6月25日に誕生日を迎えまして、すっかりおじさんな私ですが、今日のこともどこかで書いた記憶がありますが改めて。
そもそも文らしきものを本格的に書いたのは高校の時で精神的に相当病んでいて、心の吐き出し口として詩を書き始めたのが最初だと思っています。
元々頭の中に映像が浮かんでくるので映画がやりたく、映画を撮るにはどうすればいいのかもわからず機材などにお金が払えなかったし、どうにも自分にはハードルが高いもののように思え、頭の中のものを出すことをしようとずっとやっているというのが今の状況です。
「文章書いているんだから小説とかよく読んだのでしょう?」
と、聞かれますが、まったくと言っていいほど読んでないし、そもそも頭の悪い子だったので文章を覚えられず次の三行を読んだら前の三行を忘れるほど活字に対して抵抗があり、今でも参考のために他人の作品を読むことはありますが、あまり進んで買うことはありません。
それなのにどうして? と思われるでしょうが、何かを作るということは好きなようです。
料理を考えたり作ったりするのも好きですし、文章も作れるようになるとパズルのようだし、これはこれで血で書くものなのだと思えてきたり、他人の文章から人の行動分析ができ、実際に他人を使って遠隔的に心理操作などのことができてくると、文字の持つ不思議さ、おかしさのようなものが見えてきて楽しく、決して小説が好きというわけではなく、「描写」ともいいますが、技術を使って他人へ伝える細かな作業が好きなのかもしれないと思っております。
ツイッターや、ブログなどでは自分のことをなるべく素直に書くことをしております。
愚痴や文句らしきことを書いたりネガティブなことを書いたりすることは一般社会上では「信用の置けない人間」のレッテル張りを自らすることになりますが、私は他者の信用を得るために書いているというよりも、偽らない等身大の醜い姿なりなんなりを書くことを行い、なるべく自分らしい小説に近づけたら、とか、後は決して自分を美化しないようにと心がけているだけなのです。
ようは人間に対して素直にならないと、文章も曲がった形で出てくるし、ただでさえ本人の精神によって様々な現実が歪んだ形で出てくるわけです。
私の場合元々歪んでいるので、出せば出すほど首を絞めているのですが、その歪みのピースを集めて石垣のようにして組み立てるのが小説だったりするのかなとも考えております。
小説は完全な編集作業の後にできた、詐欺まがいの行為です。
小説の目的は心や精神に対し扇動的に暗示をかけていくものですし、記号を通し、ある一種の印のようなものを焼き付けようとするものです。
小説は媒体としては旧世代のものへとなっていくでしょうし、小説における文章というものも、これから先の20年40年となれば、意味や形式がほとんど抜かれた形骸化した記号が残るだけかもしれません。
そこまでわかっているのなら、何故書くのだろうと自分でも思います。
未来には完全に変質しているはずの日本語に対しても、自分はあまり興味がないのかもしれませんし、もしかしたら突然若者だらけの環境にもっと年を取ってから囲まれる可能性だってあるかもしれませんから、今はなんとも言えませんが。
たまに自分の命というものへの価値がよくわからなくなります。
そこから文章を書いている自分の価値を見失いそうになります。描きたいものは沢山あるはずなのに、ぼんやり過ごしている。
そういう人間には絶対にチャンスは訪れません。
そして書けば書くほど、最近は声のこともやってますが、やればやるほど打ちのめされます。
逆に色々やればやるほど勉強になって反面面白いなと思うことも多々ありますし、特に演技って自分を忘れられる瞬間があってとても楽しく、そしてキャラの心なりを自らに投射させながら別のものになろうとする作業が文章作業にも役に立っております。
「あーもうダメだ。もう死んだほうがいい。自分は価値がない」
と色々思い諦めて全てを投げ捨てたくなることがあります。
期限を決め、集中して積み上げ、かつ具体的に次々と行動する。
言うは簡単。行うは難し。
何が難しいって精神状態を常に安定させるのがとても自分にとっては難しい。
切り替えができない。感情を引きずる。細かいことを気にして集中できない。何かをしだすまでが遅い。とにかく歩みが遅い。
昔から言われてきたし今も「遅い」と言われてます。
そういう自分でも団体は作れるし、文章は書けるようになったし、人から感謝されることもあるし、人に対してほんの少しアドバイスのようなことも、心の支えになることもできるわけです。
だからたいていの人は何でもできるんじゃないのかなと、他人をある意味楽観視もしております。
精神がギスギスしていたり、波打ったり結構酷い時がよくありますが、それでもなんとか生きております。
まあ、いずれこの場所、いいえ、この手の記事が心底くだらなく、笑い飛ばせるようなレベルになるよう、少しずつ進むだけです。
正直未来のことも、過去のことも考えるのは疲れました。
出来上がった自分のものを精査する冷たい目と、冷めない心があればそれでいい。
と言っても、性格は変わらないでしょうけれどね。
こんな自分でも人から熱烈に愛されたりするのだから、不思議なものだし嬉しい限りだと思ってます。
P.S.
先日自殺の話をしていて、この国には「人生は意志の力でなんとかなる」と思っている人間と「人生は意志の力ではどうにもならない」と考えている人間の二種類がいるのだなとハッキリ感じた。
私は今は力があるから、意志の力でどうにでもできる状態を知っている。
しかし昔は自分の力ではどうしようもできない環境を抱えていたし、正直どうしていいのかわからなかっただけに、両者の気持ちはよくわかる。
自殺する人や、いつまでも不満を持ちながら環境を改善させない人たちの気持ちは、自由に人生を操っている人たちには到底理解できないようにも思えた。
それは絶対に理解できない感覚を互いに持っているからだ。
その理解できない感覚は、時として暴力となったりすることもあるし、不用意に善意を悪意に変えてしまうこともある。
人は理解できないことは、知っていたとしてもどうしても理解できない。
この言葉さえも理解できない。
自分も足を折って、不自由な人を見て不自由そうなのを感じるのと実際に不自由なのとでは雲泥の差があることを体験したし、薄っぺらな言葉をどれだけ扱っていたのかをよく知った。
これからの人生、どのように生きるかよりも、何をどう学んでいくかが最終的な行き着く先を決める。
大きな力への賢さも学んでいかなければ、全ての力は空回りする。
でも一人ではできない。
沢山の人たちとよりよく接していきたいし、実はこのような記事を書きつつも、会ってみた印象はだいぶ違うものだと思う。
最終的には自分の力で得たものを、できるだけ多くの人へ分けていきたい。
それが人生の目的だ。
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