衝撃で流されている人生を少し変えようと仕事を減らしたが支払いで精一杯で様々なものが立ち行かなくなった。
 だがむしろ、現在の「書くしかない」「創るしかない」という状態こそ大事なのであって、変に金を手にして、何かと理由をつけフラフラと夜出かけるよりかは、ずっといいし、そして今年できなかったらもう正直終わってると見ていい。
 不思議な事に、と言っていいのだろうか。世間からは絶望的な人生を歩んでいる人間の元にも人が集まり簡単ながらゲームも創れる環境ができ、ラジオドラマだって創れるのだから、妙、と表現していいのかもしれない。
 文章だって他人に見てもらえるし、シナリオも書けるし本も読める。でも寄生生活で成り立っているそれも終わりにしないといけない。
 百メーターほど走ったところで左足を庇っている右足に力を入れながら走っていることに気がつく。太股が張り出している。
 なんとか左足に重心を傾けようとするが、癖がついているのか、やはり無意識に怖がっているのか思いっきりはできない。
 となると、速度を落としていくしかない。
 ようやく夏の激しい往復ビンタのような猛攻が疲れを見せたのか、朝の気温も下がり気味になり過ごしやすくなってきた。
 今頃がちょうどいいランニングの時期なのかもしれない。
 途中、手をしっかり繋いだ白人夫婦に「おはようございます」と声をかけられた。幸せそうな一風景だ。
 そういえば昨日借金をしようとして、断られた時にも結婚二年目のかわいさ残る男性に相手されたんだっけ。
「わりと新婚の方ですか?」
「ええ、まあ。どうしてわかったんですか?」
(見た目の若さと、擦れてない感と、幸せそうな顔をしているから)
 とは言えずに微笑ましく眺めていた。
 収入が少ないから、金は借りられないという。
 骨を折って仕事が出来なくなり治療期間中に一気に蓄えが消えていったが、考えれば当たり前。だが次の日、いや、次の瞬間怪我をしたり事故にあったりなんてことは考えないし、どこかで「まだ生きていられるんだ」という温く溶け出したような死生観で毎日を過ごしていたものだから、いざという時一気に窮地に陥る。
 ある意味この状況に強制的に引き寄せられたのも天の思し召しだし、戒めのような意味を与えてくれたのだろうと考えている。
 ビルのガラスに映る腹の出た男が重そうに肉を引きずっている。
 醜い姿だ、と思った。
 人を従えているのだから、もっとしっかりしないとなと痛感させられる。
 前を歩くおばあさんにさえ満足に追いつけないほど遅い走り。もはや走っているとも言い難い。
 ベンチに座り流れる汗を拭きながら、手を繋いでいた夫婦や昨日の男性を思い出す。
 幸せっていいものだな、と。
 幸せ。この意味を惰性で流し続けるのではなく、きちんと体や頭の中に蓄えながら過ごしていかなければいけないなと考え始めていた。

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08/10

Mon

2015

他人は者じゃなく物

今日、東京で感じたことのある違和感を思い出した。
ショッピングモールの中で両手に装着された杖のようなものをついて、わりと棚のすぐ側で「すみません。すみません」と言い続けている人がいた。
男性の老人だったのだけれど当人にとっては結構大きな声だったんだろう。声は周囲の音に掻き消されそうだった。
日曜で、お盆近くだというのも影響しているのだろうか。
モール内は賑わっていた。
自分は通り過ぎようとしたが、あまりにも連呼しているので、おかしいなと思い少し通り過ぎたところで振り向くと、こちらに気がついて「すみません」と目を合わせて言ってきた。
当然普通だったら「店員を呼んでいるのだろう」という感覚で見るだろうし、過ぎ去る多くの人がそう思って気にもとめなかったのだろう。
一歩も動けずそこに立ち尽くし、長い時間だったのか短い時間だったのか、その老人の言葉を気にもとめない買い物客たち。
以前東京の電車内、夜の新宿の通行人、駅のホームで列車を待つ人の孤独な背中や瞳、この雰囲気をふと思い出した。
電車内で隣に座りあっているもの同士、皆他人でまるですぐ横に壁でもあるかのような佇まい。
新宿。誰かが倒れていても声もかけない。酔っ払って電話をしていたからなのだろうか。触らぬ神に祟りなし、という扱い。路上駐車違反で人目も気にせず怒鳴りあう警備員と運転手。
そしてとにかく寂しそうな背中。瞳。少しギラギラしすぎて怖い瞳とか、他人行儀という範疇を超えた見知らぬ人への感覚。
それらのすべてに、札幌という都会から行っても違和感を感じたことがあった。
このことを指摘すると東京に長年住んでいる人は「それが気遣いじゃない?」と言った。
人同士最大限気を使っているから、隣人に迷惑かけないように、干渉しないように人との距離ができているんだと。
この話を思い出した。
例えば今日の話でも、普通の人だったらまだしも、違和感がある。
まず老人で両手に装着型の杖をつけていたということ。
何度も「すみません」と店側のほうではなく、外の方向にむけて叫んでいたということ。
人が多いだけに一分でも何十人という人が通り過ぎていたということ。
これらの条件が重なっていても、気がつく人はいなかった。
結局老人はカートが欲しかったようだ。
どこから入ってきたのか、だいたい入り口にはあるがない場所もある。
カートまでの距離はそれほどでもなかったけれど、老人にとってはそれ以上探索するには辛い距離だったのかもしれない。
ひとまずカートを持ってきて渡すと感謝された。
もしかしたらたまたま、あまりないようなシチュエーションだったのかもしれない。
自分が骨が折れてあからさまに装身具と松葉杖セットの時は結構他人優しいなと思った瞬間は多々あったから、ここは都会にしてはまだあったかい部類に入るんじゃないかと思ってる。
でもこの札幌も東京のような感じになっていくのは嫌だな。
ああいう東京のような乾いた感じにはなって欲しくない。

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08/08

Sat

2015

何事も、メンドクサイに決まってる。

例えばわたくし、お酒が結構好きで、かつストレス発散を酒に頼るところがあります。
しかも、ストレスで飲むと今度食べ物もいくってなわけで、ぶくぶくとまた太ってきたわけですが、また一ヶ月1kgペースでおとしていこうかなと、着実に落としていっております。
ここ5,6年は妙な増減をしており、MAX93kg程度までいき、さすがにやばいと、ここ3年でマイナス10、マイナス10、プラス10ときて、あと一年でマイナス10を目指しているところです。
どうせなら70ぐらいまで落としたいから役14kg近くの減量となりますが、とにかく面倒なことには変わりない。
食事はゆっくり目の減量なので大丈夫なのですが、運動を定期的に行わないといけない。
筋力をつけて代謝量を増やし落としていくのが確実です。
あとは間食控える、お腹はあまりすかせすぎず、感触はお野菜や漬物で済ますと効果的。
まあ、体重減らすだけでも面倒ですが、何事も前に進むには面倒なわけです。
お金を得るには働かなきゃいけないし、物を創るには様々なものに目を通し、知識を広げたり、人の話を聞いて刺激を受けたり、映画・演劇・人形劇などを見に行ったり、何よりも調べ物を沢山してアウトプットの材料を増やしておかないと作品の幅は広がらないわけです。
それが声のことであろうと同じことだし、アニメ声優やりたいとか言ってても、結局落語や講談などなど日本の発声・表現法を学ばないといけないし、演技そのものや体の使い方、滑舌の練習、感情と演出とか、もうね色々やることはある。
そういうことの積み重ねが大事なわけですよ。
他人が作ったものをぼんやりとやるっていうのは、実はとっても楽な事です。
いくらでも時間が潰せるし、面白くなかったら単純に面白いもの探してさ迷えばいいだけだし。
積み重ねるというのは、そう簡単にはできないこと。
でもなんやかんやと理屈つけて、やらない、特に大変だから、なんて理由つけたりしがちだけど、こういうのはコツコツやるしかない。
毎日本当にコツコツ小さなことでも少しずつ。
そうやって積み重なっていくものだし、やっぱり数ヶ月、年単位でみなきゃいけないこともある。
ただし期限は決めておかないといけない。
じゃないと人間っていつまでもダラダラと先延ばしにする生き物です。
で、コツコツって超メンドクサイ。
メンドクサイに決まってる。
自分の場合は調べものが嫌で、よくさぼりたくなる。
勉強がいまだに嫌いだけど、好きな事やるにはしないといけない。
ちょっとでも嫌な事あったり、絶望的なこと人から言われて諦めようと思ったり、メンドクセって思ったり、そんなの当たり前じゃね? と思う。
人からチヤホヤされるにも、努力が必要だし、今のままでいいわけないし、もし環境がうんぬんかんぬんっていうなら、自分で環境変えるか環境の中でできることをコツコツやればいい。
結構できることは沢山ある。
それらを一気にやろう、これぐらい詰みあがらなければやる意味がないとか最初から考えているなら自分の事かいかぶりすぎなんだよね。
だからね、しっかりやるんだよ?
ちょっとずつでいいんだから。
わかった? わたくし。

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08/02

Sun

2015

褒められて伸びます。なんだそれ。

自分は作品を他人に見せてきて、8割がたの人たちから、身も蓋もないようなことを言われてきた。
例えばドストエフスキーには及びもつかない、とか。
荒削りすぎて洗練されていない、とか。
書いていることそのものに対しても、痛々しいとも言われたことがある。それ以上のことも。
だからと言って、自分のような経験をせよとは言わないけれど、多くの人に作品を見せるということは、それだけ批判され、微塵も理解されず、手酷い言葉を浴びせられることが多くなってくる。
「褒められて伸びる」という理屈を自分で持ってしまったら、もう前線には出て行けない。
自分でそんなこと語りだしたら、心が臆病になって前に出て行けるわけがない。
つまり、ぬるいものができる。
「褒められて伸びる」という理屈は、組織を管理している役職の人が部下などに用いる理屈であって、持論として持つような言葉じゃない。
わかりますよ。
凄くいいですよね。
褒められると、とても気持ちいいですよね。
でもね、その気持ちよさを追求してしまうと、結局最後には自分のやりたいことも表現したいことも捻じ曲げなきゃいけない分岐点に気がつけなくなるんですよ。
他人が曲がったから、一緒になって曲がっていってしまったみたいな。
自分の意志がそがれて、目的が「褒められたいから」に摩り替わってしまう。
作品の良し悪しは置いておいて、表現というものと戦おうとするのか否かは作品そのものにハッキリと出てくるもの。
「こいつ、ここで負けたな」
とプロでなくとも見抜いてくる人は沢山いるし、その部分は厳しく突かれる。
そういう緊張感がないから、失敗するのが怖いから、折れていっちゃうんでしょ。
そりゃ辛いよ。
批判され、こっちが表現したいことが微塵も伝わらず、ただ切り刻まれるっていうのは自分だって何週間か何も手につかないほど落ち込むもの。
悲しいし、心が何度も傷つけられたし、かなり本質を突かれて魂までざっくりやられたこともある。
その意見や他人の意思の中には自分が成長すべきための材料が沢山揃っている。
そこから目をそらし、ただ「叩かれている」というだけの印象で扱ってしまう心持ちは、絶対自分にはプラスにならない。
中には物凄い鋭いことを言ってくる人が、稀に出現する。
そういう人が現れたら神様みたいな人が降臨したと思ったほうがいい。
作品の本質を見抜き、欠点を指摘してくれる。
こんな人、まず現れない。
そういう人を待つためにも、自分を発表前から擁護するような言葉はやめたほうがいいと思うんです。
この世界、魂が臆病になったら完全に戦えなくなると思っているのでね。

ここはパンドラの箱。
あらゆる災難・苦痛の底にこそ、希望の光があるんだよ。

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
46
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。

気が付いたら他人からとても褒められる娘ができまして、人生が大きく変わりました。
この小さな可能性と向き合うため頑張って生きております。

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