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あさかぜさんは見た

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08/08

Sat

2015

何事も、メンドクサイに決まってる。

例えばわたくし、お酒が結構好きで、かつストレス発散を酒に頼るところがあります。
しかも、ストレスで飲むと今度食べ物もいくってなわけで、ぶくぶくとまた太ってきたわけですが、また一ヶ月1kgペースでおとしていこうかなと、着実に落としていっております。
ここ5,6年は妙な増減をしており、MAX93kg程度までいき、さすがにやばいと、ここ3年でマイナス10、マイナス10、プラス10ときて、あと一年でマイナス10を目指しているところです。
どうせなら70ぐらいまで落としたいから役14kg近くの減量となりますが、とにかく面倒なことには変わりない。
食事はゆっくり目の減量なので大丈夫なのですが、運動を定期的に行わないといけない。
筋力をつけて代謝量を増やし落としていくのが確実です。
あとは間食控える、お腹はあまりすかせすぎず、感触はお野菜や漬物で済ますと効果的。
まあ、体重減らすだけでも面倒ですが、何事も前に進むには面倒なわけです。
お金を得るには働かなきゃいけないし、物を創るには様々なものに目を通し、知識を広げたり、人の話を聞いて刺激を受けたり、映画・演劇・人形劇などを見に行ったり、何よりも調べ物を沢山してアウトプットの材料を増やしておかないと作品の幅は広がらないわけです。
それが声のことであろうと同じことだし、アニメ声優やりたいとか言ってても、結局落語や講談などなど日本の発声・表現法を学ばないといけないし、演技そのものや体の使い方、滑舌の練習、感情と演出とか、もうね色々やることはある。
そういうことの積み重ねが大事なわけですよ。
他人が作ったものをぼんやりとやるっていうのは、実はとっても楽な事です。
いくらでも時間が潰せるし、面白くなかったら単純に面白いもの探してさ迷えばいいだけだし。
積み重ねるというのは、そう簡単にはできないこと。
でもなんやかんやと理屈つけて、やらない、特に大変だから、なんて理由つけたりしがちだけど、こういうのはコツコツやるしかない。
毎日本当にコツコツ小さなことでも少しずつ。
そうやって積み重なっていくものだし、やっぱり数ヶ月、年単位でみなきゃいけないこともある。
ただし期限は決めておかないといけない。
じゃないと人間っていつまでもダラダラと先延ばしにする生き物です。
で、コツコツって超メンドクサイ。
メンドクサイに決まってる。
自分の場合は調べものが嫌で、よくさぼりたくなる。
勉強がいまだに嫌いだけど、好きな事やるにはしないといけない。
ちょっとでも嫌な事あったり、絶望的なこと人から言われて諦めようと思ったり、メンドクセって思ったり、そんなの当たり前じゃね? と思う。
人からチヤホヤされるにも、努力が必要だし、今のままでいいわけないし、もし環境がうんぬんかんぬんっていうなら、自分で環境変えるか環境の中でできることをコツコツやればいい。
結構できることは沢山ある。
それらを一気にやろう、これぐらい詰みあがらなければやる意味がないとか最初から考えているなら自分の事かいかぶりすぎなんだよね。
だからね、しっかりやるんだよ?
ちょっとずつでいいんだから。
わかった? わたくし。

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08/02

Sun

2015

褒められて伸びます。なんだそれ。

自分は作品を他人に見せてきて、8割がたの人たちから、身も蓋もないようなことを言われてきた。
例えばドストエフスキーには及びもつかない、とか。
荒削りすぎて洗練されていない、とか。
書いていることそのものに対しても、痛々しいとも言われたことがある。それ以上のことも。
だからと言って、自分のような経験をせよとは言わないけれど、多くの人に作品を見せるということは、それだけ批判され、微塵も理解されず、手酷い言葉を浴びせられることが多くなってくる。
「褒められて伸びる」という理屈を自分で持ってしまったら、もう前線には出て行けない。
自分でそんなこと語りだしたら、心が臆病になって前に出て行けるわけがない。
つまり、ぬるいものができる。
「褒められて伸びる」という理屈は、組織を管理している役職の人が部下などに用いる理屈であって、持論として持つような言葉じゃない。
わかりますよ。
凄くいいですよね。
褒められると、とても気持ちいいですよね。
でもね、その気持ちよさを追求してしまうと、結局最後には自分のやりたいことも表現したいことも捻じ曲げなきゃいけない分岐点に気がつけなくなるんですよ。
他人が曲がったから、一緒になって曲がっていってしまったみたいな。
自分の意志がそがれて、目的が「褒められたいから」に摩り替わってしまう。
作品の良し悪しは置いておいて、表現というものと戦おうとするのか否かは作品そのものにハッキリと出てくるもの。
「こいつ、ここで負けたな」
とプロでなくとも見抜いてくる人は沢山いるし、その部分は厳しく突かれる。
そういう緊張感がないから、失敗するのが怖いから、折れていっちゃうんでしょ。
そりゃ辛いよ。
批判され、こっちが表現したいことが微塵も伝わらず、ただ切り刻まれるっていうのは自分だって何週間か何も手につかないほど落ち込むもの。
悲しいし、心が何度も傷つけられたし、かなり本質を突かれて魂までざっくりやられたこともある。
その意見や他人の意思の中には自分が成長すべきための材料が沢山揃っている。
そこから目をそらし、ただ「叩かれている」というだけの印象で扱ってしまう心持ちは、絶対自分にはプラスにならない。
中には物凄い鋭いことを言ってくる人が、稀に出現する。
そういう人が現れたら神様みたいな人が降臨したと思ったほうがいい。
作品の本質を見抜き、欠点を指摘してくれる。
こんな人、まず現れない。
そういう人を待つためにも、自分を発表前から擁護するような言葉はやめたほうがいいと思うんです。
この世界、魂が臆病になったら完全に戦えなくなると思っているのでね。

ここはパンドラの箱。
あらゆる災難・苦痛の底にこそ、希望の光があるんだよ。

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07/17

Fri

2015

まわる車輪

前日の夏日とは打って変わり、肌寒いほどの強い風が吹きつけていた。
 ススキノの温度計は15度を示しているのだから、寒いわけだと男は思った。
 SNSで突然上がったメッセージに食いつき、咄嗟の飲み会に参加した男は今ビルの一室にあるスナックで社長たちに囲まれながらハイボールを飲んでいた。
 会いたい人がいた。
 ただそれだけの想いだった。
 ネットは離れた人とも直接やりとりできるようになった。
 写真も見られるし、日々の様子も発信者次第でいかようにも情報を得られる。
 そんな中で酷くアナログ的なもの、原始的なもの、それを行うことにこそ価値がある。
 何故なら、体温は会ってでしか感じられないからだ。

「一番奥の方が年商1億の方で隣の方が2億の方」
 あえて末席を選んだ年長者がカウンターの奥に座った男たちを順に紹介していく。
 三人ともだいぶ飲んでいるらしく、その場から参加した男には、他が何時から飲んでいてどれだけ酔っ払っているのかわからなかった。
 特に経営者となると下の者に愚痴るわけにはいかない。自分の弱みを見せられる唯一の場所は、同列の人間が参席する場でしかありえない。
「金持ってるって行っても、本当大変だからね。俺の口座見る? 三ヶ月に一回は25日1000円の時あるから」
「だったらやめちゃえばいいのに」
 スナックのママがハッキリと言う。
 でもやめられない、という責任感とも意地ともつかない感覚はママにとっては恐らくどうでもよさそうに見えた。
 辛かったらやめるという手段を即座に取れる、というシンプルな理屈がそこにはある気が男にはしていた。
 経営的な愚痴を語り合うというよりも、人間付き合いの中で生まれる問題の方がより話されていた。
 途中から参加したハットを被った中年の渋い男性が一番奥の男に「人望」などの話をしていた。
 五年後、十年後を見ろと。
 人望、平和、幸福など、それらの言葉は常に曖昧で個々人の価値観によって意味が左右される。
(なぁんだ。金は稼げても「粋」については考えないのか。日本人ってそういうの大好きなのに)
 と、男は内心考えたが、でしゃばるような内容ではないし、目の前のスナックのママは浴衣で風情があるし、ハイボールがそろそろまわってきたわで、どうでもよくなっていた。
 そもそも、男にとっては、呼ばれもせずにSNSの「この人がいるので誰でもいいから一緒に飲みませんか」の号令一つだけで駆けつけてみた身。年長者以外は初対面であるため、性格も性質もわからぬ状態であったから、余計な事を言わぬのが吉であるし、そもそも知り合いの年長者の顔を見るという当初の目的は達成されたのであるから、後は特に関係なかった。
 ただ、元気な顔を見る。
 それだけのことが、男にとっては大事なのだ。それ以上のことを考えるのはおこがましいし、考えもつかなかった。
 こまめにグラスの水滴を拭く二十代前半のぽっちゃりとした綺麗な顔立ちの女性が、奥の億単位の年商の経営者たちに楽しく語りかける。
 男の隣の経営者の前の白いテーブルには煙草のコゲがあった。
 男が年長者と会うのは二度目であった。
「あいつな、ああ見えて、意外と一匹狼だぞ」
 ということを事前にリサーチしていたため、先ほどからおどけているのも、もしかしたら道化の可能性も考慮しておかなければいけないなと考えながら成り行きに身を任せながらハイボールを口につけていた。
 周囲の人たちは年長者の素行はいつものことであるから、いつものノリであるのだろうと思い込んでいる。
「オブラートに包めないのよ。ハッキリしか言えないの」
 経営者たちの微笑を誘い、ママが遠慮なく言う。馬鹿は馬鹿。嫌なものは嫌。基準がハッキリしていた。
 会話が楽しく盛り上がっていく。
 それが経営者たちにとってはいつも通りの夜なのか、それとも特別な夜なのかもわからず男は各々が抱える特別な思いたちの片鱗に触れながら店を出る際、一気にハイボールを飲み干した。

 日付が変わり、一人いつものバーへ寄りなおし、そして帰りにそばを食べる。
 いつものバーの近くにあったが、行く時間が遅いためそば切れで食べる機会に恵まれなかったための再訪だった。
 出てきたそばはニセコのそば粉を使っているという。麺が短めでややごつごつしているため歯ごたえがある。
(不器用な蕎麦だな)
 二口三口と重ねるたびに、やっぱり不器用だなとしみじみ噛み締める。ツユは煮干を使っているのだろうか。カツオとは別の少し違った甘みと、舌の上のざらっとした感覚があった。
 自分は大将の顔を覚えてはいたが、向こうは覚えていないようだった。
 以前「ここに来る人はたいてい愚痴か、理不尽になじって帰る人が多いでしょ。ススキノだしね」としゃべっていたから、きっと日々のことは忘れるようにしているのだろう。
 さもなければ、辛すぎて生きていけないだろうから。
 
 ふらふらと夜風に吹かれ帰りながら、今度はコンビニへ寄る。
 荷物を届けに来た白いワゴンが止まっていて、昭和の女性演歌歌手の歌が流れていた。
 コンビニの中へ入ると、少し使い古された青い作業着に帽子をやや深めにかぶった初老の男性がすれ違いざまに外へ出るところだった。
 人は生きるために何かをするという行為が、それぞれにある。
 皆苦労をしている。
 それぞれの苦労がある。
 男の財布の中にはもう数百円しか残っていなかった。
 これでまた来月まで過ごさなければいけないと考えると滅入ってくる。
 男のいつもの夜だった。
 ただ、何故生活も苦しくなるような行為をとるのかといえば、それは必死な「祈り」とでも言った方がいい。
 つまり、今日あの年長者に会ったことにより、違う未来が開けたのではないかという、希望めいた微かな祈りだ。
 自転車のように回し続けなければ倒れてしまう。
 それは危機感ではなく、自らへの使命感や充実感に近いものがある。
 きっと、今日出会った経営者たちにも、そんな思いがあるのではないかと考えていた。
 まだ、熱帯夜に近づきながらも、冷え切った夜の出来事だった。
 男は自転車のペダルをこいだ。

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07/13

Mon

2015

創作活動における「好き」

私も批判癖がございまして、結構中途半端なものはケッチョンケッチョンにし、自分のものでさえ反吐が出そうなことが多々あります。私の作品の場合ほぼ全てなんですがね。
何度もやめようかなと思った時期がありましたが、ここまで来るともうやめるも何もない、というね。
この話はだいぶ前に書いた記憶がありますが、もはや「古女房と別れる気持ち」と表現しております。
創作から離れてしまうと、人間として生きていく価値を完全に見失うと思いますよ。

さて、今まで、といっても今回の今までというのは、10年ほど様々な試みをしようとやってまいりましたが、ほとんど誰からも相手にされない、なおかつ大抵は酷い評価を受けながらここまでやってまいりました。
自分では才能があると思っていたし、沢山書きたいものもあるし、と私の話は置いといて、表現や創作における続ける秘訣って何なのかなっていつも考えます。
人から褒められたから、あの時あの人が励ましてくれたから、とか色々あたたかいエピソードを聞くことがあるんですが、本当にそれで長く続けられるのかな? と個人的には疑問に思います。

長年っていうのは、思っているよりも結構しんどくて挑戦すればするほど理不尽な目に合う。
というのもテストで点数取るみたいな、しっかりしたものなんてなく、努力は数字や結果にそのまま反映されないというところが心理的理不尽さを常々味わうことになり、その理不尽さに心が蝕まれていくのですな。
なので私は「当時の情熱はどこへ行ったんだろう」ととても不思議に思うほど数多くの人が消えていくのを見てきました。
5年、10年、20年とか、そういうレベルで続けられる人が少ないし、そこまで執着する意味が人生上失われるという理由が大きいのでしょう。
とても健全な考え方だと思います。

創作や表現に携わる際の「希望」ってなんだろうっていつも思います。
人から認められることなんだろうか。もしそれで喜んでいる人がいれば、というかそれを創作や表現の源泉とするには、きついと考えています。
なんで?って、だって芸術の本質は「自然」であって、究極的にはその先にある「宇宙」であるから、自分っていうのは、なんか違う。物凄く理由としては違和感がある。
つまり、例えば役者だったら人間、動物に対する興味。
表現だったら存在するあらゆるものへの興味。
これらの好奇心によって新しい視点や発見が養われるのであって、褒められて嬉しかったとか、応援してくれるからうんたらっていうのは、やっぱりそれだけじゃ視点も感性も養われませんものね。

そんなこんなで「好き」ってなんだろうなって思います。
でも人って面白いなって思う時があります。
そして恐ろしいほど因果なものだなと。
遠回りでも全て自分がしたことは受け取っていますからね。
そこが恐ろしいところでもあり、楽しいところでもある。
長い年月経て返ってくると当人でさえ自分の因果に気がつきません。
でもそれは確かに自分がふりまいた因果なんです。
なんといっても創作・表現に携わっている者なら、それを心底おもしれぇぇぇ! ってどこかで思っていないと続けられない。
自分の不幸って全部自分のせいだって思ったら楽しくなりませんか?
そういう風にいったん開き直りにも近い感覚で受け入れちゃうと、幸福になるのも全部自分のせいだって思えるようになるんですから。
次の作品のテーマができた。表現の方法が一つ増えた。
それなら確実に引き出しが増えるわけですよね。
これを生かさずしてなんとする。生かさないまま死ぬのは嫌だ。
飽くなき表現への渇望と好奇心。
わくわくしてくるなら、もう立派に才能ありますよ。

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07/12

Sun

2015

ねえ、真実って個人にとって、そんなに大事なものなのかな?
通常の人間は日常生活の中で世界の真実や未来に起こりえる確率の高い真実、はたまた世界の支配者が目論む人類社会の結末など知りたくもない。
僕たちは生きることで精一杯なんじゃないのかな?
生きることってよりも、むしろ個人的でさらに繋がっている、確実な「縁」の中にこそ自らの問題は発生している。
じゃあ「縁」の中に問題があるのなら、元々あった日本的な「縁」はズタズタになったのか。
ああ、たぶんズタズタになったのだろう。
僕はこの日本では村社会のコミュニティこそが最も日本人に馴染むシステムなのではないかと薄々考えていた。
つまり、狭いコミュニティだけで成り立ち、自給自足をし、余ったもので足りないものを交換し合うという原始的なコミュニティであり、コンパクトに学問やライフラインの問題が解決できるという「運命共同体」のようなものだ。
今は住宅がめっきり外国のものになってしまい、日本家屋にあった「土間」のような家主や家族と他者とを結ぶ共同スペースが家屋の中から消え去ったことにより、コミュニティも崩壊したということを言っていた人がいたけれど、今や全てのコミュニティが点在して存在するのみで、実生活の中に積極的に入ってきたり、気軽に入ってお茶を飲んで雑談して帰るというようなものは極度になくなってきた。
都市社会では情報が重要視され、文明社会の住人は情報に振り回されるようになりがちだ。
だけれど僕たちが一番危機に思うことはお金の問題だったり、自分自身の交友関係の問題だったり、はたまた年取ったら健康のことだったりしないかな。
政治、国家、世界のことなんて真剣に考えて取り組んだりする?
取り組める人は幸せだけど、ほとんどは、そんなものとは程遠い一般サラリーマンだったりする。
しかも大企業とは程遠いようなところにいることがほとんどだ。
僕は「たとえサラリーマンであろうと、日常を変えることは実は簡単なんです。僕たちのようなちょっと意見を持った人が10人居酒屋で定期的に出会って話し合えることができれば地域から変わることができる。ただし、それをやるにはプランナーのような人が必要であり、その人が周囲の意見をまとめ、具体的なアイディアとして計画をまとめていけばいいだけの話なんです。自分はこうだからといって、何もしないのは正直考えすぎだと思います」と言ったことがある。
今都市に生きている人は孤立しがちな環境下にある。
何故なら、金さえあれば全て整うようなサービスが揃っているからだ。
仕事に出て、金稼いで、生活や趣味に使う。
インドアの趣味だったら余計に家から出なくていい。
人とのつながり方が変わったって言われれば、それまでなんだけど、個人主義がより発揮できる環境が整っている今、そしてどんどん整う未来、他者のために何か行動を起こしたりしますか? 何か行動する気になったりする?
絶対そんなことはない。
ほとんどは自尊心を満たすがための行為。
そうじゃないのならば、他人に奉仕できますか?
まったく自らの利益にならないようなことでも、他者の利益、将来のためになるのならば、懸命にできますか?
きっと、この世界の真実ってのは、個人が個人を守る限り、個人が個人を主張する限り、絶対的に支配者の影響下であり続けるってことだけはわかる。
何故そうなるかって? 我欲をうながしたり利用すればいいだけの話だからさ。
だからその支配者たちが恐れているのは、僕らの善意であり、奉仕の崇高な精神であったりするんだ。
当然そうはならないとわかりきっているから、安心していられる。
でも、そんな世界の支配者の話なんて僕たちにとっておとぎ話にも近いことだ。
ニュースでやっている凶悪事件や児童への危害でさえも、実はあまり関係のないことなんだ。
何故って?
近場のところで起こっていることじゃないから。
つまり、自分の生活圏内の問題とは程遠く、いかに真実じみていたとしても、地域の問題じゃないからだ。
地域の問題じゃないからどうして児童虐待とか凶悪事件が関係ないかって? 日本がおかしくなっているだろうって?
そう思うんだったら、地域の人たちと活発に触れ合おう。
スポーツや趣味を通じてや子供たちへでもいい。
なんでもいいから関わってみようよ。近くに飲み屋があったりするなら食べたり飲んだりすればいい。
それでこの地域のことを訪ねればいい。
何か問題が起こっているとすれば、遠くのニュースに出てきたようなことじゃなくて、もっと個人的なことだ。
だとしたら、僕たちの本当の問題は足下の土、つまり地域性や個人的な環境から発生する問題であって、遠くの自分が住んでもしない場所から発生していることじゃない。
政治経済の問題は遠くの問題だが自分たちの生活に影響するじゃないかって?
僕たちの国は民主主義だよ? 国会議員や市議会議員などは自分たちで選ぶんだよ?
専門家に任せればいいじゃないか。
ねえ、僕たちは地域から住民を育てているかい?
選挙で国会議員などが選ばれるんだったら、地域の声を届ける議員さんが傍にいるかい?
ただ一方的じゃなくて相互に助け合えている関係を築けているかい?
皆個人個人しているからこそ、奴隷に言いつけるかのような汚い言い草で物を言いたくなるけど、それはやっちゃダメだ。
僕たちは共同空間を見直し、地域のあり方を見直し、そして、僕たちが安心でき、かつ信用できる「運命共同体」を作り上げるのが、最も真実に近づける気がするよ。
だって僕等の大事なものは、己が感じている五感の先にあるんだもの。

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
45
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みますが光野(こうや)とか朝風(=はやぶさ)でもよろしゅうございます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。自分でも困るほどの「皮肉屋」で「天邪鬼」。つまり「曲者」です。

2011年より声劇ギルド「ZeroKelvin」主催しております。
声でのドラマを通して様々な表現方法を模索しています。
生放送などもニコニコ動画でしておりますので、ご興味のある方はぜひこちらへ。
http://com.nicovideo.jp/community/co2011708

自己プロファイリング:
かに座の性質を大きく受け継いでいるせいか基本は「防御型」人間。自己犠牲型。他人の役に立つことに最も生きがいを覚える。進む時は必ず後退時条件、及び補給線を確保する。ゆえに博打を打つことはまずない。占星術では2つの星の影響を強く受けている。芸術、特に文筆系分野に関する影響が強い。冗談か本気かわからない発言多し。気弱ゆえに大言壮語多し。不安の裏返し。広言して自らを追い詰めてやるタイプ。

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