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あさかぜさんは見た

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07/13

Mon

2015

創作活動における「好き」

私も批判癖がございまして、結構中途半端なものはケッチョンケッチョンにし、自分のものでさえ反吐が出そうなことが多々あります。私の作品の場合ほぼ全てなんですがね。
何度もやめようかなと思った時期がありましたが、ここまで来るともうやめるも何もない、というね。
この話はだいぶ前に書いた記憶がありますが、もはや「古女房と別れる気持ち」と表現しております。
創作から離れてしまうと、人間として生きていく価値を完全に見失うと思いますよ。

さて、今まで、といっても今回の今までというのは、10年ほど様々な試みをしようとやってまいりましたが、ほとんど誰からも相手にされない、なおかつ大抵は酷い評価を受けながらここまでやってまいりました。
自分では才能があると思っていたし、沢山書きたいものもあるし、と私の話は置いといて、表現や創作における続ける秘訣って何なのかなっていつも考えます。
人から褒められたから、あの時あの人が励ましてくれたから、とか色々あたたかいエピソードを聞くことがあるんですが、本当にそれで長く続けられるのかな? と個人的には疑問に思います。

長年っていうのは、思っているよりも結構しんどくて挑戦すればするほど理不尽な目に合う。
というのもテストで点数取るみたいな、しっかりしたものなんてなく、努力は数字や結果にそのまま反映されないというところが心理的理不尽さを常々味わうことになり、その理不尽さに心が蝕まれていくのですな。
なので私は「当時の情熱はどこへ行ったんだろう」ととても不思議に思うほど数多くの人が消えていくのを見てきました。
5年、10年、20年とか、そういうレベルで続けられる人が少ないし、そこまで執着する意味が人生上失われるという理由が大きいのでしょう。
とても健全な考え方だと思います。

創作や表現に携わる際の「希望」ってなんだろうっていつも思います。
人から認められることなんだろうか。もしそれで喜んでいる人がいれば、というかそれを創作や表現の源泉とするには、きついと考えています。
なんで?って、だって芸術の本質は「自然」であって、究極的にはその先にある「宇宙」であるから、自分っていうのは、なんか違う。物凄く理由としては違和感がある。
つまり、例えば役者だったら人間、動物に対する興味。
表現だったら存在するあらゆるものへの興味。
これらの好奇心によって新しい視点や発見が養われるのであって、褒められて嬉しかったとか、応援してくれるからうんたらっていうのは、やっぱりそれだけじゃ視点も感性も養われませんものね。

そんなこんなで「好き」ってなんだろうなって思います。
でも人って面白いなって思う時があります。
そして恐ろしいほど因果なものだなと。
遠回りでも全て自分がしたことは受け取っていますからね。
そこが恐ろしいところでもあり、楽しいところでもある。
長い年月経て返ってくると当人でさえ自分の因果に気がつきません。
でもそれは確かに自分がふりまいた因果なんです。
なんといっても創作・表現に携わっている者なら、それを心底おもしれぇぇぇ! ってどこかで思っていないと続けられない。
自分の不幸って全部自分のせいだって思ったら楽しくなりませんか?
そういう風にいったん開き直りにも近い感覚で受け入れちゃうと、幸福になるのも全部自分のせいだって思えるようになるんですから。
次の作品のテーマができた。表現の方法が一つ増えた。
それなら確実に引き出しが増えるわけですよね。
これを生かさずしてなんとする。生かさないまま死ぬのは嫌だ。
飽くなき表現への渇望と好奇心。
わくわくしてくるなら、もう立派に才能ありますよ。

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07/12

Sun

2015

ねえ、真実って個人にとって、そんなに大事なものなのかな?
通常の人間は日常生活の中で世界の真実や未来に起こりえる確率の高い真実、はたまた世界の支配者が目論む人類社会の結末など知りたくもない。
僕たちは生きることで精一杯なんじゃないのかな?
生きることってよりも、むしろ個人的でさらに繋がっている、確実な「縁」の中にこそ自らの問題は発生している。
じゃあ「縁」の中に問題があるのなら、元々あった日本的な「縁」はズタズタになったのか。
ああ、たぶんズタズタになったのだろう。
僕はこの日本では村社会のコミュニティこそが最も日本人に馴染むシステムなのではないかと薄々考えていた。
つまり、狭いコミュニティだけで成り立ち、自給自足をし、余ったもので足りないものを交換し合うという原始的なコミュニティであり、コンパクトに学問やライフラインの問題が解決できるという「運命共同体」のようなものだ。
今は住宅がめっきり外国のものになってしまい、日本家屋にあった「土間」のような家主や家族と他者とを結ぶ共同スペースが家屋の中から消え去ったことにより、コミュニティも崩壊したということを言っていた人がいたけれど、今や全てのコミュニティが点在して存在するのみで、実生活の中に積極的に入ってきたり、気軽に入ってお茶を飲んで雑談して帰るというようなものは極度になくなってきた。
都市社会では情報が重要視され、文明社会の住人は情報に振り回されるようになりがちだ。
だけれど僕たちが一番危機に思うことはお金の問題だったり、自分自身の交友関係の問題だったり、はたまた年取ったら健康のことだったりしないかな。
政治、国家、世界のことなんて真剣に考えて取り組んだりする?
取り組める人は幸せだけど、ほとんどは、そんなものとは程遠い一般サラリーマンだったりする。
しかも大企業とは程遠いようなところにいることがほとんどだ。
僕は「たとえサラリーマンであろうと、日常を変えることは実は簡単なんです。僕たちのようなちょっと意見を持った人が10人居酒屋で定期的に出会って話し合えることができれば地域から変わることができる。ただし、それをやるにはプランナーのような人が必要であり、その人が周囲の意見をまとめ、具体的なアイディアとして計画をまとめていけばいいだけの話なんです。自分はこうだからといって、何もしないのは正直考えすぎだと思います」と言ったことがある。
今都市に生きている人は孤立しがちな環境下にある。
何故なら、金さえあれば全て整うようなサービスが揃っているからだ。
仕事に出て、金稼いで、生活や趣味に使う。
インドアの趣味だったら余計に家から出なくていい。
人とのつながり方が変わったって言われれば、それまでなんだけど、個人主義がより発揮できる環境が整っている今、そしてどんどん整う未来、他者のために何か行動を起こしたりしますか? 何か行動する気になったりする?
絶対そんなことはない。
ほとんどは自尊心を満たすがための行為。
そうじゃないのならば、他人に奉仕できますか?
まったく自らの利益にならないようなことでも、他者の利益、将来のためになるのならば、懸命にできますか?
きっと、この世界の真実ってのは、個人が個人を守る限り、個人が個人を主張する限り、絶対的に支配者の影響下であり続けるってことだけはわかる。
何故そうなるかって? 我欲をうながしたり利用すればいいだけの話だからさ。
だからその支配者たちが恐れているのは、僕らの善意であり、奉仕の崇高な精神であったりするんだ。
当然そうはならないとわかりきっているから、安心していられる。
でも、そんな世界の支配者の話なんて僕たちにとっておとぎ話にも近いことだ。
ニュースでやっている凶悪事件や児童への危害でさえも、実はあまり関係のないことなんだ。
何故って?
近場のところで起こっていることじゃないから。
つまり、自分の生活圏内の問題とは程遠く、いかに真実じみていたとしても、地域の問題じゃないからだ。
地域の問題じゃないからどうして児童虐待とか凶悪事件が関係ないかって? 日本がおかしくなっているだろうって?
そう思うんだったら、地域の人たちと活発に触れ合おう。
スポーツや趣味を通じてや子供たちへでもいい。
なんでもいいから関わってみようよ。近くに飲み屋があったりするなら食べたり飲んだりすればいい。
それでこの地域のことを訪ねればいい。
何か問題が起こっているとすれば、遠くのニュースに出てきたようなことじゃなくて、もっと個人的なことだ。
だとしたら、僕たちの本当の問題は足下の土、つまり地域性や個人的な環境から発生する問題であって、遠くの自分が住んでもしない場所から発生していることじゃない。
政治経済の問題は遠くの問題だが自分たちの生活に影響するじゃないかって?
僕たちの国は民主主義だよ? 国会議員や市議会議員などは自分たちで選ぶんだよ?
専門家に任せればいいじゃないか。
ねえ、僕たちは地域から住民を育てているかい?
選挙で国会議員などが選ばれるんだったら、地域の声を届ける議員さんが傍にいるかい?
ただ一方的じゃなくて相互に助け合えている関係を築けているかい?
皆個人個人しているからこそ、奴隷に言いつけるかのような汚い言い草で物を言いたくなるけど、それはやっちゃダメだ。
僕たちは共同空間を見直し、地域のあり方を見直し、そして、僕たちが安心でき、かつ信用できる「運命共同体」を作り上げるのが、最も真実に近づける気がするよ。
だって僕等の大事なものは、己が感じている五感の先にあるんだもの。

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07/06

Mon

2015

不幸の本当の元凶は自分?

TED「ベル・ペシ: 夢をダメにする5つの方法
・一夜の成功を信じること
・誰かが答えを持っていると信じること
・成長が確実になった時にそこに安住すること
・失敗は他人のせいにすること
・結果が全てだと信じること

内容はリンク先でご確認くだされ。
特に自分の体験上一番の毒になるのは、何かの原因を他人に求めることが最も成長を阻害し、心を弱めていく。
これが癖になると、ほとんど末期状態になり手がつけられなくなる。そしてドツボにはまる。
例えそれが理不尽で我が身には、ほとんど責務がないような事情においてもだ。
正直、そういう危険な臭いを察知できなかった自分が悪いし、実は招きよせているかもしれない。
例えば、物騒なところって雰囲気でわかる。人がどうにも怪しいし、雰囲気も少し退廃している。自分の素行が決定的に相手に害悪をもたらしていることに気がつかない、など。
人との付き合い方っていうのもそうだし、誰とどう友好的に手を繋いでいくか、そうしないのかを選ばなければトラブルに巻き込まれる。
気がつけば様々なことについて自らを見れるようになるが、主観的に全てを自分自分していたら、大事な事には一生気がつかないだろうし、例え自らのことであろうと転じて他者を責めるような真似をしていたら、恐らくは一生人に見向きもされないだろう。
ようは不幸を自分から招いている。
それは不幸なわけではなく、不幸が好きなだけだ。
だが、強い光があまりにも眩しくしんどい時もある。
本当にきつくて、暗く落ち着いていて誰の思念も入らないような場所がいい時だってある。

先日、こう言われた。
「ご自身が気づいておられるように自我に”偏執”monomaniaしているわけです。私は、そういう”偏執”があることを他から指摘されたり、体験的にどういう酷い目にあうのかを通過したことが多いので、ああそれは憑きものがついているのだな、というふうに眺められると言いたいわけです。・・・・・・たぶんその憑きものが語らせている偏執のエネルギーが語らせている表出だと思います。」
この言葉で「健全」ということがいかに凄いことか、と思った。
「自我への偏執によってきちんとモノを見られないようでは、もはや欠損に近い。無力感を抱かれているのは、その偏執の逆転写にすぎないと思います。」
というような内容も言われた。

別に芸術家だからその偏執をこだわり通すとも言わないし、何をどうすれば地球的な視野に立ってモノが見れるのかも今はよくわからないし、実は眼前にいつだってある小宇宙でさえ見抜くことはできない。
私の目は常にぼやけている。
大事なものをいくつも見落としているし、経験が足りない、人との対話が圧倒的に足りないことを有名な芸術家からも指摘された。

と、まあ足りないものばかりを考えると、本当に足りないように思えるのだけれど、常に今あるもので組み立て足りないものは補っていくしかない。
今もっているものが今動ける範囲。
人との繋がりも、あらゆる機会も、すべてそう。
あらゆる環境は自らの手で覆すことができる。
たとえどんなに不幸であったとしてもだ。
人は自分に固執しなければ見えてくるものや掴めるものが本当に数多くある。
今まで不幸だと思っていたものも転じて幸福にできる。
「他人は何を経験したかではなく、何を乗り越えてきたかを見る」と言っていた人がいた。
乗り越えてきたものを見るほうが、能力的にはよく見れるし、そしてその人間の自信もわかる。

私が指摘されたことはそのこととはまったく違うことだったのだけれど、不幸への道標を示すのも自分だ。
地道に毎日積み上げていれば、本当に沢山のものが出来上がるのに、その労力を惜しむ人のなんと多いことか。
自分だってスピードが遅いほうだし、三日に一回なんてペースでもだいぶ進める。
そんな程度でも相当な量になる。
心配事はまだ目の前で起こっていないのなら、未来はいくらでも変えられる。
そしてその力があるしつけられるということを信じて、這いずってでも前へ進むべきだ。

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06/25

Thu

2015

小説が好きなの? いいえ。別に。

6月25日に誕生日を迎えまして、すっかりおじさんな私ですが、今日のこともどこかで書いた記憶がありますが改めて。
そもそも文らしきものを本格的に書いたのは高校の時で精神的に相当病んでいて、心の吐き出し口として詩を書き始めたのが最初だと思っています。
元々頭の中に映像が浮かんでくるので映画がやりたく、映画を撮るにはどうすればいいのかもわからず機材などにお金が払えなかったし、どうにも自分にはハードルが高いもののように思え、頭の中のものを出すことをしようとずっとやっているというのが今の状況です。
「文章書いているんだから小説とかよく読んだのでしょう?」
と、聞かれますが、まったくと言っていいほど読んでないし、そもそも頭の悪い子だったので文章を覚えられず次の三行を読んだら前の三行を忘れるほど活字に対して抵抗があり、今でも参考のために他人の作品を読むことはありますが、あまり進んで買うことはありません。
それなのにどうして? と思われるでしょうが、何かを作るということは好きなようです。
料理を考えたり作ったりするのも好きですし、文章も作れるようになるとパズルのようだし、これはこれで血で書くものなのだと思えてきたり、他人の文章から人の行動分析ができ、実際に他人を使って遠隔的に心理操作などのことができてくると、文字の持つ不思議さ、おかしさのようなものが見えてきて楽しく、決して小説が好きというわけではなく、「描写」ともいいますが、技術を使って他人へ伝える細かな作業が好きなのかもしれないと思っております。
ツイッターや、ブログなどでは自分のことをなるべく素直に書くことをしております。
愚痴や文句らしきことを書いたりネガティブなことを書いたりすることは一般社会上では「信用の置けない人間」のレッテル張りを自らすることになりますが、私は他者の信用を得るために書いているというよりも、偽らない等身大の醜い姿なりなんなりを書くことを行い、なるべく自分らしい小説に近づけたら、とか、後は決して自分を美化しないようにと心がけているだけなのです。
ようは人間に対して素直にならないと、文章も曲がった形で出てくるし、ただでさえ本人の精神によって様々な現実が歪んだ形で出てくるわけです。
私の場合元々歪んでいるので、出せば出すほど首を絞めているのですが、その歪みのピースを集めて石垣のようにして組み立てるのが小説だったりするのかなとも考えております。
小説は完全な編集作業の後にできた、詐欺まがいの行為です。
小説の目的は心や精神に対し扇動的に暗示をかけていくものですし、記号を通し、ある一種の印のようなものを焼き付けようとするものです。
小説は媒体としては旧世代のものへとなっていくでしょうし、小説における文章というものも、これから先の20年40年となれば、意味や形式がほとんど抜かれた形骸化した記号が残るだけかもしれません。
そこまでわかっているのなら、何故書くのだろうと自分でも思います。
未来には完全に変質しているはずの日本語に対しても、自分はあまり興味がないのかもしれませんし、もしかしたら突然若者だらけの環境にもっと年を取ってから囲まれる可能性だってあるかもしれませんから、今はなんとも言えませんが。
たまに自分の命というものへの価値がよくわからなくなります。
そこから文章を書いている自分の価値を見失いそうになります。描きたいものは沢山あるはずなのに、ぼんやり過ごしている。
そういう人間には絶対にチャンスは訪れません。
そして書けば書くほど、最近は声のこともやってますが、やればやるほど打ちのめされます。
逆に色々やればやるほど勉強になって反面面白いなと思うことも多々ありますし、特に演技って自分を忘れられる瞬間があってとても楽しく、そしてキャラの心なりを自らに投射させながら別のものになろうとする作業が文章作業にも役に立っております。
「あーもうダメだ。もう死んだほうがいい。自分は価値がない」
と色々思い諦めて全てを投げ捨てたくなることがあります。
期限を決め、集中して積み上げ、かつ具体的に次々と行動する。
言うは簡単。行うは難し。
何が難しいって精神状態を常に安定させるのがとても自分にとっては難しい。
切り替えができない。感情を引きずる。細かいことを気にして集中できない。何かをしだすまでが遅い。とにかく歩みが遅い。
昔から言われてきたし今も「遅い」と言われてます。
そういう自分でも団体は作れるし、文章は書けるようになったし、人から感謝されることもあるし、人に対してほんの少しアドバイスのようなことも、心の支えになることもできるわけです。
だからたいていの人は何でもできるんじゃないのかなと、他人をある意味楽観視もしております。
精神がギスギスしていたり、波打ったり結構酷い時がよくありますが、それでもなんとか生きております。
まあ、いずれこの場所、いいえ、この手の記事が心底くだらなく、笑い飛ばせるようなレベルになるよう、少しずつ進むだけです。
正直未来のことも、過去のことも考えるのは疲れました。
出来上がった自分のものを精査する冷たい目と、冷めない心があればそれでいい。
と言っても、性格は変わらないでしょうけれどね。
こんな自分でも人から熱烈に愛されたりするのだから、不思議なものだし嬉しい限りだと思ってます。


P.S.
先日自殺の話をしていて、この国には「人生は意志の力でなんとかなる」と思っている人間と「人生は意志の力ではどうにもならない」と考えている人間の二種類がいるのだなとハッキリ感じた。
私は今は力があるから、意志の力でどうにでもできる状態を知っている。
しかし昔は自分の力ではどうしようもできない環境を抱えていたし、正直どうしていいのかわからなかっただけに、両者の気持ちはよくわかる。
自殺する人や、いつまでも不満を持ちながら環境を改善させない人たちの気持ちは、自由に人生を操っている人たちには到底理解できないようにも思えた。
それは絶対に理解できない感覚を互いに持っているからだ。
その理解できない感覚は、時として暴力となったりすることもあるし、不用意に善意を悪意に変えてしまうこともある。
人は理解できないことは、知っていたとしてもどうしても理解できない。
この言葉さえも理解できない。
自分も足を折って、不自由な人を見て不自由そうなのを感じるのと実際に不自由なのとでは雲泥の差があることを体験したし、薄っぺらな言葉をどれだけ扱っていたのかをよく知った。
これからの人生、どのように生きるかよりも、何をどう学んでいくかが最終的な行き着く先を決める。
大きな力への賢さも学んでいかなければ、全ての力は空回りする。
でも一人ではできない。
沢山の人たちとよりよく接していきたいし、実はこのような記事を書きつつも、会ってみた印象はだいぶ違うものだと思う。
最終的には自分の力で得たものを、できるだけ多くの人へ分けていきたい。
それが人生の目的だ。

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05/20

Wed

2015

文章を書くということ

いいかい? 君たち。
難しく考える必要はないんだ。
上手い文章を書こうとか、人を感動させようとか、ちゃんと評価されようとか、とにかくまずは人のことなんて気にするんじゃない。
今目の前に映っているものは何か。
今見つめようとしているものは何か。
観察して、見えてくるものがある。
それが単語でもいい。
並べられるだけ並べてみなさい。
じゃあ、視点を動かさずに見えるものは、書いたものだけなのか。
色は? 匂いは? それは自分の持ち物? 他人のもの? 誰かが作ったもの?
どうしてそれはそこにある?
どうして自分はそこにいる?
何故それを見つめようとしたんだ?
その全てが世界への切り口となるんだ。
そして集め、集めたもので組み立てたものが、君の世界だ。
君の世界観だ。
君の人生の一時を彩るものだ。
これは別のものでも組み立てることができる。
君は君自身が集めてきたもので、いかようにも世界を組み立てることが出来る。
つまり、君の世界観は視点を変え、見つめるもの、集めてくるものがちょっと違えば、自分の中で組み立てるものも違ってくる。
自分の中で組み立てるものが違えば、自分の中の価値が変わってくる。世界が変わる。
同じものを集めたとしても組み立て方でまた違ってくる。
同じものを集めても、人が違えば組み立ての仕方が違ってくるから別物ができる。
だから各々は別々の世界を持って、そして集まれば別々の世界を持ち寄っている。
別々の世界を持ち寄っていながら、どこか僕らは共通の何かを見出そうとして、そして等価交換をしたがるのだ。
同じ価値のもので繋がりあえば、僕らはきっと安定するのだろうと、どこかで幻想を抱いている。
しかしそれは、ただの幻想であって、結局は本当の自分を隠しながら、妥協できる部分で演技を上手くして生きるということだ。
こうすれば非難はされずに済む文章を書ける、という、どこか脅迫めいた、監視でもされているかのような目に見えぬ圧力によって、心までも歪まされて矯正されていく。
これは本来の文章活動からはおおいにかけ離れるものだ。
何故なら、最初に訴えた通り、君自身の目に映ったものが君の世界を彩るからだ。
君がそこに立っている限り、君と同じ景色を見られるものはいない。
わかるかい? 立ち位置が既に他の人と違うし、たとえ君と同じ位置に立っても身長が違ったら見える高さが違う。
体重が違ったら感覚だって違うだろう。
君が立って感じたように、同じ風は吹いているのかい?
君が見たのと同じように、次の人は記憶を同じに出来る?
答えはNOだ。
君がいる分だけ誰かは他の感覚を得る。
君がそこにいる分だけ、誰かは君一人分の感覚を得る。
それが素直な言葉になっていくんだ。
だから誰かに受けようとか、よく見せようとか、そういうことを考えては本当の文章は書けないんだ。
君はどう頑張っても他人の感覚そっくりそのままにはなれないんだ。
だから無理に合わせようとすると、自分に対しても他人に対しても嘘ばかりつくようになって、本当の自分がわからなくなってしまう。
だからその前に自分で見えたもの感じたものを単語でもいいから書き並べる。
そこから本当の文章への第一歩が始まるんだ。
まずは何も考えずに、憧れも価値も捨てて、自分の体で得たものを書いてみるんだ。
どうなったって大丈夫。
君は死ぬことはない。
何も怖くはないさ。
君一人がそこに居るという時点で、言葉は、世界は、作られていっている。

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
45
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みますが光野(こうや)とか朝風(=はやぶさ)でもよろしゅうございます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。自分でも困るほどの「皮肉屋」で「天邪鬼」。つまり「曲者」です。

2011年より声劇ギルド「ZeroKelvin」主催しております。
声でのドラマを通して様々な表現方法を模索しています。
生放送などもニコニコ動画でしておりますので、ご興味のある方はぜひこちらへ。
http://com.nicovideo.jp/community/co2011708

自己プロファイリング:
かに座の性質を大きく受け継いでいるせいか基本は「防御型」人間。自己犠牲型。他人の役に立つことに最も生きがいを覚える。進む時は必ず後退時条件、及び補給線を確保する。ゆえに博打を打つことはまずない。占星術では2つの星の影響を強く受けている。芸術、特に文筆系分野に関する影響が強い。冗談か本気かわからない発言多し。気弱ゆえに大言壮語多し。不安の裏返し。広言して自らを追い詰めてやるタイプ。

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